第9話 最推しと買い物
「フリーゼ公爵令嬢は良い人だね。この前のパーティでもあんなに真摯に謝罪してくれたし、今日だってグッドマンさんのお店まで案内してくれるなんて」
この前のパーティから三日。私とグレイはフリーゼ城の城下町に訪れていた。
今日はヴルフから買ったジャムの代金を払いに行くだけということで、私たちもパーティの時よりかなりラフな服装だ。
温暖、というより七月に入って暑くなってきたディグニスにぴったりな白いワンピースに身を包み、脚元は黒いショートブーツ。グレイもシュカリオンで着ていたような厚手のコートではなく、白い詰襟のシャツに、細身のスラックス。足元は茶色い革靴を履いていた。……こうして見ると本当にスタイルが良い。元々の世界にいたら大人気モデルだったろうな。
そして、私たちがラフな服装をしているということは──。
「──待たせてしまっただろうか」
ナシュカ様も、やはりいつものドレスとは違う出で立ちであった。
露出の少ない禁欲的な黒の軍服に、茶色のロングブーツ。これは戦いをこなす彼女の仕事着で、ゲーム版ではパーティ以外の日はずっとこの衣装だった。正直、私服を見たい気持ちもほんの少しあったが、いざ軍服姿を目にするとそんなことはどうだってよくなった。
「かっこいいですわ……」
「ありがとう。ルルベル殿こそ、いつもの菫色のドレスも素敵だが、その白のワンピースもよく似合っている」
ナシュカ様はそう言って爽やかな笑みを浮かべた後、思い出したようにカバンを漁った。
「そうだ……お二方、もし迷惑でなければこれを」
カバンから取り出されたのは、柔らかい布地のマフラーだった。白と青。二つのマフラーを私とグレイに手渡すと、ナシュカ様は誠実な面持ちで私たちと向き合った。
「いずれ、あなた方にとってこれが必要ない世の中になることを願っている。だがそれまで……寒い思いをさせてしまうことを、どうか許してほしい」
交流会によって魔族たちの実情を知り始めたナシュカ様は、一歩ずつ、確実に魔族に歩み寄ってくれていた。
彼女のこの想いを、無駄にしたくはない。より良い未来を望む彼女の、期待に添いたい。
彼女が誠実に接してくれるほどに、魔族と人間の今後の関係など無視してただナシュカ様に殺してもらおうとしていた自身の身勝手さが、恥ずかしくなる。ルルベルが殺されるということは、魔族と戦争になったということに他ならないのに。
……今でも、ナシュカ様に殺してもらえたら、看取ってもらえたら、きっと悔いなく死ねるだろうとは思う。けれど、それは私に悔いが残らないだけだ。
身近な存在を失うグレイのことも、友好を築きたいと思っていた相手を手にかけてしまったナシュカ様のことも、何も考えていなかった。
「……ナシュカ様、本当にありがとうございます。ナシュカ様の誠実なお気持ちに応えられるよう、私たちも頑張りますわ」
「あはは、ルルベルに言いたいこと全部言われちゃった。でも本当に、感謝いたします。フリーゼ公爵令嬢」
公爵家の令嬢が魔族に物を贈ったこの様子は、町民にとって異質に映ったらしい。ざわざわとどよめく観衆が、こちらを気にしながらも遠巻きに通り過ぎていく。
町民たちにも気さくなナシュカ様は、ゲームでも町に行くとよく人々から話しかけられる。しかし今日はそんな素振りもなく、皆が皆、触らぬ神に祟りなしと言わんばかりだ。
……これがきっかけで、ナシュカ様に何かマイナスなイメージが付いてしまわないだろうか。気がかりはあるが、今の私たちにできるのは、グレイが言う"良い人であること"だけだった。
*
城下町を南に下ったところにある、町外れの森の入り口。そこにヴルフの店はあった。木と一体化したような不思議な雰囲気のレンガの家。ファンタジーの世界に出てきそうなそれは、ゲームで見るよりずっと大きくて、魅力的だった。
「良い店だね。店主の拘りを感じるよ」
「ヴルフは変な所で凝り性な奴だからな」
茶色い木の扉を押すと、扉に括り付けられたベルがチリンと鳴る。
カウンターに突っ伏して寝ていたらしいヴルフはベルの音に顔を上げると、本当に寝ていたのか疑わしいほどにスッキリとした笑顔で私たちを出迎えた。
「やあやあ、お待ちしてましたよ! ツケを滞納されたら二度と出品しないところでした!」
「こら、ヴルフ。失礼だぞ」
「あはは、正直だなぁ。大丈夫、ちゃんと払うよ」
カウンターに出向いたグレイは請求書に書かれた金額より少しだけ多めに支払うと、「これはお礼」と言って笑った。
「魔族相手にまともに商売してくれる人は貴重だからね。これからもどうぞ、よろしくね」
「それはそれは。金払いが良い方は自分も大好きですよ。こちらこそ、今後ともご贔屓に」
グレイとヴルフは少し似たところがあるからか、案外気が合うようだった。腹に一物を抱えた者同士、話し始めたら険悪になるものかと思っていたが、二人は特にそんな様子はなく談笑を続けていた。
「……はぁ。見ての通りヴルフはああいう奴でな。明け透けな物言いが気に障ったらすまん」
「いえ、魔族に対して嫌悪感無く接していただけるだけでも嬉しいですわ」
「それならよかった。そうだ、ルルベル殿。ここにはこの間の露店に並んでいなかった茶菓子や雑貨もあるから、良ければ何かプレゼントさせてくれないか?」
ナシュカ様に促され、話し込む二人を置いて店内を見渡す。ぐるりと壁に沿うように並べられた商品の中には、この間見たような宝石から、露店には無かった絵画や壺まで、様々な物が並べられていた。
そのどれもが目を引く物ばかりだったが、私はナシュカ様を振り返ると首を横に振った。
「……お気持ちだけで、十分嬉しいですわ。ナシュカ様には先程マフラーもいただきましたから」
「気にしなくていい。あれはただの詫びだ」
「でも、今ここで買った物も詫びの品になってしまうのでしょう? ……魔族に対する罪悪感じゃなく、いつかナシュカ様自身が私たち個人に好意を持ってくれたら、その時はありがたく受け取らせていただきますわ」
「そ、うか……」
ナシュカ様はどこか残念そうに眉を下げると、所在なさげに店内を歩き始めた。時折商品の前で足を止めては、また歩き、立ち止まって、歩く。しばらくそれを繰り返した後、彼女は私の隣で立ち止まった。
「……児童書が好きなのか?」
「ええと……そう、ですわね……」
本棚の前に突っ立って読んでいた本を、横から覗かれる。"児童書"と呼ばれたその本は、確かに文字も大きく、絵も描かれている。しかし私はナシュカ様に言われるまで、それが児童書だとは分からなかった。
読めないのだ。文字が。
話し言葉が日本語だったから、ゲームの言語設定で選択した言語が使われているのだと安心していた。しかしこの世界に来て数日、たまたま開いた本により、それは間違いだったと気付いた。話し言葉は確かに日本語なのに、文字が全く違うのだ。
そういえばゲームの背景に映り込んだ看板などにも、日本語は使われていなかった。これはまずい。そう思い、この世界の言語を学び始めて二週間と少し。ようやく文字を覚え始めたわけだが、それでも私の文章読解能力は子どもかそれ以下のレベルだった。
だから、こういったギリギリ読めそうな本に手が伸びたのだ。
「面白い……ですわ……」
異世界の文字で"白猫のロージー"と書かれたその本は、時間をかけてもまだ二ページほどしか読めていない。児童書でこれなのだから、どうりでホームの会議室に置かれていた本など読めないわけだった。
「その本は私も昔読んだことがある。ルルベル殿は初めてか?」
「ええ……」
「なかなかいい本だ。そう時間もかからないし、読んでいったらどうだ?」
「い、いえ。売り物ですから……」
そう言って私はそそくさと本を棚に戻す。文字が読めないなんて、知られたくなかったのだ。それはちっぽけなプライドからだったかもしれないし、魔族は字が読めないという誤解を生みたくなかったからかもしれない。あるいは、その両方か。
「……ナシュカ様はさっきのご本、好きだったんですの?」
「ん? まあ……そうだな。城内に入り込んだ野良猫をロージーと呼ぶ程度には、気に入っていたよ」
ナシュカ様もそんな可愛いことするんだ……。そりゃあギルベルト団長だってナシュカ様を可愛がるよな。付き合いの長いギルベルト団長なら、その時分のナシュカ様のことも当然見たことがあるんだろうな。
……いいなぁ。
「ロージーは、最終的にはどうなったんですの?」
「私の城にいたロージーは……そのうち来なくなった。物語の方は……いや、これは私から聞くより自分で読んだ方がいい」
ナシュカ様は空色の瞳をふい、と私から外すと、そのまま本棚へと視線を移した。
懐かしい本が多い。そう言って目元を緩めた彼女は、いつもよりどこか幼げに見えた。
「数はフリーゼ家の図書室に負けますが、子ども受けが良い本ならうちの方が多いと思いますよ」
カウンターに肘を付いたヴルフが、こちらを見て指差す。
「児童書からロマンス小説、図鑑まで。それに一番上の段には、なんと禁書もありますからね」
「禁書?」
もしかして禁忌の魔術書とか、そういうのだろうか。おそらく私には読めないだろうが、少し気になる。
上を見上げ、手を伸ばす。すると途中でナシュカ様の手に阻まれた。
「あー……ルルベル殿。こいつの言う禁書というのはだな……」
「エッチな本のことですよ」
何と説明しようかと口籠るナシュカ様をよそに、さらりとヴルフが口を弾ませる。児童書と同じ棚に十八禁の本を並べる店主の神経を疑うが、ヴルフは書かれている内容が何であれ「本はここ」と決めたら全て同じ場所に収納、展示するような人なのだ。
店の配置には独特の拘りがあるらしく、前の世界では常識であった本の種類や内容によって展示場所を分けるということは一切していない。ただ本の形をしているからそこに置く。彼にとって重要なのはそれだけだった。
「こういう本ってフリーゼ家には無いんですよねぇ〜」
「卑猥な本を城に置けるわけがないだろう。置いたとして、翌日には廃棄だ」
「嫌だなぁ。ただ人の欲望がちょっぴり過剰に脚色されて書いてあるだけですよ」
真面目なナシュカ様とは反対に、ヴルフは少し不真面目で俗っぽい。いけしゃあしゃあとそう宣うと、彼は興味深そうにグレイに尋ねた。
「あっ、魔族もそういう本って読むんですか?」
「あっはは、どうだろうね」
ナシュカ様の手前だからかそれとも本当に返答に困ったのか、グレイは何も答えなかった。
彼は話を逸らすように「これ、貰えるかな」とカウンターに置かれた小さな菓子の包みを買うと、そこからはもう、先ほどの話題に触れることはなかった。