第1話 あの世かと思ったら乙女ゲームの中でした
──二十七歳の二月の夜、私は死んだ。
人生の何もかもに嫌気がさして、凍るような川の中に身を投げて────死んだ、はずだ。
「え……どこ、ここ……」
死後のはずなのに意識がある。目も見えるし、手脚も透けてはいない。手首の脈は…………あれ、無い?!
何なんだ一体……やっぱり死んでいるのか? じゃあここはどこなんだ?
辺りに広がるのは、見覚えのない吹雪吹き荒ぶ銀世界。
私が飛び込んだはずの川も、川の果ての水辺も見当たらない。広がるのは、ただひたすらな雪原。
だとすれば、考えられる答えは一つ。
「なるほど、あの世か……」
そう考えれば納得もいく。今にも凍え死にそうな吹雪が吹き荒れているのも、自殺したせいで地獄に来てしまったのだと思えば、まあ無くはないだろう。八寒地獄というものもあると聞くし。
うんうんと一人納得していると、私のすぐ後ろから落ち着いた男の声が聞こえた。
「死んでないよ」
「えっ?」
驚いて振り返れば、そこには黒く暖かそうなコートを羽織った細身の青年が立っていた。
一つに結われた長く柔らかい銀髪。右側に分け目を作り、緩く前髪を垂らしたその青年は、前髪の隙間から暗い青色の瞳でこちらを見下ろしている。
その姿には、見覚えがあった。
「────グレイ、さん……?」
「うん?」
……グレイ。
彼は、私が人生で唯一やり込んだ乙女ゲーム、"ディグニスの戦乙女"に登場する、悪役の一人。というかほとんどラスボスだ。
彼は魔族の長として、人間と魔族の共存という名目で主人公に政略結婚を迫る。しかしそれが失敗に終わると見るや否や人間に対して戦争を仕掛け──
──私の最推しである主人公のナシュカ・ドゥ・フリーゼを、殺そうとする。
最推しを殺す所だけは憎いが、まあそれもバッドエンドでのみの話。
ハッピーエンドでは必ずナシュカ様が勝利するから、彼のことはそこまで恨んではいない。むしろ見た目が好みなので男キャラの中では一番の推しだ。
「……まさか地獄でグレイさんに会えるなんて。握手してもらってもいいですか?」
「え、どうぞ……」
差し出した手を、グレイがそっと握る。
……静止画じゃない。ちゃんと三次元だ。推しが同じ次元で滑らかに動いて、しかも握手までしてくれるなんて。
これは寿命が伸びるな……いや、もう死んでるんだけど。
「……はぁ……これで成仏できます」
「ジョウブツ?」
「召されるってことです」
「……召される? うーん、壊れちゃったのかなぁ……?」
怪訝そうに呟いたグレイは、顎に手を当てて考えるような素振りをすると、何か思い付いたように視線を私に戻した。
「ちょっと俺の目見てて」
「? はい」
何の気無しに彼を見上げれば、途端、温度のない冷めた青のつり目がすぅ、と私を捉えた。
宝石のように綺麗な目のはずなのに、何故だか恐怖しか感じられない。
──怖い。
脚が震えそうなほど恐ろしいのに、目を逸らせない。
この状態のままどれくらい時間が経ったのか分からない。五分、十分。いやもしかするともっと長いのかもしれないし、短いのかもしれない。時間の感覚が失われたまま、しかし私は抵抗することもできずにただ突っ立っていた。
「……ふぅん、なるほど」
やがてグレイが目を伏せると、私は緊張の糸が切れたようにその場に座り込んでしまった。
「君、自分の名前は言える?」
「…………と、常盤鈴です」
「ああ、やっぱり。"中身が違う"」
「中身……?」
「"コール"」
聞き覚えのある魔法の呪文を唱えられると、グレイの手の内には小さな鏡が現れた。
「はい、どうぞ」
顔、確認してみたら?
そう言われ、鏡を覗き込む。……魔族特有の銀髪。長めのボブカットが少しかかる瞳は、菫色で大きなまんまるの形をしている。ぱっと見十代後半から二十代前半のその美女は、明らかに自分の顔ではなかった。
──ルルベル。
"ディグ戦"の悪役キャラクターで、グレイの仲間。そして、グレイと共に多くのルートで主人公と戦い、敗れ……死ぬ。
私は今、そのルルベルの姿になっていた。
「え……?」
見れば、服も私の服じゃない。黒いジャケットに、白のふわりとしたスカート……靴はブーツとはいえ、こんな格好で雪原にいたら普通の人間ならとっくに死んでいるだろう。
なるほど、脈が無かったもの魔族だからと考えれば納得がいく。
「さっき、君の直近の記憶を読ませてもらったよ。君はこことは全く違う世界で死んで、どういうわけか気付いたらここにいた。違いない?」
グレイは相手の目を見て記憶を読み取る魔法を使える。先ほど突然目を合わせてきたのは、私の記憶を見るためだったらしい。
「そ、そう、です。でも、どうして私がルルベルに?」
もしかして、ここはあの世じゃないのか?
でもあの世じゃないなら何だ? グレイがいて、ルルベルがいて……。
──まさか。ゲームの、中?
「……ねえ。俺、ルルベルの名前はまだ出していないんだけど、どうして君は俺やルルベルの名前を知っているのかな?」
「あ……」
「君の中に"元々の"ルルベルの記憶は見当たらなかった。つまり、名前を知っているのは、"君"自身ってことだ。……どうして? 元の、生前の世界では何らかの技術でこの世界を観測できていたってことかな?」
「えっ……と、そう、なるのかもしれません」
「曖昧だなあ」
そう言ってグレイは再び私に顔を寄せる。
「もっとよく見せて」
「ヒッ……」
深海のような青い瞳が、こちらを覗き込む。私は反射的に目を瞑り、後ずさった。
「酷い反応。氷の女とは思えないねルルベル。いや、今は"鈴さん"なのかな」
ただでさえ魔法をかけられた後なのだ。酷い反応にもなる。むしろ何故グレイはここまで冷静でいられるのだろう。
"鈴さん"と私を呼ぶその声はあまりに落ち着き払っていて、知り合いがいきなり他人になったというのに何にも気にしていないかのようだった。
まあでもグレイってそういうキャラだからな……。
魔族だからだろうか、ちょっと倫理観に欠けるというか。でもだからこそ、あまり怒らせたくない。
「わ、私はどうされるんですか? 拷問、とか……」
「はは、そんなことしないよ。ちゃんとお行儀良くしてくれるならね」
「お行儀良く……」
「そう。だって来週にはパーティがあるからね。……おっと、これも君は知っていたかな?」
ディグニスの戦乙女、グレイ、パーティ……。
情報を頭に浮かべて、結びつけ、私は一つの答えに辿り着いた。
「……"ディグニス異種族交流会"」
「やっぱり知ってるね。そう、ディグニスで開催される魔族と人間の楽しいパーティだ。まあ、楽しいパーティになるかは人間側の出方によるけど……君にも出席してもらうつもりだったからさ、お行儀は良くしてもらわないと」
にぃ、と捕食者のような目でグレイは笑う。
ぎょ、行儀良くしておかないと殺される……!
いや、もう死んでるんだけども……!
というかあの世で死んだらどうなるんだろう。そんな呑気なことを頭に巡らせるうち、私は一つ思い出した。
そういえば今の私はルルベルなんだ、と。
つまり、パーティに参加してゲーム通りの行動をしていれば、どのみち物語の終盤である半年後には主人公であるナシュカ・ドゥ・フリーゼに殺される。でもそれは、ハッピーエンドであればの話。
ナシュカ様を殺すバッドエンドに行けば、ルルベルは生き残れる。
…………いや、いい。
どうせ一度捨てた命だ。推しを踏み台にしてまで生き延びる意味なんて、ない。それに私は、私なんかよりナシュカ様に幸せになってほしい。
私の命一つで彼女をハッピーエンドに導けるのなら、喜んで彼女の幸福の踏み台になろう。それに何より……彼女は自分が殺した相手のことをしっかり覚えていてくれる人だから。だから……彼女に殺されるのなら、怖くはない。
……うん。覚悟は決まった。
ゲーム通りに進んでいって、最終戦でわざとナシュカ様に敗北しよう。それが、一番良い。
だから今は、行儀を良くしてグレイの言うことを聞いておこう。きっと大丈夫。人の言うことを聞くのは得意だから。
「……わかりました」
ゆっくりと立ち上がり、顔を上げる。
吹雪に混ざって消えてしまいそうな、長い銀色の髪が眼前で揺れている。銀の間から見える青い瞳は、興味深そうに私を見下ろしていた。
「ちゃんと行儀良くしています。だから、当初の予定通り私をパーティに連れていってください。私も、私が持っている情報を最大限使ってルルベルになりきってみせますから。いや、みせますわ」
スカートの裾を軽く持ち上げ、膝を小さく曲げる。
ルルベルの身体だからだろうか。カーテシーなどしたことのない私でも、まるで習慣のようにすんなりと彼女の上品な動きをトレースできた。あとは言動さえ気を付ければ……きっとパーティだって乗り切れる。
「……どうでしょう?」
「うーん……今のは良いね。かなりルルベルっぽかったよ」
「じゃあ……!」
「うん、あとは魔法がいつも通り使えたら完璧だね」
にこりと笑みを浮かべたグレイにほ、と胸を撫で下ろす。魔法か、上手く使えるかな。後で練習しないと。
しかし次の瞬間、私の考えはなんとも悠長なものであったと気が付いた。
「──それじゃあ、早速テストといこうか」
「え」
気付けば目の前にはグレイの手が翳されていた。耳の奥で"コール"と呪文が聞こえた時には、私の身体は既に遥か後方に吹き飛ばされていた。
「……っげほ、う゛ッ」
投げ出された身体は木にぶつかり、枝に積もっていた雪がどさどさと頭に落ちる。痛い。痛い、けど。
ルルベルなら、どんな傷を負っても眉一つ動かさない。耐えてみせる。最推しを……ナシュカ様をハッピーエンドに導くために。
「やってやる……! 魔法でも何でも、使いこなしてみせますわ!」
どんなに苦しい思いをすることになったって、"前"より辛いことなんて、きっと無い。それに……。
一人で川底に沈んでいくのは、想像より寒くて、暗くて、少し怖かった。だから二度目の死は……できれば好きな人に看取ってもらいたい。
そのための努力なら、惜しくなんてない。
「"コール"!!」
──高い叫び声が雪原に響いた。
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