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人間の脳は過去に体験した苦しみのすべてを記憶している

作者: 鈴木美脳

 もしも、銃で撃たれたならば、一命をとりとめ、適切な医療を受けられたとしても、身体には傷跡が残るかもしれない。世界は、その傷跡として、過去に銃撃があったことを記憶しているのだと言えるかもしれない。

 その意味では、人間の脳は、過去に体験した苦しみのすべてを記憶している。

 だから例えば、鬱病にもなるし、重い鬱病の多くはとても治りにくい。

 過去は実在であって、どんな方法でも変えられないのだ。


 しかし、過去に大きな苦しみがあったということ自体は、それ以上のことではない。

 過去に味わった大きな苦しみによって、精神状態に傷を負ったとしても、それ自体はそれ以上のことではない。

 過去の外界と、それによって形成された現在の内界に深刻な不都合があることは、現在の外界や将来の内界にも深刻な不都合があることを少しも約束していない。


 大きな苦しみを持続的に体験すると、心は解離する。

 つまり、肉体や精神は傷つけられて壊れていくのに、肉体的な痛みや精神的な痛みを無視して感じない状態になってしまう。

 現実を見て、辛いと思う自分の気持ちに、フタをしてしまう。

 解離すれば、ちょうど麻酔薬のように痛みは解消していくから、強い依存的な快楽がある。

 死の運命を眼前に強いられれば、まるで信仰を持たなかった人の多くまでもが神に祈り、私利私欲を滅却した神になる喜びに逃げることになる。残る人々の幸せのために尽くすことに、余生の生きがいを求めることになる。


 同様に、過去に体験した苦しみの実在から、目を背けることはできる。

 しかしそれは、一種の逃避であり、したがって一種の解離だから、実体としての精神的な健康状態は損なわれていく危険がある。

 一見、前向きであっても、ふとした刺激によって、意欲がゼロにまで低下したり、殺意に似た憎悪まで生じる、不安定な弱い心になってしまう危険がある。


 エネルギッシュに生きることには、限界がある。

 自分がもともと、明るく楽しい性格であって、不運や理不尽によって辛い出来事を体験し、明るく楽しい性格を失ってしまったなら、明るく楽しい性格を取り戻そうとすることには、限界がある。

 それなりに幸せな人生の展望があって、人々の輪の中でそれなりに認められていたとしても、苦しみを味わえば、展望や人脈を取り戻すことには限界がある。

 過去に体験した大きな苦しみの記憶は、少しも欠けることなく、脳に残されているからだ。


 解離は、しばしば、必要なことでもある。

 辛い現実を無理に見る必要性は、少しもない。

 社会の理不尽な現実や、恵まれた人々の幸せや、不運な人々の行く末や、偶然に目にした底なしの悪意を、直視する必要は少しもない。

 社会的な地位の最も低い人々にとっては、毎日を笑顔で暮らすために、解離は古代から友人だったと言えるかもしれない。人の世はそれ以上のものではない。

 しかし、解離は、すればいいというものではない。それは、麻酔薬であり、麻薬であって、精神的な健康状態や肉体的な健康状態を、人生を、ズタボロにしうるものだ。

 だから、解離は解離だと思う目も持っておいたほうがいいだろう。


 前向きになれない自分を、叱るべきではない。

 夢のために努力する意欲を失っていく自分を、叱るべきではない。

 理想の自己像と離れていく自分を、叱るべきではない。

 怠け者と叱られた自分を、叱るべきではない。

 努力をしなかったとか、才能がなかったと否定されて、他者の評価を受け入れる必要はない。

 もしも、過去の大きな苦しみが存在しなかったら、それらは言えるかもしれないが、過去の大きな苦しみが存在すれば、それらは言えないからだ。


 他者が味わった苦労を、正確に推しはかることは、誰にもできない。

 人は、どちらかというと、自分が味わった苦労を多く見積もり、他者が味わった苦労を少なく見積もりがちだ。

 しかし、どんな人も、多くの苦労を体験している。ひどい理不尽に我慢したことがあるし、耐えがたいほどの辛酸を嘗めたことがある。

 しかしまた、苦しみの総量が同等というわけでもない。ゆえに、鬱病になる人や自殺をする人が、より多く苦労した人ではなく弱い人だという決めつけは、筋が通らない。

 健康だから自分より幸せだとか、裕福だから幸せだとか、外見がいいから幸せだとか、恋人や子供がいるから幸せだとか、決めつけることはできない。


 であれば、ある人が味わってきた苦労の全体こそは、他の何よりもその人に固有だと言えるだろう。

 であれば、それは、頑張ってそれをなかったことにするよりも、愛着して誇ったほうがいいのではないだろうか。

 もちろん、思い出したくもない辛い体験を思い出したくもないとしても、それを包む苦労の全体は、肯定されるに値するのではないだろうか。


 生きようとする意欲だとか、対人関係の不器用さだとか、苦しみによって後天的に作られた性格は、変わりにくい。

 それが、本来の自分ではないように感じられても、限界があって仕方がない。

 なぜなら、過去に大きな苦しみがあったということ自体は、変わらないからだ。

 その観点から、自分を十分に許し、自分を十分に肯定することが大切だ。


 苦労は、人を鍛え、強くもする。

 苦労した人は、同じ困難がまた訪れても、かつて悩んだ分だけ、ずっと効率的に対処できる。

 だから、同等に困難な外界があったとしても、イージーモードになっていく場合がある。

 内界の損傷の原因が、より過去の外界で起きた現象に限られているなら、損傷は次第に癒えていく可能性がある。

 特別な苦労をしたことによって、結果的に、特別に大きな器を持ち、特別に深い人間愛を備えた、立派な人物になれる可能性もある。


 思うようにいかず、精神状態に不調があるなら、それを、現在の外界のせいだと思うことは、早合点かもしれない。

 精神状態の不調は、むしろ一般的には、乳幼児期を含めて味わってきた苦しみの全体に原因を持っている。

 だから、自分を、現在の外界からの刺激に左右されるほど弱い存在だと悲観することは、早合点かもしれない。

 つまり、実は、状況は順調に改善に向かっているのかもしれない。

 一方で、仮にみじめに倒れたとしても、各々が味わってきた固有の苦労は、偉大であり、その尊厳に傷がつくことはない。

 どんなに多くの人にどんなに侮辱されても、あるいは一人の理解者も得られなかったとしても、事実は唯一で変わらない。


 山ほどの苦労をして、なお今日という日を生きているなら、あなたという人はそれだけで立派だ。

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