准尉
河港の街から東、大工の街から北西の小さな宿場にて、ハンの騎兵一千が運河の国の軍勢の待ち伏せを受け、その大半が落命した。
「神速を以って恐れられるハンの騎兵が、街の民などに後れを取るとは。奇襲を受けたのみならず、剰え逃げ遅れるとは。恥ずかしくないのか、千人長」
ハンゾの傍らの文官が言った。千人長は頭を下げたまま跪く。文官は再び口を開くが、ハンゾが手をかざし、遮る。文官は一礼し、半歩下がる。
「此度は相手が悪かったのであろう。もう良い。そなたは下がれ。その腕の怪我が治るまで、ゆっくり休養するが良い」
ハンゾの言に千人長は顔を上げ、周囲を見渡し、言う。
「わたしは怪我などしておりません。休みなど不要です。それより、挽回の機会をお与えください。次こそは、この手で竜王に勝利をもたらして見せます」
千人長の言に文官は大きく咳払いをし、返す。
「お前は竜王の言の重さが分かっておらぬ。その様な心構えである故、竜王からお預かりした兵を軽々しく無駄にしたのだ。畏れ多くも竜王はお前の腕を案じておられる。怪我をしていないなど、許されぬ」
文官が手をかざすと傍らの兵達が千人長を押さえ、その腕に棍棒を振り下ろす。鈍い音と悲鳴が響く。千人長は兵に引き摺られ、去る。
「准尉、作戦本部からです」
副官の言に准尉は振り向き、封書を受け取る。辺りでは兵が木を切り、土を掘り、防柵を組み立てる。副官は続ける。
「先日の采配、実にお見事でした。ハンの騎兵が術中に嵌まっていく様は、まるで准尉の描いた線をなぞっているかのようでしたよ。皇帝を破ったと言う連中が如何程のものかと思えば、存外、大したことはありませんでしたね」
「君のように考える者が多いと見える」
そう言って准尉は命令書を差し出す。副官はそれを読み、言う。
「野戦で奴らを迎え撃つのですね。良いではないですか」
「どうだろうな。敵の後背にある王都を落とし、連中を挟撃するという計画を信じるなら、今、我らの戦力だけで無理にハンゾとの決戦に臨む必要はない。逃げ足の速い騎兵との野戦と言うのも、分が悪い。翻って水路が使える河港の街であれば、暫くの籠城にも耐えられるだろう。とは言え、籠城すれば街は無傷という訳にはいかない。殊に連中の攻城機械は強大で精緻であると聞く。決戦を選びたくなる気持ちも、分からなくはない」
「つまり准尉は、どちらかと言えば籠城の方が良いとお考えなのですか」
「余計なことを言ったようだ。我らは上の決定を論ずる立場にはない。命令は絶対だ。これを違えれば軍は軍ではなく、烏合の衆となる。移動の準備をしろ。我らも決戦の地へ赴く」
「どうします、准尉。敵にはまだ気づかれていないようですし、距離もあります。このままやり過ごすことも出来そうですが」
木々の間に潜む中隊の眼前を、ハンの騎兵が駆ける。副官の囁きに、准尉は返す。
「それは駄目だ。このまま素通りさせれば、連中は我らの本隊の背後を突く。銃兵を前衛に出せ」
副官は小さく頷き、振り返り、兵に合図する。兵は静かに左右へ展開する。再び副官が合図すると、銃兵が一斉に引き金を引き、遠くでハンの兵が一人、落馬する。騎兵の隊列は一斉に進路を変える。
「釣れたぞ。構えろ」
副官は叫び、右手を上げる。槍と弩を持った兵達が身構える。俄かにハンの騎兵は紐の付いた壺を頭上で振り回し、次々と投擲する。地面で割れた壺からは煙が噴き出し、辺りを満たしていく。視界の塞がった森の中で兵は黙するが、やがて矢音と共に奇声と悲鳴が上がる。
「誰か助けてくれ」
「狙われてるぞ。応戦しろ」
「無暗に撃つな。味方に当たる。槍を使え」
副官は身を屈め、言う。
「連中がこんなものを使ってくるとは。しかし妙です。この前、我々から奇襲を受けた時にこそ、使えば良かったものを」
准尉は呟く。
「連中は切り札を隠していた。それを使ってきたと言うことは、勝負を懸けていると言うこと。しかし狙いが迂回による本隊への奇襲であるとすれば、こんなところで我らの隊と小競り合いをしている場合ではない。この煙を抜けた先には、十中八九、我らを足止めする為の僅かな手勢しかいないだろう」
「では打って出ますか」
「いや。前進して森と煙から抜ければ、我らは途端に無防備となる。そこを狙い撃ちにされれば一溜りもない。それに味方は煙で方向を見失っている。大声で号令を掛けたところで、一斉に煙から抜けることは出来ないだろう。疎らに煙から抜けた兵は、各個に標的となる。これでは仮に敵が僅かであったとしても駄目だ。つまり我らは今、動けない」
辺りは煙に閉ざされ、叫びと静寂が繰り返していた。
「准尉の読み通りでしたね」
煙が薄れ、眼前に開けた草原の彼方に、遠ざかる敵影が微かに見えた。副官の言に、准尉は返す。
「我々も直ぐに行軍を再開する。兵に伝えろ」
「今日はもう野営した方が良いのでは。皆、煙の中でずっと張りつめていたのです。損害は大きくありませんが、心労は軽視できないのではないかと」
准尉は暫し黙したまま副官を見据える。副官は一礼し、言う。
「失礼しました。直ちに支度させます」




