吸血鬼はなぜ鏡の中で上下反転しないのか?
1
「どうして鏡に映る像は左右がひっくり返るか、知ってますか?」
霧島四方子は唐突にそう言った。
私は窓の外の暗い空を眺めていた。晴れていたらやることがあるというわけでもないが、雨が降っていればなおさらやることはない。
「……先輩、聞いてます?」
私の目の前に、ぬっと手鏡が差し出される。
湿度にやられた髪をもさもさと爆発させて、眠そうな目をした女子高生と目が合う。人格に問題がありそうな顔だな。
「光を反射するからでしょ」
手鏡を押しのけると、角度が変わって私の後ろに立っている後輩の姿が映り込む。
「フフフ……」
鏡の中に仁王立ちする後輩は、なにかおもしろい話がしたくてたまらない様子だ。私は別にしたくもないのだが、この子を止めることはできないともう知っている。
霧島四方子はこの地学部に唯一入ってきた新入部員である。噂話が大好きで、浮いた話が大好きで、ともかく人と話すのが大好きで、人間も大好きで、覗き込んでも悪意というものが見当たらない。良いやつであり、愛すべきバカだ。
「それですよ。先輩。誤謬。誤謬ですよ先輩」
霧島は一言話すたびに地面から数センチ浮き上がっているようなテンポで喋る。もう少し地に足の着いた人生を送ってほしい。
「はあ」
「いま先輩の頭のなかにあるものを絵にするとこうなりますね?」
テキパキと霧島が手元の手帳に描いた図は、入射角と反射角が同じになるという、あれだった。
「これを鏡の向こうに伸ばせば、右側の物体は鏡の右側に映る、だから左右反対だ、と」
「……うん」
実際そこまで考えて答えたわけではなかったけれど、なるほど図で示されれば確かにそうだと思った。
「誤謬です」
「お前誤謬っていう言葉を最近覚えて使いたいだけだろう」
「ちょっとフランス語っぽいですよね? ゴヴュー」
「フランス語っぽくないよ」
「ゴヴューを犯しながら」
「お前は馬鹿なのか教養があるのかわからないな」
「何が誤謬かというとですね、先輩」
また私の目の前に鏡がぬっと差し出される。私はまた自分の顔とご対面する羽目になった。自分の顔が特別醜いと思ってはいないが、特別美形だとも思っていない。自意識の旺盛な平均的女子高生としては、自分の顔とそれほどの頻度で対面するのは御免被る。
「なぜ、左右は逆になるのに、上下は逆にならないのですか?」
鏡の中の仏頂面は、確かに左右は逆だけれど、上下は逆じゃない。
ううん? 私は鏡を覗き込む。
*
「吸血鬼って、鏡に映らないって言いますけれど、あれはどういう機序なんでしょうか」
吸血鬼。
「これはまたずいぶん唐突な話題だな」
「鏡に映らないんじゃ、身だしなみとかどうするんでしょうか」
「吸血鬼って生まれつき美形だから大丈夫なんじゃないか」
「寝癖でもかわいいみたいなやつですか? 先輩の髪型もそうなんですか?」
「先輩の髪型はそうではない」
「もさもさしててかわいいです」
「これは鏡に映っても直せないんだ」
「もさ……」
「もさるな。寝癖と言えばお前のそれだってどうなんだ」
「このアホ毛は狙ってます。毎朝セットしてます」
「重大な告白をするな」
「鏡に映らないということは、例えばカメラにも映らないんでしょうか?」
「鏡が入ってたらだめか。鏡入ってるのか?」
「ミラーレスなら大丈夫でしょうか」
「ミラーレスってそういう意味なの?」
「吸血鬼とはマジックミラーを活用したプレイはできないんでしょうか」
「鏡に映らなくて困るのは外側だから内側なら問題ないんじゃないか」
「先輩? さっきからそうやって窓の外を見てますが、この窓もマジックミラーなんですよ」
「そっと肩に手を置きながら意味不明なことを言うな」
「マジックミラー地学準備室です」
「マジックミラー地学準備室ではない」
「私まえに吸血鬼の本を読んだことがあるんですが、吸血鬼って結構変身とかできるんですよ」
「話を本筋に戻すなら私の腰から手を離せ」
「コウモリに化けたり、煙になって密室に入り込んだり。あと真の姿はぶよぶよした血の塊だったりするらしいです」
「身だしなみも何もあったもんじゃないな」
「だから鏡に映らないっていうのも、映らないほうが正しいんじゃないかなって思います」
「実体がない、と」
「はい。もともと存在しないから鏡に映らないのは当たり前で、むしろ私達がその存在を視認していることのほうが、彼らの術みたいなものに騙されているという」
「鏡越しだと人間を騙せないんだ」
「それで、うちのクラスに吸血鬼が来たんです」
霧島は突然言った。風が少し強く吹いて、窓に雨を瞬かせた。
「出雲泉水っていう転校生の子なんですけどね。転校生なんです。まず高校一年の6月に転入してくるっていう時点で、もう特異であることは明らかなんですけど。絶対特殊キャラじゃないですか。その子が吸血鬼なんです」
「ぶよぶよした血の塊なの?」
「いえ、現代的なやつです」
「のじゃロリなの?」
「偏った現代ですね」
「おじさん?」
「ミーム汚染をやめてください」
「吸血鬼だってどうやってわかったの」
「例えばですね、高校生なのにこんなでっかい日傘を差しています」
「高校生が日傘なんて差してたら目立っちゃうね」
「こんなレースついた、黒いやつですよ、ほら」
「生地のイメージを示すために自分の下着を見せなくてよろしい」
「高校生がこんな……ねえ、どうなんですか?」
「お前がどうなんだよ」
「あとですね、体育の授業もろくに受けてません」
「私もあまり受けてないが」
「先輩も吸血鬼だったんですかぁ!?」
「なんで嬉しそうなんだ」
「がぶってしていいですよ、先輩なら」
「しないよ」
「ほらほら、遠慮なさらずに」
「人間の血とか、生臭そうじゃない?」
「じゃあ私ががぶってしていいですか?」
「やめなさい」
「ほら、外にいるの、お友達だよね?」
「マジックミラー地学準備室ではない」
「それで出雲泉水さん。金髪で、瞳も金色。肌すごい白くって、私は見たことないんですけど笑うと八重歯が尖ってるって」
「話を本筋に戻すのなら私の肩から口を離せ」
「そんな子で、クラスでも友達作ろうとか全然しないみたいで。いつも一人で。みんなに吸血鬼だなんて噂されてるんです」
「ちょっと変なやつなのかな」
「先輩にちょっと変なやつとか言われたら詮無いですね」
「ああ?」
「ごめんなさい、詮無いって言葉を覚えて使ってみたかっただけです」
「憤懣やる方ないわ」
「面目ないです」
「言葉がないな」
「立つ瀬がないです」
「……いや、もうないよ」
「勝った!! 先輩に勝った!!」
「そういうゲームじゃないぞ」
そういうゲームでないことだけは確かだけれど、じゃあどういうゲームなのか、この地学部がどういう部活なのか、私には説明できないし、部室代わりの地学準備室(マジックミラー地学準備室ではない)での時間の過ごし方として、結局の所こういう雑談以外のものを持ち合わせていない。もうほとんど部室に顔を出さない三年生が抜ければ、部員は二人だけになって部活として認められなくなるらしい。
と、私は良いことを思いついた。そんな変なやつがいるなら、取り込んでしまうというのはどうだろう。転入生だというのなら、部活もまだ入ってはいまい。そういう可笑しなやつ、私は好きだぞ。
「そうだ、その吸血鬼、勧誘するか」
「……この部活にですか?」
「声低すぎるだろ、なんだそのテンションは」
「せっかく先輩と二人きりなのに」
「怖いからその声で言うのやめて」
「せんぱいせんぱいせんぱいせんぱい」
「怖い怖い怖い!」
「ん」
霧島はカーディガンの胸元から携帯を取り出した。
「今どこから出した?」
「……ちょっと友達が倒れて保健室に行ってるみたいなんで。様子見てきます」
「あ、うん」
霧島は急に真面目な表情で立ち上がる。多分その年の割に豊かな胸元から携帯を取り出すというのは予め仕込んでおいたボケなのだが、深刻なメールが来たせいでボケにならなかったらしい。
「すみません。このネタはあとでもう一回やるんで」
「やらなくていい」
2
三十分ほど後。地学準備室に帰ってきた霧島は事件のあらましを語った。
「私のクラスの後志さんが、吸血鬼が鏡に映らないところを見たそうなんです」
霧島は切羽詰まった様子で言った。
「先輩、助けてもらえませんか」
聞けば、こうだという。
後志は、トイレで用を足した後、手を洗っていると、背後を出雲泉水が通り過ぎた。その時、出雲泉水の姿は、手洗い場の鏡に一切映らなかった。それに驚いた後志は、思わず悲鳴を上げて、意識を失ってしまった。気づくと保健室のベッドに寝かされており、保健室の先生からは、倒れてしまった彼女を他ならぬ出雲泉水が保健室まで運んでくれたのだと聞かされた、という。出雲泉水の姿はすでになかった。
「彼女はもう大丈夫なの?」
「大丈夫そうです。確かめさせてもらいましたけど、首筋に血を吸われた痕とかは無かったです」
「いやそういう大丈夫でなくて」
「保健室の先生は、ただの貧血じゃないかって。あと、尻餅ついて倒れたからちょっとぶつけたみたいって」
「まあ、普通に貧血だよね。診断としては」
「でも! 後志さんすごく怖がってました。クラスのみんなも変に騒いじゃって」
「しかし、助けてって、私は何をすれば良いのさ」
「吸血鬼退治です」
「退治は良くない」
「ニンニクを炊きましょう」
「ニンニクって炊くものなのか」
「二人でヴァンパイアハンターの資格取りましょう」
「資格あるの」
「初級なら通信でとれます」
「んな通信空手みたいな……」
「後志さんが怖がってるんです。すごく悩んでて。倒れた理由も、最初は全然話してくれなくて。でも保健室の先生が出ていった間に、こっそり教えてくれたんです。吸血鬼のこと」
霧島は真剣だった。本当にそのクラスメイトの後志のことを考えているのだろう。
「後志さんっていうのは、どんな子なのかな」
「んー、真面目な子ですよ。がんばりやさんです。バスケ部で。最近調子が悪いって言ってましたけど、それでもバスケ得意だから、来週の球技大会ではバスケチームのリーダーです」
「今日は部活の練習だったのかな?」
「いえ、今日は部活が急に休みになったらしくって。それで図書室で勉強してたみたいです。後志さん成績も良いんです」
「じゃあ事件現場のトイレは図書室の近くか」
「1棟2階の東側ですね」
「まずは現場検証と行こうか」
そう言って立ち上がると、霧島の顔がパアアと効果音でもつけたくなるくらいに明るくなる。
「助けてくれるんですね! 先輩!」
「吸血鬼のことが気になるだけだよ」
「そんなこと言って、でも私のことを考えてくれてるんですよね! 大好きです! 先輩! パアア!」
「効果音を口で言うな」
*
地学準備室から現場に行くためには、まず3棟から1棟まで渡り廊下をぐるっと回ることになる。外に出る前の廊下の角に、大きな鏡が置いてあることに私達は気づいた。
「こんなところに鏡ありましたっけ?」
「あったよ。気にしたことなかったけど」
姿見と言っていいサイズの鏡の下のところを見ると、第三十四期卒業生寄贈、と書かれている。
「なんかやらかしたんですかね? 第三十四期」
「いや、やらかすと鏡を寄贈しなきゃいけないのか?」
鏡の中に私達二人の姿が映っている。私より霧島のほうが背が高く、私より霧島のほうがおっぱいが大きいのが癪である。
左右は反転している。
上下は反転していない。
「先輩、何を見てるんですか?」
鏡越しに霧島と目が合う。
「いや、さっきの話。なんで鏡って上下は反転しないの?」
「あ、まだわかってなかったんですか先輩」
「わかんないよ」
「先輩もたまにはわからないことがあったほうが良いですよ」
「うざいなお前」
と、その時。
鏡の中に映っている霧島と、鏡の中に映っている私の間を、何かが通り過ぎた。
それは薄暗い廊下に場違いで、というかこの古ぼけた校舎に場違いで、いやいやこの汚れた地上に場違いな、なにかとてつもない圧力を放っている金色で。
「え……」
間抜けな声を出して振り返れば、渡り廊下の方に歩いていく金髪の女子生徒の後ろ姿が見えた。
「あれです、先輩」
霧島が私に囁いた。
「あれが吸血鬼の出雲泉水です」
後ろ姿だけであれば、少々金髪が目立ちすぎるが、ただの女生徒にも見える。けれど、鏡越しに一瞬見えたその瞳は。
「いま……映ったよな?」
「はい?」
「だから、この鏡に、映っただろう、あの子」
「あ、すみません。見てませんでした」
「お前」
「左右反転した先輩もかわいいなぁと思って見とれていたので」
「お前」
「でも鏡に映っていたからといって、出雲泉水が吸血鬼でないとは言い切れないですよ」
「どうして」
「さっきミスを犯した彼女は、ことさら注意しているのかも知れません」
「注意したら鏡に映ることもできるのか、吸血鬼は」
「さっき言ったでしょう。吸血鬼はもともと実体がないから鏡に映らないのは当たり前で、むしろ私達がその存在を視認していることのほうが、彼らの術みたいなものに騙されている」
「うん」
「ですので、鏡越しの私達も騙しておけば、鏡に映るのです」
「ずいぶんな理屈だな」
「鏡越しまで騙すというのは余計な処理が必要なはずで、それを忘れてしまうと、吸血鬼が鏡に映らないという現象が発生するのではないでしょうか」
「それを今日やらかした出雲泉水は、特別な注意を払っているから、今は鏡に映ったと」
「そうです」
私は、重りを縛り付けられて水槽に入れられ、浮けば魔術を使ったとして殺され、沈めばそのまま溺れ死ぬという魔女狩りの処刑方法を思い出した。
*
何の変哲もない女子トイレだった。
廊下から右に一度屈曲させた入り口を入ると、左手に洗面台があり、その奥に個室が設けられている。洗面台は三口、個室は四室あり、今はいずれも空室で無人だ。3棟なんかと比べるとまだマシな方だが、それでもかなり古いトイレで、薄暗い。洗面台についている鏡もどこか薄汚れているし、なんとなく下水臭い。うちの高校は、このトイレで三年間鍛えられるから女子が強い、とか言われるらしい。とんでもない話だ。今日は掃除の日だったようだが、水はけが悪くなっている床はまだ湿っている。
「どの鏡だったのか、聞いた?」
「いえ、そこまでは」
「まあ、この位置取りならどの鏡でもあまり差はないかな」
「試しにやってみましょうか」
「そうしよう」
そう言って私は、三つある洗面台の真ん中にとりあえず立ってみる。後ろを霧島が通り過ぎる。当然ながら、霧島の姿は鏡の中を左から右に向かって移動する。目を向けてさえいれば、まず左側の鏡を彼女が横切り、一瞬ブランクがあって真ん中の鏡を横切り、もう一度一瞬のブランクがあって右側の鏡を横切ることになる。しかし実際試してみると、左や右の鏡の中を彼女が映っているところを見るのは、そっちの鏡にわざわざ視線を向けていなければ難しいかもしれない。
「普通に手を洗って正面の鏡を見ていたら、後ろを横切るのは一瞬だね」
まして、正面の鏡には自分自身の顔が映っている。
「そもそも、映らなかったことを見るっていうのは、結構難しいんじゃないかな」
大体、手洗い場の怪談というのは、むしろ見えてしまう、映ってしまうというのが多い。髪の長い女が映っているとか。それに比べて、吸血鬼疑惑のあるクラスメイトが鏡に映らなかったのを見た、というのは、つまり見えなかったわけで。見えなかったことを見たというのは不思議な話だ。
それは私も聞いてみたんですけれど、と霧島が説明する。
「手を洗ったあとで、髪を直していたら、トイレの入口の方から足音がしたんだそうです。それでふとそちらの方を見たら、そこに出雲泉水がいた。つまり後志さんは、まず肉眼で、出雲泉水を見たんです。その時点で、吸血鬼だっていう噂の彼女と二人きりの空間にいるのが、怖かったみたいで。その後、おもむろに出雲泉水は後ろを通り過ぎたそうなんですが、その時に鏡に一切映らなかった」
「ううむ」
私は考える。
「つまり後ろを通り過ぎる気配とか、足音とか、そういうものが確かにあったのに、鏡には映らなかった、ということか」
「はい」
「うーん……」
私は考え込んでしまう。
「先輩、どう思いますか」
「まあ、正直信じられないよね」
「ですか……」
霧島は困ったような顔をする。友達を信じてはいるものの、客観的にこの状況を見てそうとも言えなくなってきたのだろう。
「トイレの鏡に映らなかった、という言葉だけならまだそれらしさもあったけれど、こうして現場で確認してみれば、どのみち鏡に映るのなんてごく一瞬だ。例えばその一瞬を見逃したりすることは普通にあるだろうし、見間違い、ってことなんじゃないかな」
現に、ついさっき霧島は、後ろを通り過ぎて鏡に映った出雲泉水を見逃している。人間、集中して見られる範囲というのはそれくらい狭いもので、視界の端で何が起こっているか、案外見えていないのだ。
「やっぱりそうなりますかねぇ……」
霧島は落ち込んでいる。
「お前は友達思いだな」
「ああ、いえ、だって」
霧島はなおも深刻そうに言う。
「後志さん、結構ショック受けてたみたいで。だから鏡に映らなかった理由とか、そういうのがあればむしろいいかなって思ったんです。なんか、光の加減でそう見えただけ、とか。そういう説明が付けば安心させてあげられるなって。でも見間違いとしか言えないと……」
霧島はそういうやつだ。何も本当に出雲泉水が鏡に映らない吸血鬼だと思っているわけではない。後志の不安を払拭してあげられれば、どんな説明だって良いと思っているだろう。
「見間違いだなんて言われても、安心はできないよね」
「はい。だからどうしようかなって……」
しかし、改めて鏡を見てみても、それは何の変哲もない鏡だ。一部が汚れているとか欠けているとかして、映るべきものが映らない状態になっているということはない。その証拠に、たった今私の背後で、霧島四方子の姿を見事に映し出してみせた。これを特殊な物理現象で説明することはできないだろう。なんとかのカミソリじゃあないが、見間違いで説明できてしまうことに、高度な物理トリックを考える必要はない。
けれども私は別のことを考える。鏡に映らない吸血鬼について。
なんだか今日は、ずいぶんこの話をしているような気がするのだ。
*
もう帰っているかも知れないけれど一応、と霧島が言うので、私も連れ立って保健室に行った。地学準備室がある3棟に戻るため、どのみち一度一階に降りなければならないから、保健室はほとんど道中ではあるのだが。
けれど、ちょうど階段を降りたところで、私達は後志とクラスメイトの一行と鉢合わせた。
「あ、後志さん!」
霧島が駆け寄る。私は部外者であるし、なんとなく手持ち無沙汰に階段を降りたところで突っ立っている。
後志の顔色は悪かった。バスケ部と聞いて勝手に長身をイメージしていたけれど思ったより小柄だ。霧島を見て一瞬苦しそうな顔をする。けれどすぐ、力ない笑顔を作る。
「もう大丈夫なの? 制服に着替えたんだ?」
「うん、とりあえず大丈夫だから、今日はもう帰るよ」
「大丈夫? 一人で帰れる?」
「うん、もう普通に歩けるから」
本人はそう言うけれど、それではと別れてしまうのも難しい集団の同調圧力が働いて、霧島たちは下駄箱まで彼女に付き添った。私も少し後ろから、集団を観察しながらついていく。
「私さっき、出雲さんを中庭のあたりで見たよ。だから今なら会わずに帰れる」
クラスメイトの一人がそんなことを言う。後志はつらそうな顔をして、
「お願い、出雲さんの話は、絶対誰にも言わないでね。私の勘違いかもしれないんだし」
一同が神妙に頷いた。すでにそのうちの一人は私という部外者に情報を漏らしているが……。
後志は具合が悪そうに、けれども確かな足取りで、下校していった。クラスメイトの一団はなんとなく解散のタイミングをはかっているようだった。
「雨、やまないねぇ」
「あー、私教室に傘おいてきちゃった」
「後志さん、来週の球技大会は大丈夫かな?」
「後志さんいないと厳しいよねー」
「っていうか出雲泉水って、ホント何者?」
「え、あんた吸血鬼説信じてるわけ?」
「そういうわけじゃないけどさぁ」
しばらく宙に浮いた時間を過ごした彼らは、やがて散会する。
「すみません、先輩。おまたせしました」
霧島は相変わらず顔を曇らせて、こっちに戻ってくる。その顔は本気で友達を心配していることがわかる顔で。
本当に愛すべきバカだと、私は思う。
3
渡り廊下の自販機でココアを買って、二本買って一本は霧島に押し付けて、地学準備室に戻る。
1棟と2棟の間で、あの後ろ姿を見かけたが、ひとまずそちらは後にする。まずは霧島に、事の次第を解説してやる必要があるだろう。
地学準備室の部長席(一番綺麗なボロ椅子)に腰掛けて、ココアをすする。
甘い。
「甘すぎる」
「先輩こないだココア買ったときもそれ言ってましたよ」
「わかっていても踏んでしまう地雷みたいなものだな」
「わかっていて踏まないでください」
「わかったと言えば。わかったよ、鏡に映らない吸血鬼の謎」
「……せ、先輩! 本当ですか!?」
霧島がココアの缶を机に叩きつけてこっちを見る。
「後志は出雲泉水が鏡に映らなかったことを見てはいない。かといって鏡に映ったことも見てはいない」
「……どういうことですか」
「後志が倒れたのは、あのトイレじゃないんだ」
「え?」
「想像してみてくれ。霧島はうちのトイレで倒れるなんて、嫌だろう?」
「まあ、嫌ですね。汚いし」
「さっき見に行ったトイレ、床は汚れていたか?」
「いや、汚れてはいなかったですけど……むしろ掃除されたあとって感じでしたね……あれ?」
「おかしいだろう? さっき私達が見たとき、トイレの床はまだ少々濡れていた。後志が倒れた時間帯なら、掃除が終わってまだ間もないから、もっと濡れていたはずだ」
「倒れるところを、出雲泉水が受け止めたのかも」
「霧島、お前最初に言っただろう、保健室の先生が、尻餅をついたときにぶつけたみたい、って言ってたんだろう」
「そ、そうでした」
「掃除が終わって濡れた床。そんなところに尻餅をついて倒れたら、どうなる?」
「スカート、濡れちゃいますね……」
「もしそうなったら、保健室に運ばれたあとでジャージにでも着替えることになる」
「はい、ジャージでしたよ、後志さん。でも」
「そうだ。そのままジャージで帰るしかないはずだ。それなのに後志はさっき、制服に着替えていた。トイレで倒れたなら濡れているはずの制服に。この天気じゃそんなにすぐ乾くわけがないから、それはおかしいんだ。だから後志は、トイレで倒れてはいないんだ」
「じゃあ、後志さんはどうして……」
「どうしてトイレで倒れたなんて嘘をついたのか。どうして吸血鬼が鏡に映らなかったなんて嘘をついたのか」
「……」
「おそらく、後志は倒れた本当の理由を、霧島たちクラスメイトに隠したかったんじゃないか」
「本当の理由?」
「保健室の先生が言っていたんだろう? 貧血だって」
「でも、どうして貧血を隠さなきゃいけないんですか」
「後志は真面目すぎたんだ」
「え?」
「さっきの服の話。もう一つおかしいことがあるだろう」
「……わかりません」
「制服が濡れてしまったら、保健室でジャージに着替える。その後制服に着替えることはできないはずだ。だからそもそも、制服は濡れていない。したがってトイレで倒れたというのは嘘だ」
「はい」
「でも、彼女は保健室でジャージを着ていた」
「……あれ」
「制服が汚れたのでなければ、わざわざジャージに着替える必要はあったのか?」
「制服で寝てたら皺になるから……? いや、でも私達が駆けつけたときが起きたばかりって感じだったから……」
「つまり、保健室でジャージに着替えたのではなくて、もともとジャージを着ていた状態で倒れたんだ」
「なんでわざわざ……?」
「本当に図書室で勉強していたのだとしたら、わざわざジャージに着替える必要なんてない。帰るときに制服に戻しているのだから、トイレで倒れた以外の理由で制服が汚れたわけでもない。霧島、今日お前のクラスは体育あったか?」
「ないです」
「後志は体育の授業があったわけでもなく、部活の練習があったわけでもないのに、ジャージを着ていた。そして貧血を起こして倒れた」
「それって……」
「わかっただろう?」
「……そっか。後志さん、バスケの練習してたんだ」
責任感が強い彼女は、優れない体調の中で無理をして、どこでかは知れないが、一人バスケの自主練をしていた。ジャージ姿でだ。しかし、やっぱり体調が悪い中で、貧血で倒れてしまう。そこに居合わせた出雲泉水に保健室まで運ばれるが、出雲泉水はさっさといなくなってしまう。目覚めたときにはクラスメイトにベッドの周りを取り囲まれ、なんとなく自主練のことは言い出しにくかった。しかもちょっと一人で練習しただけで倒れたというのは、なおさら隠したい。そもそもクラスのみんなから期待がかかっている中で、調子が悪いことを隠したいから一人で練習していたのだから。その状況で、どこで倒れたどうして倒れたと質問攻めにされたから彼女は困ったのだろう。喋りたがらない彼女を見て、本来なら一番状況を知っているはずなのにその場にいない、出雲泉水にクラスメイトたちの意識が向くのは無理からぬ事だ。大方、「もしかして出雲さんからなにかされたの?」みたいなことを誰かが言って、そこから彼女はつい話を合わせて、ストーリーを作って嘘をついてしまったのだ。出雲になにかされたと言ってしまうのはさすがに嘘が過ぎる。だから出雲が鏡に映らないことを目撃した、という、単なる見間違いで処理できる範囲に嘘を抑えた。けれど、鏡がある場所を舞台に設定しないといけなくて、場所に関しては嘘をつかなければならなくなった。もしかしたらそれを誘導してしまったのは、他ならぬ霧島かもしれない。直前まで私と、吸血鬼は鏡に映らないという話をしていたくらいだから。
「そうなれば、お前のすべきことは」
「はい。後志さんがプレッシャーを感じすぎないように、言ってあげます。それにクラスのみんなにも!」
「お前は本当に良いやつだな」
「えへへ」
「褒めてないぞ」
「え、今の褒めてないんですか?」
「褒めてない」
「先輩、あの私、褒めても何も出ないぞっていうのに絡めたネタがあるんで、褒めてもらっていいですか?」
「そんな要請の仕方があるか」
「えへへ、褒めても何も出ませんよ?」
「確実に褒めてないからな」
「とりあえず先に、さっき一緒にいたクラスの子達に話をしてきますね」
「褒めたら胸元から携帯が出た」
4
1棟と2棟の間には中庭があって、低木は自由奔放に生い茂り、石畳の表面にはびっちりと藻だか苔だかよくわからないものが張り付いて異常に滑りやすい上、そもそも苔むした遊歩道と浮草に覆われた池の水面の区別すらつかないために、毎年新入生が一人は足を踏み外して池に落ちるという伝統がある。もし四月中に誰も落ちなかった場合は、この伝統を継続するために運動部の一年が無理やり落とされる。伝統の維持にはそれなりの覚悟が必要だ。
今日は小雨まで降っている。私は絶対に池に落ちたくないので、ペンギンみたいに歩幅を狭くして、足に力を入れた。
けれどもそんな異次元的な足場の悪さを、何の苦にもしない者がいる。
彼女は、おそらく日傘なのだろう、レースのあしらわれた黒い傘をゆっくりと回転させながら、ふらふらと中庭を酔歩していた。傘の下に時折覗く金色の髪が、風にまにまに流れるように、苔生した地面に生命を振りまいているように見えた。彼女の着ているのがうちの制服であることだけが場違いだった。
「出雲泉水さん」
私は彼女との距離を半分くらいに詰めたところで、立ち止まって声をかける。
その少女はくるくると回転し、流れを中断された素振りは一切見せず、はたと止まってこちらを見やる。
白く小さな顔にどこまでも輝く金色の瞳に、異形が見える。人とは違う運命が見える。
「……ヴァンパイアハンターさん?」
私の重心がずらされる。その声は、人間の心の壁を一番超えやすい周波数に調整されている。背筋に震えが走る。すんでのところで足を踏ん張る。
「私はヴァンパイアハンターじゃないよ」
吸血鬼の少女は声を出さずに首を傾げる。私はもう一歩、慎重に彼女に近づく。
「私を捕まえに来たのですか」
「そうではない」
「マジックミラー的な乗り物に連れ込む気なのですね」
「そんな気はない」
「一度乗ってみたいんです。マジックミラー的な乗り物」
「頼むから乗らないでくれ」
「それで、ヴァンパイアハンターさんが私に何のご用ですか?」
「ヴァンパイアハンターではない。地学部の部長です」
「部長さん」
「そう、部長さんとして出雲さんと話したいことがあって来たよ」
「地学部の部長さんが、私に何のご用ですか?」
冷たく拒絶するような言葉のはずなのに、口調は柔らかで、琥珀色の瞳は興味深そうにこちらの心臓を握ったままだ。
「二つあって。まずは君のクラスの後志さんのこと。同じクラスの霧島が地学部だから、話を聞いたんだけれど」
後志の名前にも、霧島の名前にも、彼女は何の反応も見せなかった。
「……今日、貧血で倒れたところを出雲さんが保健室まで運んであげたっていう子だよ、後志さん」
「ああ」
初めて金髪金眼は得心した顔をして、日傘だけをくるくると回転させた。
「バスケットボールの」
「そう、その子」
出雲泉水は本当にクラスに馴染む気がないようだ。クラスメイトの名前もろくに覚えていないらしい。
「勝手なお願いなんだけれど、後志さんの倒れた場所。1棟2階の女子トイレってことにしておいてくれないかな」
クラスメイトたちと後志本人のフォローは霧島がやるとして、後志が流されてついてしまった嘘を埋めるには、出雲泉水を押さえないといけない。それが私がここに来た理由の、少なくとも半分だった。理由を隠して無茶なお願いもできないので、私は後志がそんな嘘をついてしまうに至った理由を簡潔に語った。琥珀色の瞳は途中から半ば興味を失って、空中の雨を眺めているに近かった。私はなんで自分がここまでしているんだろうと少しわからなくなった。
「別に出雲さんが自分からなにかする必要はないよ。もし誰かに聞かれたら、そういうふうに話を合わせてくれればいいだけなんだ。変な頼みだけど、聞いてもらえると嬉しい」
「はい。ご希望なら、そうしてあげられますよ」
なんで自分がそんなお願いを聞かなきゃいけないのだ、と言われてしまったらどうしようと思ったのだけれど、出雲泉水は意外なほど簡単にこちらの願いを聞き入れた。
「それで。もう一つというのは」
出雲泉水の声が透き通る。琥珀色の視線が私の脳をぐらつかせた。
「出雲さん、地学部に入らない?」
「ちがくぶ」
「地学部」
「地学部というのは、何をする部活ですか」
「すべて」
「すべて?」
「地学というのは私達が立っているこの地球という星についての学問であり、私達が立っているこの地球以外の星についての学問でもあり、したがって宇宙のすべての学問だよ」
「スケールの大きな部活なのですね」
「バスケ部はこれくらい、テニス部はこれくらい、せいぜいこんな大きさの球しか扱わない」
「そういう球技ですからね」
「地学はもっと大きい。これくらい」
「私にはその手は水平にしか見えません」
「君も地学のロマンを探求してみないか」
出雲泉水は、降りしきる小雨の中に突然興味深い現象でも発見したみたいに視線を泳がせた。日傘がまた回転する。
「考えておきます」
「気が向いたら3棟1階の地学準備室に来てね。大体毎日開けてる」
「後志さんのついてしまった嘘の辻褄を合わせるのも、地学部のお仕事なのですか?」
「そんなところ。それも地球上で起きている出来事だからね」
勧誘の手応えはない。けれど拒絶されている感じもしない。もしかしたら出雲泉水は見学くらいは来てくれるかもしれないと私は思う。予め、うまく霧島を言いくるめておかないと……。
周囲が急に明るくなって、雨がやんでいることに私は気づく。
雲の合間から顔を出した太陽が、中庭の多湿な空気をきらきらと照らし出す。ぎらりと眩しさを感じて2棟の方を向けば、窓ガラスが光を反射して、明るくなった中庭と薄暗い廊下の間に、さながらマジックミラーの要領で、帯のような鏡面を形成している。
そこを覗けば、映っているのは私一人だけ。
左右は反転している。
上下は反転していない。
吸血鬼は、鏡に映っていない。
「ところで出雲さん」
「はい」
「どうして鏡は、左右は反転するのに、上下は反転しないか、知ってる?」
吸血鬼は鏡に映っていない。けれど、彼女が立っているあたりに、鏡の中で薄靄がかかり始める。
「ご希望なら、上下反転もできますよ」
鏡の中で像を結んだ彼女は、コウモリみたいに窓枠にぶら下がって、逆さまのままで微笑んだ。
私は、ぜひこの子に入部してもらいたいと思った。
(おわり)
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