ハカセの棺と異国の少女
「"ハカセ"。患者さんのカルテ、ここに置いておきますね」
「……ああ、ありがとう。頼むよ」
それはとある田舎町の、とある病院。こじんまりしたその病院は今日も、近所のおじいさんおばあさんでいっぱいだった。応対するのは喜寿を迎えたか迎えていないかという歳の医師の男一人と、一人の女性看護師。看護師の方はほんの数年前にこの病院にやってきたばかりの若い女の子で、患者さんたちにはとても人気だった。
「"ハカセ"……そろそろお昼休憩、いかがですか」
「ああ。そうしようか」
ハカセ、と呼ばれたその医者は午前診を終え、病院の入口の鍵を閉めたのを確認してから、白衣を脱いだ。すると女性看護師の方もそそくさと更衣室ーー彼女以外、誰も使っていない部屋だーーの方へ行ってしまった。
病院の奥の廊下を進むと、そのままハカセの家になっていた。玄関とは名ばかりのドアを開けると、家にしか漂わない、安心する匂いがする。どう形容すればいいか分からないが、その匂いを嗅ぐとハカセは不思議と安心した。
『ご飯は作り置きして、冷蔵庫に入れてあります 温めて食べてください』
娘の手書きのメモが、キッチンのテーブルの上にあった。娘夫婦はハカセの家から少し離れたところに住んでいて、時々来ては、こうしてハカセのご飯を作ってくれていた。町の数少ない医者の一人として、たくさんの患者を受け持つ忙しいハカセのためを思ってのことだった。
「ただいまです……うーん、この匂い。落ち着きます」
ご飯を温めようとハカセがお皿を持ち上げた時、玄関のドアが再び開いた。入ってきたのは、先ほどの女性看護師。
「どうだった」
ハカセが尋ねると、少しの間を空けて彼女は口を開いた。
「やはりもう一人くらい、看護師さんを増やしてもいいのでは? わたしだけでは、とても」
「そうか……しかし、いかんせんこの町には」
「分かっています。わたしのほかに若い人を、ほとんど見たことがありません」
ハカセや彼女が住む町は、ほとんど限界集落だと言われていた。ハカセの娘夫婦でさえ、山を一つ越えたところに住んでいた。町に住む若者は文字通り、彼女だけだった。
「ひとまず、ご飯にしよう」
「はい」
それを合図に、彼女が頭をおさえた。そしてそれまでつけていた、黒くて長い髪をしたウィッグを外した。その下から出てきたのは、栗色のふんわりした、ショートカットの髪。
そして、犬そのものの耳だった。
彼女の名前は、ミロ。ここ日本ではない、別の世界から来たのだという。
「わたしは向こうでは、傭兵の一員でした。家族や友達もみんなで、人間と一緒に戦っていました」
向こうの世界では人間の他に、彼女のような獣人、と呼ばれる種がいて、数百年もの間協力関係にある、お互いになくてはならない存在らしい。
「こちらの世界では人間はまだたくさんいるようですが、……わたしのいたところでは、もう小国ひとつ分しか、純粋な人間はいませんでした。そして人間が数を減らしてばかりなことに危機感を持った人たちが、生存力の高い動物たちの血を取り込む魔法を開発して生まれたのが、わたしたち獣人です」
もとは人間だけあって、獣人という種が生まれた時から、人間との仲は良かったという。知恵を絞って道具を使いこなせる人間の特性に加えて、体力も持久力も人間を超えたものを併せ持つ獣人は、あちこちで重宝された。――人間にも、化け物にも。
「わたしたち獣人は、あちらの世界の安寧を脅かす化け物たちに負けたのではありません。……敵に雇われた同じ獣人に、負けたのです」
中には、つい先日まで隣で戦っていた仲間に殺されてしまった者もいたという。きっと化け物たちは獣人を洗脳して、無理やり従わせていたのだと、ミロは泣きながらハカセに話した。
「化け物たちに捕まって、毒草で眠らされた……のだと思います。隣で縛られていた妹が、そうされていましたから」
そして次に目が覚めると、ハカセの病院の前に倒れていた。何が起きたかは分からないが、とりあえず死なずには済んだらしい。ミロはその程度しか考えられないくらい、疲弊していた。
「ぼくももう棺桶が近いから、いつまで君の面倒を見られるかは分からないけれど」
ハカセは家の目の前に倒れていたミロを、助けずにはいられなかった。医者としての本能が、ハカセをそうさせた。そして話を聞いて、彼女を引き取ることに決めた。もしかしたら明日にも、ミロを一人にしてしまうかもしれない、そんなぼんやりとした不安を抱えながら。
ハカセには特に大きな病気はなかった。しかし若い頃は何も支障なくできていたことが、急にできなくなった。できないことが、だんだん増えてきた。それを自覚した時、いよいよ老いて死が近いのだ、とハカセは悟った。
学生の頃、研究医として難病のメカニズム解明にあたっていた、元気はつらつな自分を懐かしむ時間も増えた。ハカセにはそんな話を他人にしても、何の得もないことが分かっていた。しかしミロはいつもにこにこして、そんなたわいもないハカセの話を聞いていた。
「よかったです。こんなにも優しい、平和な世界に来られて」
ハカセの話を一通り聞いたミロは、いつもそう言った。本当は最愛の家族や友人と別れて、どうしようもなく不安なはずなのに。毒草で眠らされるところまで見ていたミロの妹が、今も生きているのか、死んでいるのかさえ分からないというのに。
「ぼくがいなくなった後も、この世界で安心して暮らせるように」
ハカセはミロを、看護師として働かせることに決めた。初めてのことを教える時は優しく。不注意で犯したミスは、軽く注意するのにとどめる。何度も同じミスをした時だけ、厳しく叱る。それはハカセ自身が若かりし頃、先輩が実践していた後輩の育て方だった。
「いいんでしょうか。わたしは、こんなことをしていて」
それでも時々、ミロはそう口にした。やはり全く別の世界に暮らす、家族や仲間を思ってのことだった。当たり前のように働けて、当たり前のようにご飯を食べて。生きるか死ぬか、そんなことを全く考えずに生活が送れる毎日。ミロにとってはそれが不安らしかった。
「いいんだ。厳しい言い方にはなるけど……君の家族や友達には、もうどうやっても会えない。この世界に、別の世界に行くなんて方法はない」
「……はい」
ハカセにはそう言って、ミロを納得させることしかできなかった。
ミロはこの先看護師として働けたとしても、いろいろ苦労することがあるだろう。ハカセたちの住むこの世界に、獣の耳が生えた人間はいない。今はウィッグをつけて耳が隠れている、ということにしているが、いつ正体がバレないとも限らない。バレれば怖がられて、住む場所を追い出されるかもしれない。だからせめて、ご飯や仕事の心配をしなくていいように、ハカセは思いつく限りのことを教えていた。娘夫婦にも話を打ち明けて、日々の食料を“買い出す”ことも教えた。
「いいかい。ぼくが死んだら、まず娘を頼るんだ。ぼくからも、君の新しい職探しを手伝うようにとは言っている。このままいけばきっと、君は立派な看護師として働ける。このまま、いけば」
しかしミロにそう言いつつ、ハカセは不安だった。ミロが一人前になるまで、自分は生きていられるだろうか。大きな病気をしていないからこそ、“その時”がいつ来るのか、ハカセ自身も全く分からなかった。
「はい。わたしも仕事を立派にこなせるように、頑張らなくちゃ」
ミロが明るい返事をしてくれるのが、ハカセにとっての救いだった。
「ぼくの娘のこと、どう思う」
「とっても優しい方です。ハカセとの仲も、よさそうで。とても、うらやましいです」
実はいつも仲がいいというわけでもない。ミロに気を遣って、せめて彼女の前ではケンカするところを見せないようにしているのだ。今ハカセがいる限界集落に医師としてやってきたのも、娘の猛烈な反対を押し切ってのことだった。
「いつまで経っても、ぼくは他人が困っているのが嫌なんだ。きっとこの性分は、二度や三度死んだくらいじゃ直らないだろうね」
たとえ自分の方が窮地に陥っていても、その人に自分ができることをしないのは心が痛む。ハカセが幼い頃から、それは変わらなかった。しかしそう言うハカセの顔は決まっていつも、苦しい言い訳でもしているかのようだった。
「みろく君、そこの棚にあるシリンジを……」
「はい」
日本でこれから先も暮らしていけるように、ハカセはミロに新しい名前を与えた。
いつも通りの昼下がり。午後診を控えた準備の時間に、気に入ったその名前で呼ばれたミロははい、と笑顔で返事をして、診察机の真後ろの棚、上から二段目にある新品のシリンジの箱を取るべく、少し背伸びをした。
がたんっ
ミロはカルテを床に落としてしまったのかと思って、箱を手に取ってから後ろを振り返った。そしてすぐに、危機的な状況に気づいた。
「ハカセ!」
床に横たわっていたのは、ハカセその人だった。顔を赤くして、ひどく息切れした様子だった。ミロの頭に、戦争で重傷を負い、瀕死で血に濡れた友人が涙を流していた光景が蘇った。
「……相当体が衰弱しています。最近、食が細かったでしょう」
救急車より、ハカセの娘の車の方が早かった。ハカセの娘夫婦の住む町の総合病院で、ミロは主治医の初老の男性にそう告げられた。
「……確かに」
ただ、言われてみれば、という程度だった。食事の大半をミロに取り分けていたのがあまりにも自然で、ハカセがそこまで弱っているなんて考えもしなかった。
「ご家族のご希望で一通りの検査はいたしましたが、特に大きな病気や異常は見つかりませんでした。単刀直入に申し上げまして、老衰です」
ただ緩やかに終わりへ向かう体に点滴やら栄養やらを無理に入れても、元気になるわけではない。ミロはそんな厳しい言葉もかけられた。
「……まだ、教えてもらってません」
看護師としての仕事や技術。いろんな性格や気分の人に寄り添うこと。ミロの目から見ても、ハカセは教えられることのほとんど全てを教えてくれた。だけど。
「ハカセが……ハカセがこうなった時、わたしはどうすればいいんですか」
戦場で死にゆく仲間や知り合いを看取ることには慣れていた。生き延びることの方が難しい戦場では、負傷して死ぬ場合は大抵、遺言を遺してそれで終わりだった。それさえできずに死ぬ者もいた。けれど、今は違う。ハカセにはもっと、やりたいことがあったはずだ。
「みろく!」
ハカセの娘夫婦も病室に入ってきた。ベッドに横たわり、浅い呼吸で眠るハカセを見て、娘も涙をぐっとこらえるので精一杯だった。
「なんでもっと早く、言ってくれなかったのよ……」
ハカセの娘は横たわるハカセに向かってつぶやいた。決して、ミロを責めたりはしなかった。いつこの日が来るかも分からないという状況で、ミロは仕事を覚えるので手一杯だった。娘はそう思ったのだ。
「……病院はしばらく閉めるわ。せめて、ちゃんと最期まで看取りましょう」
娘の言葉は重たかった。延命措置に意味はない、お父さんはそんなこと望んでない。主治医にもすでに、そう伝えたらしかった。
何日も何日も経った。ミロと娘が交代で病室に泊まった。その間もハカセは浅いながら穏やかな寝息を立てて、眠っていた。
「……!」
一週間以上経ったか、という頃だった。連日の寝不足で、お昼を食べた後すぐにミロはうたた寝をしていた。だが急に、目が覚めた。か細い声が、聞こえた気がした。
「ハカセ!」
あんなに眠っていたはずのハカセが、目を覚ましていた。慌ててハカセの娘に連絡を取って、ミロはハカセにおそるおそる話しかけた。
「大丈夫、ですか」
「そんな、バカな。もうだめだって、ぼくでも分かるよ」
「そんな……」
「大丈夫。ぼくが思いつくことは全部、みろく君に教えたはずだ」
「……まだです」
わずかながら、ハカセが意外そうな表情を浮かべた。
「わたしは……わたしは、悲しいことを悲しいと言えません。悲しい、と相手の気持ちを思うことができません。当たり前のように、仲間が死んでいくのに立ち会ってばかりいたせいです」
「君はよく分かってるよ。悲しい時にそれが全く表れないひとはいない。今は、ぼくが一つも悲しそうじゃないから、君が混乱しているだけさ」
「……っ」
「残念ながら思い残すこともあんまりないかな。医者である以上、ぼく自身もいずれこうなることはよく分かっていたつもりだから」
それからすぐに、ハカセはすとん、と穴に落ちるように再び眠りについてしまった。娘夫婦が息を切らして病室に駆けつけた頃には、すっかり起きる様子もなかった。
(……この気持ちは)
ミロはまだ何かを、忘れている気がした。まだ言わなければならないことが、残っているような。しかしミロがそれを思い出すことはなかった。
ハカセが次に目覚めたのは、それからさらに三日後だった。前よりもっと声がか弱くなっていた。感じてはいけないものを、ミロは直感で受け取ってしまった。
「……みろく君」
「……はい」
「一つ、お願いがあるんだ」
「なん、ですか」
ハカセの声を聞き取るべく近寄ったミロ。その首元にかかっていたネックレスを、ハカセはそっと手に取った。元の世界にいた時に、なるべく怪我をせずに過ごせるようにと祈って家族友人と作った、いわばお守りであった。
「みろく君と初めて会った時から、そのお守りの輝きが忘れられないんだ。せめてぼくが君のことを忘れるなんて、薄情なことにならないように。ぼくにも一つ、作ってもらえないかな」
「分かりました」
「よかった」
お守りを作るのに何十分も要らない。材料は懐に入れたまま、こちらの世界に持ってきていた。今からハカセの娘に言って、病院まで急いで戻ってその材料を取りに行けば、今日中にでもハカセに渡せる。
しかし娘を待つ数十分さえ、ハカセは待ってくれなかった。呆然とするミロの目の前で、安堵の言葉を最後にして、ハカセは旅立っていった。
「……ハカセ」
わずかな身内だけを集めたハカセの葬式に、ミロは参列を許された。生前何十人もの研究生を育ててきたハカセの、最後の弟子として。
「ありがとう、ございました」
涙声ながらはっきりと、ミロはハカセの眠る棺桶に向かって言葉をかけた。そして首にかけていた真新しいネックレスを外して、そっとハカセの胸に乗せた。
「なくさないでくださいね」
ゆっくりと旅立っていったハカセに、ミロはなんと声をかければいいのか。最後の最後まで、それがはっきり分かることはなかった。だから、青い宝石のはまったそのネックレスに込めた心だけ思い返して、ミロはハカセとの最後の対面を終えた。
「“ドクター”。患者さんのカルテ、ここに置いておきますね」
「……ああ、ありがとうございます。今日も、よろしくお願いします」
山に隔てられた、とある田舎町。数少ない病院の一つで、ドクター、と呼ばれる若い男性と、みろくさん、と呼ばれる看護師がせかせかと動き回っていた。
『ハカセはあの町の医者になってからずっと、弟子なんて持っていませんでした。だから最後の弟子であるあなたのことを聞いて、気になって』
ハカセの娘伝いに、ミロの前の弟子だという好青年が接触してきたのだ。都会の総合病院に勤務し始めて、五年近くになると彼は言った。
「やっとの思いで教授になったばかりだったのに。急にその地位を投げ捨てて、病院を作るとおっしゃったんです。どういう信念があって、ハカセはそうしたのか。俺はそれが確かめたい」
彼はハカセがやっていた病院を継ぐと言った。彼もまた、都会の医者という華々しく見える道を敢えて切って捨てたのだ。ミロはそこで看護師として、引き続き働くことになった。
「ハカセ。見てくれていますか」
ついこの間までハカセがいた診察机の前を通るたび、ミロはハカセのことを思い出さずにはいられなかった。そしてもう二度と会えないだろう故郷の家族や友人のことも、その現実を受け止めるようハカセが諭してくれたことも。
「ハカセの思いはいつか、わたしにも分かりますよね。……きっと」
ミロは深い青に輝く宝石を擁したネックレスに、そっと包むようにして触れた。