間もなく死に逝く君の初恋
「よお、元気そうじゃん」
顔を合わせた瞬間、たとえ初衣がどんな状況でもそう言おうと決めていた。
「あ、遙平君……お見舞い来てくれたんだ」
ベッドの上の初衣は少し慌てた感じで読みかけの文庫本を閉じ、照れ交じりの笑いを浮かべた。
一か月ぶりに見る彼女はいつもと変わらない様子で、本当に「元気そう」だった。少なくとも見かけの上では。
「なかなか来られなくてごめんな」
幼馴染みの闘病姿を直視したくなくて、買ってきた果物をテーブルの上に置きながら室内に視線を巡らせる。
窓際に置かれた花、窓から射し込む気怠い陽射し、白い壁、看護師さんを呼ぶためのボタン。
病室というのは清潔で明るい造りになっているのに、どこか気が滅入りそうな独特な陰鬱さがある。失礼な感想だけれど。
「ううん。いいよ。テストもあったし忙しいんでしょ?」
「まぁな。そろそろ真面目に勉強しないとさすがにヤバそうだったし」
嘘だった。
俺はお見舞いに来られないほど、真面目に勉強なんてしていない。
ただ怖くて、お見舞いに来られなかっただけだ。
初衣が絶対に助からない病に冒され、それは既に手の施しようがないほど進行しており、ただ静かに死の床についている姿を見るのが怖かっただけだ。
小学生の頃から高校二年の夏までずっと一緒にいた初衣があと一年以内に死ぬなんて、想像も出来ないし、受け容れることも出来ない。
元々白かった初衣の肌がより一層白く見えるのは、俺の気分がそうさせているのか、光の加減なのかはよく分からなかった。
「せっかく夏休みだっていうのに入院なんて、初衣もついてないよな。さっさとよくなって退院しろよ」
用意してきた言葉は、若干棒読みだったかもしれない。
初衣の表情に一瞬影が差したが、すぐに「うん。ありがとう」と無理に作った笑顔に変わった。
病名や病状は本人に伝えてないと聞いているが、自分の身体のことは自分が一番よく分かっているのかもしれない。
少しの沈黙が流れた。
普段は話したいことなんて考えなくてもいくらでも話せる相手なのに、今はなにも言葉が出て来ない。俺が一方的にどうでもいいことを話し、初衣がそれを聞く。それが今までの俺たちの関係だった。
でも今はなにを話しても余計なことを口走ってしまいそうで、言葉を発することが怖かった。
「果物、剥こうか?」
「え、遙平君出来るの?」
「ナメんな。これでも中学の時からたまに料理作ってるし」
わざとらしいテンションが空回りして、白々しい空気が流れる。
それでも俺はピント外れの陽気キャラを演じ続けるしかなかった。
引き出しに入っていた果物ナイフでリンゴの皮を剥く。しかし表情やテンションは偽れても、指先の緊張は隠せなかった。まるで里芋の皮を剥くかのように果実ごと削ぎ落としてしまう。
それを見ても表情を変えないしなにも訊かないのが、初衣の優しさだ。
やけに角張ったリンゴを八等分にして、爪楊枝に刺して初衣に渡す。
「ありがとうっ!」
不格好なリンゴを嬉しそうに受け取った初衣は、白くて並びのいい歯でしゃくっと噛んで「おいひぃ!」と笑った。リンゴで膨らんだ頬が欲張りなリスのようで可愛い。
一重で大きな目、低い鼻、整える程度の眉と、ただでさえ初衣は童顔だ。そのうえ化粧もしていないから、初衣はいつにも増して幼く見えた。
しかし本物の子供と決定的に違うのは、生命力の強さを感じさせないところだ。子供というのは生きるための力に漲っているが、今の初衣にはそれがない。
既に自らの運命を悟り、半ば諦めたかのような枯れた気配が漂っている。
それが悔しくて目頭が熱くなりかけ、慌てて視線を斜め上に向けて涙が退くまで遣り過ごした。
「他になんか欲しいものとかある? 持ってくるから」
「えー? 別にないよ。ありがとう」
「なんかあるだろ。よく考えろよ」
欲しいものを訊いてそれを届ける。そんな口実で頻繁に顔を出そうという意気地のない作戦を考えていた俺は、少しむきになって欲しいものを考えさせる。
「初衣はいつも控え目なんだから。たまにはワガママ言ってもいいんだぞ?」
しかし普段大人しい初衣は、このとき俺よりずっと勇気を持っていた。
「本当にないよ。ただ遙平君が来てくれたら、それだけで嬉しいから」
「な、なにそれ? 入院してキャラ変わった?」
馬鹿な俺はせっかくの初衣の言葉を茶化してしまった。
言葉というのは発してしまったら取り消せない。自分の馬鹿さ加減に嫌気がさしてしまう。
でも俺と付き合いの長い初衣は、そんな失言も笑顔で流してくれる。
「だって遙平君と話していると愉しいんだもん。だから来てくれるだけでいいの」
「心配しなくても来るよ。夏休みもすることないし」
「ほんと? よかった! あ、じゃあ今度本持ってきてよ! 遙平君のお薦めのやつ!」
「なんだよ。欲しいものあるんじゃん」
「あ、ほんとだ」といって初衣は肩を竦めてはにかむ。
「でも俺、漫画しか読まないし、どんな本がいいのか分かんねーから」
「漫画でいいよ。とにかく遙平君の好きなものなら」
「初衣っていつも本読んでるよな。どんな本読んでるんだ?」
先ほど閉じて布団の上に置いた本に手を伸ばす。
「あっ!? これは駄目っ!」
初衣は慌てて俺の手を防ごうとして、本が床に落ちてしまった。
「どれどれ?」
「み、見ちゃ駄目っ!」
そんなに焦られると逆に見たくなってしまい、いたずら心でタイトルを確認した。
『イジワルな幼馴染みなんて、大好きですっ!』
初衣の幼馴染みの俺としては、なかなか強烈で気まずいタイトルだった。
俺は思わず顔が熱くなるのを感じていた。
「は、……はい」
慌てて閉じて返すと、初衣は顔を赤く染まっていた。そして涙を潤ませた上目遣いで俺を睨み──
「いじわるっ……」
ぽそっと呟いて目を逸らされてしまった。
「れ、恋愛小説が好きなんだな……なんだか初衣らしいな。よし、分かった。持ってくるから」
幼馴染みという要素を抉り取った見解を述べ、適当に誤魔化そうとする。
だがやはり今日の初衣は勢いが違った。下げかけた視線を戻し、俺を真っ直ぐに見詰めてきた。
「ワガママ……言ってもいいんだよね?」
こんなに真剣で思い詰めた目をした初衣を見るのは久し振りだった。
確か以前にも一度、こんな目で見られたことがあるが、今は頭が混乱してて思い出せない。
「も、もちろん。あ、でも、あんまり無理なのは駄目だからな……」
すぅーっと一度息を大きく吸ってから、初衣は意を決したように言った。
「わたし、ずっと遙平君のことが好きだった……子供の頃から、ずっと……だから……」
そこまで言うと、初衣は俺の目を見て硬直した。
時が止まったような、息を吸うのも躊躇われるくらいに張り詰めた空気が俺たちの間に充満していた。
全てが止まった空間の中、初衣の目から涙だけが一筋頬を伝っていく。そして一粒頬から布団へと滴ると、堰を切ったように次から次へと降り出して来た。
「だから私が死んでも、忘れないでね……ずっと、ずっと覚えててね……お願いっ……」
「う、初衣……」
泣きながら笑うその顔は、苦しいほどに悲しくて、正視に堪えがたかった。
「ば、馬鹿っ! なんで告白しといてそんなこと言うんだよ。縁起でもない! そうだ、じゃあ退院したら付き合おうぜ! 遊園地行ったり、花火行ったり、カラオケ行ったりしような?」
強張った頬のまま、必死で口角を上げた。目を細めて、眉を下げ、「初衣も冗談なんて言うんだ! 珍しいっ!」と上擦った声で言って、食べたくもないリンゴを囓った。
「うん……じゃあ退院したら、彼女にしてね」
初衣は指で涙を拭いながら笑う。
「ああ。早く元気になれよな? 言っとくけど今年の花火大会は八月二日だからな。早くしないと終わっちゃうし」
「分かったっ! 頑張るね」
心臓はビックリするくらい早鐘を打っていた。
初衣が俺のことを好きだなんて、今の今まで知らなかった。
ずっと一緒だったから、恋愛の対象として考えたことなんてまるでなかったし、向こうもそうだと思い込んでいた。
一体いつから初衣の方は俺のことが好きだったのだろう?
それから俺たちは退院したらどこにデートに行くかとか、大学も同じところに通おうとか、実現不可能とお互いに分かりきったことで盛り上がった。
初衣はまるで『宝くじで数億円当たったらなにに使うか』という話くらい、無責任で愉しそうに夢を語っていた。
だが話せば話すほど初衣がどんなことをしたかったのかとか、どんなことが心残りなのかとかが分かってしまい、苦しくなる。
それでも逃げなかったのは、ほんの少しでも初衣の支えになりたかったからなのかもしれない。
俺が剥いたリンゴを初衣がゆっくりと咀嚼しているとき、病室のドアがノックされた。
初衣が口許を抑えながら「はい」と返事をする。
「初衣、大丈夫? あ、遙平。久し振り」
やって来たのは初衣の親友小磯久瑠美だった。俺も中学の頃は仲が良かったが今では疎遠となり、顔を合わせるのは卒業以来だ。
ベッドの上に横たわる初衣を見て心配そうな顔をしているが、それは死を目前にした親友に対する態度としては安穏としすぎた心配の仕方だった。
つまり久瑠美はまだ初衣の病状を知らないということだろう。
一年と数カ月ぶりに見る彼女は、その僅かな期間でずいぶんと大人びた雰囲気になっていた。中学の頃のおてんばぶりはあの頃と変わらないショートヘアに面影をわずかに残す程度だった。
「じゃあ俺は帰るから」
「えっ……?」
俺がそう言うと初衣と久瑠美は一瞬で表情を曇らせる。
「そんな顔するなよ。明日も来るから」
「うんっ……待ってるね」
「ちょっと遙平。別に帰らなくてもいいじゃん。一緒にいてよ。私とも久々なんだしっ」
久瑠美は自分が邪魔をしてしまったのではないかと焦った顔をする。
今まで全く気付かなかったが、久瑠美は初衣の俺に対する気持ちを知っていたのだろう。そう考えると色々と思うところはあるが、それはもう今さらどうでもいいことだ。
「俺はもうずいぶん前から来てたんだよ。じゃあな」
振り返らずに俺は病室を後にした。
後ろ手でドアを閉めた瞬間、堪えていた涙が流れる。
元気そうに振る舞っていた初衣の姿が、まだ残像のように脳裏に焼き付いていた。
漏れそうな嗚咽を噛み殺し、早歩きで病室の前から立ち去った。そして病院の中庭に着いてから一気に嗚咽も涙も吐き出した。
「初衣っ……なんでだよっ……」
理不尽な怒りがこみ上げ、拳で何度も何度も太ももを叩く。
今まで彼女の気持ちに気付けなかった自分が腹立たしい。
取り返しがつかなくなってから想いを告げてきた初衣が恨めしい。
なにより初衣の身体を蝕む病気が憎かった。
無様なほど泣いて、見苦しいくらいに取り乱していた。
しかし周りの人はさほど驚いた様子もなく、かといって誰も慰めてはくれず、ただ悲しみを察した顔で通り過ぎていく。
それが病院というところなんだと、改めて実感した。
「なんであんなこと、言ったの?」
不意に頭上からそう訊かれ、顔を上げる。
初衣の声に聞こえた。
「心音……」
俺の前には長い髪を耳の高さで二つ括りに結わいた、初衣の妹の心音が立っていた。俺たちの二歳年下だから中学三年生のはずだ。
見た目は姉と似ているが、性格は初衣と違い社交的で快活な女の子だ。
「あんなことって……?」
「退院したら付き合おうって。ごめんね。病室に入ろうとしたら聞こえてきちゃった」
「あれは……」
「お姉ちゃんのため、なんだよね?」
心音は眉間に皺を寄せるほど深刻な顔で問い質してくる。
いつも朗らかな彼女にしては珍しい表情だった。
「ああ。そうだ。もしそれで初衣が元気になってくれるなら……いや、せめて支えになれるなら……」
「同情したの? だから好きでもないのにお姉ちゃんと付き合うって言ったの? 優しいんだね」
言葉は褒めているようにも思えるが、鋭く尖った声はどう聞いても非難している音色だった。
俺は否定できなかった。
確かに二つ返事で付き合うといったが、それは指摘された通り恋愛感情によるものではなかったからだ。『同情』と決め付けられたら反発する気持ちはあるものの、男女が付き合う感情ではなかったのは事実だ。
でも余命幾ばくもない幼馴染みに告白され、彼女もいない俺が断る理由なんてないだろう。
そんな言い訳を視線で伝える。
「ちょっとついてきて」
心音はそう言うと俺の返事を待たずに歩き出してしまう。仕方なく俺は弾むように揺れるツインテールの後を追った。
────
──
連れて行かれたのは初衣、心音姉妹の住む家だった。
おじさんおばさんは留守らしく、挨拶をしても返事がない。
久し振りにやって来た門野原家は魚のいない水槽を思わせる、もの悲しい静けさが漂っていた。
心音は初衣の部屋に通され、向かい合わせで座る。
小さい頃は初衣も含めて三人で遊ぶことも多かったから、俺も心音のことはよく知っていた。
「遙平兄ちゃんはお姉ちゃんのために支えになりたいって思ってるんでしょ?」
病院の時とは違って既に声色はいつもの心音らしい、明るくハキハキしたものに戻っていた。
ちなみに心音は俺のことを『遙平兄ちゃん』と呼ぶ。小さい頃からいつも一緒だったからか、兄のように慕ってそう呼んでくれている。
「そうだ。俺が初衣になにか出来ることがあるのか?」
「うーん……あるといえば、ある。かなぁ……」
意味ありげに自宅まで連れて来たわりに、歯切れ悪い言い方だった。
「俺に出来ることならやらせてくれ」
「ありがとう。遙平兄ちゃんにしか出来ないことだよ」
「何をしたらいい?」
「お姉ちゃんのこと、ちゃんと見てもらうだけだよ」
「は?」
初衣を『ちゃんと見る』とはどういうことだろう。
要領を得ない話で先が見えない。一体心音は俺になにをさせようとしているのだろうか?
「私はね、人を過去に戻すことが出来るの」
なんの前置きもなく、心音はいきなりそう言った。
「……え?」
「だから、遙平兄ちゃんを過去に戻すことが出来るの。タイムリープってやつ? そこで過去に行って元気な頃のお姉ちゃんに会って、ちゃんと向き合って欲しいってわけ」
思考がついていかなかった。
心音は変わった子ではあるが、中二病を煩ってはいなかったはずだ。しかし今の発言は、中学二年生の子供が言いそうな常識を逸脱したものだった。
もっとも彼女は中学三年生なのだから、そういう意味では異常なことではないのかもしれない。
「過去に……?」
「論より証拠だから過去に行ってもらうね。いつがいい?」
「ちょっ……ちょっと待て。いきなりなに言い出すんだよ?」
戸惑う俺を無視して心音は段ボールを押し入れから出してくる。
そこには古い日記帳が納まっていた。
「これはお姉ちゃんの日記。それを見てやり直したい時を選んで」
「人の日記を勝手に読めるかよ。それに過去に戻るって……もしそんなことが本当に出来るんだとしたら──」
「過去に戻って病気を早期発見すればいい。そう思ってるんでしょ?」
「まあ……そうだ。普通そう思うだろ」
心音の奇天烈な発想に付き合うのならば、そうするのが一番だ。発見が早ければ初衣だって助かったかもしれない。
「悪いけどそれは無理なの。だって過去に行ってなにをしても、現実世界には影響を与えないから」
「影響を……与えない?」
「そう。厳密にはタイムリープした本人が怪我したりすると、それは傷として残るけどね。でも過去をいくら変えたところで、なにもなかったことになるの。過去からなにかを持って帰ってくることも出来ない。伝言を書き残すことも、ネット上でなにを書いても、なんにも残らないの」
なんだかとても夢のない話だ。どうせ空想なら過去に戻り初衣の病気を未然に防げる設定にして欲しい。
「ふぅん……まあいい。日記なんて読まなくてもやり直したい日は決まってる。去年の花火大会の日だ」
「へぇ、その日ね。少しはお姉ちゃんのこと分かってるじゃん。じゃあ目を閉じて。あ、タイムリープが終わるタイミングは分からないから気を付けてね。一時間しか出来ないときもあるし、二日くらい出来るときもあるから」
俺はおとなしく指示に従って目を閉じる。
仲のいい姉が不治の病に冒されて、そんな妄想をしてしまうようになってしまったのだろうか?
そう思うと心音が可哀想で、馬鹿馬鹿しいと無碍には出来なかった。
心音はなにをしているのか分からないが、俺の前に立ちなにやら動きながら呟いている。
次第に身体が熱くなってきて宙を浮いているような感覚に陥ってきた。
そして次の瞬間──
「うわっ!?」
不思議な力が加わり、墜落していく感覚に襲われた。
目を開けようとしてもなぜか開かない。
なにも見えない暗闇の中、俺は意識が遠退いていった。
────
──
突然身体に重力が戻り、慌てて目を開けると──
「ここは……駅前?」
俺はなぜか駅前に立っていた。
さっきは昼間だったのに、いつの間にか日が傾いている。
そもそも俺は心音と一緒に初衣の部屋にいたはずだ。
(なにが……起こっているんだ……これ……?)
信じられないことだらけだが、もちろん何が起こっているのかうっすらと心当たりはあった。ただ認めたくないだけで。
恐る恐るポケットからスマホを取り出すと──
(嘘だろっ!?)
そこには去年の花火大会の日時が記されていた。
(本当にタイムリープしちまったのかよ……!?)
ふと視線を駅前のビルに向けると、改装工事前の姿のまま建っていた。
工事は先週終わったばかりのはずだ。
いたずらと笑い飛ばすには、あまりにも大仕掛けすぎる。にわかには信じられないが、俺は本当に時間を遡って過去にやって来てしまったようだった。
(ってことはっ!)
俺は慌てて走りだす。
去年の花火大会をやり直せるっ……
いや、それどころじゃないっ! まだ病に倒れる前の元気な初衣に会えるんだっ!
俺は無我夢中で初衣の家まで駈けだしていた。
去年の花火は初衣と二人で観る約束をしていた。三日前までは。
ところが突然クラスメイトから花火大会に誘われて勝手に予定を変更してしまった。
男女含めたクラスの数名で行くことを持ちかけられ、俺は初衣に確認もせず合流すると約束してしまったのだ。
『初衣も俺と一緒にクラスのみんなと花火を観に行くだろう』程度の軽い考えで。
――ところが予想に反して、初衣は俺のその誘いを断った。
「ちょうどよかったかも。実は私も急に家族での予定が入ったから花火には行けなくなったの。ごめんね」
初衣にそう言われて俺はなんの疑いもなく信じ、引き留めもしなかった。
(あんなの、嘘に決まっている……)
初衣は俺と二人で花火に行くのを楽しみにしてくれていた。それなのに勝手に俺に予定を変更され、どれだけ悲しい思いをしただろう。
苦々しい記憶が俺の駆ける足をさらに加速させる。
六時近くとはいえ八月の気温は高く、初衣の住む家に着く頃には汗が噴き出していた。髪は水に浸かったように濡れてツンツンと立ち、Tシャツは汗を吸って倍くらいの重さに感じる。それでも俺は止まらなかった。
「うわっ!?」
あと少しで初衣の家というところで足が滑った。慌てすぎていたので受け身も取れずに転び、ズボンの膝が破けて血が出てしまう。
しかし立ち止まっている心の余裕がなかった。怪我も構わずにまた走り、俺は門野原家のインターフォンを押した。
おばさんが対応してくれたので要件を告げると、家の中でおばさんが初衣を呼ぶ声がした。
すぐにドタドタっと慌てて階段を駆け下りる音が聞こえ、初衣がドアから飛び出してきた。
当たり前だが病院の入院着など来ておらず、カットソーにハーフパンツという気の抜けた部屋着姿だった。その元気な姿を見ただけで不覚にも目頭が熱くなってしまう。
「遙平君? どうしたのそんなに汗だくになって……えっ!? 膝どうしたのっ! 血が出てるじゃない!?」
初衣は汗まみれで血を流している俺を見て、目を丸くした。
ただ健康であるということがどれくらい幸せなのかを全く知らない初衣は、取るに足らない俺の怪我を見て悲痛に顔を歪ませる。
さまざまな感情が溢れてくるけれど、必死で押し殺して頭を下げた。
「初衣、ごめん。勝手に約束を変えちゃって。やっぱり二人だけで花火に行こう」
「えっ……でもっ……」
家族と予定があると断った手前、躊躇しているのかもしれない。
「本当に勝手でごめん。でも俺は初衣と花火が見たいんだ」
「遙平君っ……どうしたの、いきなり……」
感情が溢れてしまい、鼻の奥がつんとした時には遅かった。
ぽろっと涙が溢れて頬を伝ってしまった。
いくら汗だくだといえ、目を真っ赤にして鼻声にしてしまっていれば汗と言っても誤魔化せないだろう。
「えっ!? 遙平君、泣いてるの!? 傷が痛むのっ!?」
「ごめんな、初衣っ……お前の気持ちも考えないで、勝手に約束を破っちまって……」
「嘘っ!? そんなことで泣いてるのっ!? 泣かないでよ。そりゃいきなり予定変更されちゃって、ちょっとムッとしたけど……そんなに泣いて謝ってもらうほど怒ってる訳じゃないんだよっ!?」
今はまだ高校一年の八月。初衣の病が手に負えないほど進行してしまっていると発覚するのは半年ほどあとだ。あと数カ月後には、疲れが抜けないと訴えはじめるのを俺は知っている。
元気な初衣を見るだけで胸が詰まりそうだった。
「ちょっと待ってて。浴衣は今から着る暇ないけれど、さすがにこの部屋着で出掛けるのは恥ずかしいから。ていうかまずは怪我の手当てしないとっ!」
初衣は得体の知れないクマとウサギが描かれた色の褪せたTシャツを着ていた。それは初衣が中学生の頃からたまに着ていたものだ。
その垢抜けなさも、なんだかいつもの初衣という感じで胸がじんわりと熱を帯びてくる。
「初衣っ……行こうっ! そのままでいいっ!」
俺は初衣の手首を引っ張って急かした。
「きゃっ!? ちょ、ちょっとっ! まだ花火まで時間あるから慌てなくて大丈夫だよ?」
「花火じゃない。病院に行く」
「びょ、病院っ!? その怪我そんなにひどいの?」
「馬鹿だな。俺じゃない。初衣の検査をするんだっ!」
「わ、わたし!? 私は元気だけど?」
いきなりやって来るは、怪我してるは、泣き出すは、挙句の果てには病院に行って検査だと騒ぎ出すはで、もう滅茶苦茶だ。
彼女から見たら病院で検査すべきは、むしろ俺だ。きっと脚以外にも診てもらう必要があるように見えたことだろう。
しかし取り乱す俺を見て逆に落ち着いたのか、初衣は次第になにか納得したように「大丈夫だよ」と頷いた。
馬鹿な幼馴染みを持つと精神的にもしっかりするものなのかもしれない。
「い、いや……ちょっと顔色悪そうだなぁって思って……」
「そんなことないよ。いたって元気だし。変な遥平君。ほら、手当てするから入って」
初衣に腕を引かれて家へとお邪魔する。
傷口を看る初衣はたじろがずに、怪我の程度を確認していた。
手当てをしてくれるのはありがたいのだけれど、出来れば先に着替えて欲しかった。長年着潰したカットソーは襟首が弛んでいて、その隙間から見えてはいけないフリル生地が見えてしまっている。
顔は大人しいくせにそこは結構生意気に成長を果たしているので、視線のやり場に困ってしまう。
「あー、これはパンツ脱がないと無理だね」
「パ、パンツっ!? い、いいよ」
「そんなに焦ること? パンツって下着じゃなくてズボンの方だよ? このままじゃ手当てできないでしょ?」
幼馴染みの発育ぶりを垣間見てしまった今は、特にジーンズを脱ぐに脱げない事態に陥ってしまっている。
「なに? まさか恥ずかしいとか?」
「そりゃそうだろっ!」
「昔は二人でお風呂も入ってたくせに!」
俺に気を遣わせないためにわざとふざけているのだろう。そんな優しさも初衣の魅力だ。
結局「どうせ穴が開いてしまったのだから」ということで、パンツの膝から下を切って半ズボンにすることで許してもらった。
手当てを受けながら俺は額や首の汗をタオルで拭う。おばさんが淹れてくれた氷入りの麦茶を飲むと、ようやく少し落ち着くことが出来た。
まだ信じられない気持ちでいっぱいだが、確かに俺は一年前の過去に戻ってきているようだ。元気な初衣を目の当たりにしてしまったのだから、もう信じるしかない。
「痛っ……」
「ごめん。沁みるよね?」
この傷口を消毒される痛みも、これが夢の類ではないことを教えてくれた。
初衣の病気が発覚するまで、まだ半年以上も時間がある。もし今病気に気付ければ初衣は助かるかもしれない。
──過去に行ってなにをしても現実世界には影響を与えないから。
心音の言葉が頭の中で再生される。
俺が無理矢理病院に連れて行って検査をさせても、なかったことにされてしまうのだろうか?
恐らく、そうなんだろう。
もし病院に連れて行って初衣を病から救うことができるのであれば、あの姉思いの心音がしていないはずがない。
(じゃあどうすればいいんだよっ……このまま初衣を助けることも出来ずに指をくわえて見てなくちゃいけないのかよっ……)
「よし、完了っ!」
キュッと包帯を結び、初衣は微笑んだ。お礼を言うと彼女は照れたようにそれを流し、着替えるために自分の部屋へと行ってしまう。
数分後に初衣は白と青のワンピースに着替えて戻ってきた。
清潔感のあるシンプルな服装が初衣にはよく似合う。
決してすれ違う人、誰もが振り返るような美人ではない。でもこうしてじっと見詰めてみると地味ながら素朴で慎ましい可愛さがある。なんでこれまでそれに気付かなかったのか、不思議だった。
「えっ? なに? なんでそんなにじぃっと見るの?」
「別に。さっさと行こうぜ」
歯の浮くようなセリフを言えば初衣は喜んでくれるのだろうか? でもなんとなくそういうことを気安く言うべきじゃないと感じて誤魔化してしまった。
俺たちは花火大会の会場には向かわず、山の方へと歩き出す。
「遥平君と二人で花火観るのって久しぶりだねー」
その声色には少し棘があったので俺は「そうだっけ? 去年も一緒に観ただろ?」と惚けた。
「私は『二人で』って言ったの。中学になってからは遥平君が勝手に久瑠美と耕一君を連れて来るから二人で観てないよ」
耕一とは中学から親しくなった俺の親友だった。俺と耕一、初衣と久瑠美。この四人で遊ぶことが多かった。だから当然花火もその四人で観に行くものだと思っていた。
しかし初衣の中では花火大会だけは別だったようだ。普段は俺が多少無茶しても怒らない初衣なのに、この時だけはしばらく機嫌が直ってくれなかったことを思い出す。
今に思えば酷いことをしたと反省している。
「ごめんな、初衣……二人だけの秘密の場所だったのに」
「そうだよ。あの時は本当に『もう遙平君とは絶交する』って怒ってたんだから」
口を尖らせているけど目が笑っているからもう許してくれているんだろう。
それでも幼い頃からずっと俺が好きだったと告白された後だと、やはり罪悪感が募ってしまった。あの頃、既に初衣は俺に恋してくれていたのだろうか?
いずれにせよ初衣にしてみれば、あそこから花火が観られるというのは二人だけの秘密にしておきたかったのだろう。
山の中腹にある、普段は神主さんすらいなそうな神社の境内から花火が見えると知ったのは、小学校四年生の時だ。
以来俺たちは毎年そこから花火を観ている。
神社に続く道は普段あまり人が歩かないから雑草が伸び放題で、アスファルトもあちこちが剥がれて凸凹で歩きづらい。
更に神社に辿り着くためには、最後に百段ほどある階段を昇らなくてはならなかった。
ただでさえ暑くてダルいのに足を怪我しているから余計に辛いが、初衣のためにも根を上げるわけにはいかなかった。
「大丈夫か?」
「なに? 今日はずいぶんと私に気を遣ってくれるんだね?」
つい心配して声を掛けすぎてしまう。発見されていないだけで、今この瞬間も初衣の身体は病魔に蝕まれている。
それを知っている俺は、どうしても初衣が無理をしていないか気になってしまった。
(のんきに花火など観に来ている場合じゃないのにっ……)
一刻も早く病院に連れて行ってやりたいが、この時間からなんの症状もないのに検査などしてくれる病院はないだろう。
それならばせめて今は去年の花火大会の贖罪に励むしかない。
「うー、きつい……この階段、こんなに急だったっけ?」
苦しそうに顔を歪める初衣は手摺りにしがみつく格好でしゃがみかけていた。
「ほら、頑張れ。あと少し」
僕はさりげなくを装って初衣の手を握る。しかし俺が思っているほどさりげなさは装えていなかったようで、彼女はちょっと驚いた顔で僕を見上げた。
濃い草の匂い、どこかで鳴いている虫の声、汗で背中に貼りつくシャツ、たまに吹いてくる心地いい夜風。
夏の夜というのはなぜかいつでも郷愁の念を抱かせる力がある。
初衣と手を繋いだのは、いつ以来だろう?
そんなことを考えながら最後の一段を上りきると、初衣は急に元気を回復したように僕の手を引いて街が見渡せるところまで駆けていく。
「わぁ! 遙平君っ! もう始まっちゃてるよ!」
「おっ、本当だ」
初衣の隣に立ち、眼下の景色を見渡す。
遠くの港付近で打ち上がる花火は、小さく赤や緑の光を膨らませては消えていく。
この一年で大きなビルも建ったけど、花火は例年通りちゃんと見えていたので安堵した。
ここまで遠くから見ていると迫力なんてものはもちろんない。
音もだいぶ遅れて微かに聞こえる程度で、花火特有の高揚感などというものは感じようもなかった。
でもそれでいい。これが僕と初衣の花火大会だ。
「今年も遙平君と花火が観られてよかった……」
初衣は視線を遠くに向けたまま、はにかみながらそう呟いた。
繋いだ手は、まだ繫いだままだった。
「来年も、再来年も、十年後も、その先もずっと一緒に花火を観ような」
これが一緒に観る最後の花火だなんて、受け入れられない。
叶わぬ夢と知りながらもそんな約束をすると、感情が昂ぶってしまってまた涙がこみ上げてきた。
「どうしたの? 今日の遙平君、なんか変」
初衣は困惑した様子で、俺の顔を覗きこむ。
「初衣……」
真剣な目で真っ直ぐ見詰めながら、繋いだ手を更に強く握る。俺の気持ちを察したのか、初衣は緊張で普段猫背気味な背中をぴんっと伸ばした。
「えっ……よ、遙平君っ……?」
「頼む……初衣、明日病院に行ってくれ。病院で検査を受けてくれ」
「えー? なにそれ。またその話?」
緊張の糸が途切れたように、初衣はガッカリした声を上げた。
期待していた言葉と違ったのだろう。初衣は笑いながらも、寂しそうな目をしていた。
「冗談で言ってるんじゃないんだっ。頼むっ!」
「はいはい。わかりました。何科に行けばいいの? 内科? 外科? まさか整形美容外科?」
初衣は惚けた顔をして自分の顔を指差して笑う。
「先端医療センターというところがある。そこに腫瘍内科で検査をして欲しい」
初衣が検査を受けた病院を告げると、初衣は顔に指をさした姿勢のまま固まった。
「それって……」
「頼むっ! 約束してくれっ!」
勢いよく深々と頭を下げてお願いする。彼女が了解してくれるまで頭は上げないつもりだった。
「分かったから……検査に行くからもう頭を下げないで」
必死に懇願する俺を見て、冗談を言っているわけじゃないというのは理解してくれたようだった。ただ握っていた手はするりと解かれてしまった。
「ありがとうっ! 取り敢えず忘れないようにスマホの方にメッセージも今送っておくから。絶対行ってくれよっ」
「うん。約束する」
気が変わる前に俺は慌てて初衣に『明日必ず病院で検査すること』というメッセージを送った。
これで俺が明日までタイムリープ出来なくても、初衣はこのメッセージを見て病院に行ってくれるはずだ。
初衣はつまらなさそうに花火を見ている。
いい雰囲気になったのに空気を読まない俺に愛想を尽かしてしまったのだろう。
さすがにここからもう一度手を握れるほど俺も恥知らずではない。
でもこれでよかった。
初衣の病気さえ治せれば、それでいい。
それから先のことは、後から考えよう。
そう思った瞬間、急に脳がクラッと揺れ、視界が歪んだ。
「な、なんだ、これっ……」
全身の力が抜け、そのままその場に倒れ込む。
「えっ!? 遙平君っ!?」
慌てて駆け寄ってくる初衣の声が耳の奥で反響した。視界がぐにゃりと歪み、溶けていくように見える。
そしてそこでフッと意識が途絶えた。
────
──
「ううっ……」
気付くと俺は初衣の部屋にいた。
「あ、帰ってきた……おかえりー」
心音はスマホを弄っていた指を止め、半笑いで手を振ってくる。
時計を見るとタイムリープする前から三十分程度しか経っていないようだった。
向こうでの滞在時間は数時間あったはずだから、タイムリープしている時間だけこちらの時間も進むわけではないらしい。
「これは、いったい……」
「どうだった? ちゃんとお姉ちゃんの素敵なところをみつけてこれた?」
そう問い掛ける心音の顔は、全てを見透かしたような意地の悪さが滲んでいた。
脚に鋭い痛みが走る。見るとジーンズの膝のあたりから血が滲んでいた。直接傷口が触れてしまっていて、手当てしてもらった包帯などはなくなっているようだった。
「本当に……過去にタイムリープ出来るんだ……痛っ……」
身体を起こすと今度は頭がずきんっと痛んだ。寝過ぎたときになる偏頭痛を数倍にしたような激痛だった。
「どうせ必死にお姉ちゃんに病院に行かせようとしたんでしょ?」
「当たり前だろ。あの状況でそうしない奴がいたらむしろ驚きだ。だって初衣は元気だったんだぞっ! ちゃんと自分の足で歩いて山まで登って──」
「過去でなにをやっても現代にはなんの影響も与えないって言ったよね?」
五歳くらいの男の子を叱るような口調で心音はそう言った。
「過去に戻って病院に連れて行けばお姉ちゃんの命が助かるなら私がとっくにやってると思わなかったの?」
「それは……思ったけど……でもじゃああの場面でどうすればよかったんだよっ!」
「だからはじめに言ったでしょ? 過去に行って元気な頃のお姉ちゃんに会ってちゃんと向き合って欲しいって」
うんざりした感じで言っているが、きっとこうなることは分かっていたのだろう。彼女の口調の端にはそんな雰囲気も滲んでいた。
「遙平兄ちゃんが勝手に約束を破って友達と花火を見に行った去年の花火大会の夜、お姉ちゃんが部屋に閉じこもって出てこなかったことなんて知らなかったでしょ?」
「えっ……」
「『ご飯だよ』って呼びに行ってもお姉ちゃんが部屋から出てこなかったのはあの時だけ。でも夜中にこっそり部屋から出る音がしたの。私が足音を忍ばせてダイニングに行くと、お姉ちゃんはひとりでご飯食べてた。」
俺が知らなかった事実を心音が淡々と教えてくれた。
「私に気付いた振り返ったお姉ちゃんの目は、泣き腫らしていて赤かった。私の顔を見て気まずそうに笑って『悲しくてもお腹が空くのってなんか恥ずかしいよね』って言いながら残り物の天ぷらを囓っていたお姉ちゃんのことなんて……遥平兄ちゃんは全然知らなかったでしょ?」
知らなかった。心音が言う通り、僕はなにも知らなかった。花火に来なかった初衣がどうしていたかなんて、考えもしていなかった。
見てもいないのに、一人食事をする初衣の姿が脳裏に浮かぶ。
いつも通りちょっと猫背で座り、赤い目をして、妹に心配させまいとして無理に笑って、味のしない食事を食べている。そんな初衣の姿が見えた。
すぐに駆け寄ってその背中を抱きしめてやりたかった。
「ごめん……俺、ほんと、最低だった……取り返しのつかないことをしてしまった……」
「ううん。あの時の遥平兄ちゃんはかなり悪かったけど最低ではなかったよ」
心音は慰めるようなことを言うが、声色がやけに冷たく尖っていた。
蔑むような目で見られ、俺は取り繕った笑顔で逃げようとした。
「最低なのは今だよ」
「えっ……どういうことだ?」
「余命いくばくもないお姉ちゃんに同情し、かたちだけ彼氏になろうとしている。遥平兄ちゃんのしていることは優しさなんかじゃない。罪滅ぼしですらない」
心音はなにかに憑かれた目で俺を断罪する。
「遥平兄ちゃんがしているのは『自分は悪くない。死に逝く幼馴染みに優しくしてやった』という自己満足の言い訳に過ぎないんだよ。残りわずかな命のお姉ちゃんを騙して、自分の心を守ろうとしている。はっきり言って最低だと思うよ」
情けないことに俺は言い返す言葉がなかった。
心音のその指摘は間違っていないと気付かされたから。
「でもっ……だったら俺はどうすればいいんだよっ!」
「本当にお姉ちゃんを喜ばせてあげるなら、本気でお姉ちゃんと向きあってあげて。……そして出来るのなら、心からお姉ちゃんを愛して欲しいの」
心音は真っ直ぐ俺の目を見て、祈るようにそう乞う。
「心から……」
「そう。同情なんかじゃなくて、本気で『門野原初衣』という女の子を愛する。それが出来ないなら、もう過去へは戻してあげない」
「でも過去に戻って心から初衣を愛しても、なんにも変わらないんだろ?」
「ええ。お姉ちゃんはなにも変わらないわ。でも本気でしっかり愛することで、遙平兄ちゃんは変われる」
「俺が……?」
「そう。これからお姉ちゃんの命が尽きるまで、同情とか責任とかで関わって欲しくないの。知ってると思うけど、お姉ちゃんは結構人の心の動きに敏感なの。同情で恋人の振りをしているなんてすぐに見抜くから」
心音の言わんとすることが、だいたい理解できてきた。
病院のベッドの上で横たわる初衣と時間を重ねても、どうしても愛するというより同情が勝ってしまう。
だから元気な初衣と色んなことを経験して、本気で愛して欲しいということなんだろう。
「もちろん遙平兄ちゃんには何の得もない……ううん、得どころか、私は遙平兄ちゃんに酷いことをしようとしてる」
心音は伏し目がちに俯き、キリッと唇を噛んだ。罪の意識に嘖まれている顔だった。
「心音……」
「このまま放っておけば遙平兄ちゃんは仲のいい幼馴染みを失うだけで済む。でも本気で好きになれば……もっと辛いものを失わなければいけないんだもん……ごめん」
心音は絞り出すような声で謝った。
気丈にしているが、当たり前だけれど心音も辛いのだろう。初衣と心音はしょっちゅう喧嘩もしていたが、仲のいい姉妹だった。
「分かった。本気で、初衣を愛する。俺をもう一回送ってくれっ……あの花火大会の夜に」
軽い気持ちじゃない。俺は本気で初衣を愛したかった。
今まで近すぎて異性として感じたこともなかった幼馴染みを、愛したかった。
「それは無理だよ」
心音はゆるゆると力なく首を振る。『無理に笑わなくていい』と言ってやりたい痛々しい笑顔を浮かべながら。
「なんで?」
「だって遙平兄ちゃん、今すごく頭が痛いでしょ?」
「ああ。でもこれくらい大丈夫だ」
「ううん。駄目。多分今行ったらお兄ちゃんが死んじゃうよ? それに私もそんなに連続で過去に送れないの。すごく力を使うから」
「そうなんだ……MPみたいなものがあんのか」
「そうみたい。それにね……」
少し言い辛そうに心音は一呼吸置いた。
「同じ人が、同じ時間には、戻れないみたいなの。だからもう」
──あの花火の日には、戻れない、永久に。
心音の言葉が俺の胸を締め付けた。
「そんなっ……」
どうせ元から戻れなかったのに、二度とあの時間に戻れないと聞いて後悔が俺を苦しめる。
あの夜、悲しく余り物の天ぷらを囓っていたという初衣の姿が、頭の中でモノクロの写真のように干涸らびていく。
もう失敗は出来ない。
心にそう誓った。
「あ、それから過去にタイムリープしたことは誰にも内緒だからね」
「分かってるって」
言われなくても誰にも言わない。そんなことを人に言えば、頭が変になったのかと思われてしまう。
「絶対だよ。もちろんお姉ちゃんにも内緒。わかった?」
「ああ。分かったよ」
たとえ姉であってもこの不思議な力は内緒らしい。確かに常識人な初衣がこんな力のことを知ったら驚くだろうし、心配もするだろう。
説明するのも大変だし、そもそも説明しようにも俺も何にも分からない。だから初衣には内緒にしておこうと決めた
「えーっ!? 遙平君、どうしたの、その脚っ!」
翌日、わざと片脚だけ切ったズボンを穿いて、傷を晒した格好で見舞いに行ってみた。
過去に行ったことは言えなくても、もしかしたらこの傷を見て何か思い出してくれないかと淡い期待したからだ。
「転んで怪我をしたんだ」
「いつ? ここに来る最中?」
「いや、去年の花火大会の日だよ」
「きょ、去年っ!?」
思い切って少しかまをかけてみたが、訳が分からないといった顔をされただけだった。
やはり心音の言う通り、過去に戻ってなにをしても歴史は変わらないらしい。
「冗談だよ」と流したが、初衣はどういった類の冗談なのかも理解出来ない様子だった。
まだ傷を心配してくれている初衣に、俺は唐突な質問を投げかけた。
「ところで初衣。人生をやり直せるとしたらいつに戻ってみたい?」
初衣の悔いが残っている時代に戻ってみようと思ってそう訊いたが、迂闊だった。
死を前にしていることに自覚した人間に、そんなことを訊くなんてことほど無神経なことはないだろう。初衣が息を飲むのが分かった。そして悲しそうな目をして俺を見詰めてくる。
「あ、いや……別に変な意味じゃなくて……」
「そうだなぁ……そういうのって迷っちゃうよねー」
俺の失言をフォローするように初衣は屈託なく笑った。
高校の入学式のこと、修学旅行で北海道に行ったこと、去年の文化祭のこと。
思い出のストックが十年くらいある俺たちは、話題に事欠くことはなかった。
しばらく二人で昔話をして、ノスタルジックな気持ちに浸っていた。
病院の帰り道、俺は真っ直ぐに心音の元へと向かっていた。
俺を見ると心音は「おー。遙平兄ちゃんも熱心だねー」とからかわれる。
「それで? 今回はいつに戻りたい?」
「今回は──」
初めてあの高台の神社から花火が見えると知ったあの日に戻りたい。
なんのしがらみもなく、毎日が冒険だったあの頃。俺は初衣を女の子としてではなく、冒険の仲間として見ていた。
なんの罪も悔いもなかったあの頃に戻って、初衣と向き合ってみたかった。
その日時を伝えると、心音は納得したように頷きながら俺の前に座る。
目を閉じると前回同様、脳の奥がクラッと揺れる感覚に襲われた。
────
──
半袖半ズボンで短い手足をした俺はブランコに腰掛けていた。
小学校四年生の時、俺と初衣は花火大会に連れて行ってもらえなかった。
実はその前の年にうちの家族と初衣の家族と合同で花火を観に行った。しかし間近で打ち上がる花火の音がうるさすぎて、心音が怖がって泣き出してしまいすぐに帰るというハプニングがあった。
それが理由かは知らないが、この年は花火大会に連れて行ってもらえなかったのだ。
楽しみにしていた俺は拗ねてプチ家出をした。両親は馬鹿な俺を心配せず、探しもしなかった。
唯一心配してくれたのは初衣だった。行くあてもなく近所の公園で拗ねながら心細くなっていたところを見つけてくれた。
あの時の嬉しさを今でも覚えている。これで家に帰れると安心した。
それなのに俺は「帰る気なんてなかったけれど、初衣に見つかっちゃったから仕方なく帰ってやる」なんて言い訳をするような、可愛げのないガキだった。
俺はそんな想い出のある小学校四年生の花火大会の夜に戻ってきていた。
陽が沈み、辺りは暗くなり始めている。
恐らく初衣に見つけて貰う直前だろう。
家からさほど離れていない公園のブランコの上で、構ってくれる誰かを心細く待っているところだ。
きぃっきぃっと金属が擦れ合う音を立てながら、俺は何年か振りにブランコを漕いでみた。
「あ、遥平君。やっぱりここにいたんだ」
俺を見つけた初衣が手を振りながら駆けてくる。当然初衣も小学四年生の姿だ。
初衣は高校生になっても昔と変わらない幼顔だと思っていたけれど、こうして実際に幼いころの彼女を見ると当たり前だけど成長していたんだなと気付かされる。
「なんだよ。見つかっちゃったか」
なにもかもが小さいミニチュア版みたいな初衣が可愛らしくて思わず笑ってしまう。
「ほら、帰ろう。おばさんには私も一緒に謝ってあげるから」
「謝る? 俺が悪いわけじゃないのに何で謝んねーといけないんだよっ!」
さすがに二回目のタイムリープとなると演技も少しは滑らかになる。あの時どんなことを言ったのかまでは思い出せないものの、小四の自分が言いそうなことを想像しながら演じていた。
「六時を回っても家に帰ってないんだから、おばさんたちも心配してるよ?」
初衣は俺を宥めるように力なく笑った。この頃から初衣は俺のちっぽけなプライドを傷付けないように気を遣ってくれていたらしい。この頃から俺と初衣はずいぶんと精神年齢が違っていたんだなと苦笑してしまう。
俺は山の中腹にある神社を指差し、あの時と同じセリフをもう一度言った。
「なあ初衣。あの神社なら花火見れそうだと思わない?」
心配する初衣をもっと困らせたくて、あの時の俺はそう言ったのだ。本当はそんなことしたくなかった。お腹も空いていたし、疲れていたし、親も怒っているだろうから、早く家に帰りたかった。
だけど初衣にそんなカッコ悪いことが言えず、あの時の俺はそんな強がりを言った。
真面目な初衣なら俺のそんな馬鹿な提案を絶対に止める。勝手にそう期待していた。
しかし──
「そうだねっ! あの神社のあたりなら見られるかもっ!」
初衣はやはりあの時と同じように俺の誘いに乗ってきた。
それが嬉しくて、俺は声を出さずに笑った。
相変わらず歩きづらい道を歩き、更には長い階段を上る。高校生の今ではそこまで大変なことではないが、小学四年生の身体でその階段を昇るのは苦行以外の何物でもなかった。
ましてや女の子の初衣にはかなりきついはずだ。でもきっとあの時の俺は初衣の大変さなど考えず、一人で昇っていたのだろう。
「もうあと少しだぞ」
そう言って振り返った。そんな前回しなかったことをしたのが、よくなかった。
「わっ!?」
「きゃあっ!?」
初衣は俺の真後ろを歩いていて、振り返った瞬間に唇と唇がぶつかってしまった。かするくらいの、ほんの一瞬の接触だったが、驚いた初衣はその瞬間階段を踏み外して転んでしまった。
「う、初衣っ!?」
幸い数段転げ落ちただけで初衣は止まった。
「痛ぁーいっ!」
俺は慌てて階段を駆け下りて初衣の元へ向かう。膝を擦り剥いてしまっていて血が出てしまっていた。
「ごめんっ! 大丈夫か?」
「平気。私って鈍くさいよね。ごめんね、足引っ張っちゃって」
「早く帰って手当てしないと」
「やだっ!」
抱え上げようとすると、初衣は慌てて抵抗した。
「あとちょっとだからっ……お願いっ! 最後まで登ろうっ!」
普段わがままも言わなければ俺の提案に異を唱えるとも少ない初衣が、激しくそう主張してきた。
犯人もトリックも知っている推理小説を読み直している気分だった。
きっとこの頃から初衣は、俺を好きでいてくれたんだろう。
俺は黙って屈み、初衣に背中を向ける。
「ほら、おぶっていくから」
「えっ、でも……重いよ?」
「馬鹿。初衣なんて余裕で運べるし」
振り返ると赤い顔をした初衣が照れ臭そうに俺の肩に腕を回してきた。
小四の初衣なんて軽いもんだろうと太ももを担ぎながらゆっくり立ち上がると、自己申告通りそこそこの重さを感じる。俺も小学四年生なんだから当然だ。しかしそこは悟られないように、軽い振りをして歩き出す。
夏だからなのか、それとも子供だから基礎体温が高いからなのか、背中の初衣はとても熱かった。
「ごめん。ありがとうね、遙平君」
耳許で初衣がぽそっと呟き、息がかかり擽ったかった。
「俺の方こそ……探しに来てくれてありがとう」
ずり落ちそうでもないのに俺はがっしりと初衣の太ももを掴み直す。
小学生だから初衣の脚はもちろんケアなんかしていない。虫刺されの痕とか、治りかけの傷口とかが目立つ。それに脚の産毛が擽ったかった。
身体が小学生に戻ると気持ちまで幼くなるのか、急に照れ臭くなって一気に階段を駆け上がる。揺れが激しくなり、背中の初衣は高い声できゃっきゃと騒いでいた。
「はい、到着っ!」
頂上までつくと初衣は俺の背中から下り、「わあっ!」と言いながら目の前に広がる夜景に歩いていく。
「あ、見て見てっ! 花火っ! やっぱりここからだと見えるんだ!」
「おおー。本当だな」
神社には外灯すらないので、幸いにも俺が花火ではなく初衣の横顔を見詰めていることはバレなかった。
「綺麗っ……」
「俺たちだけの秘密の花火スポットだな」
「うんっ! 誰にも内緒だね!」
「ああ。二人だけの秘密な」
そんな約束をしながら、中学になったら俺は花火大会の夜に久瑠美や耕一をここに連れてきてしまう。
本当にいい加減な奴だ。我ながら情けなくて自嘲した。
「え? なに笑ってるの?」
「いや。なんでもない」
適当にはぐらかし、俺も花火を観賞する。意識してみると、この頃にはまだ建っていないビルも幾つかあって、街の夜景もどこか未完成のような印象を受けた。
俺の知らない十年後、二十年後にはもっと建物も増えているのだろう。
そうなってしまったら、もうこの場所からは花火は観られないのかもしれない。
それでも毎年花火の日はこの場所に来ようと心に誓った。たとえ一人でも。
「ねえ、遙平君」
「ん?」
「さっきのアレだけど……」
「アレって?」
なんのことだか分からずに初衣の顔を見ると、指を唇に当ててホオズキのように赤くなっていた。
このままなんとなくなかったことに出来ると思っていたが、さすがに唇同士が接触したのは指や頬が触れ合ったようには流せないようだった。
「アレ……カウントする?」
「カウントって?」
「その……ファーストキス……的な?」
「しねーだろ! アレは事故だし!」
「で、でも唇、くっついちゃったよね?」
「キスって言うのは唇同士が触れ合うという物理的な現象じゃなくて、『キスをする』っていう意志を持って唇と唇を重ねて初めてキスになるんだろ。特にファーストキスはっ!」
「な、なんか急に難しいこと言うねっ……」
「とにかくあれはキスじゃないからっ」
強く否定すると、初衣は泣き出す寸前のように口角を上げた。でも無理矢理目を細めているところをみると、もしかしたら作り笑顔を浮かべたつもりなのかもしれない。
「だよね、よかった。セーフ」
野球をよく知らない初衣は、親指を立てた腕を上げてアウトの構えをしながらそう戯けていた。
その仕草が堪らなく物悲しく見えて、息苦しくなる。
あんな事故でもカウントしたくなるほど、ファーストキスの相手は俺ということにしたかったのだろうか?
「ファーストキスは今からちゃんとしよ?」
初衣の肩を掴んでいたのは、ほとんど衝動だった。
ただ純粋に、初衣が愛おしかった。
「えっ……よ、遙平くんっ?」
「俺とでは、嫌?」
「い、嫌とか、そう言うんじゃないけど……」
小学四年生といえば大人から見たらほんの子供にしか見えないが、実際は大人が思うよりもずっとしっかりしている。
キスがどんな意味を持つのかも、ちゃんと分かっていた。もしかすると何度も繰り返し行った大人より、その意味をしっかり理解しているかもしれない。
「遙平君は、私とキスがしたいの?」
「うん。俺は、初衣が好きだ……」
真っ直ぐ逸らさずに目を見て告げる。
「え、嘘? 絶対ふざけてるっ……だって……いつもそんな感じじゃないしっ……」
「初衣は?」
優しく訊ねると、初衣はおどおどと落ち着かない目で俺を見て、小さく顎を引いて頷いてくれた。
言葉にするのはさすがにまだ恥ずかしいのだろう。
普段はちょっと背伸びしたようにしっかりしている初衣が、年相応な感じで狼狽えているのが可愛らしかった。
肩を引き寄せながら顔を近付けると、初衣は注射を打たれる前のように顔に皺を寄せて目を閉じた。
「そんなに固くなるなよ」
「だってっ」
「痛くないから」
「そんなこと知ってるけどっ……こ、怖いしっ……」
キスの意味は大人より知っていても、やり方は大人のように知らない。
更に顔を近付けていくと、初衣は顎を引いて背中を軽く仰け反らせるように逃げていく。
そのまま後ろ向きに倒れられる前に、俺は魚が餌を突く程度にちょんっと唇を啄むキスをした。
「わっ……ほんとにしちゃった……」
初衣は途端に顔はおろか耳まで真っ赤にして、唇を押さえながらはにかんだ。
きっと顔の赤さは俺も似たようなものだろう。なにせこっちだってファーストキスなんだから。
はじめて触れる初衣の唇は、柔らかくて、弾力があって、癖になりそうな心地よさだった。
「なんか、キスって気持ちいいかも」
「遙平君の顔、エロいっ!」
「そ、そんなことねーしっ!」
胸がドキドキしていた。
キスをする前も初衣が好きなんだって感じていたけど、キスをした後は更にその想いが数倍色濃くなっていた。
そして何故だか少しだけ罪の意識が心に疼いた。
「初衣……」
恐る恐る肩を抱くと、初衣は無抵抗で俺の胸に収まってくれた。小さな身体は少し震えている。
初衣の髪は陽の香りがする。沢山汗をかいているはずなのに、子供というのはなぜこんなに清々しい匂いがするのだろう。
「好きだよ」
「うん。私も……」
そっと呟いた初衣は、俺の背に腕を回して抱き返してくれる。
髪を撫でながら見詰めると、初衣は了解したように目を閉じた。
俺はもう一度、さっきより少し長めにキスをした。
もはや俺たちは花火など見ておらず、唇を話した後はお互いの顔ばかり見つめあっていた。
夏とはいえここは山の中腹だから風が強い。
身体の芯は熱かったけれど、風に晒される肌は冷えてしまっていた。
「そろそろ、帰ろっか?」
「うん……」
そう言ったのに背中に回した腕がなかなか解けない。
結局もう一回キスをして、ようやく俺たちは帰路についた。
帰り道はお互い照れ臭くてほとんど何も話せなかったけど、手は握ったままだった。
はじめてのキスのことも、タイムリープが終わってしまったら初衣の記憶からは消えてしまう。
それが悔しかった。
忘れないで欲しい。
今日のこの夜のことを。はじめてのキスのことを。
そんな思いで、無駄だと知りつつも初衣の手を握った。
でも初衣にそんな思いは通じるはずもなく、ただ幸せそうな笑顔を照れながら浮かべていた。
階段を下りてからも手は繋いだままだった。
家のそばまで帰ってきたとき、初衣や僕の名前を呼ぶ声が聞こえて慌てて手を離す。
「やばっ……俺たちのこと探してるっぽい」
「どうしようっ……」
「だ、大丈夫……俺が説明するから」
俺たちを見つけた親たちは大急ぎで駆け寄ってくる。
ただでさえ心配していた上に、初衣が怪我をしているのを見て大人達は動揺した。
俺の父さんは何も訊かずに取り敢えず俺の頭にげんこつを落とした。
かなり痛かったけど、有無を言わさず父さんが頭を小突いてくれたお陰で、初衣の両親は怒らずにむしろ俺に気遣ってくれた。
恐らくそこまで想定した上での行動だったのだろう。
「うわぁああーんっ!」
俺が叱られていきなり泣き出したのは、まだ小学二年生だった心音だった。
多分大人達が怒るのを見て、訳もなく怖くなったのだろう。
心音は泣きながら俺に抱き付いてきた。
「叩いちゃだめでしょっ!」
僕を守ろうとしたのか、心音はうちの父さんや自分の親を舌足らずに叱って睨む。
なんの迫力もないあどけない目で睨まれ、親たちは思わず吹き出した。
結果的にその心音の行動のお陰で親たちのお説教は取り敢えず明日ということになり、その場は解散となった。
家に帰ると夕食は俺の大好きな手巻き寿司だった。
花火大会に連れて行ってもらえないからと臍を曲げた俺のご機嫌を取るために用意してくれていたのだろう。
そんな親の気遣いを見ると、つくづく捻くれたガキだった自分が情けなくなる。
いや、『捻くれたガキだった』ではなく、現在進行形で捻くれたガキなのかもしれない。
(そういえばさっき心音と会ったけど、この時代のあいつはさすがに過去に戻る力を持っていないのかな?)
ふとそんなことが気になった。
他の人は気付かなくても、心音ならば俺が未来からやって来たということに気付く可能性もある。
さっきの様子を見るからにそんなことを疑っている様子もなかった。
恐らくこの時代の心音にはそんな力はないのだろう。
いつからその力を手に入れたのか、戻ったら訊いてみようと思った。
海苔に酢飯を敷き、マグロとアボカドと海老を乗せて巻く。
醤油をちょんちょんとつけて齧りつこうとしたその瞬間──
「うっ!? マジかよっ……」
身体の芯が抜けたように力が入らなくなり、せっかく巻いたお寿司を落とす。
タイムリープが終わる寸前の症状だ。せめてひと囓りでもいい。寿司を食わせて欲しかった。
「遙平、どうしたのっ!?」
異変に気付いた母さんが駆け寄ってくるが、構わず俺は落ちた手巻き寿司に齧りつこうとした。相当シュールな絵面だったのだろう。母さんはパニック気味に俺の身体を揺すっていた。
せめて一口。しかしその願いは叶わず、光の渦に巻き込まれていってしまった。
────
──
気付けばまた初衣の部屋に戻っていた。
「くそっ……ううっ……」
今回もタイムリープ後は頭が割れるように痛い。
「おお。お帰りー。どうだった?」
読んでいた漫画を床に置き、心音が正座したままの姿勢で擦り寄ってくる。
「どうだったじゃねーし! 寿司を食い損ねた!」
「はあ? もう、遙平兄ちゃん、ちゃんとお姉ちゃんと仲良くなってきてるの?」
呆れた顔をしてくる心音に、俺は親指を立てて見せた。
「おう! ばっちりだ」
「へぇー! そうなんだ」
「あいつの優しいとことか可愛いとことか、今までなんで気付いてやれなかったんだろうってくらいだよ」
「おー。それは心強いね」
「俺たち二人だけの秘密の花火スポットを見つけてきたしな」
「あー! それって毎年私を連れて行ってくれないやつでしょ! なんかむかつく!」
心音は拗ねた素振りで頬を膨らます。
「しかもそこでキスまでしちゃったからな」
「ちょっと。そういう生々しい報告は要らないから」
今度は本気で不快そうに眉を顰められたのですぐに「ごめん」と謝り、口を閉じる。
さすがに実の姉のプライバシーまでは聞きたくないようだった。
「とにかくこれでもう過去に戻らなくても大丈夫だよね」
「えっ……あ、うん。まあ、そうかな……」
「なにその歯切れの悪い返事は?」
「いや、その……過去に戻れれば優しく出来なかった頃の初衣にも優しくなれるかなって思ってたから」
「したって無駄だって分かってるでしょ? なにをしたって未来が変わるわけじゃないんだよ?」
「それは分かってるけど……」
俺が過去に戻るのは初衣を本気で好きになるためだ。
同情や贖罪の気持ちではなく、初衣を一人の女性として好きになる。そのために心音は俺を過去に送ってくれていたのだ。
その目的が果たせたのだから、もうこれからは過去に戻らなくてもいいという心音の意見はもっともだ。
しかし俺はどこか心音のこの力に甘えていたのかもしれない。
過去にさえ戻れれば、いつでも元気な初衣に会うことが出来る、と。
「これからはちゃんとお姉ちゃんのことを想って、そばにいてあげてね」
心音は少し迷った顔をして、ぽそっと「最期まで」と付け足した。
「……ああ、もちろんだ」
初衣に残された時間は長くない。
過去に囚われるよりも今の初衣が大切だ。悔いを残すわけにはいかない。俺も、初衣も。
「あ、そういえば」
「なに?」
「心音って何歳くらいからこのタイムリープの能力を手に入れたわけ?」
先ほど疑問に感じたことを聞いてみた。
「んー……たまに昔に戻ってる? とか不思議に感じたことはあったけど……はっきりその力に気付いたのは五年生くらいかな? なんで?」
「いや、さっきの二年生の心音は全く気付いてない感じだったから。いつからなのかなぁって思って」
「ふぅん。で、小学二年生の私は可愛かった?」
心音は惚けた口振りでそう訊ねてくる。
「ああ。なんでこうなっちゃったんだろうって思うくらい、あの頃の可愛かった」
「うっさい!」
ティッシュペーパーのボックスを投げ付けられる。
こんな風に心音とふざけるのも随分と久し振りな気がして嬉しかった。
翌週、初衣は退院した。
もちろん過去に戻った俺の功績で病気が治ったというわけではない。
出来ることがない病に冒され、しかし体調がいいから退院しただけだった。
俺はもちろん一番で初衣の元に駆け付けた。
「退院おめでとう」
俺は何も知らないという体のまま、生まれて初めて女の人を喜ばせる目的だけで買った花束を手渡した。
「うん。ありがとう……あのね」
初衣は浮かない顔で笑い、言葉を選ぶように視線を宙に泳がせる。
初衣のお父さんお母さんは目を伏せていた。ただ一人、妹の心音だけは俺の顔を真っ直ぐに見詰めていた。
とても嫌なことを聞かされる。本能的にそれを感じ取った。
俺は意味もなく全身に力を籠めて、身体を固くして初衣の言葉に構えてしまう。
「あのね、遙平君……もう、隠さなくても……よくなったから」
初衣は何でもないことのように、笑った。
「隠すって俺は初衣になにも隠し事なんて──」
「わたし、もう長くは生きられないって……聞いたから……だから」
初衣は言葉を詰まらせ、笑ったまま涙を溢れさせていた。
「だからもう……知らない振りとか、しなくていいからっ……ごめんね、変な気を遣わせちゃって」
「初衣っ……」
「それになんかごめんね。こんな花までもらっちゃって」
助からない自分には花をもらう資格などないとでも言いたいのだろうか、初衣は分不相応なものでも見るように花束に視線を落としていた。
初衣の目から落ちた雫が当たり、花弁はぴくんっと驚いたように震えた。
激しい憤りが、俺の中で爆ぜた。
こんな優しい初衣がなんで死ななければならないのか、許せなかった。
慎ましく生きていれば幸せになれる。どんな昔話だってそう教えてくれていたのに、あれは嘘だったのか?
「おじさん、おばさんっ!」
俺はボリューム調整が壊れたみたいに声を張り上げてしまっていた。
「初衣とっ……初衣と付き合うことを許して下さいっ!」
「え?」
場違いすぎる俺の発言におじさんおばさんはもちろん、初衣まで唖然としていた。
「初衣が退院したら付き合おうって約束してたんですっ。お願いしますっ」
俺は結婚でも申し込みに来たかのように、直立不動になり両手をぴしっと伸ばして直角になるくらいに頭を下げた。
「い、いやっ……遙平君っ……」
おじさんは動揺しながら俺に頭を上げさせる。
どう見ても娘を他の男に奪われたくないという類の戸惑いではなかった。
たとえるならば、行き止まりの道に車が突っ込んできたのを驚くような目だ。
「気持ちは嬉しいけど、初衣は──」
「あなたっ!」
おばさんは俺に負けないくらいに大きな声で、おじさんの言葉を遮った。
そして俺とおじさんの顔を交互に見て、嬉しそうに微笑む。
「お父さん、初衣ももう十七歳になるんですよ。いつまでも子供じゃないんですから。諦めて下さいな」
おばさんは明らかにわざとおじさんの気持ちや言いかけた言葉を勘違いした発言をした。
「……そうだな。遙平君、初衣をよろしく頼む。…………ありがとう」
それまで感情の発露を堪えていたおじさんもおばさんも、目を赤くしてしまっていた。それを隠すためなのか、二人とも深々と頭を下げていた。
一方初衣はもはや感情を隠そうともせず、スカートをギュッと握り締めて口許を固く結んで眉をハの字にして震えていた。
「うわー……親公認の高校生カップルなんて二十一世紀初なんじゃないの?」
唯一平静を保てていた心音が僕らを茶化して笑った。
彼女のその気遣いのお陰で僕たち全員はようやく笑うことが出来た。
七月も終わりに差し掛かった曇り空の日。俺と初衣はこうして親の公認まで得て付き合うこととなった。
退院したといっても当然体調が少しでも悪くなればまたすぐ入院しなくてはいけない。
だからもちろん遠出はおろか外出もままならない状況だ。
俺と初衣はもっぱら家の中でデートするのが基本だった。
今年の花火大会はあの神社に行くことはできない。それでも一緒にいられるだけで幸せだった。
子供の頃からずっと一緒だったのに、俺たちは尽きることなく会話をしていた。
小学校の校庭にあったタイヤをぶら下げたブランコで遊んだこと。
中学の時に付き合っていると噂されていた二人が実はとっくに別れてしまっていること。
昔二人で通っていた駄菓子屋さんは潰れたが、実は店番をしていたおばあちゃんはまだ元気に生きているということ。
そんな他愛のない会話なのにとても面白かった。
ビデオを借りてきて二人で観るのも、俺たちのデートでは定番だった。
当然借りてくるのは俺の役目だが、何を観るかは初衣も決めた。
彼女が選ぶのは洋画邦画問わずに恋愛ものが多い。俺はあんまり得意じゃなかったけど、初衣と一緒に観ている内に多少面白さが分かるようになってきた。もしかすると自分が恋をすることによって共感できることが増えたからかもしれない。
初衣が結構映画に詳しいという意外な事実も知った。ラブ・アクチュアリーやアメリなど、名前は聞いたことがあっても観たことがなかった名作も初衣は選んでくれた。
そんな映画好きな彼女が一番好きな映画監督はウディ・アレンだった。
コメディなのに物悲しいという作風が多く、どれもとても個性的で胸に響いた。
アイスクリームならバニラ、犬なら柴犬、海外旅行に行くならパリ、といった具合に無難でメジャーなものを選ぶ性格の初衣にしては、映画の趣味だけは独特で個性的だった。
ちなみに俺が選ぶ映画は大抵ホラーだった。理由は単純で初衣が怖がるのが面白いからだ。
ちょっと可哀想な気もするけど、大丈夫。初衣はイジワルな幼なじみが好きなはずだから。
景色が歪んで見えるほど容赦なく熱気が地面に澱む八月のある日。
俺は一人で電気店の玩具コーナーに来ていた。
初衣と話は尽きないし、観ていない映画もビデオショップには山ほど置いてある。しかしたまには違うこともしてみたくなり、初衣と出来る玩具を探しに来ていた。
「色んなもんが出てるんだな……」
並べられたおもちゃは樽にナイフを刺すような定番のものから、ルールすら分からないやけにお洒落なものまで多種多様だった。
僅か齢十七にしてジェネレーションギャップというものを感じてしまう。
近くでは夏休みで帰省してきたらしい男の子が、おじいちゃんとおばあちゃんに必死でおもちゃの説明をしていた。孫が可愛くて仕方ない様子の二人はあと一押しでおもちゃを買い与えそうな気配だった。
(あんまり複雑なやつでも盛り上がらないよな……)
いろいろと並ぶ中、俺は無難にオセロを手に取った。
こういう単純なものの方が結局面白いし盛り上がる。昔初衣とオセロゲームで対決した時のことを思い出しながらレジへと向かった。
俺と初衣の対戦成績はだいたい互角だった。負けず嫌いの俺は初衣に負けるとだいたい怒っていた。俺が勝つのは大概その怒ったあとだった。
今に思えばあの頃から初衣は俺の扱いに長けていたのだろう。
そんな気遣い上手で優しい俺の幼馴染みであり、人生はじめての恋人は、間もなくこの世を去ってしまう。
「わあっ! オセロだ! 懐かしいっ!」
プレゼント包装を丁寧に開けた初衣は大袈裟なくらい喜んでくれた。
「だろ? 久し振りに初衣とやりたくなっちゃって」
「すぐ負けて怒るくせに」
「うるせーし。俺を昔の俺と同じだと思うなよ?」
訳もわからずにとにかく沢山ひっくり返せばいいと思ってやっていた頃とはわけが違う。
今はなんとなくオセロのやり方も分かってきている。
序盤はなるべく少なく取るように心掛け、ひっくり返されづらい内側に自分の色を増やすようにしていけばいい。
そう思っていたのに──
「いえーい! 私の二連勝だね!」
初衣は煽るように大袈裟に喜び、小憎たらしく俺の眼前にピースサインを突き出してくる。
「おかしいなぁ……なんで初衣に勝てないんだろう」
「ふっふっふっ……それは内緒」
初衣は悪だくみする悪役のようにほくそ笑む。
「やっぱ初衣は頭いいからな」
「そんなことオセロと関係ないよ」
「いや、ある。って言っても同じ高校なんだから学力はそんなに違わないんだよな。真面目に勉強したらもっといい高校行けたんじゃないの?」
「いいの……だって遙平君と同じ高校に行きたかったから」
「えっ……?」
初衣は涼しい顔をしながらオセロの石を集めていた。
「お前っ……まさか」
「うん。わざと間違えて遙平君と同じくらいの点数になるようにしてたんだよ。だって成績いいのに偏差値の低い高校なんて親も先生も受験させてくれないでしょ?」
「マジかよっ……でもそんなことしてよかったのかよ。高校なんて」
「人生を左右する可能性だってあるんだぞ」と言いかけて、慌てて言葉を飲み込む。初衣の前で『人生』とか『命』とかの単語を使うのは憚られた。
それにしても中学二年頃から急に成績が落ち始めたと思ったらそんなからくりがあったなんて知らなかった。
「そりゃ当時はすごく悩んだし、悪いことしてるって罪悪感があったよ」
「そりゃそうだろ。いくらなんでもそれはやり過ぎだ。だいたい違う高校に行っても近所なんだからいつでも会えるんだし」
「それじゃ嫌だったの。三年間同じ校舎で同じ行事をして一緒に成長していく。それが夢だったから」
「初衣……」
真っ直ぐに見詰められ、胸がどくんっと大きく震えた。
「いけないことをしちゃったなぁって思ってたけど、今はよかったって思ってるよ」
初衣がかくんっと小首を傾げ、長い髪がたゆんっと揺れた。
「こうして遙平君と、恋人同士にもなれたし」
「お、おうっ……そうだな」
最近の初衣は人が変わったように自分の気持ちを隠さずに伝えてくる。
それは恋人同士になったからなのか、それとももっと悲しい理由からなのか。
「でも今はちょっと不満」
オセロの石を指先でくるくると回して弄びながら唇を尖らせる。
「え? なんでだよ? 毎日デートしてるだろ?」
「そうじゃない。オセロに負けても遙平君が悔しがらないからつまらないの」
言われてみれば確かにそうだった。
オセロの腕前は相変わらずだったが、負けて怒らないという精神面だけは成長したのかもしれない。
「怒るより怒らない方がいいだろ?」
「ううん。負けてすぐ怒るところが可愛くて面白かったの」
「はあ?」
人の趣味は好き好きなのだろうが、初衣の趣味は変わりすぎている。
「よし。じゃあ次は本気でやってやる」
「おー。それはヤバい」
「絶対馬鹿にしてるだろ?」
結局次の対局も気がつけば俺は打ちたいところに打てず、気がつけばまたしても初衣の思惑通りに打たされる格好になって負けてしまった。
「あー、もうっ!」
「そうそう! それ!」
イラッとしたのを喜ばれ、苦笑してしまう。こいつには敵わないのだろう。恐らく今後もずっと。
「よし、次は勝つぞ」と言いながら石を集める。しかし初衣は両腕で自らの肩を抱いて俯いていた。
「疲れた?」
「ごめんね。ちょっとだけ……」
「悪い。気付けなくて」
「ううん……気にしないで」
元気そうに見えても初衣の身体には病気に蝕まれている。間もなく、遠くへと逝ってしまう。
逃げられないその現実に押し潰されそうになった。
でも俺の何百倍、何万倍初衣は辛く苦しいはずだ。俺が弱音を吐くわけにはいかない。
「ねえ……遙平君……お願いがあるんだけど……」
「おお。何でも言ってくれ!」
「私をベッドまで連れて行って欲しいな……なんて──きゃっ!?」
言い終わる前に俺は初衣を抱きかかえていた。
俺の腕の中にすっぽり収まった初衣はとても軽かった。
「お姫様抱っこって想像以上に照れるもんだね」
「初衣がしろって言ったんだからな。途中で下ろさないからな」
「うん」
初衣は全身で味わうように俺に身を委ねていた。
ベッドに下ろすとき、俺と初衣の顔がスレスレまで近付く。
初衣が息を飲むのが分かった。慣れ親しんだ幼馴染みの表情から、すうっと恋人の表情へと変化していった。
「初衣……」と名前を呼ぶと初衣はコクッと頷き、薄く目を閉じて少しだけ唇を突き出す。
小学四年生に戻ったあの日にキスはしたことがあったが、もちろん今の初衣にそんな記憶はない。
緊張しているのは震える瞼や睫毛が震えるので伝わってきた。
俺も目を閉じて初衣の唇に自らの唇を重ねた。
時間にして二秒弱。しかしそれはとても濃厚な時間として俺たちの中で流れた。
唇を離すと初衣はすぐに幼馴染みの顔に戻って、唇を真一文字に伸ばした照れ笑いを浮かべてから口許を手で覆った。
「しちゃったね……キス」
その照れ方は小学四年生の頃から変わっていない。
「そりゃするだろ……恋人なんだから。しかも親公認の」
「キスをするところまで公認してくれているかは、わからないよ?」
「いちいち確認なんかしねーだろ、普通」
照れ臭いと鬱陶しそうにしてしまうのが俺の悪い癖だ。でも俺のそんな性格は初衣もお見通しなんだろう。笑顔に陰りは見せなかった。
辿々しく彼女の背中に腕を回すと、初衣も俺の背中にも腕を回してくれた。
ゆっくりと優しく抱き締める。
腕の中の初衣は意外なほど細かった。半袖のシャツ越しに感じる体温に安心する。初衣は生きている。そう実感できるだけで、胸に熱いものを感じられた。
「ごめんね……」
初衣が小さな声で謝る。俺はそれが聞こえなかったように初衣を更に強く抱き締めた。
俺たちに残された時間は、あとどれくらいあるのだろう。
なにもしてやれない自分が悔しくて、俺は嗚咽を噛み殺すように歯を食い縛っていた。
容体が急変した初衣が緊急入院をしたのは、その三日後だった。
────
──
家族以外面会禁止だったが、俺は毎日病室の前まで行ってひたすら初衣の無事を祈った。
無力な自分が悔しくて、涙が止まらない。
身体の内側から焼かれるような苦しさだった。
ずっと病室の前で立っていると邪魔になってしまうのでロビーで座っていると、病棟の方から歩いてくる初衣のお母さんを見つけた。
整えたつもりで乱れた髪や泣き腫らした赤い目、そして感情が摩耗して表情が消えてしまった顔を見て胸が締め付けられた。
「おばさん」
「あら、遥平君。今日も来てくれていたのね」
俺が声をかけると、おばさんは気丈にも微笑んでくれた。それが痛々しくて目を逸らしてしまう。
辛くても子供相手にはそんな素振りを見せない。それが大人なのだろうか?
そして微笑みかけられた俺は、おばさんに大人として見てもらえていないのだろう。
とても初衣の現状など聞ける様子ではなかったので二の句が継げずに立ち尽くしてしまう。
「ごめんね。せっかく来てくれてるのに初衣と会ってもらえなくて。あの子も遥平君を見たらきっと元気になるのにね」
娘を茶化すように笑う声が悲しげに湿りを帯びていた。俺が見舞いに来たことでおばさんを余計に苦しめているのではないかとすら思えてしまう。
「おばさんっ……俺と初衣を結婚させてくださいっ……」
「えっ!?」
「家族なら面会できるんですよね?」
「結婚って、遥平君まだ誕生日来てないし十六歳でしょ?」
おばさんは嬉しそうに笑って「ありがとうね」と何度も繰り返し言って隠していた涙を次から次へとこぼした。泣かせるつもりなんてなかったのに、俺また余計なことをしてしまった。
この年齢で結婚できないのは、きっと法律もまだ俺たちを大人だと認めていないからなのだろう。
認めてないくせになんで世間は俺たち高校生を『もう大人なんだから責任を持て』などと押し付けてくるのだろう。
それから三日後、状態が回復した初衣を面会することができた。
今は落ち着いていて、すぐに大事に至ることはない。だけどもちろん治ったわけではない。この夏を越せるか、越せないか。そんな状況だった。
ベッドに横たわる初衣にはなんだかよく分からない線やチューブがたくさん繋がれており、悔しかった。
「思ったより元気そうじゃん」とは、さすがに言えなかった。
「初衣……」
名前だけ読んで言葉を失ってしまった俺を見て、初衣はぺろっと舌を出して笑った。まるで自らの状況を分かっていないような態度が余計に見ていて辛かった。
ベッドのそばにいた心音は俺の姿を見ると無言で席を外してくれた。
「心配かけちゃったね」
「馬鹿。気にするなよ、そんなこと」
「ねえ……」
初衣はちらっと妹が出て行ったドアの方を見てから、手を布団から出す。
「手……握って……」
「おう」
姉として妹には気弱なところや甘えているところを見られたくなかったのだろう。心音がいなくなるとすぐに態度も表情も頼りなげなものに変わっていた。
握った手は気のせいか、以前握ったときよりも生命力が落ちているような気さえしてしまう。
「せっかく遙平君の彼女になれたのに、死ぬの嫌だな……」
「初衣……」
すぐに否定しようと思ったが、笑いながら涙の筋を作る初衣を見て、軽率なことは言うべきではないと思い留まった。
心音に言われた通りだ。
今の初衣に必要なのは慰めや同情ではない。
初衣の今を精一杯愛することだ。
「なあ、初衣。十八歳になったら、結婚しよう」
「えっ……それって」
「プロポーズだ。初衣、俺と結婚してくれ」
情けないことに俺は泣きながら、涙で咽せながら、初衣にプロポーズをした。
「だから、俺が十八歳になるまで、絶対死ぬなよっ……約束だからなっ……」
手をキュッと握り初衣に誓わせようとする。今すぐ死んでしまうことはないとはいっても一年以上先のその日まで生きることはほぼ不可能だった。
「嬉しい……遙平君と結婚できたら……しあわせだろうな……ありがとう」
初衣はそう言うだけで、俺のプロポーズを受けてはくれなかった。
まるで映画の名場面を観たような、うっとりとした表情を浮かべていた。
「そう思うなら結婚すればいいだろっ……」
自分とは無関係な世界に焦がれるような横顔が悔しかった。
「あーあ……こんなことならあの時、無理をしてでも告白しておけば良かったな」
「あの時?」
「そう。中学三年生の、バレンタインの日」
初衣は繋いだ手をもう片方の手でポンポンと叩きながら囁いた。
乳飲み子を寝かせる母親のように優しい仕草だった。
しかし俺の鼓動は落ち着くどころか、早鐘を打ち始めた。
中学三年生の二月十四日。それは平凡な俺の人生の中で、少し特別な日だったからだ。
「あの日のこと、遙平君は覚えてる?」
「えー? あんまよく覚えてないけど……」
「そっか。やっぱり全然覚えてないか」
初衣は大袈裟にガッカリしたふりをして戯けて見せたが、目の色が本気で悲しそうに沈んでいるのを見逃さなかった。
「ごめん……ちゃんと覚えてなくて」
「ううん。いいの。普通いちいちそんなことまで覚えてないよ」
そう言いながらも、初衣は何か物言いたげに俺の顔を見詰めていた。
嘘だった。中学三年生の時のバレンタインの記憶はあった。
でも俺は忘れたふりをしてしまう。初衣の命が間もない、この期に及んでまで。
「そんな顔するなよ。今はこうして付き合ってるんだから」
「うん……そうだよね。ごめんね、変なこと言っちゃって」
初衣はなんでもないことのように笑って流そうとしてくれる。
出来ることならあの日をやり直したい。
そう思った瞬間に頭に浮かんだのは、もちろん心音の持つ不思議な力だった。
「はあ? だからそんなことしても意味ないって遙平兄ちゃんも分かってるでしょ?」
中学三年のバレンタインをやり直したいと伝えた時の心音の反応は、想像していた以上に冷ややかで刺々しかった。
「意味がないっていうのは分かってるっ……けどどうしても俺はあの日の初衣に逢いたいんだっ……頼む」
額をフローリングの床に、文字通り擦り付けて頼みこむ。
心音はなにも言わずただ黙っていた。
沈黙のまま数分が流れていた。
「こんなことをあと何回繰り返すつもり?」
張り詰めたような静寂を崩したのは心音の溜め息交じりのひと言だった。
俺は顔を上げて心音の目を見る。
「お姉ちゃんが……いなくなったら……毎日そうやって過去に戻って会いに行くの?」
「それは……」
心音はもう怒っていなかった。
ただ寂しそうにそう問い掛けてくる。
正直、俺はそう考えていたから返す言葉がなかった。
初衣がいなくなってしまうことなど想像も出来ないが、それは確実に間もなくやって来る。
今の俺は、初衣を愛してしまった俺は、それに堪えられる自信がなかった。
「終わってしまったことは、しょうがないじゃない。もう諦めて、仕方ないと割り切って、今を生きてよ……」
言われなくても分かっている。
心音の言うとおりだと言うことくらい。
でももし戻れるのならば、という甘えが生まれてしまう。
「現実を受け止めないと……」
心音は寂しげにぽそっと呟いた。それは俺に向けられているというよりは自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「私もね、何回もお姉ちゃんと会ったよ、過去に戻って。何回も、何回も」
心音は静かに笑いながら独り言のように呟いた。
「お姉ちゃんを助ける方法はあるはずだって、必死にあれこれやった。病院に連れて行って病巣の早期発見を成功させたこともある。でも、止まらないの……お姉ちゃんの運命は止められないの」
髪を振り乱し、何かを掴むような手を戦慄かせながら心音が泣く。
心音が涙を流すのを見るのは久し振りだった。初衣の病気のことを知らされてからも、俺を叱責するときも、心音は気丈にしていた。
何度も何度も過去に戻り、未来を変えようとしても変えられず、苦しみ抜いて、涙を枯らしていたのかもしれない。
そして『今を大切にするしかない』という結論に達したのだろう。
「そうか……そうだよな……何も変えられないのに過去に戻ってやり直したいなんて、自分への言い訳だよな」
自分のしようとしていたことがいかに無意味だったかと理解し、反省の意味を込めてそう呟いた。
──しかし次の瞬間、心音が俺の前に立っていた。
「仕方ないな。最後に一度だけ戻してあげる。中学三年生の、バレンタインデーに」
そう言うと心音は手を俺の顔の前に翳す。
あれほど拒んでいたくせに、俺が諦めかけた瞬間、心音は俺を過去に戻そうとしてくる。
「えっ!? ちょっ!? い、いきなり!?」
心の準備も出来ないまま、俺は目眩の中、過去へと飛ばされていった。
────
──
ふらっと脳が揺らぐ感覚の後、目の前に現れたのは懐かしい中学校の教室だった。
ちょうどホームルームが終わったところらしく、みんなざわつきながら席を立っていた。
公立高校の受験を間近に控えているとはいえ、さすがにバレンタインデー当日とあって少しそわそわとしたざわつきが教室の中に蔓延していた。
「遙平、帰ろう」
そんなざわつきなど気にした様子もなく耕一が声を掛けてくる。
耕一は大人しい性格のため目立つ存在ではない。少し中性的で頼りない風貌ではあるが、知性を感じさせる整った顔立ちだから将来はきっとモテるだろう。
だが中学生女子のクラスメイトたちは地味な僕たちなど眼中になく、サッカー部のエースやちょっと悪ぶった男子を見て、コソコソと耳打ちしあって笑みを浮かべている。
見られている男子の方も気付かない振りをしながら、強めに叩いてツッコんだり、大きな音を立てて手を叩いて笑んだり、と存在をアピールするように男同士でふざけあっていた。
その浮足立った態度を見ればチョコを待っているのが丸わかりだった。
「おう、帰ろうぜ」
立ち上がりながらクラスを見回すが、初衣は既にいない。恐らく隣のクラスにいる久瑠美と早々に下校したのだろう。
「なんか異様な光景だったよね。みんなそわそわして」
校門を出ると耕一がそう言って笑った。もちろんシューズボックスに手紙付きのチョコが入ってることなく、帰ろうとする俺たちを追い掛けてくる女子もいなかった。
「チョコとかより今は受験だろ」
自虐ネタとして言ったつもりだったが声が上擦ってしまい、本気で悔しがってるみたいになってしまった。
そんな俺を見て、耕一は不思議そうな顔をした。
「だよねー。そもそも僕はチョコとかもらったことないし」
「俺も。あんなのは都市伝説だろ。女子が女子にチョコを渡すだけだ、実際は」
俺たちは毎年恒例のモテない自慢を繰り広げていた。
「でも遙平は初衣ちゃんから毎年チョコをもらうんだろ?」
「あれは幼なじみの義理だ。ノーカンだよ」
「いいだろ、義理だって。貰えるだけ」
耕一はそう言って俺の尻を鞄で叩いてきた。
ここまでは前回と同じ流れだ。この日を境に友情が壊れていくなんて、全く予想もつかないくらいに平和だった。
川沿いの道を歩き、児童公園に差し掛かったところで、久瑠美が立っていた。
いつも元気一杯で、俺たち四人の中で一番活発な久瑠美とは思えないくらい、不安げで折れてしまいそうな頼りない表情で俺たちの方を見ていた。
「あれ、久瑠美ちゃんじゃない?」
耕一はもう今日がバレンタインデーだということを忘れたのか、空気を読まずに大きく手を振っていた。
前回の俺は、久瑠美の様子を見てすぐに気が付いた。チョコレートを渡してくるつもりだということに。
俺たちはいつも四人で遊んでいたが、ここ半年くらい久瑠美の様子が変わってきたということに気付いていた。
以前は裾の緩めなショートパンツを穿いていようが木登りをするなどのおてんばぶりだった久瑠美だが、最近は急にそういうはしたない行為を控えるようになっていた。
それに色気のないキャラを弄ると笑っていたのに、近頃は本気で怒ったり凹んだりしている。
『久瑠美は恋をしている』
鈍感な俺でもそれは分かった。
そしてそれに気付いてしまうと、俺は急に久瑠美を意識してしまった。
久瑠美も初衣同様、親しい友達としてしか認識していなかったのに、意識しだしてしまうと急に可愛い女の子に思えてしまった。きっと俺たちはそういう年頃だったのだから仕方なかったのだろう。
近付くと久瑠美は手にしていたものを慌てて背中に隠し、笑っているようには見えない笑顔で「よおっ」と言ってきた。
そして次の瞬間──
「あ、あのっ……これっ……」
久瑠美は崖から身を投げ出すような勢いで綺麗に包装された小包みを耕一に差し出した。
──あの頃の俺は、なんで久瑠美の想い人が俺だなんて思っていたのだろう。
確かに久瑠美は恋をしていた。しかしその相手は俺ではなかった。隣にいる女の子のように肌がきれいで品のいい男子、耕一の方だった。
「えっ……これって……バレンタインの……チョコ?」
一度目の時と同じように、耕一は目を丸くして固まった。
「て、手作りっていっても溶かして流して固めただけだし、わ、私不器用だから……超下手くそかもしんないけどっ……」
およそ言わなくていいことを口走りながら久瑠美はあたふたとする。
こうなることが分かっていた今回の俺は、はじめから久瑠美と少し距離を置いて立っていた。
そしてそのまま静かに立ち去る。
前回の俺は勝手に羞恥と嫉妬にまみれていた。
勝手に久瑠美が俺のことを好きだと勘違いし、勝手に舞い上がって、それが自分の思い違いと分かって二人に八つ当たり的な恨みを覚えてしまった。
いや、前回なんて言い方は良くない。この世界でなにをしても歴史は変わらないのだから、「現実世界では」というべきだ。
でも俺の後悔はこのことではない。
家が近付いてくると、緊張で心臓がバクバクと暴れはじめていた。
俺の家の前には初衣が立っていた。
俺の顔を見るとやけに真剣な顔をして身体を硬直させる。
あの時の記憶と同じ光景が、目の前にあった。
「よお、初衣。もう帰っていたのか。ずいぶん早いな」
「おかえり……遙平君」
初衣は赤らめた顔をして、視線をキョロキョロと不自然に泳がす。そして意を決したように鞄からプレゼント包装された袋を取り出す。
「あ、あのっ……これっ……バレンタイン、だから……」
毎年義理チョコだと思って受け取っていたそれを改めて見詰める。
薄水色のギンガムチェックに白いリボンが結ばれたシンプルな美しさは、慎ましい初衣らしさに満ちていた。
現実世界の俺は受け取らなかった中学三年生の時のチョコレートは、その想いを知っているからか、ずっしりと重く感じられた。
あの時の俺は久瑠美の思わぬ耕一への告白を目の当たりにして気が動転していた。そしてチョコを渡してくれた初衣に酷いことを言ってしまった。
『幼なじみだからって義理チョコとか要らないから。もうこういうのはやめにしようぜ』
あの時の自分の言葉が心の中で再生される。そして落ち込む初衣の顔も、「ごめん、そうだよね」と小さく呟いた声も、生々しく胸に迫ってきた。
俺はもう、同じ失敗は繰り返さない。
「ありがとう」
包みを受け取ると、初衣は照れ笑いを浮かべた。そう。初衣は何回でもこうやって俺にサインを送ってきてくれていた。
なんで気付けなかったのだろう。
「なんか今年のチョコはデカくない? 気合い入ってるな」
「今年はガトーショコラを作ってみたのっ」
「おおー。楽しみ!」
そう言うと初衣は「大して上手じゃないけれど」と慌てて付け加えた。
そして何か言おうと少し迷った様子の後、俺から一歩後退る。
「えっと……じゃあ……勉強頑張ってね。同じ高校行けるといいね」
「待てよ。今から一緒に食べようぜ」
「えっ……私も食べるの? 私があげたのに?」
「たまにはいいだろ、そういうのも」
初衣の返事も聞かず、俺は家に入る。親はまだ帰っていないので俺がコーヒーの用意をしていると、初衣がリビングにやって来る。数え切れないくらい俺の家には来ているくせに、まるではじめてきたところで警戒している猫のような足取りだった。
だが俺がカップを用意しているのを見て、慌てて駆け寄ってくる。
「私がするよっ」
「コーヒーは俺がするから初衣は座ってて」
「でも……」
「いいから」
何とか初衣を椅子に座らせ、沸騰したお湯をペーパーフィルターに入れたコーヒーにかけて蒸らす。芳ばしい香りをふんわりと立たせながら、中粗挽きのコーヒー豆がぷつぷつと囁きながら開いていく。
コーヒーをドリップさせている内にリボンをほどいてラッピングを開けると、ホールのガトーショコラが出てきた
表面の不均一な凹凸が手作り感を感じさせる。
「おおー。本格的だな」
「そんなに大したものじゃないよ」
謙遜しながらも、褒められたことに気をよくして鼻をヒクヒクっと振るわせていた。
ケーキには粉砂糖がふんだんにかけられており、黒と白のコントラストが素朴な美しさを感じさせる。
切り分ける為にナイフを入れると濃厚な粘度が感じられた。
俺の分と初衣の分を取り分けている間にコーヒーも完成していた。
頂きますと手を合わせてから一欠片口に入れると、濃厚なチョコの香りが広がる。舌触りは滑らかで、ねっとりとした食感が心地よかった。甘さの後にナッツの芳ばしさが鼻を抜けるのも本格的だ。
「おいしい!」
「ほんと? よかった!」
俺が喜ぶのを確認してから初衣もパクッとガトーショコラを口に運ぶ。
「んー! 上出来かも」
自画自賛する初衣はとびきりの笑顔で笑った。
華やかさはなくても、初衣はこんなにも可愛い。近すぎて気づけなかった魅力に、どこよりも遠くへ逝ってしまう今になって気付くなんて皮肉なものだ。
「ごめんな、初衣……」
「え?」
「毎年チョコくれてるのに、俺ろくにお返しもしてなかったよな」
「い、いいよ、そんなのっ! 作りたくて作ってるんだし。ほ、ほら毎年アメとかガムとかくれてるよ、お返しに」
きっと初衣と久瑠美は話し合っていたのだろう。今日、お互い好きな男子に告白すると。
予定通り久瑠美は耕一に告白した。そして初衣は俺に告白するつもりだった。
それなのに俺は久瑠美が耕一に告白するのを眼前で見せられ、勝手に一人で傷つき、落ち込んで、初衣に八つ当たりまでしてしまった。
なんて馬鹿で救いようのないガキなんだろう。
「俺はずっと初衣に甘えてばっかだったな」
「そんなことないよ。私も色々遙平君に助けてもらってるよ?」
「俺、なんでだか知らないけど、ずっと初衣がいてくれると思い込んでいた。みんないなくなっても、初衣だけはそばにいてくれるって……そう思っていた」
初衣が滲んで見え始めたので、俺は慌てて斜め上を見上げて顔を背けた。
俺の異常な態度を見て、初衣が息を飲むのが分かった。しかしすぐに笑顔でフォローをしてくれる。
「えっ? な、なに? 遙平君酔っ払ってる? わたし、ガトーショコラに入れるラム酒の量間違えちゃった?」
そう言っている初衣の顔が真っ赤で、一番酔っ払っているように見えた。
思わず初衣の頭に手を置いてわしゃわしゃっと髪を乱してしまった。
「きゃー? ちょっとぉ! 遙平君っ!?」
「初衣、好きだよ。俺と付き合って欲しい」
「……へ?」
初衣はポカーンとした表情で俺の顔を見ていた。
「バレンタインにガトーショコラくれたのって、そういう意味じゃなかったの?」
「こ、これはっ」
「義理ガトーショコラ?」
からかうように訊ねると初衣は慌てて首を横に振り、長い髪が揺れる。
「ほ、ほんめい……だよ……本命ガトーショコラ……」
申し訳ないけど初衣を恥ずかしがらせるのは、本当に面白いし可愛い。最近気付いた発見だ。
「で、でもなんで?」
「なんでって?」
「だっておかしいよ。今までだって毎年チョコあげてたのに全然気付いてなかったのに」
「まあ、それは……」
「なんか怪しい」
恥ずかしさを誤魔化すためか、それとも単に勘が働いたのか、初衣は疑り深そうな目で俺の瞳を覗き込んでくる。
まさか俺が二年後の未来からやって来て、初衣が死の病に伏しているなんて分かるわけがない。
けれど初衣は意外と勘が鋭いところがある。俺はどこか気まずいものを感じて反射的に目を逸らしてしまう。
「あっ! 分かった!」
初衣は人差し指をぴんっと伸ばして閃いた顔をする。行動がどことなく古くてダサいのも初衣らしさだ。
「もしかして……ガトーショコラがものすごく好きだ、とか?」
とんでもなくピント外れのことを言うから緊張が弾け飛び、思わず吹き出してしまった。
「んな分けねーだろ。すごい好きなのは、ガトーショコラじゃなくて」人差し指を立てた初衣の手を握り、真っ直ぐに見詰めた。「初衣のことだよ」
初衣は耳まで真っ赤にし、目を大きく開いて、酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくさせた。
「さ、さては遙平君じゃないな! なにものだ!」
「はい。ふざけるのは、なしね」
「うー……だって遙平君はこんなにチャラいこと言わないし」
「言うよ、俺だって。たまにはチャラいことくらい」
「と、倒置法も使わないもんっ、いつもの遙平君は!」
初衣に告白するのはこれで三回目だ。まるで記憶を失ってしまう人と付き合っているような気分になってしまう。それに何度やっても告白するというのは緊張してしまうものだ。
もちろん初衣にしてみれば毎回はじめてだから俺より緊張しているのだろう。
照れ臭くて、むず痒くて、幼なじみならではの気まずさがある。
でも毎回、照れながら喜ぶ初衣を見ていると愛しさに加速がかかる。
「それで? 初衣の答えは?」
「そ、それはっ……もちろん……」
「もちろん?」
言葉にせず気持ちを伝えようとしてくるが、それを許すほど俺は優しくない。小学四年生の頃は許したけれど、中学三年生の初衣はちゃんと口に出すまで許さないつもりだ。
じぃーっと目を見詰めると初衣は不服そうに唇と眉を歪める。
「いじわる……私も、遙平君が好き……だよ」
初衣はたっぷりと時間をかけてそう告げてくれた。
「ありがとう、初衣」
気がつけばコーヒーはぬるくなってしまっている。苦みと酸味が分離してしまったような味だったけど、気恥ずかしさで間が持たなかった俺はそれをグイッと飲み干した。
「でも遙平君、いつから私のことが好きだったの?」
少し落ち着いたのか、初衣は不思議そうにそう訊いてきた。
「いつからだろう……小学校四年生の頃かもしれないし、高校二年からかもしれないし」
「高校二年生っ!? 私たちまだ中三なんだけど?」
伝わるはずもない言葉はジョークとして受け止められた様子で、笑う初衣を見て少し寂しくなる。
小四のことも、今のことも、全て俺一人だけの記憶でしかない。
この時間軸の初衣が喜べば喜ぶほど、俺の心は締め付けられた。
俺がタイムリープするのを心音が本気で怒っていた理由がようやく理解できた。あれは現実逃避をする俺を叱ったわけではない。きっと俺が傷付くのを止めたかったからだ。
だけど俺は傷ついても構わない。いま目の前にいる初衣が喜んでくれるなら、俺だけでも意味があるはずだ。
「なぁ初衣」
まだ笑っている初衣は「なに?」と弾むような声で応える。
「俺たち、結婚しような」
「えっ……」
聞き間違いを確かめるかのような顔で俺の目を見た。
「結婚できる歳になったら、すぐに結婚式を挙げよう」
「結婚出来る年齢って……じゅ、十八歳ってこと?」
「そうだ。十八歳の誕生日に、籍を入れよう」
「ちょっ……ちょっと待ってよ。遙平君って確か十月生まれだよね? まだ高校三年の二学期でしょ?」
「駄目か?」
「駄目というか、早過ぎるでしょ、いくらなんでも」
十八歳の誕生日がいかに遠いかをまだ知らない初衣は、困った顔をして首をかしげる。
だが俺が冗談で言ってるわけじゃないことだけは伝わっているようだった。
「俺は今すぐにでも初衣と結婚がしたい」
「それは……嬉しいけど……ちょっと困るかな」
「どうして?」
予想外の答えに俺は少し怯んでしまう。
「だって……遙平君の奥さんになる前に、遙平君の彼女も楽しみたいもん」
自分の運命なんてまるで知らない初衣は恥じらいのある笑顔でそう言った。その言葉を聞いた瞬間、不意に涙がこみ上げてきた。慌てて目に力を籠めて堰き止める。
「遥平君と二人でしたいこと、沢山あるんだもん。テーマパーク行ったり、公園でボート漕いじゃったり、カラオケで騒いだり」
初衣はこれからしたいことを夢見心地で語る。
それはまるで辛いことや切ないことは今日で全て終わったような、晴れやかな笑顔だった。
「そんなもん、今まで何回もしてきただろ」
「それは幼馴染みとしてでしょ。私は恋人同士としてしたいの」
「なんだよそれ。同じだろう」
「えー? 全然違うよ」
「一緒だろ……」
涙が堪え切れなくて俺は強引に大笑いする振りをした。笑いすぎて涙が溢れたふりで切り抜けようとした。
「遙平君?」
しかしそんなことで誤魔化せるはずもなく、初衣は不安げに俺の名を呼んだ。
「初衣っ!」
「わぷっ!?」
俺は衝動的に初衣を抱き締めていた。
「どこにも行くなっ……どこにも行かないでくれっ! 頼むっ……俺を置いていかないでくれっ……頼むよっ……」
喉が震え、血液が沸騰したように身体が熱かった。
初衣はゆっくりと俺に腕を回し、ぽんぽんとあやすように背中を叩いてくれる。
「どこにも行かないよ。大丈夫」
「約束だからな」
「うん。だって今日から私は遙平君の彼女だし、二年半後には遙平君のお嫁さんになるんだよ? どこにも行くわけないでしょ」
「うん……ありがとう……初衣っ」
「私の方こそ、ありがとう……私なんかを、選んでくれて」
────
──
「初衣っ!」
叫びながら抱き締めようとすると、いつの間にか初衣は俺の腕の中から消えていて、勢い余って俺は床に倒れてしまった。
顔を上げると心音が痛ましい顔をして俺を見詰めていた。
ひどいタイミングで現代に戻ってきてしまったものだ。
だが俺はもう、隠すことも強がる気力もなく、そのままの格好でしばらく泣いていた。
心音は俺のそばで座り、猫を撫でるように俺の頭を撫でてくれた。
性格はまるで正反対なのに、その手つきは姉の初衣によく似ていて、優しかった。
「ごめんね、遙平兄ちゃん。私がこんなことに巻き込んだから苦しめちゃって」
「心音は悪くない。悪いのは俺だ」
「ううん……私が余計なことをしたから、遙平兄ちゃんにとってお姉ちゃんがどんどん特別な、大切な人になっちゃったの」
「そうだとしても」と言いながら俺はようやく身を起こす。
「俺は心音に感謝しているよ。ありがとう」
あのまま同情だけで初衣と向き合っていたら、もっと傷付けていたかもしれない。
そして俺も、初衣の素敵なところに気付けなかったかもしれなかった。
翌日病院に行くと初衣はどこか後ろめたそうな顔をして俺に微笑んだ。
「どうした?」
「え?」
「なんかあった?」
「分かるんだ……」
「彼氏だからな」
俺の軽口に初衣は少し嬉しそうに口許を緩ませてから、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「昨日、あれから耕一君がお見舞いに来てくれたの」
「耕一が……」
久瑠美経由で聞いたのだろうか? いや、あの二人はもうなんの繋がりもないはずだ。
脳裏には中学卒業以来会っていない親友の顔が浮かぶ。そのイメージは当たり前だが、今でもまだどこかあどけないままだ。
「突然告白されちゃった、『好きだ』って」
「へえ……そうなんだ」
「驚かないんだね?」
「なんとなく、そうなんじゃないかなぁって思ってたから。中学三年のバレンタインに久瑠美から告白されて、耕一が断っただろ? あの時からもしかしたら耕一は初衣のことが好きなんじゃないかなって……」
「そうなんだ……私は全然気が付かなかったよ」
初衣は悲しそうに呟き、特に代わり映えのしない窓の外を眺める。耕一が久瑠美を振り、二人が気まずくなった。俺は一人で拗ねて久瑠美とも耕一とも距離を取ってしまった。そんな苦々しいことを思い出しているのかもしれない。
俺もつられるように窓へと視線を向けた。
「訊かないの? なんて答えたのか?」
「なんて答えた?」
「もっと嫉妬心剥き出しで訊いて欲しかったんだけど?」
重い空気を払うように、初衣はそうふざけた。だから俺も大袈裟に慌てたふりをして「なんて答えたんだ!?」とふざけて訊き直した。
「うん……私、今遙平君と付き合ってるの。だからごめんって」
「そうか……あいつは?」
「『よかったね。おめでとう。ずっと好きだったもんね』って……優しいよね、耕一君」
「当たり前だろ。俺の親友なんだから」
「なにその言い方。嫌な感じだよ」
初衣はなにかが胸につかえた顔で笑った。優しい初衣にとって好意を寄せてくれた人を傷つけたことは、身を切られるくらい辛いことだったのだろう。
その気持ちは俺にもわかる。自分自身が傷つくよりも、人を傷つける時の方が辛い時もある。
「耕一君に告白されたし、遥平君にもプロポーズされちゃったし、モテ期到来だな、これは」
「調子に乗んな」
軽快に突っ込むと初衣は舌をちろっと出して笑った。
「あーあ。でもどうせならもっと早くに到来して欲しかったな……」
軽い冗談のつもりだったのか、それとも割と重い冗談のつもりだったのか、いずれにせよ言ったことを後悔した様子でがばっと布団をかぶって隠れてしまう。
膨らんだ布団を見詰めながら、なんて言葉をかけていいのかわからずに途方に暮れてしまった。
「ねえ、遥平君」
布団に隠れたまま、顔も出さずに初衣が呼びかけてくる。
「なんだ?」
「このお布団の中に手を入れて、手探りで何が隠れているか当ててみて?」
「はあ?」
「いいから早く」
「どう考えたってさっき布団にもぐりこんだ初衣以外なにかが隠れているとは思えないんだけど?」
呆れながらそう言うと、布団の中から「にゃぁあ」という下手くそな猫の鳴きまねする声が聞こえてきて、思わず失笑する。
「猫でもいるのかな?」
そう言いながら布団の中に手を挿し入れる。彼女の体温で温められた空間の中で手を伸ばしていくと、初衣の髪の毛に触れた。
「ん? これは、猫の毛かな?」
「……もっとこっちも触ってみて」
初衣は俺の手首を掴んで引っ張り寄せる。そしてドキッとさせられる柔らかなものが掌に触れた。当たり前だが、猫にはない手触りだった。
「これはなんでしょう?」
「えっ……ば、ばかっ……」
それがなにであるか、すぐに見当がついた俺は慌てて手を引っ込めようとした。しかし手首を掴まれ引き戻されてしまう。
「お、おいっ……」
「お願い。ちゃんと触って?」
やけに真剣な声で言われ、拒むに拒めない空気になってしまう。
「そんなちょっと触っただけでは分からないでしょ? よく触って確かめてね」
「お、おう……」
それは俺の手のひらにしっとりと馴染むような肌触りだった。ふにっと揉むと柔らかな弾力を感じる。
滑らかで、しっとりと湿っていて、ほの温かい。
俺はゆっくりと、優しく、その弾力を何度も確かめてしまった。
いま初衣はどんな顔をしているのだろう。
静かな病室には初衣の呼吸しか聞こえなかった。その呼吸音が多少乱れているのは、容体が悪くなったわけじゃないことを知っているので焦りはしなかった。
途中、爪が伸びてると叱られ、切り整えてから『布団の中身はなんでしょう?』は再開し、しばらく続いた。
布団の膨らみは次第に激しく動き、シーツにも皺が寄る。
中からは猫とはまた違う、忍びきれず漏れたような鳴き声が聞こえてきた。
ようやくゲームが終わって、布団から顔を半分だけ出した初衣の目は潤んでいた。唇が隠れているので、仕方なくおでこにキスをすると、初衣は嬉しそうに目を細めた。
「……ごめんね。軽蔑した?」
初衣は布団から完全に顔を出して、不安げに訊いてきた。強く噛みすぎたのか、唇が少し腫れていた。
「まさか……可愛かったし……」
素直に答えると初衣はまたがばっと布団を被って隠れてしまった。
笑いながら立ち上がり、籠もった空気を入れ換えるために窓を開ける。外では愛を乞う蝉がけたたましく鳴いていた。
陽の光の角度も傾き、夏ももう、終わりかけていた。
蝉の声に誘われるように初衣は顔を出す。
「時間がなくて……焦っちゃうの」
蝉の声に掻き消されそうな声量で初衣が囁く。
「馬鹿だな。焦るなよ」
ここで一緒に沈んでしまってはいけない。俺はことさら明るい口調で返した。
「うん……そうだね。ありがとう」
本当は俺だって焦っている。
初衣の肌の温もりを感じられる時間は、もうあまり残されていない。
「私ね、遙平君にお願いがあるの……」
「なんだよ、かしこまって?」
「私の、一生に一度のお願い……」
その一言は、笑いには出来なかった。
「あのね……」
そう言ったきり、初衣は口を閉ざし、黙ってしまう。
いったいなにを言うつもりなのだろう。
俺は緊張で手をギュッと握って拳を固めて構えていた。
「どうした? なんでも言っていいんだぞ?」
「うん……でもまだ今はいい」
初衣は喉元まで出かかった言葉を飲み込んでぎこちなく笑った。
「そうか……分かった。言える時になったら言ってくれ」
「ありがとう、遙平君」
物分かりがいいふりをして、本当は怖いだけだった。
『一生に一度のお願い』なんて聞いてしまったら、もう本当にそれで最後になってしまう気がして。
でもそんな悠長なことをいっている時間なんて、なかった。
初衣の体調はこの日をピークに落ちていき、三日後にはまた家族以外は面会謝絶になってしまった。
もう俺の精神状態は、ボロボロだった。
分かっている。一番辛いのは、初衣だ。
必死で病気と闘って苦しんでいる。
俺はその支えになってやらなけりゃいけない。
でももう励ますことも、勇気づけることも、笑うことすら出来ない気がした。
「遙平君……」
病院の中庭でうな垂れていた俺に、初衣のお父さんが疲れた声で呼び掛けてくる。
返事をすると全てが終わってしまいそうで、俺は顔を上げられずにいた。
夏の終わりの太陽は容赦なく俺の肌や髪を灼き、汗が噴き出していた。
ぼたぼたと零れ落ちているのは、もう涙なのか汗なのかも分からない。
「初衣が、遙平君に会いたがっている……会ってやってくれるかい?」
顔を上げるとおじさんは俺の目を見て笑った。
その目はもう、悲しみとか、悔しさを抜けた、諦めとも違う悟ったような笑顔だった。
本当は俺より辛いはずなのに、さすが初衣のお父さんだ。強いなと思った。
「会わせて下さい……初衣に、会わせて下さい」
初衣はベッドの上でとても綺麗な顔をして、目を閉じていた。
薬の力で安らぎを得ているのかもしれないが、苦しんでなくて良かった。
俺がベッドの隣に立つと、それが分かっていたかのように初衣は目を開けて眩しそうに目を細めて俺を見た。
「ごめんね……やっぱりわたし、遙平君のお嫁さんにはなれないみたい……」
頑張れなんて言えなかった。もう既に初衣は精一杯頑張っているから。
俺は黙って首を振る。そんなことは、気にするな、と。
「彼女でいられたのはごく僅かだったけど……幼馴染として遙平君とずっと一緒に成長できて、よかった……ありがとう……」
「俺の方こそ、ありがとう」
「ここで終わりかって思うと、悔しいけど…………でも、楽になりたいっていう気持ちもあるの……駄目だよね、私」
「駄目なことなんかないっ……絶対そんなことないからっ……」
初衣の苦しみは、初衣にしか分からない。
どれだけ変わってやりたくても、それは不可能だ。
「一生に一度のお願い……聞いてくれる?」
「ああ。なんでも聞いてやる」
たとえ一緒に死んでくれと言われても、俺は叶えてやるつもりだった。
いや、むしろ、そう言って欲しかった。
「ありがとう……優しいね、遙平君は」
「今ごろ気付いたのかよ」
初衣は生気のない白い顔で、仏像のようにそっと微笑んだ。
「私が死んでも、自棄にならないで」
「ああ。約束する」
「嫌かもしれないけど、たまにでいいから思い出して。でもずっとじゃなくていいからね。ちゃんと前を見て生きてね」
「ああ。分かった」
それはなかなか難しい注文だった。きっと俺は四六時中、初衣のことを思い出してしまいそうだから。
「それでね……私のお願いっていうのは……心音を女の子として見て欲しいっていうこと」
「…………は?」
想定外過ぎることを言われ、上手く聞き取れなかった。
「心音はね、私と一緒でずっと遙平君のことが好きだったんだよ」
「嘘だろ? そんなわけ……」
「姉妹で同じ人を好きになるとか、馬鹿だよね」
「いや、だって……」
心音は俺が初衣を心から愛するために力を貸してくれた。俺が好きだなんて素振りは一切感じさせなかった。
「だから私も今まで遙平君に告白できなかったの。まあ、フラれたら嫌っていう理由も大きいけどね……」
「相変わらず人のことばっかだな、初衣は」
「だから私がいなくなったら、心音のことを一人の女の子として、ちゃんと見てあげて欲しいなって」
「人生一度きりのお願いをそんなことに使うなよ……」
『女の子としてちゃんと見てあげる』
それは心音にも言われた言葉だった。
外見以外似てない姉妹だと思っていたが、根底にあるものはそっくりなのかもしれない。
「きっと遙平君は私のために過去に行って、頑張ってくれたんでしょ?」
「えっ!? お前っ……知ってるのかっ……心音の不思議な力のことっ……」
「うん。知ってた。黙っててごめん」
よく考えれば姉妹なんだから妹に不思議な力があることくらい、知ってて当然だろう。
いや、むしろ心音は一番最初に姉である初衣に相談したはずだ。
心音が「お姉ちゃんには内緒」と言ったのは、不思議な力を隠したいんじゃなかった。
俺をタイムリープさせて過去の初衣と会わせていることを知られたくなかっただけだった。
「あの子、自分も遙平君のこと好きなくせに、それを隠して私と遙平君の仲を取り持ってくれたでしょ」
「……ああ」
「やっぱりなぁ。お姉ちゃんを騙そうなんて百年早いよ」
初衣は嬉しそうに声を弾ませて弱々しく笑った。
「じゃあ俺が変えた歴史の記憶も初衣にはあるのか?」
期待しつつ訊ねると残念そうに首を振った。
「ううん……それは、ないよ……残念だけど。過去に戻ってどんなことしてくれたの?」
「それは……俺と初衣だけの秘密だ」
「なにそれ。私が初衣なんですけど?」
初衣は頬を小さく膨らませて怒った振りをして戯ける。
「色々したよ。二人で花火も見たし、バレンタインではガトーショコラ食べたし……キスもした」
「えー……なんか嫉妬する」
「嫉妬って……俺は初衣とキスをしたんだぞ?」
「でも記憶にないんだから、私であって私じゃないでしょ」
正しいような正しくないようなことを言って拗ねる。いや、なにが正解かなんて関係ないんだろう。それが恋をするということだ。
「結婚するって約束もしたぞ」
「えー!? 羨ましいな、過去の私」
「今の初衣にもプロポーズしただろ」
「それはそうだけど……で、何歳の頃の私と会ってくれたの?」
「高一と中三と小四だな。どの時代の初衣も──」
「可愛かったよ」と言いかけて、絶句した。
大変なミスを犯してしまったことに、今ようやく気が付いた。
「う、初衣……お前は何歳の頃から心音に不思議な力があるって知ったんだ?」
俺の言葉の意味を理解したのだろう。心音が自分の不思議な力に気付いたのは小学五年生の頃だと言っていた。つまり俺たちが──
初衣はばつが悪そうに俯き、上目遣いで呟いた。
「中学に入って、すぐくらいかなぁ……」
「なっ……嘘だろ……?」
目眩がして、その場に崩れ落ちそうになった。
「だとしたら……初衣は……俺が過去にあった初衣は、俺が心音の力を借りて未来からやって来たと気付いていたのかもしれないってことかっ……」
「そ、それは、分からないけどっ……」
初衣はフォローしようと慌てたが無駄だ。
初衣は人の心に敏感だ。いつもと全然違う様子の俺がやってきたら、おかしいと気付くはずだ。
そして心音の力を借りて俺が未来からやって来たことにも、すぐに思い至るだろう。
ましてや病院に行って検査しろなんて言われたら、なんて思っただろう。
「馬鹿だ……俺は……なんて馬鹿なことをっ……」
「そんなこと分からないよ。過去の私が鈍感で気付かなかったかもしれないしっ」
過去に戻った俺は何度も初衣の前で泣いてしまった。
どこにも行かないでくれと言ってしまった。
それはつまり、良くない未来が待っていると伝えたのと一緒だ。
「そんなっ……俺は、せめて過去の初衣だけでも笑顔にしてやりたくてっ……」
「幸せだったよ、絶対。遙平君に好きって言って貰えて、キスもして、結婚も約束してくれたんだよ。幸せに決まってるよっ」
初衣は強い口調でそう断言してくれるが、そんな言葉はもはや慰めにすらならなかった。
あの時の初衣は泣きじゃくる俺を見て、何を思ったのだろう。
謝る俺を見て、どう感じたのだろう。
俺は過去の初衣を幸せにしているつもりで、不安にさせて苦しめていただけだった。
「馬鹿だ……俺……なんてことをしてしまったんだ……」
「遙平君……そんなに自分を責めないで。そんな姿見せられたら私、心配したまま最期を迎えなきゃいけなくなるよ」
「初衣っ……」
「きっと泣いてる遙平君を見て、過去の私は『未来の世界で私と遙平君は結婚してて、遙平君が浮気でもしてお灸をすえられたんだろうな』とか考えたと思うよ」
そんなわけないのに、「きっとそうだよ」と言いながら笑う初衣を見て頷いた。
「私は幸せだなぁ……こんな素敵な人と幼馴染みとして生まれることが出来て」
「初衣っ……俺も、初衣と幼馴染みで良かった」
手を握り見詰めあう俺たちの顔は、涙でぐちゃぐちゃだった。
「私はもうすぐ死んじゃうけど……悪くない人生だったと思うよ。初恋の相手と想い合うことも出来たし」
「ごめんな……もっと早く……初衣の想いに気付けていたら……」
「ううん……いいの。これで、よかったの」
初衣は両手で俺の手を包み、ぽんぽんぽんと叩いてあやしてくれる。
「きっと私は遙平君の子供に生まれ変わるんじゃないかなぁって思ってるの。だから、遙平君は気にせず恋をして、結婚して、幸せになってね。出来たら、遙平君と心音の間に生まれた子供がいいな……なんて」
「好きだよ、初衣……」
「私も……遙平君のこと、大好き」
どうすることも出来ない運命の中で、俺たちは押し潰されるしかないか弱い存在ですらなかった。
初衣の一生に一度のお願いはとんでもなく難しいものになりそうだったけど、俺は何とかそれを叶えなければならない。
それから二日後、初衣は家族に見守られて静かに息を引き取った。俺もその家族の一員として迎え入れてもらったことに感謝している。
それは俺たちの住む地域に今年最初の台風直撃になった、夏の終わりの日のことであった。
────
──
強く生きなくてはいけない。
そうじゃないと初衣は安心して成仏できない。
自分自身にそう言い聞かせて、俺は日常を過ごしていた。
クラスメイトの中には俺より悲しんでいるように見える女子もいた。
そんな風に悲しんでくれたクラスメイト達も、これから時が経つと共に一人、二人と初衣のことを忘れて行ってしまうだろう。
それは決して悪いことではない。初衣への裏切りではない。むしろ人が生きていくためには辛いことを忘れていかなくてはならない自衛本能だ。
でも俺は忘れない。何があっても、初衣を忘れたりはしない。
でもそう思うことで気を張りすぎていた。初衣を忘れないことと、食事をまともに摂らないことや睡眠時間を削ることは関係ないと分かっているのに。
これからまだ何十年と初衣を忘れずに生きていかなければならないのに、はじめから飛ばしすぎだ。
初衣が去ってから一週間後、心音が俺の部屋へとやって来た。顔を合わせるのは葬式以来だった。
二つ括りの髪を解いた姿心音の姿は、驚くほど初衣に似ていた。
「心音は髪を括った方が似合うと思うよ」
初衣の面影を見たくなくてそう言ってしまうと、心音は悔しそうに笑った。
「お姉ちゃんと会いたいんでしょ?」
「初衣と髪を下ろした心音は違う」
「そうじゃなくてっ!」
心音も憔悴しきっていた。
姉が亡くなっても取り乱さなかった心音を見て、うちの親やら大人たちは「心音ちゃんはしっかりしてて偉いね」などと褒めていた。
なぜ人はなんでもない振りをしている人を見て、平気だと思い込んでしまうのだろう。
「過去に……戻りたいんじゃないの?」
心音は湿った声で、縋るようにそう訊いてきた。
「いや……もう、いいんだ」
「なんでよっ! なんでもういいのよ!」
心音は瞬間で沸騰したように声を荒げた。まるで裏切り者を糾弾するような響きで。
「お姉ちゃんと会いたくないのっ!? 私なら生きているお姉ちゃんと会わせてあげられるんだよっ! あと何千回でも、お姉ちゃんと会えるんだよ!?」
心音はボロボロと涙を溢しながら俺を怒鳴りつけた。
「そんなことをしたら、初衣が悲しむと思うから」
「分かったようなことを言わないでよっ!」
「前を向いて、生きて欲しい。初衣はそう言っていた。死んでまで心配をかけたくないだろ」
「ひどいよ! ずるいよ! なんでそうやって大人になれるのっ! 遙平兄ちゃんだけは私の味方だと思ってたのにっ!」
心音は俺の胸にごんっと頭をぶつけ、肩を震わせて泣いていた。
俺はその肩を抱き、初衣がしてくれていたようにぽんぽんぽんと優しく叩いた。
俺も大人になんてなれていない。
これからなっていく。なるしかない。
悲しみはいつか、時が癒してくれる。
今はそう信じるしかなかった。
────
──
電車を降りた俺は夢中でかけていた。
周りの人は迷惑そうに顔をしかめるが、今だけは許して欲しい。
改札を出て、階段を二段飛ばしで駆け下りて産院へと向かう。
出産予定日は先だったが、昨夜突然産気づいた妻は一人で産院に行っていた。
出張中だった俺は慌てて仕事を終わらせ、今こうして向かっている。
安産だったらしく既に産まれてしまっているから立ち会うことは出来なかった。
受付で名前を告げると、新生児たちが並んで寝る寝室へと案内される。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
助産師さんに抱かれた娘は、この世の中でもっとも儚い存在のように見えた。
恐る恐る抱かせてもらうとあまりの軽さに驚いてしまった。首が座っていない赤ちゃんは抱き方にも注意が必要で、俺はほとんど包み込むような格好で体中を強張らせて抱いていた。
「はじめまして」
声を掛けると娘は俺の方を向いた。
産まれたばかりの赤ちゃんはなにも見えていないと言うが、娘はまるで見えているかのように俺を見詰めてくれる。
「お母さん似ですね。でも口許はお父さんかな?」
助産師さんは朗らかに笑っていた。
「妻は……?」
「奥様は病室で休まれてます」
「このまま娘と行っても?」
「どうぞどうぞ」
天使のような娘を抱いて病室に入る。
俺の顔を見るなり、妻の心音は笑顔で怒った振りをした。
出産する前は不安に怯えた顔をしていたくせに、もう母親の顔をしていた。
俺はきちんと父親の顔になれているのか、不安だった。
「もう! 遙平遅い! 一人で大変だったんだから!」
「ごめん。まさかこんなに早く産まれるとは」
「言い訳は結構! ほら、ママのところにおいでー」
心音は両手を拡げて娘を迎える。
産後すぐはぐったりしているものだと聞くが、心音はいつもと変わらない元気さだった。その辺りはやっぱり子供の頃から変わらなくて、嬉しかった。
「ママ似だって言われたよ」
苦笑しながら伝えると、心音は優しく微笑みながら娘の顔を見詰める。
「私に似てるというより……」
「初衣の小さい頃によく似てるよな」
俺が後を引き継いでそう言うと、心音は満足そうに大きく頷いた。
俺と心音の間に産まれる子供に生まれ変わると約束してから十年近く時が経ってしまったけれど、初衣は待っていてくれたのだろうか。
そうであったらいいな。そんなことを思った。
心音の胸に抱かれた娘はガラス玉のような透き通った目でどこか遠くを見ていた。
「ありがとう、心音……」
「うん。遙平も、ありがとう」
娘を抱く心音の手を握り、真っ直ぐに見詰めあう。
どんなに辛くて悲しい時でも、人生は止まらずに進んでいく。俺と心音は苦しい時を支え合い、どうにか生きてきた。
初衣が遠くへと逝ってしまった後、俺も心音も一度も過去へとタイムリープをしていない。
二人で必死に今を生きようと助け合ってきた。
やり直すことのできない毎日を、精一杯生きてきた。
心音とは誰にも言えない悲しみを吐露しあったり、励ましあったり、時には感情をぶつけ合って喧嘩をしたりもした。
それが恋に変わるまではずいぶんと長い時間もかかってしまった。
俺たちの間にはいつも初衣がいた。
心音にはそれがつらかった時期もあったようだが、今は受け入れてくれている。
初衣のことは忘れない。それは過去を振り返ることじゃない。今を生きることの素晴らしさを教えてもらうことだ。
生まれたばかりの娘を見詰めながら、俺はそっと告げる。
「ありがとう……」
娘は静かに頷いてくれた、ように思えた。
間もなく死に逝く君の初恋 ≪終わり≫
最後まで読んで頂き、誠にありがとうございます。
短編小説というにはあまりに長いので読みにくくてすいません。
本作は『時間遡行で学生時代に戻った僕は、妻の恋を成就させたい』書籍化記念イベント第二弾として書かせていただいた作品です。
「時間遡行モノしかかけない作者なのか?」とか思われてしまいそうで怖いですが。
幼馴染みがヒロインという小説は初めての挑戦でした。
あなたの心に何かしら刺さってくれていたらうれしいです。