クイーン・スノーホワイト
連載中の長編「半陰陽の魔女」のとあるエピソードの原型となった短編です。
(半陰陽を未読であっても単体で読めます。)
不気味な巨大樹が生い茂る、深く暗い森の中を一人の娘が彷徨っている。
つい半時前まで松明を手にした男達が彼女の行方を追っていたが、この森の中へ入った時点で彼らは捜索を諦め、街へと戻って行った。
この巨大樹の森には恐ろしい魔女が住み着いていて、一度森に足を踏み入れたら最後、二度と帰ることが出来ないからだ。
きっと彼らは火炙りにする手間が省けたと胸を撫で下ろしているだろう。
娘は自嘲気味に薄い唇を歪めて笑う。
彼女自身も、火炙りにされるくらいなら魔女に殺される方がいくらかマシだと思っている。
ただし、魔女と出会ったら、殺される前にどうしても言うだけは言ってみよう、と心に決めている事があった。
更に奥へと進む。
おそらく森の中間地点であろう場所へ辿り着けば、その場所だけ巨大樹ではなく、背丈の高いサラダ菜??、いや、あくまでサラダ菜に似たような菜っ葉が青々と生い茂っていた。
噂では、魔女は「悪魔の薬」という非合法の薬を作るため、特殊な薬草を森で育てていると聞く。
これらがその薬草なのか??
下弦の月に照らされ、青光りするサラダ菜の中で大きな影が微かに蠢いている。
獣の類か、あるいは魔女かーー。娘の全身に恐怖と緊張が走る。
「――誰だい??」
黒い影がこちらを振り向く。
影に見えたのは、真っ黒な外套に身を包んだ上にフードを頭からすっぽり被っていたから。
間違いない。
これは魔女だ。
激しい突風が娘と魔女に襲い掛かった。
娘は転倒しそうになったのを寸でのところで踏ん張る。
魔女はどこ吹く風と言わんばかりに仁王立ちして微動だにしない。
しかし、さすがに被っていたフードは飛ばされ、長い白髪、というより、透き通るような銀髪がバサバサと風で舞い乱れた。
魔女が鬱陶しげに髪を掻き上げると、娘は驚きの余りに声を上げそうになった。
艶のある若々しい肌、けだるげな雰囲気の青紫色の瞳、ぽってりと厚みのある官能的な唇――.
魔女は若く妖艶な、とても美しい女だった。
「何だい、人の顔をじろじろ見るんじゃないよ。ま、どうせ、皺くちゃの婆だと思ったんだろ??」
今度は魔女の方が、娘の頭のてっぺんから爪先まで品定めするように眺める。
「雪のように白い肌、黒檀のように黒く艶のある髪――。ふん、お前さん、まるで白雪姫のようだね。それだけ美しければ、男を手玉に取り放題じゃないか」
魔女はどこか嘲るような物言いをして娘の美貌を褒め称えたが、すぐに背筋が凍り付きそうな冷たい声色で娘に言い放った。
「娘よ。何故この森に来た。此処はお前なんかがが来るような場所じゃない。本来なら、二度と街に帰れなくしてやるところだが……。お前の美しさに免じて見逃してやる。さっさと元いた場所へ帰れ!!」
「帰る場所なんかないわ!!」
恫喝する魔女に負けじと、娘は更に大きな声を張り上げ、叫ぶ。
そして、恐ろしい形相で睨みつける魔女に臆せず、淡々と語り出した。
「幼い頃から、私はずっと孤独だった。身寄りもなければ何の力もない、ただ美しいだけの女がどんな風に生きてきたかーー、貴女なら想像がつくでしょう??男は醜い欲望を剥き出しにして、女はつまらない嫉妬に狂って傷付けてくる。それでも、どんなに辛くても耐えてさえいれば、いつかは惨めな私にも幸せが訪れる。そう信じていた……」
娘の黒曜石のような美しい瞳は次第に潤みを帯び、涙を堪えようと顔を俯かせる。
肩先から黒髪がサラリと流れ落ちた。
「だけど、そんなのはもうお終い。私と関わった男が次々と不幸になり命を落とすのも、人並み外れた美しさも、魔女だからに違いないーーなんて、とんだ言い掛かりで火炙りにされそうになったから……、この森に逃げてきたの」
娘は顔を上げると、魔女の青紫色の瞳を真っ直ぐ見据える。
その表情は先程までの弱々しいものではなく、決意に満ちた確固たる強さを湛えていた。
「ねぇ、魔女様。私を貴女の弟子にして下さらない??これ以上、誰からも理不尽に傷つけられないよう、力が欲しいの。……もしも駄目だと仰るのなら……、……大人しく炎の中にこの身を投じるわ……」
再び顔を俯かせると、娘は魔女に背を向ける。
魔女はしばらくの間、娘の背中を横目で睨んでいた。
「……分かった。望み通り、お前を弟子にしてやる。その前に、これを食べな」
魔女はどこから取り出したのか、血のように真っ赤な林檎を娘に向けて放り投げてきた。
娘は慌てて林檎を受け取ると、魔女と手の中の林檎を交互に見比べる。
「お前さん、どうせ腹が減っているのだろう??安心しな、そいつはどこにでも売っているただの林檎だ」
娘は戸惑いながらも、おずおずと林檎を一口齧る。
シャリッとした硬い食感と共に、ほんのりと蜜の甘さが口の中に拡がった。
「それともう一つ。私のことはヘドウィグと呼べ」
魔女――、ヘドウィグはニヤリと妖しく微笑んだ。
――約六十年後――
ウエディングドレスを思わせる純白のマーメイドラインのドレスを身に纏い、娘は真っ赤な林檎を齧っている。
その様子を、下座でひれ伏す男がガタガタと身を震わせて呆然と眺めていた。
「……これはカンタレラね」
娘はチラリと男を横目で見るも、すぐに興味なさげに視線を外した。
「……な、何でだ?!何で、平気でいられるんだ?!」
「それは、私が毒なんかじゃ死なないからよ」
娘の、林檎を持っていない方の掌がパアッと白く眩い閃光に包まれ、一本のナイフが浮かび上がった。
男が驚きの声を上げるよりも早く、彼は両目を引ん剝いて後ろ向きで倒れた。
眉間にはナイフがブスリと刺さっている。
「食欲が失せるから退席するわ」
床に転がる躯の後始末を家来達に任せ、林檎を齧りながら娘は自室へと姿を消していく。
ヘドウィグに弟子入りした娘はヘドウィグに次ぐ強大な魔力を持つ魔女となり、自分を虐げてきた人々への復讐を遂げた。
それだけではなく、次から次へと街を支配し、遂には女王として国に君臨したのだ。
逆らう者は徹底的に弾圧し、手当たり次第に血祭りに上げていく。
冷酷非道で残虐な振る舞い、いつまでも若く美しいままでいる姿も相まって国民は彼女の事を「ブラッディ・スノーホワイト」と呼び、畏怖している。
もう、あの頃の惨めで無力な弱い女ではない。
誰も私に逆らうことなど出来やしない。
私は誰よりも強く美しいのだから。
――本当に??――
「これがお前のやりたかったことか」
自分が生まれ育った街――、最初に滅ぼした街で、焼け焦げた瓦礫の山と積み上げられた無数の死体の前で、ヘドウィグが娘に掛けた最後の言葉。
あの時のヘドウィグの瞳はいつも以上に冷たく、ほんの僅かな悲しみがチラチラと見え隠れしていたーー、ような気がした。
あれ以来、ヘドウィグとは一度も会っていない。
傷つけられる側から傷つける側へ変わったことに後悔などしていない。
それなのに、六十年を経た今も、あの時の言葉を時折思い出してしまう。
「……くだらないわね」
娘は咀嚼した林檎の欠片と共に、ヘドウィグからの言葉をゴクリと飲み込んだ。
(終)