人魚は歩けない
灼熱の太陽が眼下に広がる青い海を蒸発させるべく、ギラギラと照り付けている。
そんな錯覚を覚える程に、昼間の浜辺は焼けるように熱い、にも関わらず。
浜辺には人・人・人で埋め尽くされ、更に浜一体の気温を上昇させていた。
しかし、浜辺から一歩外れた、ごつごつとした岩場の奥は、巨大な岩影が太陽光を遮断してくれる。
自然が生み出した涼が取れる穴場を知るのは、地元に住む者か毎年夏になるとこの海に訪れる者くらいだ。
そして、その岩陰にて楽しそうにお喋りを興じている一組の男女の姿が。
男は海にいるよりも木陰で読書をしている方が似合いそうな、眼鏡を掛けた色白で線の細い若者だった。
眼鏡の下の鼻や頬が日に焼けて赤ら顔に変わっている。
Tシャツと短パンの下から覗く手足も皮膚が真っ赤に擦り剥けて見るも痛々しかった。
「そろそろ休憩時間が終わるから、俺、もう行くね。じゃ、美潮みしおちゃん、また明日」
「うん、また明日ね。海人くん、バイト頑張ってね!」
美潮と呼ばれた、やや茶色掛かった長い髪の少女は明るい口調で返事をした。
小麦色の肌がいかにも健康的であるが、足が悪いのか松葉杖で身体を支えている。
笑顔で振り返っては浜辺へと去っていく海人を、同じく笑顔で手を振り返しながら美潮はいつまでも見送っていた。
「……さてと……」
海人の姿が見えなくなると、辺りに誰もいないかよく確認する。
すると美潮は松葉杖を放り出し、美潮は徐に服を脱ぎ捨てた。
無駄な脂肪のないしなやかな上半身の下は、虹色に光る鱗にひらひらと細長い尾びれ。
彼女は、この海の底に住む人魚だった。
美潮は服と松葉杖を波にさらわれない位置に上手く隠すと、そのまま海へと飛び込んだ。
海面から顔だけを出し、再び浜辺に目を向ける。
いた。海人だ。
海人は、Tシャツの上に半袖パーカーを纏い、グラスビールをトレイに乗せて客の元まで運んでいる。
申し訳程度に設置された、簡易式のテーブル席に座るカップルにビールを手渡していると、今度は別の場所から注文の声が飛んでくる。
海人は慌ててそちらへと駆けて行く。
その様子を鼻先より下を海面に付けたり上げたり繰り返しては、微笑ましげに美潮は見守っていた。
(去年よりも働きぶりが様になってきたわねぇ)
去年の夏――、海人が海の家で働いているのを見掛けた美潮は、なんて海が似合わない人が働いているんだろう、と、当初は面白がって観察している内に海人から目が離せなくなってしまった。
晩夏を迎え、海の家が閉められると共に海人も地元に去っていく頃には、好奇心の対象から淡い恋心へと変化していた。
海人に私の存在を知って欲しい。
でも、人魚が人間の前に姿を晒すのは、禁忌中の禁忌。
どうすればいい??
秋になり冬が訪れても、美潮の頭の中は海人のことで埋め尽くされていた。
むしろ、姿を見掛けなくなったからこそ、余計に想いは募っていくばかり。
行き場のない想い――、美潮の切なる願いが届いたのか、真冬の人気のない浜辺にて一対の松葉杖が捨てられていたのだ。
海への不法投棄は美潮達人魚の間でも深刻な問題だった。
いつもならば腹を立てただけだろう。
しかし、この松葉杖を見つけた美潮はそれからというもの、毎晩夜更けに松葉杖を使って浜辺で二足歩行の練習を始めたのだ。
もしも海人が来年も海の家で働いていたら、今度こそ会いに行くの!
例え鱗が砂で擦り切れ、傷だらけであちこちに血が滲もうが、仲間達から好奇の目で見られようとついぞ構わなかった。
やがて松葉杖を使ってならば二足歩行で浜辺を一周できるまでになった頃、再び海水浴場が解禁され、海の家も開かれた。
今年も、海人は海の家に働きに来ていた。
美潮は勇気を振り絞り、松葉杖をつきながら人間の振りをして遂に海の家へと訪れた。
水着や短パンの軽装ではなく、ノースリーブの白いシャツに爪先まで隠れる濃いカーキ色のスカート姿。
更には松葉杖を突く美潮に、他の客やアルバイト達は『場違いな奴が来た』という不躾な視線をそれとなく送ってきたが、海人だけは違っていた。
海人だけは、眼鏡の奥から優しい眼差しで美潮を迎えてくれたのだ。
それがきっかけで、二人は海人の休憩時間を使って毎日のように岩陰で会うようになっていった。
太陽が少し陰りを帯び始めると共に、美潮の心にも僅かに陰が忍び寄ってくる。
今日、海人から「今度の休みに街へ遊びに行かないか??」と誘われたのだ。
嬉しくて舞い上がりそうになる心をどうにか落ち着かせながら、美潮は弱々し気に微笑み返した。
「出掛けたいのは山々なんだけど……、まだ足の調子が悪くて……、ごめんね」
海人がほんの一瞬だけ浮かべた、残念そうな表情が脳裏に焼き付いて離れてくれない。
砂浜の上を歩くだけでも尾びれは傷だらけなのに。
ましてや固いだけでなく照り返しで熱くなったアスファルトの上を歩くなんて。
到底無理だった。
『いっそのこと、海の中に引きずり込んじゃえばいいのに。そうすれば、ずっと一緒に居られるでしょ??』
仲間の一人が、隠しきれない嫌な含み笑いで親切そうに囁いてきたことがあった。
でも、それでは海人は溺れて死んでしまう。
生きて笑っている海人が好き。
瞳孔を開いて虚ろな目で、事切れている海人の姿など見たくもない。
美潮は項垂れたまま、恐ろしい考えを振り切るように、ゆっくりと首を横に振った。
愚かだと嗤われ、嘲られても。
私はただ、こうして海人と会えるだけで、もう充分に幸せ。
それ以上を望むつもりなんて毛頭ないの。
それ以上を望んだら――、きっといつか海の中に引きずり込んでしまいたくなるから。
そうなるか、ならないかのギリギリの瀬戸際で、私はぷかぷかと漂っていたいーー
「海人くん、また明日会おうね。バイバイ」
遠く、浜辺で忙しなく働く海人へと切なげに呟き、美潮は深い海の底へと消えて行った。
(終)