Prologue
軽快な口笛が聞こえてくる。
すぐ近くからだ。
ぼくは、目をさました。
冷静に、状況を認識しようとつとめた。
両腕両脚を、しばられている。
なんとか首をよじって、横を見た。
暗い。
等間隔で置かれたロウソクのゆらめく炎が、唯一の光源だ。
信じがたいほどよごれたいくつもの部屋や壁が、前から後ろへとながれていく。
くさったテーブルやねじれたイス、割れた陶器、ゆがんだなにかが、床に散乱している。
ぼくは運ばれていた。
ストレッチャーのような車輪つきの台にあおむけの状態で固定され。
抵抗することもできず、暗い洞窟のような屋内を、奥へ、奥へ。
見上げると、ストレッチャーを押す人物の姿が見えた。
口笛の主だった。
曲調は、場所にも状況にも似合わず、喜劇的だ。
真っ黒なフードに身をつつみ、奇妙な仮面をかぶっている。
こちらを見下ろすこともせず、どんどん前へ押していく。
床の上のなにかを、車輪が踏みくだいた。
どこからか、絶叫のようなものが聞こえてきた。
狭い屋内の壁を幾度も反響し、ぼくのところまで届いてくる。
ぼくは、それが、自分の知る人間のものではないことを祈った。
心から祈った。
祈るだけでは足りないことくらい、わかっていた。
地面の上のなにかを踏むたびにガタガタ揺れる台の上で。
からだの内側からあふれだしてくるふるえを、懸命にこらえようとした。
考えろ。
脳に指令を送るが、頭のなかは恐怖でいっぱいだ。恐怖に支配されている。
ぼくは、自分がもといた世界のことを思った。
東京を思い、アメリカを思った。
わずかな学校生活のことや、これまでに経験した事件のことを思った。
この世界に召喚されて以来、はじめてのことだった。
角を曲がり、長いまっすぐの廊下を抜け、角を曲がり……。
にごった空気のなか、ロウソクのにおいの合間をぬって、ただよってくる臭気。
天井から、ケモノの死体がつるされていた。血が、したたり落ちている。
ぼくは吐き気をこらえた。
やがてぼくをのせた台は、そんなに広くない、がらんとした部屋の中央でとまった。
台を押していた人物は、ぼくを台の上に残したまま、部屋を出ていく。
状況を認識しようとした。
自分をとらえたのは、連続殺人犯か?
ここは、その隠れ家なのか?
女性たちを、じっくり時間をかけて切りきざんだ、拷問部屋なのか?
だれかが、部屋のなかに入ってきた。
さきほどの人物とはちがう。
ぼくは、なんとかそっちを見ようとからだを動かした。
その人物は、壁のほうを向いていた。
棚からなにかをとりだしている。
ナイフやハサミが、ちらっと見えた。わずかな炎の光を吸収し、するどく光っていた。
その人物がふりかえり、なにかを手に、近づいてきた。
殺されるのか? もっと、ひどい目に合うのか?
話しかけて時間をかせぐか? 逆効果になるだろうか? 刺激すべきか否か?
考えているうちに、相手は、すぐ横にまできていた。
そっと、冷たいものが、喉におしあてられた。
刃物でまちがいない。
その切っ先が、わずかに、皮ごしに肉に食いこんでいる。
その人物が、顔を近づけてきた。
笑っていた。その吐息が、鼻先をついた。
ようやく顔が見えた。
「ああ……」
ぼくは、その人物を知っていた。
目と目が合う。
ぼくは、プロフェッショナルでありながら、その目の奥にある表情を、いっさい読み取ることができなかった。
それで、相手もプロフェッショナルなのだ、と理解した。
「……どうする気ですか?」
ぼくの問いに、その人物は、やはり笑う。
ぼくを占有し、もてあそぶような、笑み。
そんなふうに笑うのを見るのは、はじめてだった。
じっと、ぼくの顔をのぞきこんでくる。
そして。
そっと、ぼくの唇に、自分の唇を重ねてきた。
ふっくらと冷たい感触に、入りこんでくる舌先に、そのすべてに。
死の、味がした。