第20話 ~ 少年の頑固な心のようだった ~
外伝Ⅴ第20話です。
よろしくお願いします。
「ドクトル!!」
パルシアの悲鳴が、曇天と南海に挟まれた空間に響き渡った。
ようやくゴーザを引き上げたミグラとオルドが顔を上げる。
遠くから見ていた島長とお付き2人も、息を呑んだ。
ドプッン……。
水柱が立つ。
ドクトルは海に飛び込んだ。
大魚との距離はまだあった。
潮を掻き、ドクトルは近づいていく。
パルシアは目を瞠った。
「ドクトルが泳いでる……」
この間、岸壁で釣りをした時、明らかにドクトルは溺れていた。
泳げなかったのだ。その方法すら少年は知らなかった。
それが――。
いくら訓練したとはいえ、すぐに泳げるわけがない。
それは奇跡に近い光景だった。
いや、むしろ……。
ドクトルの「大怪魚を釣りたい」という欲求が、そうさせたのかもしれない。
ドクトルが大怪魚に近づく。
相変わらず海底で暴れていた。
頬を膨らませ、ドクトルは大きく息を吸い込む。
思い切って、海中へと潜行していく。
もちろん潜水なんてはじめての試みだ。
だが、ドクトルの遺伝子は知っていた。
彼には【ウラガ】の海の男の血が流れているのだ。
何をすれば、すぐに理解した。
というより、全く考えなしに出来ていた。
足を魚の尾のように動かし、潜行していく。
壺に頭から突っ込んだ魚が、岩礁に身体をぶつけながら暴れていた。
ドクトルは動く。
岩場を蹴って、慎重に近づいた。
狙うは大魚のエラだ。
幸い、壺に魚頭は突っ込んでいても、エラはしっかりと見えていた。
骨のナイフを背中に隠す。
ギリギリまで接近した。
不意に尾が飛んできた。
ドクトルは身をかがめ、回避に成功する。
油断はしない。
自分は海の中では弱者なのだ。
海の王を倒すために、あらゆる慢心を捨て、慎重に徹する。
誰の言葉だろうか……。
父か、それともワットか。
今はどうでもいい。
ドクトルは静かに射程距離についた。
耳には泡の音しか聞こえない。
思えば、随分と海の中は静かなのだと思った。
ドクトルは……ナイフを出した。
波に逆らわず、吸い寄せられるように大魚のエラに滑り込ませた。
「ごぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ……」
壺の中から大量の泡を吐き出した。
ドクトルの手には、いつも捌いている魚よりも弾力ある感触が返ってくる。
まだだ――!
突き立てた刃を、袈裟斬りにするように動かしていく。
当然、大魚は暴れた。
依然、泡を吐き、巨体をくねらせる。
突如現れた人間の子供を振り払おうと岩礁へ押しつけようとした。
だが、ドクトルは離れない。
大魚に組み付き、岩をかわした。
作業を進める。
徐々に傷が開いてく。
大量の血が海中にこぼれていく。
まるで大魚が赤い旗を立てているように見えた。
「ぐ……。うぐ……」
ドクトルは苦悶の表情を浮かべた。
大魚よりも、問題は息だ。
不慣れな潜水。
しかも激しく身体を動かした上、渾身の力を込めて捌こうとしている。
大量の酸素を消費し、すでに頭は朦朧としてきていた。
離すわけにはいかない。
たとえ、死んだとしても、ナイフだけは握ったままでいたい。
強く少年は決意する。
徐々に開いていく傷口。
気づけば、大魚の動きが鈍くなってきた。
その時だ。
大魚が岸へと引っ張られはじめたのは……。
岸壁からパルシアは心配そうに海中を見つめていた。
闘っている。
少年は初めての海中で、自分よりも大きな魚と戦っていた。
「どうしよう……」
心細そうにしなを作る。
自分も潜って手助けするか。
ダメだ。
それだったら、誰がロープを引く。
でも、ドクトルにもしものことがあっては――。
もう随分、海の中に潜っている。
息が限界のはずだ。
岸と海。
その両方を挟んだ境界線上で、ダークエルフの心は左右に乱れた。
ぐぃ……。
ふとロープを見る。
ピンと張っていたロープが緩んでいた。
――魚の動きが鈍くなった。
直感でわかった。
きっとドクトルが一撃を加えたのだろう。
弾かれるようにロープを握る。
思いっきり力を入れた。
だが、パルシアの力だけでは、大魚を引くのは無理だ。
視界にふと浜に立ちすくむ3人の男の影が見えた。
1人はあの島長だ。その後ろには、昨日偵察に来た男2人が立っている。
「ちょっと! あんたたち! 手伝って!!」
声の限り叫んだ。
男達は顔を見合わせる。
「し、しかし――。勝負に手を貸すのは……」
額に脂汗を浮かべ、反論したのは島長だ。
「なに言ってるのよ! 向こうだってやってるでしょ!!」
「…………」
「やるのやらないの! はっきりして! ドクトルが死んじゃう! 死んだら、あんたたちのせいだからね! そうなったら、どうなっても知らないよ!!」
パルシアは青い瞳を燃え上がらせる。
その光と怒りは、離れていても伝わった。
2人の男の顔から血の気が引く。
島長に変化はなかったが、口から「むぅ」と唸りを上げた。
「行け」
静かに命令する。
2人は一瞬躊躇ったが、渋々こちらに向かってきた。
「駆け足!!」
「「は、はい!」」
言われた通り、走ってくる。
そしてロープを握った。
「行くよ! せーの!!」
ロープを引く。
さすが腐っても海の大人だ。
それも2人がかり。
先ほどまでビクともしなかったのに、するすると手繰られていく。
大魚の力が弱まったこともあるのだろう。
「ドクトル……」
パルシアの興味が、ドクトルの生死に向く。
やがて大きな影が海面から現れた。
獲物はもう動かなくなっていた。
時折、尾を動かし、痙攣するだけだ。
そして大魚の全貌が現れる。
大きい……。
すでに何度と思ってきた事だ。
が、改めて見ると月並みな感想を呟かずにいられない。
果たしてドクトルはいた。
エラに突き立てたナイフ。
それを握ったまま、大魚と一緒に引きずれるように海面に上がってくる。
「ドクトル!!」
返事はない。
溜まらずパルシアは海に飛び込んだ。
男達はそのままロープを引く。
近づいてくる大魚に寄りかかるようにしているドクトルに寄り添った。
「ドクトル! ドクトル!!」
耳元で叫んでも、反応はない。
魚から引き剥がそうとしたが、少年の手はナイフを握ったまま固まっていた。
指を動かそうとした全く動かない。
まるで少年の頑固な心のようだった。
やがてドクトルは大魚と一緒に岸に打ち上げられた。
すると、魔法でも解けたように手を離す。
岩場に寝かせると、ぐったりしていた。
パルシアは自分の頭に抱える知識をフル稼働する。
とにかく頭を動かすことによって、己を冷静にさせようとした。
気道を確保する。
顔を近づけ、呼吸を確認した。
「ない」
呟く。
顔を上げた。
少年の唇を見る。
人が集まっていた。
島長、お付きの2人。
意識が戻ったゴーザが、ミグラとオルドに抱えられ、こちらにやってくる。
衆人環視の中――。
パルシアは躊躇わなかった。
自分と同じぐらいの大きさの唇に、そっと自分の唇を重ねた。
次回は、次週に更新予定しています。




