第19話 ~ ろくな事がない11年間だった ~
新作が終わりましたが、
こちらはまだまだ続いていきますので、
よろしくお付き合い下さい。
外伝Ⅴ第19話です。
来た――――――――!!
思わず叫びそうになったのを、ドクトルは寸前で堪えた。
小さな飛沫とともに、波が揺らぐ。
黒く大きな影がこちらに向かってきていた。
正確には仕掛けた罠壺の方に、だ。
待ちに待った瞬間だった。
釣り場に出て、5年……。
小さな頃から、漁師の見よう見まねで岸壁から糸を垂らし続けた。
雨の日も風の日も。
波に目を凝らし、風を読んだ。
魚のことを忘れたことなど一度もない。
目をつむれば、大口を開けた魚の姿が浮かんだ。
その……。
恋い焦がれ――夢にまで見た刹那が、もうすぐやってくる。
大怪魚を釣り上げる。
その時が――。
ドクトルは視線を浜にいるパルシアに向ける。
すでにこちらに向かって駆けてきているところだった。
「ドクトル」と手を振っている。
少年は慌てて口に指を押し当て、静かにするように合図を送った。
「何をすればいい?」
パルシアは息を弾ませる。
ドクトルは視線を大魚の影へと向けた。
「祈れ」
「は?」
「仕掛けた罠壺に、あいつが引っかかるよう――祈れ」
「なんかいきなり末法臭くなったなあ」
パルシアは薄桃色の髪を掻いた。
もはや打つ手などない。
ドクトルとパルシアの作業は、壺を海底に仕掛けるという時点で、工程の半分以上を終えていた。
後は罠に引っかかってくれることを祈るだけなのだ。
「ボクには祈る神もないんだけど……」
「なら、母や父だ」
「言ったと思うけど、雌性は蒸発。雄性は会ったこともない。生きてるかどうかすらわからないんだよ」
「……とにかく祈れ。それだけだ」
ドクトルは指を組んだ。
瞼を閉じ、本当に祈り始める。
その作法にはどこか気品があった。
誰かに教えてもらったのだろうか。
そう思いながら、パルシアもまた同じく指を組んだ。
祈りが通じてか。
順調に影は罠を目指していた。
罠壺の周辺に群がっていた魚がちりぢりになり、影から逃げていく。
あるいはその大口に飲み込まれ消えていった。
つと飛沫が消える。
大魚が潜ったのだ。
海底へ向けて。
旨そうな匂いを漂わせる罠壺に向かっていった。
ぐぐっ……。
何かが絞め付けられるような音がした。
ドクトルはカッと瞼を開く。
視線を向けた。
罠壺と繋がった糸――というよりは、細い蔓を何本も編み上げた太いロープだ。
「よし!」
瞬間、大きなしぶきが舞う。
大魚の尾が水面を叩き、再び潜った。
ドクトルは見逃さない。
水面近くまで逃げてきた大魚の頭に、すっぽりと罠が収まっていたことを。
巨躯に無数の釣り針が食い込んでいたことを……!
「やった!!」
パルシアは諸手を挙げて、歓声を上げた。
「まだだ!」
ドクトルは油断のない目つきで海面を見据える。
大魚が海底付近で身悶えていた。
必死に罠を解こうとしている。
所見から、釣り針はかなり奥深くまで食い込んでいた。
よっぽど勢いよく突っ込んでいったのだろう。
随分と腹を空かしていたようだ。
何せ罠壺のおかげで、この辺りの魚という魚が集まっていたのだ。
表浜の漁場を一変させるほどに……。
魚がいなくなれば、漁師だけでなく、捕食者である大きな魚も腹を空かせる。
罠壺にはそんな効果もあった。
ちらりとロープを見た。
乾いた蔓を何本も巻き上げた特別製。
大怪魚を釣る際、糸切れをなくすためにワットと相談して作っていたものだった。
思った以上に引き強い……。
ロープが保つか心配だった。
「ドクトル、このままでいいの?」
「しばらくはな。動きが鈍ったところで、ゆっくり引く」
「前の釣りでやった戦法だね」
「そうだ」
ドクトルはパルシアの目を見て、頷いた。
その時だった。
「ドクトル! あれ!」
悲鳴じみた声を上げ、パルシアは沖の方を指さす。
ドクトルが視線を向けると、1艘の舟が猛スピードで向かってきていた。
ゴーザだ。
櫂を手繰り、ドクトルからすればあり得ないほどの速さで舟を動かしていた。
のたうち回る影へ、あっという間に近づいていく。
「させるか!」
銛を掴んだ。
影に向かって、突き入れる。
感触はない。魚はもっと深いポイントにいるからだ。
「くそ!」
ゴーザは懸命に銛を打ち込んだ。
「ドクトルなんかに負けてたまるかよ!!」
曇天の下。
ゴーザは激昂した。
すると、影が濃くなった。
水面に出てきたのだ。
次の瞬間、大きな尾がゴーザの舟ごと蹴飛ばした。
宙に浮くゴーザ。
舟はひっくり返り、海へ投げ出される。
「「ゴーザ!!」」
声を張り上げたのは、後から追ってきたミグラとオルドだ。
2人の声が届いたのか。
すぐにゴーザは海面から頭を出した。
ピューと海水を吐き出す。
舌を出して、口内に残った塩辛さを吐き出そうとした。
再び、眼下の影に睥睨する。
「くそ!!」
身を翻し、海に潜る。
海中に漂っていた銛をひったくり、壺に顔を突っ込んだ大魚に肉薄した。
――食らえ!!
白い泡を吹き出し、気合い――一閃する。
見事、大魚の腹を突き刺した。
どす黒い血が、旗のように揺らめき流れていく。
――やった!
ボコボコと泡を吐き出す。
しかし……。
ゴーザは先ほどの反省を全く活かしていなかった。
油断したのだ。
大魚はまだ動けた。
鋭い尾がゴーザの視界の外から襲いかかる。
側頭部にクリーンヒッとした。
目の前が真っ黒になる。
意識が刈り取られた。
だらりと腕を垂らし、ゆっくりと海面へと向かう。
そんなことが海中で起こっているとつゆ知らず。
ドクトルは敏感に大魚の力が弱まっている事に気付いた。
ロープを握る。
それにパルシアも加わった。
「引け!!」
「よいしょおぉおおお!!」
かけ声とともにパルシアは思いっきりロープを引く。
ドクトルも力瘤を浮き上がらせ、力一杯歯を食いしばった。
いくら力が弱くなったとはいえ、相手は海中の王者だ。
ドクトルがいくら鍛えていても、パルシアが黒い妖精といわれても、少年と女性という組み合わせであることに代わりはない。
ロープは岸壁にくくられているため、振り切って逃げられることはないが、2人と大魚の距離は縮まらない。
いつ針が外れ、ロープが切れるかわからない。
今、この時――。
全力を出し切るしかなった。
「全然ダメだよ、ドクトル。距離が縮まらない」
「諦めるな!! 絶対に釣ってみせる!!」
さらに力を絞り出す。
すでに歯茎からは血が滲んでいた。
ロープを持つ手も真っ赤になっている。
――諦めてなるものか!
ドクトルの胸中に、様々な事が思い浮かぶ。
父との離別。
母との暮らし。
島民の差別。
ワットとの生活……。
思えば、ろくな事がない11年間だった。
心から幸せだと感じたことなどなかった。
気が付けば、周囲すべてが敵だった。
自分の人生を阻む障害――。
それでも生きてきたのは、この島を出て、すべてをやり直すため。
そのために釣りを学んだ。
舟を学んだ。
魚の知識を学んだ。
島民たちが思いもつかないアイディアを考えに考え抜いた。
何度も言う……。
すべては大怪魚を釣るため。
そして島を出るため!
それ以外にないといっていい。
生を受けて11年……。
すべてをこの瞬間に捧げる。
妥協なんて許さない。
諦めるなんていう単語は、ドクトルの辞書には書かれていないのだ。
すると、徐々に――徐々にではあるが、ロープを手繰り寄せはじめる。
微細な変化だった。
しかし、やがて目に見えて、ドクトルと大魚の距離が縮まる。
「おお!」
歓声を上げたのは、近くで見ていた島長だった。
ずずっ……。ずずっ……。
と――――。
距離が狭まっていく。
「島長!」
「手出しは無用じゃぞ。お主ら」
島長はお付きの2人の漁師に念を押す。
2人もまた大怪魚を釣る瞬間に興奮を隠せない様子だ。
しかし、これは純粋な勝負。
パルシアに手伝わせているのは多めに見るとして。
いくら大怪魚が釣れるといっても、助太刀するわけにはいかない。
とはいえ、手伝わせたところで、ドクトルが素直に応じるとは思わなかった。
「ドクトルぅうう!!」
「もうすぐだ」
そう。もうすぐだ。
影が岸壁に近づいている。
もう一息。
思った瞬間、再び影は暴れ出す。
猛烈な勢いでロープが引き戻された。
沖の方へ逃げてしまう。
また引っ張ることができるほど、もうドクトルに余力は残されていなかった。
「――――!」
ドクトルは決断する。
ロープから手を離した。
「ドクトル、なんで!!」
パルシアは悲鳴を上げる。
次に取った少年の行動は、さらに彼女を驚愕させるものだった。
ドクトルは腰に差したナイフを引き抜く。
岸壁の縁に立ち、躊躇うことなく跳躍した。
「ドクトル!!」
パルシアはあらん限りの力を使って叫んだ。
もう遅い!
青い瞳に、白い水柱が立ち上ったのが映った。
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