プロローグ ~ 島と母と少年と ~
ご無沙汰しております。
本当にお待たせしてすいません。
『その現代魔術師は、レベル1でも異世界最強だった。』を
しばらくまったりとではありますが、続けて行こうと思います。
今までとは、雰囲気ががらりと変わった外伝からですが、
お楽しみいただければ幸いです。
「ドクトル、こちらに来なさい」
母親の声が聞こえる。
ドクトルは釣り針を研磨していた小さな手を止めた。
頭を上げる。
その手も、顔もまだ幼い少年だった。
木の根と弦を使った粗末な住居。
天井には乾いた大海草の屋根。夜露程度なら問題がないが、嵐になるとそこらで雨漏りしてしまう。通気性だけが売りだった。
少しゆとりがある家の床なら、藁もしくは莚が敷かれているが、ドクトルの家はむき出しの地面だ。
ただ母が眠る寝具だけは、藁を使っている。もう3年使い続け、くたびれていた。
藁は貴重なのだ。
この島では……。
母が手を伸ばしている。
枯れ木のようにやせ細った手だ。
いや、枯れ木の方がまだマシかもしれない。
ドクトルは作業を止め、針とそこらから持ってきた磨きに良さそうな石を置いた。
「どうしたの……。かーちゃん」
母は藁から身体を出そうとしている。
ドクトルはそれを手伝った。
母は息を切らしながら、やっとという思いで起き上がった。
激しく咳き込んだ。
水を持ってこようとしたが、母は止める。
すでに2日前に切らしていた。
咳をする母の背中をさする。
背骨が今にも皮膜を破って出てきそうなほど浮き出ていた。
「よく聞いて」
落ち着いてから母は声を絞り出した。
うん、とドクトルは頷く。
自然と正座になる。
腹の虫が鳴る。
もう3日もまともなものを食っていない。
母は苦笑した。
そして「ごめんね」とだけ言った。
すぅと息を吐いて、母は話を始めた。
「あのね。お母さんね。もうすぐお父さんのところに行くの」
「え?」
水色の瞳を大きく広げる。
海のようだ、と母が称した目は、不安そうに曇った。
「ぼくもいきたい」
久しぶりにドクトルはわがままを言った。
母はわずかに首を振る。
もうその角度しか動かせない――そんな首の振り方だった。
「ごめんね」
また言った。
物心ついた時から、この言葉を聞かなかった日はない。
親が子供に謝る。
その行為は、ドクトルの心をすり減らしていった。
まだ9歳の子供は、「ごめんね」という言葉にすでに疲れていた。
「ドクトルはね。連れていけないの」
「そうなの」
「ごめんね」
また――。
何も言わなかった。
反論もしなかった。
ただ耳に入れ、あるがままを受け入れた。
ごめんね――という言葉は、謝罪ではない。
ドクトルにとって、どうしようもない絶望の言葉なのだ。
「かーちゃんがいなくなったら、ぼくはどうすればいいの?」
「ワットのおじいさん、わかるわよね」
ドクトルは頷く。
ワットは島村から少し離れたところに住んでいる老人だった。
今でも現役の漁師だが、村の人間には嫌われている。
偏屈な老人で、滅多に人と話すことはないが、母と喋っているのをドクトルは何度か見かけていた。
「明日、ワットおじいさんの所に行って、こう言ってちょうだい。母さんはお父さんのところに行きましたって」
「“かあーさんはおとーさんのところにいきました”」
「そう。だから、手伝ってほしいって」
「なにを?」
「言えばわかるわ」
「それから?」
「ドクトルはもう釣りが出来るのね」
唐突に話題が変わった。
「うん。4日前、お魚を釣ったよ」
小魚を……。
「そう。ああ、そうだったわね。おいしかったわ」
母は夢で食べたかのように瞼を閉じる。
ゆっくりと上半身を寝かせた。
母はしばらく何も言わなかった。
寝てしまったのだろう。
聞きたいことはまだあったが、起こすのを我慢した。
作業を再開しようと、立ち上がる。
「ドクトル……」
今にも消え去りそうな声が聞こえた。
母の顔を見る。自分と同じ水色の瞳が開いていた。
「なに? かーちゃん」
「あのね。これだけは覚えておいてほしいの」
「うん」
「もし、ドクトルの前に困っている人がいたら、その人を助けてあげて」
「うん。……わかった」
「そう。いい子ね、ドクトルは」
母は笑った。
ほんのわずかな間だったが、笑った。
それは病気になる前。
母がまだ元気だった頃の笑顔。
ドクトルが大好きな顔だった。
「もう……。寝るね」
瞼を閉じる。
「うん。おやすみ」
ドクトルはそう言って、釣り針を擦り始めた。
次の日、何度起こしても母は寝たままだった。
仕方なく、ドクトルは島村を挟んで、島の北側にあるワットの家を目指した。
浜辺を横切る。
海の方で数隻の小舟が漁をしている。
たくさんの釣り糸を垂らして、獲物を待っていた。
「いいなあ」
ドクトルが見ていたのは舟だ。
島では自前の舟があることは、一人前の男として認められた証だった。
沖合に出れば、もっと魚を釣ることが出来る。
母に、小魚じゃなくてもっと大きな魚を食べてもらうことも可能だ。
しばしドクトル少年は憧憬の眼差しで沖合に浮かぶ舟を見ていた。
ふと声が聞こえる。
島民だ。
石を積み上げた防波堤の上に立って、何か話をしている。
指をさされたから、たぶん自分のことだろう。
子供といえど、予想ぐらいはできる。
ドクトルは足早に浜辺を後にした。
ワットの家は島の北。小高い山の頂上にあった。
道はなく、加えて急斜面なため登るのに一苦労だ。
腹を空かした子供ならなおさらだった。
途中、小さな雨溜まりを見つけ、2日ぶりの水分を補給したドクトルは、何とか頂上にたどり着く。
ワットの家は変わっている。
山の斜面を掘り、洞窟の中で暮らしている。
島民はあまり土をいじらない。
地面はとても神聖なものだ。
ワットが偏屈なのは、こういうところからも見て取れる。
天井から垂れた大海草を引く。
どうやら仕切りにしているらしい。この辺りは嵐になると横風がひどい。
貧弱な大海草だけで防げるかは疑問だが、ないよりはマシかもしれない。
入ってすぐにワットはいた。
棒きれを持って、構えている。
白髪と白鬚に占拠された顔は、殺人魚の顔に似ていた。
「なんだ? 島の子供か」
「えっと……」
「入るならノックせんか」
「ノック?」
聞き返したが、ワットは何も言わなかった。
翻って、地面に腰を下ろす。
岩壁にもたれると、何か薄い物が重なったものを取り出した。
以前会った時も同じ物を持っていた。
尋ねたことがあって、ワットは「本だ」とだけ答えてくれた。
てっきり魚か何か絞めるための道具かと思ったが、ワットが使っているところを見ると違うらしい。
薄い本《ヽ》を何度もめくっている。
ワットの家にはそんな“本”が一杯ある。
どうしてこんなものを大事に持っているかは知らない。
どうして彼が集めているのかも……。
ドクトルは興味津々といった感じで見つめていた。
「なんだ?」
しゃがれた声が、毛むくじゃらの鬚の奥から聞こえた。
ドクトルは背筋がピンとなる。
ここに来た理由を思い出そうとして、しどろもどろになってしまった。
「用がないなら出て行け」
ワットは強く言った。
ドクトルはますます慌てる。
「あの……。かーちゃんがいえって」
「かーちゃん?」
「“かあーさんはおとーさんのところにいきました”」
ドクトルはただ言われた通りの言葉を告げた。
ワットの目が大きく見開かれた。
息を吸い込む。
ただそれだけだった。
「だから手伝ってくださいって……。それだけ言えって」
「そうか」
ワットは立ち上がる。
「行くぞ」
「え? どこ?」
ドクトルは顔を上げる。
「お前の家だ」
ワットはドクトルの家に踏み込んだ。
地面にはドクトルが手入れをしていた釣り竿が転がっている。
片付けを忘れていたことを、家に帰って思い出す。
ワットは釣り竿に目もくれず、くたびれた藁の中で眠る母親に近づいていった。
側にドカリと座る。
あんなに大きな音が鳴ったのに、母はまだ起きようとはしない。
ワットは母に手を伸ばした。
「なにすんだよ!」
ドクトルは溜まらず叫ぶ。
母が暴力を振るわれると思った。
ワットは1度引っ込め、自分の膝に置く。
口ひげを動かした。
「黙ってみとれ」
しかりつけるわけでも、怒鳴りつけるわけでもない。
厳かに言った。
ただならぬ雰囲気を察して、ドクトルは忠告通り黙った。
母を挟んで反対側に座る。
じっと老人を見張った。
小さな騎士の行動など目もくれず、ワットはそっと母の口に手を当てる。
優しくだ。
次に首に手を当てた。
また優しく。
「そうか」
何かを確認したワットは、両手を組んだ。
目をつぶる。
しばらく、その態勢のまま固まった。
ドクトルはただ老人の姿を見るしかない。
やがて少年の視線に気づいた老人は、姿勢はそのままに言った。
「お前も祈れ」
「え? いのれ?」
「そうだ。形だけでいい。私の真似をしろ」
「マネをするの?」
ワットの命令口調には慣れなかったが、ドクトルはよく観察しながら同じ姿勢を取った。
そうして老人と同じ姿勢で向かい合う時間が過ぎていく。
何度か目を開けて、様子をうかがっていたが、老人は微動だにしない。
何をしているのか、訊いてみたかったが、重い沈黙によって機会を失った。
先に姿勢を解いたのはワットだった。
ドクトルも少し遅れて、元に戻す。
すると、ワットは母の背中に手を入れた。
「なにをすんだよ!」
さすがのドクトルも激昂した。
立ち上がる。
水色の瞳を嵐の海のように濁らせた。
対してワットは努めて冷静に言った。
「手伝ってほしいのだろ?」
「え?」
「母親にそう言われたのだろ? お前が言ったんだぞ。もう忘れたのか?」
「う……ううん」
「だったら黙っておれ」
また言われた。
ワットは母を担ぎ上げる。
「軽いな」
そう言うと、少し悲しそうな顔をした。
ドクトルとワットが、母をかついでやってきたのは、浜辺だった。
島村がある浜辺とは逆。
人気はない。
それもそのはずだ。
村からは結構離れていて、時間がかかる。
おかげで陽が陰り始めていた。
空が赤くなっているが、太陽は見えない。
島影に隠れて見えないのだ。
――魚……。釣れるかな。
そんな事を考えていると、ワットは母をかついだまま海に入っていく。
「ちょっと! なにしてるんだよ!」
今度こそドクトルは怒った。
入水していくワットの後を追う。
だが――。
「来るな!」
また叱られた。
それでもドクトルはずぶ濡れになりながら追いかける。
海の子だ。
濡れるのには慣れている。
ちょうどその時、ドクトルを阻むように大波が襲いかかってきた。
少年の身体と心が跳ね返される。
さらに慌てていたため足をとられた。海の中でぐりぐりと回転した。
波はそれだけにとどまらない。
引き潮がさらに小さな身体をさらおうとした。
「小僧!」
すべてを察したワットは母から手を離す。
潮にさらわれそうになったドクトルの手を掴んだ。
母の身体はそのまま潮に流され沖合へと真っ直ぐ向かっていく。
ドクトルは「かっ! ぺっ!」と咳き込みながら、少し飲んでしまった海水を吐き出す。
やがて流されていく母に向かって、手を伸ばした。
「かーちゃん!」
叫んだが、その姿はすでに小さくなっていた。
その時。
ふと何かの映像と重なった。
見たことあると思ったのだ。
同じような光景を。
「安心しろ。お前の母は、父の元へといった」
ワットの声が聞こえた。
そうだ。
覚えがある。
ドクトルがもっと幼かった頃の記憶。
この浜辺で、同じようなことが行われたことを。
波間に漂う姿は、母ではなく、あれは父だった。
「そうか。かーちゃんはとーちゃんのところにいったんだね」
「……そうだ」
ワットは少し顔を伏せ、肯定した。
「ぼくもいつかいっしょになれる?」
「いずれ……な」
「そうなんだ。……なら、いいや」
ドクトルは手を振る。
大きく。母に見えるように。
「ばいばーい! かーちゃん! また会おうね!」
目一杯叫んだ。
島裏の海岸に、子供の声が響き渡る。
海水でびしょ濡れになった少年の頬に、一筋の水滴が流れていった。
いかがだったでしょうか?
ちょっとびっくりしたのではないかな、と心配しております。
主人公達は? ドクトルって誰よ! レベルの話はどこ?
色々と疑問がつきないことと存じますが、引き続きお読みいただければと思います。
次の更新は水曜の予定です。
時間はだいたい18時の予定をしておりますので、今後ともよろしくお願いします。




