1-4 GHOSTUNE
◇
霧生進にしかできないことがある。
少なくとも高校を退学した当初は、そう思っていた。
確固たる夢があった。それを叶える為の才能も信じることができていた。高校に通う時間は邪魔臭かった。義務でもないので去ることを決めた。
しかし、面と向かってみた自分の才は案外平凡らしく、次第に夢そのものにまで迷いが生まれ始めた。時間ができたことで新たな娯楽を見つけてしまった。手を出したネットゲームにやたら夢中になってしまった。……挙げればキリがない。
俺は順調にダメ人間の道を進んでいた。
それでも尚、自分は他とは違うという、根拠なき自信にすがりついていた。
しかしある朝、布団の中で悟った。幸せは夢の中にしかない。
高校をやめて三ヶ月が経った。バイトもせず、家の中に籠る日々が板についてきた。音楽を作るという当初の目的は、もはやどうでもいい。
友達は時間が経つにつれて減っていき、だんだんと人とのコミュニケーションが分からなくなっていく。気付けば昼夜が逆転していた。怠惰。やばい。けれど危機感よりも倦怠感のほうが圧倒的に勝る。今はもう、布団から出たくもない。出たら出たで、今度はパソコンやゲームから離れられなくなる。
一軒家の二階。
机の上にはパソコンと、必要のなくなった高校の教材。
本棚にはライトノベルと、あまり読んでもいない音楽関係の本が数冊。
部屋の角にはアンプとギターがあるが、どちらも埃を被っている。いつかまた使うことになるはずだが、それがいつかは分からない。
そして、布団。とりあえず床に敷きっぱなしだ。汗の染み込んだそれは、陰鬱な空気を部屋に撒き散らしているようにも思える。
……間違いなく、ここは俺の部屋だ。
なら、この部屋の窓際で胡座を掻いて外の風景をぼんやり眺めているのは誰なんだ?
「あの」
白装束。頭に三角のあれ。どう見ても幽霊のコスプレ。そんな格好をした非常識な女が俺の部屋に何故かいる。
侵入者だ、どうしよう。
ここしばらくで、すっかり強くなった人見知りが発動。いやいやしっかりしろよ俺! 勇気を絞って、そいつと意思疎通を図る。
「……あんた、一体どなた……ですか」
白装束は反応しない。そもそも気付いていないようにも見えた。というより、自分に向けられた言葉だと思っていないような。他に誰もいないのだが。
「あの。あのー? すいません勘弁して下さい反応してくださいよ」
ダメだ。
仕方がないので実力行使だ。買って満足してしまって開いてすらいないギターの教本(そこそこ分厚い)を手に取り、ポコンと、女の頭を叩く。
「ほわぁっ!」
女は驚いて振り返り、驚愕の表情で俺を見た。
そして、しばらく考え込んでから口を開く。
「……あ、見えてる?」
ドラッグでも使用したのか、この人。
本格的に幽霊ごっこに没頭している……というか、自身が本当に幽霊だと思い込んでいるようだった。
「警察呼びますよ」
「へ? 何で?」
「いや、不法侵入者がいたら、とりあえず普通そうしますよ」
心底不思議そうに首を傾げ、人差し指を唇の下に当てて悩み始める。
俺より少し年上くらいか。女子大生風。結構可愛いとは思うが、容姿が良くても全てが許されるわけではない。
「……その前に、幽霊を見たら怖がるのが普通でしょ?」
女が言う。
俺はもう一度、女の頭を叩いた。
「ひゃうっ!」
「……幽霊には思えないんですが」
普通に物理的攻撃が当たるし。反応はこんなだし。足もあるし。
「君が何と言おうと、あたしは幽霊なの。警察に通報しても別にいいけど、恥を掻くのはそっちよ? 普通の人には見えないんだから」
「……そうですか」
不法侵入はされたが特に痛い目に遭ってもいないし別にいいか、という気持ちが優勢だ。あまり社会と関わらない生活をしていたせいか、俺の側にも常識が欠如しているのかもしれない。
放っておけば、そのうち勝手にいなくなるだろうと思い、ひとまず起床して日常生活を送ることにした。
リビングに移動。
親は仕事で既に家を出発している。
食パンを焼いて食しながら、テレビで朝のニュース番組を眺める。UFO発見がどうとかこうとか。下らない報道してんな。
「UFOかぁ。UFOに楽しい思い出はないなぁ」
すごく電波発言。
「この街でも忘れてる人が多いからなぁ。当時は世界中が注目してたはずなのに残念」
「……本当、あの、通報しないから帰ってもらえませんか?」
こちらとしても落ち着かないし、向こうからしたって、俺が本気で怒る前に出ていくほうが得策のはずだが。
「んー、ちょっと今、外に出られない事情があるんだよね」
「嘘ですか?」
「信用の欠片もないなぁ……」
「いきなり家に現れた自称幽霊の不審人物への態度としては大正解だと思いますが」
「ディー、ティー、エンむォウっ」
ピタリと硬直した。
俺が、だ。
DTM。デスクトップミュージック。
「君、音楽やってるでしょう?」
嫌な汗が、体から吹き出るようだった。
一体、この女はそれを知って何を……?
「一つ、お願いがあるんだ。それさえ聞いてくれたら、大人しく出ていくから」
「……お願い? というか何で俺が音楽やってるって分かったんですか?」
「そんなの部屋の様子で分かるよー。DTMの教本とか、歌唱ソフトのケースとかが転がってりゃね。そこで!」
どん! と効果音が聞こえてきそうな、張り切った態度で、彼女は言った。
「あたしの作った曲を打ち込んで欲しいんだ」
よく分からない頼み事を。
「……できますけど、何でそんなことを?」
「分からないかな?」
彼女はピアノの弾き真似をした。
「霊体の奏でる音楽は基本的に同類にしか届かない。でも君にはこうして声が届いてる! つまり君が打ち込んでどっかに投稿すれば、あたしの音楽が広範囲の人間に届くということ!」
悪い冗談みたいだ。
だが冗談であったとしても、音楽のことで頼られるのは。
正直に言えば、ちょっと嬉しい。
「……失敗しても、俺のせいにしないでくださいね」
女の目が、ぱっと輝いた。
早速自室のパソコンに向かい、音楽編集ソフトを開く。
無料で動作の軽いソフト。豪華なものよりこういうもののほうが、意外と動作が安定していて使いやすいと俺は思う。高いソフトを買う勇気が出ないからそういうことにしている……というわけではない。断じて。
バイトすれば手が届く価格なのに手に入れようとしないのは、バイトがしたくないからとかそんなわけではないのだ。断じて。
「叢雲栞」
前触れもなく女が言う。
一瞬、何のことか分からず戸惑った。
「……あ、名前ですか?」
「うん。実家が本屋だったから、この名前。正直ちょっと安直だと思うけど、幽霊としては哀愁があって好き。君のことは何て呼べば良い?」
「ああ、えーと、霧生です。霧生進」
「歳は? 若く見えるけど、学校とかは? ……あ、ごめん」
「何で謝った?」
「だって、平日のこの時間にこの状態って、触れられたくないでしょ?」
憐れむ表情が余計、心に刺さる。
笑ってネタにされるのも嫌だが、こういう微妙に気の遣えてない気遣いもどうかと思いますよ栞さん。
「高校を三ヶ月前に中退しました。今は何もしてません」
「いわゆるニートさんでしたかごめん聞かなかったことにします。てか高校中退直後ということは、あたしのほうが年上なんだねー」
何故か自慢げ。
「栞さんは二十八歳くらいですか?」
仕返しに高めの年齢を口にすると、衝撃が大きかったのか、栞さんは泣きそうな顔でひっくり返った。
「ひっどー! ドン引き! もっと若いよ! 幽霊になって九年。死亡当時が十歳だったから、現在、十九歳だよ」
「十歳じゃないですか、それ」
死亡年齢が十歳なら……。
「えー、十九だよ」
「死後もカウントするもんですか? 年齢って」
「そりゃあ、法で定まってるわけでもないし、分かんないけど。でも、あたしの容姿って十歳に見える?」
「見えません」
身長は女にしては高いほうだし、落ち着いた顔は……どちらかといえば童顔ではあるが……流石に小学生には見えない。
何より、胸の膨らみが十歳のそれではなかった。大人基準でも巨乳と表して差し支えないレベルだ。
つまり死後も成長しているということか。……。
「こら! 見入らない!」
「す、すいません」
しばらく異性と向かい合うことがなかったせいもあってか、俺の目は自然と栞さんの胸を見てしまっていた。
「それとも見たいか! 幽霊のくせに健康的な、このエロエロぽわーん! な二つの乳の膨らみをじっくり堪能したいのか! 見たいのかコラぁ!」
どん、と胸部を前に押し出しながら、栞さんがはしゃぐ。
ピンク色の欲望が頭の中に渦を巻く。
白装束に包まれた、果実のような膨らみ。
豊満。形も整った極上の逸品である。
一体どんな感触なんだ? 栞さんはどんな反応を見せてくれる? 魅惑的なそれは、脳内を妄想で埋め尽くすには充分過ぎる代物で。
「し、したくないと言えば嘘になりますが」
拒絶などできるはずもなく。
「させません!」
人差指二つでバツマークを作り、頬を膨らませる栞さん。
俺はからかわれていたのだ!
「……く、くそ、こんな簡単に俺は……」
「ていうかそんなことより曲なんだけど。どうしよ、あたしがこの場で歌えばいいのかな。やだ、ちょっと恥ずかしいなぁ」
羞恥心やら無駄になった期待やらをそんなことの一言で片付けられるのは不服だったが、音楽の話は、俺も真剣にならなければいけない。
「……それは聞くほうもちょっと恥ずかしいですけどね。……そうだ、楽譜書けます?」
「知識はあるし、触れられるペンがあれば……ね」
栞さんは机に転がっていた鉛筆に手を伸ばした。が、鉛筆は手をすり抜けた。逆か。手が鉛筆をすり抜けた。
「ん、やっぱ触れないなぁ」
「……」
嫌な汗で後頭部が痒い。
手品や目の錯覚ではない……はずだ。流石に今のを見て、それでも彼女を単なる奇人と言い続けるわけにはいかない。
これ、まさか本物の幽霊なのでは?
「……ん? どうしたの?」
「な、何でもありませんよ! そうだ、足で書くのはどうですか? 床を踏めるということは、頑張れば」
「踏んでるように見える? こう見えて、実際は触れてないんだよ」
栞さんは潜水するかのように、床の下へと潜った。しばらくして、天井から足が生えてくる。引っ張ると栞さんが抜けた。
「ドア要らず。便利でしょ」
あ、本物だわ、これ。
音楽の仕事をガチ幽霊に依頼されたのか、俺。それにしても全然怖くないのは何故だ。俺がおかしいのか。それとも栞さんがおかしいのか。
「……ところで、決まっているのはメロディだけですか? コードとかドラムとか楽器の構成とかは……」
「決まってるよ。譜面には残してないけど、演奏できるレベル。っていうか、もう既に演奏しちゃってます」
それで、思い出した。
幽霊楽団。結構前から、この辺りでは有名だったらしい怪談話。
最初にそれが目撃されたのは九年前。証言によればそれは、十歳くらいの可愛い幽霊が率いる、白装束の集団だったそうだ。
午後三時、終電を逃した酔っぱらいの男が呑天駅周辺でうたた寝をしていると、誰もいないはずの駅で音楽が聞こえてくる。どこかスピーカーから流れているのかとも考えるが、音は立体感を持って耳に届いてくる。
それはまるで生演奏のようだったという。
メロディは心地よく、男はそのまま眠ってしまった。
後日、彼から話を聞いた彼の娘が、真相を確かめようと、一人の友人を連れて同じ時間に同じ場所に向かった。
娘には何も見えなかったし、何も聞こえなかった。しかし娘の友人は、楽器を演奏する幽霊の姿が見えるという。
娘は半信半疑だったが、友人は悲鳴を上げ、突然走り出して車道に飛び出してしまい、トラックに轢かれて死んでしまった。
「いやいや! それは飛び出したほうが悪いってば!」
話し終えるや否や、栞さんは腕を組み、怒ったように言った。
「あたし達は目視されることが少ないから、嬉しくなって追い掛けたら逃げられたってオチよ」
「……もしかして、と思いましたけど、本当に楽団員なんですね」
当時十歳ということは、噂にも登場するリーダーじゃなかろうか。
偏見で幽霊を恐れる気持ちが招いた、悲しい事故……? いやいやそれは無理がある。どう考えても、自分の立場を分かっていなかった幽霊が悪いんじゃないか? 普通の人間に追われることでさえかなり怖いのに。
「しつこく追い掛けたのには他にも理由があるの。その二人は楽器を持っていたの」
「楽器?」
「楽団員の多くは楽器のある場所にしかいられない。だから、楽器を持った人間が通り掛かるのは、旅をする絶好のチャンスということだよ。地縛霊……とはちょっと違うかな。言うなれば『器縛霊』ってとこ」
「起爆? で、だからって何で追うんですか」
「駅前の楽器屋から離れ過ぎたんじゃないかな。そうなると彼らは、彼女達の持っている楽器の近くにいないと成仏の危機」
成仏してしまえば良いと思うが。
そこで、ふと部屋のギターに目が向く。
「……じゃあ、栞さんは」
「昨日のあたし、バンドマンのベースに掴まって移動していたんだよね。そしたらふとギターの気配を感じて、退屈しのぎのつもりで立ち寄ったの。まさか、その持ち主があたしを目視できるとは思わなかったよ」
感慨深そうに語る栞さん。
つまり、俺が楽器を持って外に出るか、楽器を持った誰かがここを通らない限り、栞さんはここに居続けるということだ。
「まあ、別に悪いことするわけじゃないし、いいでしょ?」
俺はその栞さんの頭を指で弾いた。
「きゃんっ!」
「さっさと入力しちゃいましょう。とりあえず、鼻歌でどうぞ」
「……はは、よっぽどあたしを追い出したいんだなぁ……」
軽く自分の頭をさすりながら、栞さんは笑った。