4-6
轟さん宅での生活は、多分、自由そのものだった。
何もしなくていい日々。本を読んだりアニメを見ることよりは、ゲームで時間を潰すことが僕の性には合っていた。自分の意思で動くことで、何となく、前に進んでいるような気分になれる。ただ、結局のところ、それは慰めに過ぎない。
自由。解放的。小学校に行く必要のない小学生。
唯一の不自由は、玄関の外に出てはいけない、ということ。
僕はいつの間にか、服を買いに行くという約束にすがっていた。
日曜日。朝の六時に目を覚ました僕は、寝袋に入った轟さんを転がす。
「朝だよ」
「んん……あぁああ……寝かせろぉ……」
「服買いに行くんだろ」
「まだ早ぇよ……デパートは十時開店だから……」
朝日が差し込む。
僕は外に出たくて、落ち着いていられない。
◇
結局、家を出たのは午前十一時。
呑天の駅から直行バスに乗って、轟さんと二人で大型デパートに辿り着く。
バスも街も人だらけで、デパートの駐車場は車で埋まっていた。家族連れ、カップル、若者のグループが主。僕ら二人のような構成は珍しい。
「先に言っとくけど、私はあんまり大金持ってないから、馬鹿高ぇもんは買えない」
「うん。……あのさ、僕がもし九年後の姿に戻ったら、買ってもらった服は無駄になるよね?」
「子供の服ってそういうもんだろ? お前が気にするなら、戻ったときに請求するよ。……何だよ、元に戻りたいのか?」
「……そういうわけじゃないよ」
嘘を吐いたわけではない。ただ、本心でもない。
砂谷の言葉が本当なら、僕はすぐにでも戻れる。
……僕の行動次第で、未知なる九年後……本来の自分に戻れてしまう。
食品売り場からエスカレーターに乗る。上に運ばれながら、僕は辺りを見渡す。
どこに目を移しても人がいる。人の数だけ、光が見える。
オーラとか、精神力とか、才能とか。
……多分、僕が見ているのはそういうものなんだと思う。
僕は炎を連想した。
命が燃える。赤に。青に。黄に。虹色に。
しかし、星々が輝くのは夜。太陽の見えない時間だ。
フードコートの真ん中で、僕は立ち止まった。
遥か先に、強烈な光が見える。
「どうした?」
「……向こうに……」
僕は、光を指差した。
「ゲーセン……? 行きたいのか?」
「そうじゃない。向こうに、アマノさんがいる」
「ソラガミが? ……見えるのか?」
「姿までは見えないけどね。右目に光が映るんだ。あの眩しさは間違いないと思うよ」
「そうか。……厄介なことになったな」
轟さんは頭をくしゃくしゃと掻いて、溜息交じりに僕を見た。
「見えたらダメだった?」
「いや」
彼女は首を横に振った。
「むしろ警戒できて助かる。子供一人で出歩いているわけじゃねぇだろ。瀬尾や星熊はマシなほうだが、何かの間違いで叢雲なんかがいると厄介だ。近くにいるか?」
「流石に、そこまでは分からないよ」
太陽を見ているようなものだ。
近くの星々の煌めきなんて、かき消されて見えない。
その光が、本当にオーラとか、精神力とか、才能だとすれば。
僕がアマノさんに挑むのは無謀なのかもしれない。
「会いに行くか?」
轟さんが言った。
「……いいの?」
「はっきり言えば嫌だよ。無難に買い物済ませて帰りたいのが本音。だが滅多にない機会だ」
そう言って、先に歩き出した。僕はその後に続く。
歩きながら、頭の中で第一声を考える。会って、どうするのかが分からない。
アマノさんはベンチに座って、他の人のプレイ画面を観戦していた。
彼女の視線が動き、こちらに向く。
「あ」
気付かれた。後戻りはできない。
周囲には、他に知った顔は見えなかった。
轟さんがふと立ち止まる。と、僕の背中を押して耳打ちする。
「私は邪魔だろ。見守ってるから、二人っきりで話してこい」
同じような境遇の少女。でも、今は敵同士。
仲良く話したいわけでも、憎たらしく挑発したいわけでもない。
彼女は座ったまま、ぼやっとした顔が僕を見上げる。
白い髪に、白いカーディガン。黒のスカートに、黒いタイツだか靴下だか。
「……一人?」
迷った挙句、ただ、気になったことを質問するだけ。
アマノさんは首を横に振った。
「……瀬尾さんと透生さんと、あと、叢雲さんもいるよ。でも今、私は迷子」
投げやりな言葉。
「迷子って……はぐれたのか」
「逃げてきた」
「は? 虐待でも受けたのか?」
「まさか! あの二人は良い人達だよ?」
僕の反応を面白がるように、彼女は微笑した。
「でも別に、あの人達の元に帰らなきゃいけないわけでもないから。……現にそっちは別の人のところに住んでるでしょ」
「僕の場合は、他に居場所があったよ。ぽつんと一人になってたら、もっと困ってる」
「困る?」
「困るよ。衣食住は確保しないと、生きていくだけでも大変だろ」
地球にポツンと残された宇宙人。そんな物語が思い浮かんだ。
それは、まるで実際にあった出来事のように、明確に頭の中を走っていく。
僕は、それを作っているのか。
それとも、思い出しているのか。
「……私は、そこまで明日に執着はないかな……」
アマノさんは言った。
未来を蔑ろにする言葉。
僅かな沈黙の後、彼女は微笑んだ。
自虐とも煽りとも。作り笑いであることをわざと教えるような、無機物みたいに完璧で、血のぬくもりのない微笑み。
類稀な光を宿した少女の、その無気力が許せない。
「――悟りでも開いたつもりかよ」
直後、僕は彼女の胸ぐらを掴んでいた。
一瞬驚いた顔をした後、彼女はあかんべえをしてみせた。
僕は彼女の頬を殴った。
直後、殴り返された。
「お、おい! お前らやめろ!」
遠巻きに見ていた轟さんが叫んだ。
周囲が騒然とする。何事かと集まる大人達の声。
掴み合い、殴り合い。
アマノさんは足を絡めて僕をひっくり返し、反撃に転じた。僕は彼女にへばりつく。
床を這うように暴れて、叩き合い、引っ張り合いの泥仕合。
僕が悪い。
全く言い逃れができない。
それでも止まれない。
黙っていれば完全な被害者でいられただろうに、アマノさんも反撃をやめない。僕の腕に噛み付いて、八重歯が僕の肌に食い込む。
怯んじゃ駄目だ。踵で、彼女の尻だか太ももだかを何度も蹴る。
吠える声が、どっちのものだかよく分からない。
十秒、あったかどうか。
にわか雨みたいな、暴力のぶつけ合い。
騒ぐ大人達。
「やめろ餓鬼共!」
「保護者いない? ねえ保護者」
「あぁあ! 瀬尾さんこっち!」
「って何どういう状況! 轟さん何ビビってんの子供の喧嘩くらい止めなさい!」
栞と瀬尾さんの声も混じる。
誰か大人の腕が、僕らを力ずくで引き剥がした。
涎と涙と血が、納豆のように糸を引いて、僕らを繋いでいる。アマノさんは見知らぬ大人に背後から引っ張られ、僕から離れていく。
「医務室に連れてって。そっちの男の子も」
見知らぬ大人の指示。去り際。鼻血を垂らして涙で顔を汚しながらも、彼女はどこか挑発的で、楽しそうな微笑みを見せた。
僕は、こんなに必死なのに。
何で、そんな顔ができるんだよ。
怯えて欲しい。憎んで、殺意を感じて欲しい。
震える歯を食いしばって、僕は彼女を睨み付ける。
轟さんが、いかにも恐る恐るといった感じで、僕に言う。
「大丈夫か……?」
「うるさいっ!」
感情が収まらない。興奮している。鉄臭い。
◇
「ま、狭い場所だったし、お互い無意識に手加減してたんでしょ。寝転がった状態からのパンチやキックには、ロクに力が入らないし」
「いや、でも念のため病院行ったほうがいいって」
「轟さんよく考えて。この子達には保険証がないのよ」
「……大丈夫か?」
轟さんが僕に問う。
「大丈夫だよ」
笑って返事をしようとしたけど、表情が強張ってしまう。
屋上。建物の中と繋がる出入り口の付近に自動販売機があって、あとは一面、広い駐車場になっている。光を反射する灰色の空間に車。
包帯と絆創膏で軽い手当を受けた。
瀬尾さんの言うとおり、僕らは多分、無意識に手加減し合っていた。……お互い顔に当てた、最初の一撃を別にして。
「……一気にブスになるよな」
「お互い様」
鼻血を止めるために詰めたティッシュを、互いに笑い合い、貶し合う。
僕とアマノさんと、透生さんと瀬尾さんと、栞と轟さん。
誰と誰が敵同士で友達同士なんだか、結局、よく分からない。
車と車の間はまるで路地のようになっていて、僕はその光景に住宅街を連想した。高い壁に覆われているから、僕の背丈では景色を見ることもできない。上に空が見えるだけだ。
「ごめん、そっか、休日か。平日は車が少なくて、もっと開放的なんだけど」
栞が言う。呆れたように轟さんが笑って、
「お前、普段一人でここ来んの? 何かちょっと……どうなんだ?」
小馬鹿にするような声。
「そんな痛い人を見る目しないでください。ピクニック感覚です」
「一人でピクニック行く奴なんているか?」
「そう言われると……そうですね」
案外、あっさり折れた栞。
「駐車場なんて大人数で来る場所でもないけどな。俺ゲーセンで遊んどきたかった」
透生さんが言う。
「いいじゃない青春っぽくて。男子は透生くんとアマノくんだけなんだし、もっと喜べば良いのに。アマノくんもさ。せっかくなんだから、子供のうちに性的ないたずらを」
「やめろ」
コートとその下のシャツの裾をめくって、ヘソをチラリと覗かせる瀬尾さん、の頭を、透生さんが筒状に丸めた求人誌で叩いた。
触れたくなるような、綺麗な肌。
僕の視線は一瞬そのヘソに釘付けになった後、誤魔化すようにアマノさんを見る。
彼女は僕達に背を向け、僅かに顔を上に向けて、危なっかしく歩いていた。
一歩、また一歩。ゆっくりと、距離が開いていく。
「嫌われてるのかしら。透生くんが」
「都合の悪いことを全部俺に押し付けて解決しようとするな」
「ま、嫌われているだけなら問題ないんだけど。ああ、もう、そっくりだなぁ……! 自分から距離を取ろうとする。あれはSOSのサインよ。というわけで、助けに行ってあげなさい」
瀬尾さんは僕の背中を押した。
「……僕が?」
「仲直りの良い機会でしょうが」
「絶対、逆効果になると思うけど……」
「まあ、その辺は私の知ったことじゃないし」
無責任な言葉。轟さんとはコミュニケーション能力のレベルが違う。どんな発言も、彼女の余裕から生まれてくるように思えて、僕は彼女に逆らうのをやめた。
渋々、アマノさんを追いかける。
そして後ろから腕を掴むと、彼女は振り返ると同時に僕の頬をはたいた。バチン、と綺麗に衝撃が走る。
「――痛っ! いきなり叩くことないだろ!」
掴んだまま、握る力を強くする。
「さっきいきなり殴ってきたのも、たった今いきなり腕を掴んできたのもそっちじゃん!」
彼女は早速叫ぶように言うと、力ずくで僕の腕から逃れた。
また背を向けて、今度ははっきりした足取りで、僕から離れていく。
SOSだと言われても、僕にはどうしようもない。大体、僕はむしろアマノさんの敵で、追い込んで、傷付けて、負かしたいのに。
不意に、アマノさんは立ち止まった。そして深く溜息を吐くと、
「……私は、私の生きた九年間を捨てたの」
背中を向けたまま、そう言った。
彼女は言葉を続ける。
「死ぬことって、未来を失うとか、生命活動が終わるとか」
「うん」
「じゃないんだよ」
「違うのかよ」
「むしろ過去……綴った時間を忘れることだと思う」
「……」
「忘れて、そして忘れられて、人は死んでいく」
「……」
もう一度彼女を捕まえようと、腕を伸ばすも避けられて。
掴み掛かって。避けられて、殺陣みたいに、二人でそれを繰り返す。
徐々に追い詰めていく。
僕が少しずつ前進して、アマノさんは後退しながら僕の手を躱し続け、
「私の九年間は、なかったことになった。……私はもう死んだようなひゃあっ!」
前を見ないものだから停められた車の正面にぶつかり、そのまま反り返る形で、ボンネットに背中を預ける格好となった。
「どんなに才能があっても、背中に目はないもんな」
逃げ場を失くした彼女の胸ぐらを掴む。間違えた。
「……やめて。離して。一人にして。……迷子になって、幽霊みたいに徘徊して、そのうち飢えで死にたい。明日に頓着しない。私はもう死んだようなものだから、本当に死ななきゃ。消えなきゃ! ……そうしたいの」
興奮気味だった声が、徐々に落ち着いていく。
次第に悲しそうな表情になって、泣いてしまった。
自分より強い、と思っていた相手の弱々しい姿。それは下手な強さより、よっぽど僕を惑わした。
砂谷のことが頭に浮かぶ。
助けを求めるとすれば、彼女以外にいない。
「……だったら、生き返すよ」
二人揃って大人に戻れば解決だ。
それでも死にたいなら、もう飛び降りでも何でもすればいい。




