? もう一人のソラ
ええと、どうなったんだ? そうだ、俺は負けたんだ。圧倒されて凍らされて、それ以降の記憶がない。
気付けば、俺は神社にいた。
冷え切った体を引きずり、山の小屋へと戻った。朝の日差しが俺の目を襲う。俺が負の感情に塗れたこんなときに限って、空は雲一つない晴天だった。
……九年前と同じ結果だ。
俺はまた、神童に負けた。
ふざけるな。俺は努力した! 才能? 知ったことか! 怠惰が努力に勝つなど、俺は認めない……!
「いや、落ち着け……まだだ……俺には、もう一つの体がある……」
俺は小屋の中の冷蔵庫を開けた。殺した雨野空の体は、その中に詰めてある。勿論、ただ冷やしてあるだけでは代替用として使うことはできない。特殊な処置によって、雨野空の死体は鮮度を保たれている。砂谷昴にへし折られた体は、大雑把な処置ではあるが、切り貼りをして修復した。
「もう叢雲栞じゃダメだ……!」
体を変えよう。より優れた体が必要だ。
「そうだ、俺はお前になるんだ、雨野空……!」
裸の彼を床に寝かせ、俺も服を脱ぐと、彼の体を抱く。そして栞の体を捨て、雨野空の体に移る。過去、何度もこうして体を移った。俺は顔も名前も捨てて、精神体の『仙人』として今日まで生きてきた。
肉体を入れ替えることなど、手馴れていた。
――手馴れていたのだが。
「ぷがっ」
溶けるような熱と共に、悲鳴のようなものが聴覚に反響する。今まで感じたことのない、どろりとした感覚が侵食していく。
他の死んだ体に入るときは、透き通った水に潜るような感覚だった。この体は汚い。不純物が多い。
まるで、まだ何者かが残っているような。
……何故だ? 君は死んだだろう、雨野空。
「あぷぁぷぁぷぁぷぁ」
出られない。一旦栞の体に戻ろうと試みたのだが、泥水は体に絡んで、俺の精神を逃さない。
声もなく喘ぐ中、感じるのはソラガミへの執着だった。
フィアへの憎悪、嫉妬、羨望、愛情……。ああ、壊れている。雨野空という人間の精神も、壊れていたのだ……。
「がぁぁあああっ!」
熱い。溶けていく。消失していく。まるでバクテリアの海に飛び込んだみたいだ。俺という存在が、分解されていく。
薄れる意識の中、俺は最期に、自らの凡庸さを感じずにはいられなかった。どれだけ努力して、どれだけ人外じみた力を手にしたところで、所詮俺は凡才だったのだ。
雨野空は異常だ。
彼が天才だと言われていた理由も、何となく理解できる。
……天乃宙は、これを超えるというのか……。
◇
目が覚めると、古い小屋にいた。
日光が小屋の隙間から差している。体が冷たいと思ったら裸だ。傍らには栞がいた。死んでいる。いや、お前は九年前に死んでただろ。しかしすぐに思い出す。そうだ、俺は今までその中にいたんじゃないか。
……その中にいた? 『僕』が?
「ああ、俺……俺? 僕?」
記憶がおかしい。失ったわけではなく、むしろ多い。多過ぎて何を参照するべきか迷う。まるで複数人の記憶をごちゃ混ぜにしたみたいだ。
砂谷に殺された? フィアを襲った?
叢雲? 雨野? カイ? ソラ? 栞? 仙人? ……日下?
ああ、日下って誰だっけ……? 俺か?
俺の最初の名前って、何だ……?
「――」
自分が何者なのかが分からない。今の僕は、雨野空でも仙人でもあり、そのどちらでもない何か。仙人は様々な体を移り渡っていた。だが、こんな状態は初めてだ。
ひとまず、栞だった際に脱いだ衣服を着る。
元々は雨野空の服だ。尋常じゃないくらいに汚れていて臭いこと以外、特に問題はない。
ドン、ドン。
小屋の、今にも壊れそうな扉をノックする音がした。立ち上がろうとしたところで扉が蹴破られ、スーツを着た男が入ってきた。上体を起こした僕は、彼と顔を見合わせる。
彼は目を丸くして、首を傾げた。
「どういうことだ? 何故、君まで生きている?」
営業マンがいきなり何を、と思ったら、営業マンはひょいと尻尾を出してみせた。いつかの宇宙人だ、と直感した。僕の目を改造した、栞の父親。
「……ああ、そうか、死んだ僕を回収しに来たのか……」
「ああ。だが生きている以上、回収はしない。たとえ君が何者であろうと。一体、君は何者だい? それとも、君が本物なのか?」
「……いや、僕は死体だ。持って帰れよ」
クカカ、と笑みが漏れた。気持ち悪い笑い方だと、自分で思った。
僕は雨野空の複製を作った。同じ人間が二人以上存在することは許されない。宇宙人が栞になるために、本物の栞が犠牲となったように。
それに、どうせ行き場はない。
「殺せよ……」
僕が雨野空に戻るには、もう一人の僕を消すしかない。だが、そんなことをする気にはなれなかった。僕自身が雨野空という椅子に固執しているのなら、死の間際に複製など作りはしない。
僕にとって僕は、興味の対象にならない。
「……僕のことは殺して、地球侵略のための肥やしにすれば良い」
「データを集めるためには、もう少し長く生きてもらったほうが都合が良い。君をここで殺す理由はない。……しかし、稀有なこともあるものだな。ある意味で貴重な体験をさせてもらったよ」
宇宙人は溜息を吐くと、振り向きもせず小屋を後にした。
俺は? フィアの元に帰ることはできないし、修行をする意味も、もう見出すことができない。
絶望とも違う。ただ、困った。見失っているのだ。自分自身を。生きる目的を。混濁した記憶の中、フィア以外のことに関しては何に対しても興味を持つことができなかった。
そのフィアも、こんな状態の僕を必要としていない。彼女には既に複製のカイがいる。
……フィア、か……。
その呼び方が、随分と懐かしい気がした。
愛していたような気もするし、憎んでいたような気もする。
――会いたい。たとえ必要とされていなくても。
今なら、仙人にもカイにも出せなかった答えが出せる気がする。
◇
雨野空の服のポケットには、携帯と予備のバッテリーが入っていた。既に充電の切れたバッテリーを外し、予備を装着する。幸いにもまだ解約していないようで、通信はまだ生きていた。
アドレス帳から霧生に電話をする。
「はい? 雨野さんですか?」
「今すぐ仙人の小屋に来いと、栞に伝えろ」
「は、はぁ。何かあるんすか?」
「栞の肉体がある。……長い幽体離脱は終わりだ。早く人間に戻れ」
「え、ちょっと、雨野さん?」
通話を遮断。戸籍まで返してやることはできないが、孤立無援だった九年前の宇宙人よりはマシだろう。仲間もいるし、言葉も分かる。人間に戻ったら、叢雲栞は名乗れない。それでもいいなら、戻れ。そして生きろ。
もう使うこともないだろう。俺は携帯のデータを消去し、それから山の奥へと投げ捨てた。
僕は山を降りることにした。
金はないし、服の汚れ方は現代人のそれではない。まるでホームレスだ。それでいて、名乗れる名前もない。
だが構わない。フィアに会って……何なら、それだけで終わろう。一目で構わない。フィアと会わなければ終われない。一度死んだ身が言うのも何だが、生涯を懸けた覚悟だ。
……だが、住宅地へ近付くに連れ、体が震え始めた。一度は失った日常が、精神を締め付けるようだった。雨野空らしからぬ感情だ。僕はもっとドライな人間ではなかっただろうか?
フィア以外に未練なんてなかっただろ。それなのに、何だこの感情は。帰れない。僕は、雨野空には戻れない。
こんなことなら、複製なんか作るべきではなかった。
僕はもうフィアにとって、唯一無二のカイではなくなってしまった。
子供の手元に、壊れたおもちゃはなくなっていて、いつの間にか新しいおもちゃがある。
僕は壊れたおもちゃだ。
要らないと言われるだろう。
「フィア……!」
それでも微かな期待を抱かずにいられない。
きっと歓迎されたいんだ、僕は。
天乃家の玄関チャイムを押す。
フィアが出てきた。白い髪を掻き毟りながら、眠そうな顔で僕を見る。
その表情に、少しずつ不思議そうな色が宿る。
「……カイ……じゃ、ないよね……?」
問われ、僕は言葉に詰まった。
きっと心のどこかで、カイと呼ばれることを望んでいたのだ。
「……僕も、自分が何なのかよく分からない。仙人でもあるし、カイでもある。でも、そのどちらでもない気がする」
「じゃあ、誰なの?」
「……日下」
記憶の最奥にあった苗字を名乗る。
どこか懐かしい心地がした。僕は……日下だ。
「日下? ……日の下……良い名前だね。それで、何をしに来たの?」
再び、返答に困った。
会いに来た。それは確かだ。だが、それだけか?
「……僕は」
望んでいることがある。
挑むんだ。ソラガミに。カイと仙人の、共通の望みだ。
僕は、もうフィアに負けたくない。
「――勝ちたいんだ」
僕は指先から目玉を発射した。
フィアはそれを炎の玉で相殺した。
気付けば、僕とフィアは教室に立っていた。小学校の教室。――僕とフィアが、初めて会った場所だった。
フィアは空間を作ることができる。それは、宇宙空間のような何もない場所に限定されてはいない。
「……ここって」
「さあ、思いっ切り暴れようよ」
フィアの声は……彼女にしては、高揚しているようにも思えた。
直後、炎の玉と青い光の塊が襲ってくる。目玉で相殺する。
「――行くよ、フィア!」
教室の机や椅子を念力で持ち上げ、フィアへ投げ付けた。障害物があるからこそ成り立つ攻撃。しかしフィアは何もない空間からノブを掴み、扉を作ってそこに入った。消えた?
「……と」
後頭部に冷気を伴う感触。
フィアの指だった。また凍らされたくはない。僕は咄嗟にそこから避難する。
教室の中央に立った僕は、机や椅子を縦横無尽に動かし回りながら、目玉を泳がせる。僕を中心に、教室に竜巻が起こっている。そんなイメージだ。
現状は、僕のアドバンテージのほうが大きいように見えるが……。
「……ここじゃ狭いや」
そう言うと、フィアは床に手を付いた。
直後、床に、壁に、天井に、亀裂が入る。――砕ける。瓦礫の雨が降る。
「こっちだよ」
フィアは翼を生やし、瓦礫を躱して上空へと飛翔した。
今なら追い付ける気がした。仙人の努力と雨野空の才能があれば、理不尽なくらいに強力なフィアにもきっと届く。
最後には力尽きて、落下しても構わない。高く、高く、手を伸ばす。
瓦礫を躱しながら、僕も飛翔した。
――勝ちたい。
雨野空でも仙人でもなくなった僕だが、それでもこの感情は死ななかった。
僕は落ちていく。重力に引かれながら、遥か上空のフィアを眺める。
そのとき、僕の生き方が見えた気がした。
まさかの少数章。2.5章はこの一話だけです。
次話から三章開始です。今回の更新でもちょっと触れたように、幽霊と霧生の関係が結構変わります。……といって、別に彼らメインの章というわけでもないんですけどね。
今後ともよろしくお願いします。




