2-9
◇
雲一つない晴天を、久しぶりに見た気がする。しばらく外に出ていない。家で過ごす日々にも飽き始めていた。今日くらいは神社に行こうか。それとも、いい加減にバイトでも探してみようか……。
乱暴なノックの音がした。アパートの呼び鈴が壊れてしまったのだろうか。出ようか、それとも居留守を使おうか。そこに仙人でもいたら困る。もう一度襲われるのは、あまりよろしくないのだが。……まあ、いいか。
玄関を開けると、そこにスーツを着た営業マン風の男がいた。
彼は、僕を見て目を丸くした。
「一体何故、君は生きている?」
第一声がそれだ。営業マンがいきなり何をと思ったら、営業マンはひょいと尻尾を出してみせた。
「君の目に蓄積されたデータを回収しに来たといえば、大体の事情は理解してもらえるはずだ。私が何者かということも、私が困惑している理由も」
その姿は擬態か。だが、栞ではないようだ。
「……日本語は伝わりますか?」
彼はくすりと笑った。
「君は九年前にも同じことを聞いてきたね。我々は今、テレパシーで意思を伝達し合っているんだ。時間が経つに連れて装置も小型化し、どこにいても、誰とでも意思疎通ができるようになった」
わざわざ過去の会話を示唆する発言。
「……栞……エルンの父親? 僕の目を改造した……」
「そのとおり。まさか、君が生きている間に会うことになるとは思わなかったよ」
呆れたように笑い、それから小さく溜息を吐いた。
「何故、生きている? 君は死んだはずだ」
詐欺師を責めるような口調だった。混乱しているのだろう。どう説明しようか、少しだけ迷う。死んだ僕が生きている、ご都合主義のこの状況。
「……ええ、僕は死にましたよ。僕の死体が今どこにあるのかは、僕にも分かりません」
「何を言っている? 君は生きているじゃないか?」
その、普通の人間と変わらないような反応がおかしく思え、僕は少し笑ってしまった。
「僕は複製です。超能力で、自分のコピーを作ったんです」
「どういうことなんだ? 全く意味が分からん……」
彼は、訝しげな目を僕に向けた。
……意外だった。超能力は彼らに与えられた力だと思い込んでいたが、宇宙人ですら、超能力の存在を把握できていないのか? 九年前のUFOと超能力が、全く無関係とは思えないが。
「……僕の目が改造された頃から、この辺りに住む人間の一部が、不思議な能力に目覚めました。能力には全く異なる個性があり、多くの力が、僕らの科学力では解明できない超常的な現象を引き起こすものでした」
「君が使ったのも、その一つか?」
「そういうことです」
任意の場所に、オリジナルと全く同じものを複製する力。フィアから借りていた、一度限りの大技だ。
死ぬかもしれない、と思ったとき、僕は僕自身をコピーした。その後、元の僕がどうなったかは分からないが……ここに宇宙人がいるということは、やはり死んでしまったのだろう。
「分からないな」
と、宇宙人が言った。
「何がですか?」
「不思議な力の存在は分かった。だが、死ぬ間際に複製された君が生きているということは、少なくとも病気で死んだわけではないだろう。事故か……あるいは他殺か? だとすれば、普通は自分の身を守るものを用意するべきだろう」
「……そうですね。銃とか、ナイフとか、味方してくれる超能力者とか」
視界になかろうと、近くになかろうと、何でも手元に用意することができたはずだ。もっと機転が利けば、僕は助かることもできたかもしれない。
「複製の君が残ったところで、オリジナルの君が死んでしまったことに変わりはない。それなのに君は何故、死を前にして『残る』ことよりも『残す』ことを考えたんだ?」
宇宙人のくせに随分普通の質問だ。彼らの考えることは、地球の人間と大差ないのかもしれない。……いや、今更驚くことでもないか。そんなことは、栞を見て、既に気付いていたことだ。
「九年前、宇宙船で娘さんに話したとおりですよ。僕が僕自身に、そんなに興味がないからです」
僕は、雨野空に興味がない。そんなことよりフィアのことが大切だ。
おもちゃだろうが何だろうが、フィアは雨野空の存在を必要としてくれている。そんな彼女から僕の存在を奪ってしまうことが、心苦しかっただけだ。
「死ぬことより、親友が僕を失うことが怖かった。助かるよりもスペアに後を任せるほうが、確実でしたから」
僕の言葉に、彼は引きつった左右非対称の苦笑いを浮かべた。
「命よりも存在意義を選択したというわけか。……理解できないわけではない。だが率直に言えば、私は君が怖いな」
「僕に言わせれば、平気で僕の目を改造したあなたのほうが怖い」
「それは仕事だから仕方がないだろう」
「娘をここに置き去りにしていったのも、仕事だからですか?」
「……ああ、そのとおりだ。子供を住まわせ、内側から我々の存在を受け入れさせる。そういう作戦だ。勿論、当の子供は故郷を離れることを嫌がる。だからエルンの場合は、事実は知らせず置き去りにするという形を取った。……エルンは元気か?」
「ええ。自然に、社会に溶け込めていますよ」
「そうか。……さて、そろそろ、私はここを出よう。君の死体を見つけ次第、また戻らねばならない」
「またいつか」
「ああ。また君が死んだら、この星に来ることになるだろう」
去っていく宇宙人を見送った後、開けた玄関でしばらく呆けた。
複製できたのは自分自身。毛髪や爪は残っていたが、衣類や所持金まで複製することはできなかった。パソコンを部屋に置いていたのは幸いだったが、携帯は死体側にある。
しばらくは死んだふりをしていたほうが安全だという判断だったのだが、おそらくは昨晩の騒ぎで決着はついたのだろう。
久しぶりに外へ出て、フィアに会いに行くことにした。
天乃家の玄関チャイムを押すと、フィア本人が出てきた。
「おはよ、カイ。……久しぶり」
「何かあっただろ、昨日。凄い音が聞こえてきたけど」
「仙人と砂谷昴が来たんだ。二階を壊して、私を殺そうとした。でも、蹴散らしたよ。二階も、『元に戻した』」
「……そう、か」
「うん」
それがどうしたのか、とでも言いたげな、余裕の表情だった。フィアにとって仙人が来ることは、十三日の金曜日が来て過ぎていくことと同じくらい、どうでもいいことだったんだろう。
フィアは高いところにいて、僕はそれを見上げている。
僕を圧倒する相手を、フィアは圧倒するだろう。何を企んで、どんなに綿密な準備をしたところで、仙人はフィアには勝てない。
「神童、か」
僕が言うと、フィアは少し、むっとした。
差があることが悔しい。僕はフィアと同じでいたかった。僕が砂谷に殺されるなら、フィアも砂谷に殺されて欲しい。フィアが仙人を圧倒するというのなら、僕だって仙人に勝ちたかった。
「……実は少し嬉しかったんだ。仙人に襲われること」
フィアは、自嘲気味に笑んだ。
「ここまで手を伸ばしてくれる人って、貴重だから……」
「僕だって、届くなら手を伸ばすよ」
飛べるなら、僕だって飛ぶ。その高さまで辿り着く力が僕にあるなら、たとえ力尽きて、最後には落下するのだとしても、地上を発つ。
ふと、玄関に見慣れないスニーカーがあることに気付いた。
フィアのものではない。弟のものかと思ったが……。
「あの靴って、誰の……」
「砂谷昴の靴。和室で眠ってるよ」
フィアは四つん這いになって廊下を移動し、和室の入り口を開けた。僕は勝手に家に上がって後を追う。
和室には布団が敷いてあって、そこに昴が眠っていた。
「超能力は私が回収したけど、精神的にまだ危ないと思うよ。……どうしようかなって、考えてたんだけど……」
「起きたら僕が送っていく」
フィアは不安げな目を浮かべた。
「大丈夫かな。もし錯乱状態だったりしたら、家族の手に負えないかもしれないよ? 私の家は広いから、しばらく様子を見ても良いかなと思ったんだけど」
珍しく、面倒見が良い。実際にここに置いておくのだとすれば、結局は弟が彼の面倒を見ることになるような気がしたが……。
フィアなりに、超能力を貸した責任を感じているのかもしれない。
「……まあ、大丈夫だよ」
彼が異常な目に遭っていることは、彼の姉も知っている。もしどうにもならなければ、そのときに相談を受ければ良いことだ。
◇
昴は、今日中には起きるだろう。
僕らは和室にブラウン管と古いゲーム機を持ち込んで、格闘ゲームで遊ぶことにした。コントローラー捌きや読み合いはフィアのほうが上だが、この手のゲームにはある程度のじゃんけん要素がある。運さえ味方に付けることができれば、僕でもフィアに太刀打ちできるということだ。
「勝率は七対三、くらいか……」
フィアはそう言って、欠伸をした。
「三割負けておいて、その余裕はどうかと思う」
「ふふ、七割負けてるくせに」
「ここからだ、ここから!」
「おはようございます」
声がした。首だけで振り向く僕らに、布団に座った昴が会釈をする。
「ゲーム、する?」
フィアの誘いに、昴は首を横に振る。
「いいです。……それより、申し訳ありません、でした」
「悪いのは仙人と、君に能力を渡した私だよ。……君は被害者。私こそごめんね」
フィアが白い頭を掻き毟った。
僕はコントローラーを置き、昴に告げた。
「送るよ。お姉さんが心配してる」
「……はい」
視線がやや下を向く。憂鬱そうな声。
僕は、彼の日常が必ずしも明るいものではなかったことを思い出した。仙人によって壊されていた時間は、彼にとっては逃避になっていたのではないだろうか。まともになれば、また現実を直視しなければならない。
「辛くなったら、私達のところに逃げておいで。そのときこそ、君にふさわしい力を貸してあげるから」
フィアは昴に言った。
「おい。……懲りないな」
僕が口を挟むと、フィアは頷き、悪戯っぽく微笑した。
住宅地を、昴と二人で歩く。
フィアは面倒臭がって出てこなかった。どちらかといえば、フィアのほうが彼と上手くコミュニケーションを取れている。できれば来て欲しかったのだが。……僕は、彼に何と声を掛けようか迷った。昴は無言だ。割と積極的に喋ってくる霧生とも勝手が違う。
「……どうせなら、フィアのほうが良かっただろ」
気まずい沈黙を破ろうと、僕から声を掛ける。
「いえ……あの人は、ちょっと怖いですから……」
また一人、フィアを恐れる人間が生まれてしまった。僕は苦笑する。恐れることが、本当は正しいのだろう。怖がって逃げ出す。それが正解だ。
「怖いかな、あいつ」
僕は彼に問う。
「怖いです」
「僕は、君のことも怖いけどね」
言うと、彼は申し訳なさそうに俯いた。
「……あの、何で……その、あなたは生きているんですか?」
「何でって」
「だ、だってその、へし折ったから。……すいません、何か」
当時の記憶が彼の中に残っていることが、少し意外だった。へし折ったって、一体何をだろう。少なくとも、折れば死ぬようなものなのだろうが。
「助かったのは、フィアの力のお陰だよ」
一から説明する必要は感じなかった。僕は複製で、殺された僕は死にっぱなしだなどと言えば、無駄に罪悪感を刺激してしまいそうだ。
「フィア……さんって、まるで神様みたいな人なんですね」
「神様だからね」
「そうなんですか?」
真面目な顔をして、彼はそう返してきた。神だ、と信じ込ませようと思えば本当にできてしまいそうだった。
嘘を吐くのは気が引ける。思い込んでくれたら都合が良い。
それ以上、フィアについての言及は避けることにした。
「フィアのことよりさ。……結構、気持ち良かっただろ?」
「な、何がですか?」
昴は素っ頓狂な声を上げた。
「壊れるのが、だよ。普通じゃないことが免罪符になって、どんなことをしても許されるような気分になる」
「……そう、ですね」
認めたくないのか、その答えは躊躇いがちだった。それからはっとして、僕の顔を見る。
「壊れたことが、あるんですか?」
「……人並にね。恋も憎悪も、ある意味で故障の一種だろうし」
僕は、そんな言葉で誤魔化した。
角を曲がると、砂谷のアパートが見えた。もうすぐ、この時間も終わってしまう。昴にとっての非日常は、これで終わりを迎えるのだ。
「……明日から、また学校行かないといけないんですね……」
憂鬱な声。
「フィアの言うとおり、辛ければ逃げたらいい。……何ならまた壊れたらいいよ。車のバンパーみたいに、上手に壊れたら良いんだ」
修復できる程度に傷を付ければ良い。上手に甘えて、言い訳に逃げて、免罪符を振りかざせば良い。僕は……他の誰もが上手く逃げていく中、フィアを直視し続けてしまった。逃げれば良かったと思うこともあった。だがもう遅い。
「上手に、ですか」
砂谷が、僕の言葉をなぞる。
「上手に、ほどほどに」
「……また、いつか」
「ああ、うん。……またいつか」
アパートに帰っていく彼を見送る。
フィアと仙人が起こした一連の騒動は、こうして幕を閉じた。




