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永束には、二人の神様がいる。
一人は才能を見極める神様。もう一人は才能を与える神様。
僕が中学生の頃、そんな噂があった。
最初に流したのは、僕だ。
入学直後に大学を辞めて、五ヶ月が経とうとしていた。
アルバイトが終わると石段を登り、永束神社の本殿で夜までの時間を過ごす。そんなことが、すっかり日課となっていた。
賽銭箱より少し奥で寝転がり、ノートPCを触る。何か大事なことをしているわけではない。暇潰しの地雷探しゲーム。
バッテリーが切れたら帰ろうと決めた。それから数分もしないうちに、PCは眠ってしまった。僕は荷物をまとめ、凸凹した石段へと足を向ける。
石段を脇に逸れた辺りには広場があって、休みの日には子供が野球なんかをすることもある。ホームランが出ると、近隣の民家に謝りに行かなければならない。少し窮屈な環境ではあるが、狭い永束の中では、外野フライが打てるだけでもありがたい。
その広場に、高校生が二人。
一人は女。耳を隠す程度に髪を伸ばした、美人と言っても差し支えない容姿の女。もう一人は野球のユニフォームを着た、見るからに高校球児ですと言わんばかりの男。
彼の持つ、銀色のバットが空を斬る。金属バットが架空のボールを捕捉。その鋭い音に、僕は一瞬だけ目を奪われた。
風を纏う、鬼神の金棒。
しかし自転車の荷台に座った女は、男の素振りを、まるで同情するかのような顔で見ている。
……まあ、確かにそうだ。
スイングこそ美しかったが、僕の目は、彼の中に野球の才能を見出すことができなかった。
僕の目でなくとも、しばらく一緒にいると分かるのだろう。
女は、その努力が報われないものであることを悟っているらしかった。
帰りにフィアの家に寄った。
インターホンを押すと、フィアの弟が玄関を開けた。
「姉ちゃんっすよね。今眠ってますけど、起こしましょうか?」
「……いや、いい。今日は帰るよ。……いいって、あの、こら、おーい」
僕の制止を全く意に介さず、彼はひょいひょいと二階へ上がる。
この一連の流れが、僕達の日課の一つと言っても過言ではない。
目覚まし時計を鳴らし始めた。ギャアアアと怪物のように叫んだフィアは、数十秒後、髪ボサボサの状態で、四足歩行で階段を下りてきた。
その灰色のパジャマを見ていると、気力が失せていく。
「何の妖怪だよ……」
率直に感想を漏らす。
「今更何言ってんの。それに、私は妖怪じゃなくて神様だから」
「自分に様を付けるなよ」
「じゃあ神。これで満足か?」
「……満足」
「否定してよ。神を自称したんだよ? 『頭おかしいんじゃないの?』みたいなこと言ったら良いのに」
「神みたいなもんだろ。実際」
「……ま、そうなんだけどね」
ぱちん。フィアが指を鳴らす。
ふわり、と不思議な浮遊感。
気付けば、僕らは闇を漂っている。
元の世界を脱して、フィアの作った異空間に浮かんでいるのだ。
数ある能力の中で、特にフィアが気に入っている力。それが、異空間を生成する力だ。ここはフィアが今作った、できたての空間。
僕らが二人だけで向かい合う、ただそれだけのために作られた宇宙だ。
「……それにしても、何だか今日は元気ないねぇ、カイ」
心配された。と思ったが違ったようだ。
初めて顕微鏡を覗く子供みたいな、好奇心に満ちた笑顔。
「元気がないように見えるか?」
「うん、かなり」
「……別に、そんなことないけど」
「ひょっとして自覚ない? 今日の君、すごく暗い顔してる」
ちょっと反発を試みたが、フィアを誤魔化すことはできない。
実際、僕は気付いてもらいたかったのだろう。
「……ちょっと、神社で見たくないものを見たんだ」
「辛いね」
フィアは言った。同情するような言葉の中に、どこか芝居臭さが混ざっている。
「何を見たかは聞かないのか」
「ううん、聞く。……それは、カイの目にしか見えないもの?」
「まあ、ね」
僕は頷く。
フィアは、うっとりした目を僕に向けた。
「いいなぁ、その目」
「お前が人のものを羨ましがるな」
「……分かってるよ」
フィアは少し自嘲的に微笑み、それから自分の手の平を見た。
「私は神童で、みんなの欲しいものを余る程持ってる。だから、羨めば疎まれる。そう言うんでしょ?」
まるで先天性の障害を抱えたみたいに、自身の才能を蔑む。
あの高校球児のことが、余計惨めに思えてしまった。
◇
宇宙。
……私の作る、精神世界。
この精神世界を漂いながら、カイと一緒に消えてしまいたい。
そんなことを思わないでもない。
生きる理由もなければ、死ぬ活力もあまりない。何となく、時間を過ごしている。そんな綱渡りの綱が、カイの存在なのかもしれない。
……なんてことを、最近考える。
カイのことを一言で表せば、変な人だと思う。
わざわざこんな私に構うのも変だし、才能を視ることができるなんて、変てこりんとしか言えない。
でも、自分でも変だと思えるくらいに変な私にとって、自分と同じくらい変な彼は、貴重な存在だ。私は、カイが大好き。ゴキブリみたいに黒い髪も、男にしてはちょっと細い体も、時々虹色に輝く虚な瞳も。全部好き。
宇宙。
……私の作る、精神世界。
一緒に消えよう、と言おうかとも思ったけど、やめた。それを言ったら、きっと彼は迷いなく頷いてしまう。だからやめた……のだと自己分析。
本当のところは、私自身にもよく分からない。
「二人っきりだね」
私はカイに語り掛ける。
「いつものことだろ」
彼は素っ気なく答えた。
格好付けているわけじゃなく、ちょっと照れている。その態度が好き。
カイはどうなんだろう。彼に飽きられたら、私はきっと死ぬ。むしろそれが自然な成り行きだと思う。
私が生きていることは、そもそも変な状態。
漂う宇宙空間の中で、私はカイに抱き付いた。
カイは驚いた様子でギャアと奇声を上げた後、息を荒くし、すごい力で私を振り払った。ああ、顔が真っ赤。
たまらなく、彼の存在が愛しい。
十年前、カイは永束に引っ越してきた。
転校生として挨拶する姿を見て、私は彼に「聡明な少年」という言葉を当て嵌めた。嫌味や蔑称ではない。事実、彼は賢かった。周囲に優秀な人間がいなければ、彼は特別な存在となり得たと思う。
でも、私がいた。
だから、カイの人生は私に狂わされた。
カイは私に敵意を向けた。
その一年後、UFOが現れて、カイは改造された。
永束には、二人の神様がいる。
一人は才能を見極める神様。もう一人は才能を与える神様。
私が中学生の頃、そんな噂があった。
――その噂は事実だ。