2-5
九年前、あたしは死んだ。
行き交う人々が、幽霊になったあたしに気付くことはなかった。
透明人間になったら……。そんないつかの空想が、ほとんど現実のものとなっていた。一つだけ違うのは、触れられないことだ。
誰に説明されたわけでもなかったが、楽器に執着することで、あたしは存在を保っているらしかった。生きている間には何の興味もなかったギターに、あたしは憧れている。
そんなわけで、幽霊になったあたし……こと、叢雲栞は、しばらく誰にも気付かれることなく、楽器屋『巽』の入口付近で胡座を掻いていた。
叢雲書店から出てきた雨野は、ふとこちらに目を向けると、真っ直ぐあたしのほうへと歩み寄ってきた。何かの間違いだと思った。あたしは透明で、誰の目にも留まることはないはず。
なのに。
「栞」
名前を呼ばれた。……ぬぉおおおわあああ! 見えてます見えてます! 雨野空にはあたしのことが見えてまぁあああす!
念のために振り返るも、そこには楽器屋の壁があるのみ。生前にもこんなに喜んだことがあっただろうか、という勢いで、あたしははしゃいだ。
「あ、雨野! 気付いてるよね気付いてるよね気付いてるよね!」
「気付いてるから落ち着け」
「何で? 何で見えてんの? 他の人は全然気付かないのに!」
興奮して彼の手やら顔やらをベタベタ触る。触れる! ちゃんと感触があることが嬉しくなって、つい彼のことを触りまくってしまった。
「ストップ、ストップ。……何でと言われたって、僕にも分からないよ。宇宙人に目を改造されたから、もしかしたらその影響かもしれない」
「サイボーグってこと? カッコイイ!」
「……栞って、その辺の感性が子供っぽいよね」
「え? そ、そうかな。そういう君が老け過ぎなんだよ、きっと」
久しぶりに誰かと話せたことが嬉しくて、あたしは興奮していた。こうしてたまに彼と話して、いつかギターを弾いて……。未来への空想が膨らむ。ああ、こんな状態でも何とかやっていけるかもしれない。
そう思ったとき。
「仙人退治をしようと思うんだ」
雨野が、そう口にした。
◇
永束の山の麓にあった廃ビルが、一夜にして倒壊した。
朝、僕を叩き起こした霧生からの着信は、僕にそんな情報を流し込んだ。眠気が飛んだ。おそらく砂谷の仕業だろう。
「これって例の超能力者の仕業ですよね。一応伝えておきます。……そうだ、古川がカイさんのところに行ったと思うんですけど、どうでした?」
「役に立ったよ。敵は砂谷昴で間違いない。ただ、残念ながら自宅にいないんだ」
「え……、行方不明ってことですか?」
「そういうことだよ。それと、協力者がいる。……というより、そっちが黒幕かもしれない」
「利用されているということですか。それで、打つ手はあるんですか?」
「砂谷昴一人なら僕だけでもどうにかなると思っていたんだけど、他の誰かが絡んでいるとなると、自衛もできない僕じゃ何もできない。次に壊されそうなポイントを絞って、メイドラーメンの連中に張り込んでもらおう」
「……分かりました。調べてみます」
通話を切った後、家から出る。目的地はない。晴れと曇りの間くらいか。去り切らない雲、乾き切らない地面。風が肌寒く、眠気が飛ばされた。
一軒家、アパート、一軒家、一軒家、アパート。進んでも進んでも似たような景色が続く。ベッドタウン。眠るためにあるような街。幾つもの密室に人々が引きこもっている。何か事件が起きたところで、誰もすぐには気付きそうにない。
――協力者、か。
暴走している砂谷を、何者かが導いている? いや、暴走そのものが、何者かによって引き起こされた事態なのではないだろうか。
一人、男の顔が思い浮かんだ。
他人の事情に首を突っ込み、乱暴な解決策を提示し、それを強行してしまうことで余計に事態をややこしくする愉快犯。
神社へと向かう。
本殿の裏には林があって、木々を掻き分けて進んでいくと、ひょいと山道の途中へと放り出される。その道をしばらく登って、ふと外れた先に小屋がある。
かつてはそこに、男が住んでいた。九年前、彼は子供に退治された。そして山のさらに深いところまで逃げて、今でも修行の日々を送っている……はずだ。
ここに来たのは彼に会うためではなく、単なる散歩、のつもりだった。
「ちょうど良いところに来てくれたね、アマノソラくん」
女の声がした。女?
「近々、会いに行こうとしていたところさ」
◇
「仙人」
カイさんとの通話の後、ふと栞さんが言う。朝のホームページ巡回の作業に戻ろうとしていた俺は、一旦パソコンから栞さんへと視線を映した。
「……はい?」
「いや、電話の内容、聞いてたんだけどさ。一人いるんだよ。ゴタゴタに首を突っ込んで、余計にごちゃごちゃさせる男が」
ベッドの上で大の字になっていた栞さんは、上体を起こし、両手を組んで人差指を立てた。カンチョー。
「仙人だよ、進くん」
それは忍者のポーズなのでは? そもそも仙人に固有のポーズなんかあったっけな。ないよな、多分。
仙人。固有名詞という感じはしないが。
「それって、二つ名ですよね? 楽団長とか神様とかと同じような……」
「ん、まぁね。ただ彼の場合、年季が違うよ」
栞さんは頷いた。年季?
「山奥で修行して『努力』の末に不思議な力を手に入れた男の噂が、この街には昔からあった。不老不死で、精神はいつまでも子供のまま。たまに麓で愉快なことがあれば、人里に下りてくる。当然お伽話だと思われていたみたいだけど、街が超能力者だらけになった今は、どんなに信じられない話でも簡単に否定することはできない」
「その噂の男が、仙人……?」
「うん。でも、精神は子供でね。めちゃくちゃな理屈を掲げては好き放題していたみたい。挙句あたしを殺して……それが、仙人退治のきっかけになった」
仙人退治。童話のタイトルみたいだな。
「あたしが死んだことに、意外にもカイが怒ってね。仙人を退治しようって、超能力に目覚めた何人かの友達に呼び掛けた。子供ばっかりだったけどね。その中には、後にソラガミとして恐れられる天才少女、フィアもいた。天才対天災。勝負は天才の圧勝で終わった。負けた仙人は再び山にこもってしまって、以後、彼の姿を見た者はいない……と言われてるんだ」
◇
彼女は栞に似ていた。
見た目の年齢は僕と同じくらい。布切れ一枚だけの姿は目のやり場に困る。八重歯の尖った、病的に白い顔の女。
クカカ、と彼女は笑った。
「大きくなったね、雨野くん。最後に会ったのは、君が小学生だった頃か」
その笑い方、仕草や喋り方は、栞を殺した仙人とそっくりだった。だが、僕の知っている仙人は男で、あのとき、既に大人だった。
「……その体、まさか」
「君には想像できないだろうが、努力を重ねた末、俺は肉体に縛られない思念体として独立することに成功している。以前の体を捨て、叢雲栞の亡骸をリサイクルしたのさ」
「正真正銘、栞が成長した姿というわけですか……」
十年前に死んだ、幼馴染の体。
一瞬、再会の喜び。だが、すぐに怒りで塗り替える。僕は口を開きかけたが、すぐに閉じた。殺している時点でどうかしているのだから、今更何か言うのも馬鹿らしい。
「君の近況は風の噂で聞いている。……フリーターとは勿体ない。君は昔から、自分の素質を軽く見過ぎだ」
「今はニートです」
「クカカ、本当に勿体ない。そのまま腐っていくつもりなら、いっそ今すぐ死んで、その体を俺に渡せ。なあ、天才!」
高圧的な態度で言った後、彼……? 彼女……? は目にも留まらぬ速度で僕の目前に移動し、僕の額に指を当てた。
直後、体が動かなくなる。固まった足は重力に負け、僕は地面に膝を付いた。仙人は僕の頭を鷲掴みにし、歪んだ笑みを浮かべながら見下ろした。
「下半身に金縛りを掛けた。君はここから動けない」
剥き出しの妬みが目の前にある。僕の命さえ奪いかねない、深い闇だ。僕は仙人を直視しないようにしながら、問い掛けた。
「砂谷昴の暴走は、あなたが仕組んだんですか」
「ああ、そうさ」
「……目的は?」
「世界を救うためだよ」
世界を……? 予想もしていなかった返答に戸惑う。
「天乃宙から世界を救うのさ。――彼女の才能は、ブラックホールのように大きく、深い闇だからね」
僕の頭を掴んだ指の力が強くなる。
「放っておけば力はさらに膨れ続け、いつかこの世界を飲み込む。分かるかい? あんなものが生まれてくること自体が異常なんだ。だから俺が彼女に対抗しよう、ということなんだ」
「……本心、ですか?」
聞くと、仙人は歪な笑みを返した。
「建前さ。本当は九年前の雪辱を果たしたいだけだ。二人のアマノソラより俺のほうが優れていることを証明したいだけさ」
「あまり、フィアを舐めないほうが良い」
「確かにあの女に対抗するには、俺だけでは力不足だ。勝つためには、強力な超能力者の助けが必要となる。危険な超能力を持ち、なおかつその力を人間に向けて一切手加減することなく発動できるくらい、壊れた仲間の助けがね」
「……無駄な努力だ」
フィアより強力な超能力者がいるはずがない。
ましてや昴に、そんな力があるわけが……。
「そうかい? ほとんどの超能力者は……ソラガミでさえ……その力を半分程度しか活かすことができていない。理性が働き、無意識のうちに手加減してしまうからだ。だから壊した。破壊の快感を教え込み、自らに与えられた力の大きさを学ばせた。善悪の区別も曖昧にし、ソラガミの恐ろしさを理解させた」
仙人は僕の頭を放し、数メートルほど僕から距離を取った。未だ足は動かない。ほぼ自動的に、僕の体は正座した。
「だが、まだ人を殺したことがない。彼はまだ、完全に壊れたわけじゃない」
仙人が指を鳴らす。すると、空から少年が降ってきた。
「君という命を消し去ることで、ようやく彼は完成するんだ」
砂谷昴は両手を前足のように地面に置き、狼のような野性的な目で僕を睨んだ。フィアが能力を与えたばかりに、彼は仙人に利用されてしまった。
お前のせいだぞ、フィア。
「まだ彼には躊躇いがある」
仙人は昴の頭を軽く撫で、
「だがそれは、誰かの『許し』によって壊れる。――殺せ」
気楽な調子で言った。
昴は頷きもせず、僕に掌を向けた。
「――」
その掌から、透き通った無数の青い腕が伸びてきた。量と速度から考えて、逃げることも避けることも不可能。僕はフィアから預かった力を発動する。
フィアのところへ寄っておけば良かった。
そんなことを、最期に後悔した。




