2-1 叢雲
子供の頃の僕は、ちやほやされていた。天才だったからだ。
呑天にいた頃の僕は、怖いもの知らずだった。勉強でも運動でも負け知らずで、人気者だった。
天才アマノソラ少年は、自分が選ばれた人間だと思っていた。
「呑天から引っ越してきた雨野空くんが、今日からクラスの一員になります。字は違うけど天乃さんと同じ名前だから、何と呼べば良いか……」
黒板に書いた僕の名前を見ながら、若くて真面目そうな先生が困った。
駅前の商店街で豆腐屋を営んでいた父親が、別の仕事をすることになったとか。その仕事の関係で、永束の空き家を好条件で買えることになったとか。
多分そんな理由で、僕は永束小学校に通うことになった。
新しい教室の第一印象は、良い子が多いな、ということだった。大人しい……というより、悟ったような雰囲気が蔓延していた。牙のない、まるで何かを諦めたような、飼い慣らされた笑顔。
理由はすぐに分かった。神童がいたからだ。
まだ才能を視ることのできなかった僕の目でも、その女の持つものが周囲と違うことは、はっきりと分かった。
圧倒的な力の差。それが、その陰気な雰囲気の原因だ。
「それじゃあ、雨野くんの席は……」
「あいつの隣が良いです、先生」
僕はその女を指差し、言った。
声、声、声。小さな声が波のようになって、教室の空気を動かす。クラスメイト達が、微かに動揺しているのが分かった。
……挑戦してやる。対抗心を燃やす僕。
女はちょっと口を開け、不思議なものを見る目を僕に向けていた。
それが、フィアとの出会い。天才アマノソラ少年が、ただの少年Aになった瞬間だった。
◇
宇宙船の円窓から、冷たい宇宙の闇が視界に入ってくる。あたしは、外の景色が嫌いだった。かといって船内が好きというわけでもない。
ずっと故郷の星にいれば良かった、と後悔。宇宙に出てみたいなんて思わなければ良かった。数日ずっと、そんな風に溜息を吐いていた。
温度が足りない。熱が、温もりが欲しかった。
太陽系の惑星、アースの上空。
ベッドの上で、攫ってきた少年が目を覚ました。
彼は半ば無理矢理に目を改造された。今後、彼の視覚情報は、その目に仕込まれた記憶媒体に蓄積されていく。彼が生きている限り増え続けるデータは、彼が死亡した際に回収され、分析されて、この星の侵略に役立てられる。
気の長い計画だ。彼が八十年生きるとすれば、データを回収するのはおそらく次世代の人々。一個の星を侵略するのに随分と時間を掛けるんだな、と他人事のように思った。
……実際、半分くらい他人事だった。
私は父親の仕事に付き添わされているだけなのだから。
「少年よ、手術は成功だ。……落ち着いて聞いてくれ、少年。アース星人の体に、このカメラがどういう影響を及ぼすかは不明だ。君の体に私の意図しない変化が起こることも考えられる。先に謝っておくよ」
「日本語が話せるんですか?」
少年は不思議そうに言った。
「日本語、というのは君達の国の言語か。ここでは特殊な機械が働いていてね、我々は今、テレパシーで意思を伝達し合っているんだ。伝えようとした情報を機械が読み取り、脳に直接届けている。つまり、こちらは母国語を話しているし、君も日本語を話してくれて問題ない」
「伝わるならそれでいいです」
アース星人の寿命の長さや成長過程は、あたし達に酷似していると聞かされていた。少年の年齢はあたしとほぼ同じ……はずだったが、彼の態度は何となく大人びて見えた。
「君の目はカメラになった」
父親が、彼に手術の説明をした。
「つまり君は、侵略に利用される。得をするのはこちらだけだ」
「そうですか」
「すまない」
「……いえ、別に」
彼は、自身がカメラ役になることに抵抗を見せなかった。私達を恐怖して機嫌を取っている風でもない。
「何で、平気でいられるの?」
あたしは彼に聞いた。
「僕が僕自身に、そんなに興味がないから、じゃないかな」
「絶望ってやつ?」
「まあ、遠くないと思う。挑んでも挑んでも敵わない相手がいて、負ける度に自分の価値を疑って……段々、自分のことがどうでもよく思えてくるんだ」
疲弊した声が、何だか可哀想。段々、彼に興味が湧いてきた。異星人としてではない。あたしは、彼の持つ陰に惹かれていた。
「それじゃあ、今から君を地上に返す。……ああ、エルン、ついでにお前もちょっと地上に降りてみなさい。ずっと乗り物の中では健康に悪い」
父親が言う。その声に、どこか冷たさを感じた。
温度のない命令と、同情するかのような眼差し。
「……分かった」
船がアースに降下する。着陸に成功すると、あたしは少年の手を握って、外に出た。彼の手に、渇望していた温もりを感じた。
この星にも昼と夜があって、あたしが外に出たのは夜だった。船は飛び去り、見えなくなった。やがて少年は躊躇いがちにあたしから離れていった。
日が昇って、また落ちていく。
父親の迎えが来ることはなかった。
◇
九年前、あたしはこの星に降り立った。
あたし達の体の基本的な構造は、アース星人……人間と似ている。
二足歩行であることも、体の大きさも顔のパーツの配置も大体同じだ。蜥蜴と毛のない猫を混ぜたような白い生物。それがあたしの素の姿だ。
あたしの姿は、地球では……生命全体で見ればそうでもないのかもしれないが、文明を持つ人間にとっては異質。このままでは、文明人として助けてもらうことは困難。言葉が通じれば話は別なのだが、地球では、船内のようにテレパシーで意思を伝達することは不可能だ。
幸いにも、擬態はあたしの得意技だった。人間の少女の姿を模倣する。骨格や肌の色を変え、髪を生やせばひとまず馴染むことはできる。
……と思っていたのだが、服装まで変えることはできない。
黒くてツヤのある、甲虫のような服装。宇宙に放り出されても平気という機能的な服は、この星の社会に馴染むには問題があった。
二階建ての民家だらけの街。ごちゃごちゃしていて、まともに空を見ることもできない。息苦しい街。目を改造されたあの少年も、この街に住んでいるのかな――なんてことを考えながら。
とぼとぼと道を歩いている途中、人間に話しかけられた。
「……■■■■■?」
意味不明。意思疎通を図ろうとしたが伝わらない。それどころか、相手のあたしを見る目がどんどん訝しげになっていく。たまらず、あたしは逃げ出した。向かう先なんか知らない。
逃げた先には民家があって土があって、そこに植物があった。規則的に並んだそれは、どう見ても野生ではなかった。
栽培されている。ということは誰かの所有物であり、勝手に食すことは禁じられていることだろう。星は違えど、あたしとて文明人である。それくらい予想できた。……だが、飢えの前では関係ない。まだ熟していなかったが、実は結構おいしかった。
誰に見つかることもなかったのは運が良い。数箇所でそんなことを繰り返し、どうにか食の問題は後回しにする。
睡眠には民家の屋根を選んだ。ひょいとジャンプし、音を立てずに居座ることは容易。擬態は得意だ。屋根の色に同化すれば、見つかることはない。
そんな生活を送りながら、あの少年を探した。
……彼なら、助けてくれる気がしたのだ。
ここに来て、三日が過ぎた。
あたしは盗み食いと屋根での睡眠で、どうにか命を繋いでいた。
いつになったらこんな生活から抜け出せるだろう。そんなことを思いながら、相変わらず屋根の上で眠りに就く。死を覚悟した。これが最後の眠りかもしれない。寒さに震え、日が出ても、もう目覚められないかもしれない。
……それで構わないとも思った。
父親に置いていかれたあたしには、自尊心が欠落していた。植物の盗み食いも、わざわざこんなに冷たい瓦で眠るのも、半分は自傷行為。
アースはまだ外来人との接触すら未経験。あたしの死骸が発見されたら驚くだろうな……。そんなことを考えて、ちょっと笑って、泣いた。
トン、と足音がした。
何かの気配。誰かがあたしと同じ屋根にいる。
驚いて、そちらに目を向ける。
「お困り?」
男がいた。脇に子供を抱えている。
顔を見ると、それは父親に改造された、あの少年だった。
「……あれ?」
男の言葉の意味が理解できた。何故? あたしは男に聞いた。
「あ、あの、もしかしてあたしの言葉が通じるんですか?」
男は僅かに口角を上げた。
「仙人だからね。この少年は雨野くん。会いたかったんだろ?」
「……何で、分かるんですか」
「……仙人だからだよ」
そのとき、雨野が目を覚ました。
彼は目を丸くし、仙人に何か言った。仙人が答える。
「大丈夫だよ、雨野くん。俺はこの子のSOSを察知し、彼女の望んだとおりに君を連れてきただけだ。……何? この子が何者か? 君の目を改造した宇宙人の娘だよ。俺は君達が一緒にUFOから出てきたところを見ていたよ。……どう見ても人間? それは擬態しているからで……まあ、とにかく彼女は君を選んだんだ」
選んだ、という表現が、妙にこそばゆい。
「……仙人さん、彼に、助けて欲しいって伝えてくれませんか?」
あたしは仙人に頼んだ。だが、彼は笑いながら首を横に振った。
「彼には荷が重いと思うよ。ペットとしてならともかく、社会の中で一定の権限を持って君を生かす力は、彼にはない」
「……じゃあ、どうすれば」
「俺に任せてみないか?」
クカカ、と仙人は笑った。
屋根から下り、雨野と二人、仙人に連れられて歩く。
「あの、もう雨野……くん……には帰ってもらったほうが……」
仙人はそれを拒否した。
「一人くらい、事情を知っている友人がいたほうが便利だろう。社会で生きる上で、あったほうが都合の良いものが幾つかある。友人とか、戸籍とか。……どちらも俺にはないものだがね」
「戸籍?」
「社会の管理下に置かれていることの証明だよ。それがあるだけで、扱いが変わってくるのさ。ただ、ある日突然現れた宇宙人がそれを手に入れるのは難しいだろうね」
「じゃあ、どうするんですか?」
「奪う」
「――……」
直感で感じた。きっと、それは悪いことだ。この人は悪い人だ。悪い人? でも、あたしを助けてくれようとしている。どうするべきなんだろう。言い訳みたいに考えるだけで、結局何もしないまま、あたしは仙人の背中を追った。
石でできた階段を上った先に、木造の建物。仙人がそれを指差す。
「これは神社、という神殿だ」
「ジンジャ……?」
その神社の前に誰かが立っていた。女の子供。……少女。背の高さや風貌からして、あたしや雨野と同じくらいの歳であろうことが予想できた。
少女は驚いた顔で、あたし達を見た。
「シオリちゃんだね。仙人です、よろしく」
少女は仙人を無視した。そして雨野を見て、目を見開いた。
「呑天からわざわざ永束の神社まで、夜の散歩かい? 君が期待していたのは、引っ越した旧友……彼との再開だろう」
「■? ■■■?」
「願いを叶えてあげた。だから許してね」
仙人はシオリに近付き、彼女の頭にそっと触れた。
ぱたり。少女が倒れた。眠ったのだと思った。……しかし。
「これで、彼女は死んだ」
涼しい顔で、仙人はそんなことを言った。
――死んだ?
「死体は俺が隠すから、ムラクモシオリの死が世間に知られることはないだろう。さあ、この姿に擬態してごらん。服も拝借すれば、君が偽物だということは、ここにいる者以外は誰にも分からない」
「……どうして、平気で、こんなこと」
「だって、これ以上シンプルな方法があるかい?」
「そういう問題じゃありません! ……この星では……この国では、殺しは認められた行為なんですか?」
「クカカ、そんなわけがないだろう? 俺以外の人は馬鹿だから、善悪なんてまやかしに囚われているようだけどね」
仙人は少女の死体から衣服を剥ぎ取り、それをあたしに投げ、死体を担いであたしと雨野に背を向けた。
「今日から君がシオリだ」
「……はい」
非道徳的だ。でも、逆らうことはできなかった。
あたしにだって文化人としてのプライドがある。動物としてでなく人として生き長らえるには、この方法しかない。
そうして、あたしは叢雲栞となった。
とは言っても、見た目だけだ。栞の性格も、交友関係も、過去も、あたしには分からない。それどころか一般常識や言語能力すらないあたしが、自然に栞を演じられるわけがなかった。
だから、栞は記憶喪失となった。
あの仙人に日常会話くらいは習っておきたかったのだが、待ったところで、彼は現れなかった。他に頼れるのは、やはり雨野しかいない。
叢雲栞の寝床で、紙に母国語で詩を書いてみる。栞の両親に見つかったら頭がおかしくなったとでも思われるだろうか。孤独の中で創作ははかどる。いよいよ自力で止められなくなったペンを止めたのは、開いた扉の音。
「■■■■、シオリ」
あたしの部屋に、雨野が現れた。……互いの名前と神社以外の言葉は一切通じないくせに、あたしは彼の姿を見ると、幾分か安心できるようになってしまっていた。




