6<未来への一歩>
春の柔らかい光が部屋に差す。
心地良い眩しさの中、やけに低い視点で目が覚める。床との距離があまりに近い。どうやらあのまま気付かないうちに寝ていたらしい。
リュウちゃんも同様、昨夜の体勢そのままに、俺の体にのしかかるようにして眠っていた。
相変わらず彼女の体は温かい。これもドラゴンの血を引いていることと関係があるんだろうか。
胸に埋まる彼女の顔を見ているとその目がゆっくりと開かれた。
「おはよう、リュウちゃん。寝ちゃったね」
「おはようございます、桐生さん。寝てしまいましたね」
軽く笑い合い、体を起こす。床で寝ていたせいか背中が痛かった。
A.M.7:00。
散歩するには良い時間だ。
「リュウちゃん、外に散歩にでも行かない?」
「散歩ですか。なにか用事でもあるんですか?」
「いや、何も。歩くだけ。楽しいよ」
俺がなんでもないような顔でそう返事すると、彼女は一瞬だけ呆気に取られたような顔をしたが、行きますと答えて小さく笑った。
「あの、この服……」
リュウちゃんが手に取っているのは昨日買った半袖の服。外へ出掛けるなら当然それに着替えなければいけない。しかし本人はあまり気が進まない様子だ。
「……まだ不安?」
「はい、やっぱり……気になります」
常に目立たないように、常に隠しながら生きていく。それが彼女にとっての普通になっている。
そんなのはおかしい。
俺があえて言うことではないけど、彼女はもっと自由になるべきだと思うんだ。社会的にも、精神的にも。
「昨日も言ったけどさ、いいんだよ、そんなこと気にしないで。リュウちゃんはただ大手を振って堂々と歩いていればいいんだよ。俺がきっと守るから」
この子が人だろうがドラゴンだろうが自由に生きる権利は必ずある。
遠ざけられてはいけない。同時に怖がってもいけない。
今からでも遅くない。そんな窮屈な日々は抜け出さないと駄目なんだ。
「恥ずかしがる必要も怖がる必要もないよ。肌の鱗ぐらいなんだっていうんだ、リュウちゃんの立派な“個性”でしょ?」
「桐生さん……」
彼女はそっと目を閉じると、どこか胸のつかえが下りたかのようにふっと微笑んで囁いた。
「わかりました。私……」
それに続く言葉はなかった。でも伝えたい気持ちはわかる気がした。
開かれた目と幾分晴れたその表情にはどことなく自信が満ちてきているように見えた。それに応えるように大きく頷いて手を取る。
「うん。じゃあ、行こう」
「はい……!」
開けた扉から差し込んでくる外の光。さらけ出した素肌にその光をいっぱいに浴びて、彼女の新たな一歩が祝福され照らされているかのよう――大げさかもしれないが、そんな風に思えた。
***
外は暖かく、今日も良い天気だ。
散歩のコースはいつもその時の気分に任せているので、どこへ行こうという決まった当てはない。
そんなときはとりあえず最初にいつもの肉屋へ行く。
「おじさーん。コロッケ2つください」
「あいよ、2つね。ああ昨日の子は今日も一緒かい。十六夜君の彼女、だったかな」
「桐生さんとはこれからもきっと一緒です。お嫁さんになったので」
あまりにも得意気に答えるものだからこちらとしては少し照れてしまう。おじさんもおじさんで一瞬固まってしまったが、ぷっと吹き出して笑ってくれた。
「ははは! ゆうべは彼女だったのに今朝になったらもう嫁さんか! 目覚ましい進展だなあ、おめでとさん」
確かに冷静に考えてみれば驚くべき進展具合ではある。おじさんに言わせればこれも若さゆえ、だろうか。
会釈程度に礼を言ってコロッケを受け取り、ひと口かじって歩き出す。
そしてリュウちゃんも同じようにひと口。肉ではないからか先日のようにがっついた様子ではないが、相変わらずおいしそうだった。
「そういえば野菜が苦手だって言ってたけど、どの程度なら食べられるの? このコロッケのじゃがいもは大丈夫みたいだけど」
「しっかり火が通っていれば一応平気ですよ。生だとちょっと……下手をすると吐いてしまいます」
なるほど。好き嫌いの問題というか、そもそも体が受け付けてないんだな。アレルギーみたいなものか。
さて、どこへ行こうか。
少し歩いて近くの川原まで来た。
草の茂った川原を2人並んで歩く。いつもなら1人で歩く散歩道も、今日は隣に誰かがいる。こういうのも悪くない。
草木と水の匂い、虫の鳴き声、優しく吹き抜ける風。加えてすべてを包むような青い空。歩いているだけで心地良かった。
「……なんだかこういうの、すごく憧れていた気がします」
どうやらその気持ちは彼女にも感じられていたようで、うっすら快い表情が浮かんで見えた。
「そっか、良かったよ。散歩でいいなら毎日でもしようか。そんなに難しいことじゃないしさ」
彼女は目を閉じて、何も言わずに微笑んだ。
「ありがとうございます、それはぜひ。それももちろんとっても嬉しいのですけど……そうではなくて」
そうではない、と言った彼女の表情は単純に外出が嬉しいというよりは、楽しかった昔の記憶を懐古しているというものに見える。
それでふと気付く。
そのまぶたの裏に映るのは、彼女が社さんと呼ぶ彼の姿なのかもしれない。
憧れていた。
その言葉の意味は聞かずともわかる。彼との日々に不満などありはしなかったのだろうが、充分な満足もなかったのだろう。もっともっと一緒にいたかったはずだ。それでかつての彼の姿を、今の俺にどこか重ねているのかもしれない。
それでも構わないと思った。彼女の心の支えになれるならそれで。
川原の先を、2人でもう少しだけ歩いた。
***
「そうだ、忘れてた。もう昼か」
「どうかしたんですか?」
「今になって思い出したけど、今日この後バイトあったんだった」
独りにはさせないと言ったのはもちろん言葉の綾だが、昨日そう言った手前、さっそく家に残して俺だけいなくなるのもなんとなく気が引ける。
「えっと、リュウちゃんも一緒に行く?」
試しに言ってしまったが、行ってどうするんだよ。待ってる間ずっと暇じゃないか。第一どこで待つんだ。
「いいんですか? 私にもお手伝いできるでしょうか」
なんて思ってたのに、返ってきた答えは意外だった。一緒に働くという発想が出てくるのか。
本人がそういう心構えなら、彼女の存在が世間に溶け込むのはたいして難しい話ではないのかもしれないな。
そうだ、そもそも彼女は少し怯えがちなだけで、誰よりもたくましい子だったじゃないか。あとはこちらが受け入れるだけなんだ。
「じゃあ行こう……って言っても移動はどうしようかな。いつもは自転車で行ってるんだけど」
もちろん自転車は1台しかない。車も持ってない。歩いて行くには遠いしなあ。
「移動ですか? 私、走りますよ」なんて、さも当然かのようにランニングのフォームで構える。
「いやいや、コンビニに行くわけじゃないんだしさ。街の方まで出るし、割と距離あるよ」
「自転車で行ける程度の距離なんでしょう? 走力や体力には自信があります」
意気揚々とストレッチを始める。あまりに余裕の顔で言ってみせるので、その気持ちを無下にもできずひとまず付き合うことにした。
自転車を出して跨がる。隣には足下を整えるリュウちゃん。
「じゃあ行くけど……本当にいいの?」
「はい、大丈夫ですよ」
いや大丈夫じゃないでしょ。今さらだけどスカートだし、くつもランニング用のやつじゃないよ? それで走るの?
どこまで本気なんだろうと思いながらも、目的地に向かって自転車を動かし始めた。同時に彼女も走り出す。
幸いバイトの時間まではまだ余裕がある。彼女のペースに合わせるつもりで伴走して、バテたらスピードを落とせばいいだろう。と、思っていたのに、
「私のために速度を落とさなくていいですから、できるだけ速く漕いでください。付いていきますので」
とのこと。
あまりの自信に、ちょっとからかってみたくなってしまった。
ペダルを思い切り踏み込んでスピードを上げる。
これならさすがに追い付けまい、と思って後ろを振り返る。後ろには誰の姿も見えなかった。しまった、さすがに意地悪だった、引き離しすぎて置いてきちゃったかな……。
「後ろ見ながら運転すると危ないですよ?」
「ぅおっ!?」
変な声が出た。彼女はすぐ真横で走っていた。
涼しい顔をしている反面、体はめちゃくちゃに駆動している。地面を蹴って跳ねる衝撃でスカートの中が見えそうだ。
「く……っこの!」
なぜか俺はムキになってさらに加速する。それでも彼女は離れない。限界まで加速して速度を落とさず漕ぎ続けたが、変わらずしっかり横に付いてくる。
疲れた様子も見せず、休憩とかいう言葉とは無縁みたいな表情で並走し続ける。なんてスピードとペースで走るんだ。キロ3分どころじゃない、プロのランナーだって顔負けのレベルだ。
こっちも相当なスピードで、具体的には、ここを遅刻すると単位を落とす講義があと5分足らずで始まるという時の学校へ向かうスピードぐらいは出てるはずなのに。
そしてさらに十数分後、ノンストップで目的地のラーメン屋まで着いてしまった。
「ほんとに……すごいね」
「はい! 久し振りのジョギングで良い運動になりました」
ジョギング……。おそらく俺の全力ダッシュよりも速い走りがジョギング……。
特に息が上がっているわけでもなし、これがドラゴンの血を引いた子のポテンシャルなのだろうか。むしろ俺の方が息絶え絶えだ。
この無尽蔵の体力はいったいどこから湧いてきているのだろう。やっぱ肉かな。
彼女を引き連れて従業員専用の裏口から店に入る。
「こんにちは、十六夜入ります!」
「おう、十六夜か。早く入れ」
ガタイの良い体格にパンチの利いた暑苦しい顔。ツルツルのスキンヘッドの上から捩りハチマキを締めた、ザ・頑固オヤジみたいな見た目をしているこの人がうちの店長。趣味で神輿とか担いでそう。
「ん? なんだそいつ」
「ああえっと、新しいバイト志願者みたいな感じです。人手も足りないですし、どうでしょう?」
「……うむ、働けるんならいいだろう」
良かった。相談もしてなかったから断られたらどうしようかと思ってた。面接も履歴書もいらない即日で入れる杜撰さがこの店の良い所だ。
ちょうどそろそろ昼時、店内は込み合い始めていた。
リュウちゃんは仕事をやりながらその内容をすぐに飲み込んだ。俺も彼女も与えられた指示と役割をうまくこなし、そうして時間は過ぎていった。
やがて夕方にもなると客足は減り、店内は従業員だけになった。
「2人ともご苦労さん。なんか食ってくか?」
「お疲れ様でした。じゃあせっかくだし食べていきます、俺は普通のラーメンで。リュウちゃんは?」
「では私も桐生さんと同じのをお願いします」
適当な席に腰を下ろしひと息吐く。
良い進歩、じゃないかな。人と関わるのを避けていた彼女が自分から積極的に、それも一緒に働こうだなんて。
出会った当初とは打って変わって別人だ。彼女の心境の変化、その一助になれたのだとしたら俺は嬉しい。
「……お疲れ、リュウちゃん」
「桐生さんもお疲れ様です。今日は大変だったけど面白かったです」
「お前らって付き合ってるのか? はいよ、ラーメンお待ち」と横から店長。付き合ってるというか、正確には婚約関係だけど。
店長の風貌に見合った力強い味と食べ応えに定評のあるこの店のラーメン。うん、うまい。
入ってる野菜は湯通ししてあるし、これならリュウちゃんも問題なく食べられるはずだ。
「なかなかおいしいですね……。カップラーメンなら社さんがよく食べていましたが、こうして改めて食べてみると案外いけますね」
社さんの食生活が心配になるような情報が差し挟まれたが、ともあれ、野性的な強い味は肉食の彼女にも好評のようだ。
「じゃあごちそうさまでした、今日もありがとうございました」
「おう……あん?」
完食して帰ろうとしたとき、店長の視線がリュウちゃんに向いた。見られているのはおそらく腕だ。鱗が目に留まったのだろう。
「おい、なんだそれ。ペイントとか刺青じゃねえだろうな」
「いえ、違います。これは彼女の個性とも呼べる魅力的な身体的特徴です」
「は? なんなんだそれ、要は病気だろうがよ。言ってねえでとっとと病院行って治してこいよ」
「病気じゃない。彼女がそうだというだけです」
「傍から見てもそいつは気味が悪いだろ。そんなもん曝して」
……気味が悪い?
「……体の色や形が自分とは違うものだというだけで、それをすぐに遠ざけようとする態度はどうかと思います。そうでなくともあなたの発言は彼女を傷付け得るものだった。では」
吐き捨てるように言って店を出る。
「……桐生さん、ありがとうございました。いいんでしょうか、これで……。やっぱり隠した方が……」
夕暮れの中、自転車を手で押しながらゆっくりと歩いていく。
さっきのひと悶着を気にしてか、どこか声に元気がない。しかし、芽生えかけた自信をここで失わせるわけにはいかない。
「ううん、いいんだよ、これで」
理解。必要なのは周りの人の理解なんだ。
さっきはつい頭に血が上ってしまったせいで言い方は良くなかったかもしれないが、やり方はこれでいい。これからも対立する意見を持つ人はまた現れるだろう。そのたびに俺は何度でも主張を繰り返す。
「だからリュウちゃんは何も隠さずに、普通に生活してよ。それでいいんだ」
「……わかりました」
「……桐生さん。ありがとうございます」
リュウちゃんは俺に向かって微笑む。
時折見せるこの子の笑顔は本当に可愛いと思う。もちろん好きだからそう思うのかもしれないが。
彼女の笑顔を守るためならどんな苦難も乗り越えてみせる――なんとも馬鹿らしい言い回しだが、恥ずかしげもなくそう思えた。
桐生が乗っていた自転車が普通のママチャリなのか、それともクロスバイクみたいなやつなのかは定かではありませんが、いったい何km/hで、そして何km走ったのでしょうか。細かい計算は……野暮ってものです。
それにしてもトップランナーの方は1km3分を1時間も2時間も走るので本当にすごいと思います。自分は1km走るのも、3分走るのも無理です。