2<波瀾の夜>
「どうぞ。遠慮なく入って」
「お邪魔します」
俺の住んでいるアパートは部屋の間取りが1Kしかないものの、家賃が安い割に部屋そのものは広い。風呂トイレ別でエアコンも完備、アメニティにも問題はない。
大人数を呼び込むことはできないが、人をひとり上げる分には何の支障もない。
「えっ、と。まずはどうしようか、お風呂に入った方がいいかな」
湯船はあるがお湯は張っていない。今から溜めてもいいが時間が掛かりそうだ。
「シャワーでよければすぐに用意できるよ」
「いいんでしょうか、入っても」
「うん、全然いいよ。遠慮しないで」
「では……ありがたく入らせていただきます」
彼女は律儀にぺこりとお辞儀をした。
ふと、彼女のブラウスの下、脇腹の辺りに何かが膨らんでいるのが見えた。
「服の中……お腹に何か入れてるの? 荷物だったら預かるよ」
彼女は一瞬、ぴくりと肩を揺らした。
それからおずおずと服の下に手を入れ、中から出したのは手の平大の小さなポーチ。どうやらウエスト周りの肌に直接、まるで隠すかのようにポーチを巻いていたようだ。
数秒の間を置いてから、やや抵抗気味にそれを渡す。
「……中は見ないでくださいね」
「……? うん、別に見たりしないよ」
そう言われると何が入ってるのか気になってしまうが、人の荷物を漁る趣味はない。
「じゃあ今着てる服は脱いだらそのへんに置いといてもらえるかな、後で俺が洗っとくよ。で、着替えは……ごめん、男モノしかないけど、これで一晩我慢してくれるかな」
洗ってあった清潔なジャージの上下を差し出す。彼女の背丈は俺よりもひと回り小さいため、サイズは合わないかもしれないけど。
「じゃ、あとはなんかあったら呼んで」
「わかりました。ありがとうございます」
「はいはい、ごゆっくりどうぞ」
彼女を脱衣所に見送ると、ポーチをそっとポールに掛け、買った肉を冷蔵庫に入れて、まだしまわずに置いてあるコタツのスイッチを入れた。
シャワーのスイッチの入る音を確認してから彼女の脱いだ服を拾い、洗濯機に入れる。
服を見ると裾は擦れて破れてボロボロだった。
その具合を見るに一朝一夕でできたものではない。いったいどれほどの間 野晒しだったのだろうか、あの子は。
砂にまみれたブラウス、ボロボロのスカート、煤けてくすんだオーバーニー……。
ん? なんかパーツ足りなくね?
上下とも下着がない……? まさか……
……いけない、変なことを考えそうになった。気にしちゃ駄目だ。
洗濯と脱水の設定をして、リビングで待つ。
回る水と、跳ねる水の音。
時刻はすでに11時を回っていた。
***
「ただ今 出ました」
洗い終えた服を干していると風呂場から彼女が戻ってきた。
「うん、ドライヤーはそこね」
……この子、顔つきも凛々しくキリっとして整っていたし、体つきもスラっとして伸びる手足が綺麗だ。よく見れば可愛いんじゃないか、と髪を乾かす後ろ姿を見ながら思う。
おっと、やましいことを考えるのはよそう。そういうつもりで部屋に入れたんじゃない。
「乾かしました」
なぜか逐一報告してくれる彼女。髪はまばらに跳ね、とてもこれで完成した形とは思えない。髪に強い癖があるわけでもなさそうだが、伸びているせいで跳ねてしまっているのかもしれないな。
「じゃあどうぞ座って、コタツに入ってて。体、冷やさないようにね」
座り込む彼女の姿をもう一度見る。極端にやつれていたりはしないようだが……。
「ご飯は食べてない、のかな……?」
「はい。今日は食べてません」
『今日は』……。それもそうか、今までどんな食生活を送ってきたんだろうか。
「じゃあ、さっき買った肉でよければ」
「! ごちそうにまでなっていいんですか!」
冷蔵庫から豚肉を取り出すと、急に気持ちが昂ったかのように食い付いてきた。コタツから身を乗り出しキラキラとした目で肉を眺める。
「食べたいなら全部君にあげるよ」
「いいんですか!」
「もちろん。安い肉だけどね」
残念ながら付け合わせの野菜なんかは用意できない。だけど焼いた肉と炊いた米があれば充分食事になる。
「適当に焼くからちょっと待っててね。えーっとフライパンは……あったあった。すぐにできるから待っ――」
――ぱくっ。もぐもぐ。ごくん。
「ん~! おいしいですねこのお肉!」
唖然。
目の前には当然のごとく手掴みで生肉を頬張り、おいしいと称する少女がいた。
間髪入れず次のひと口へと手を伸ばす。
「え、いやちょっ、待て待て待て! ストップ!」
「あっ、欲張ってしまいました、すみません」
「いや欲張るっていうかそういう問題じゃなくて!」
「???」
彼女はきょとんとした顔で俺を見る。
「生! 生肉だからそれ!」
「はい。え? 腐ってから食べるんですか?」
「いやいや違う違う、そうじゃない! ちゃんと焼いてから食べないとさ」
すると彼女は合点がいったように、拳を手の平でぽんと受け止めて頷いた。伝わったんだろうか。
「ああ、なるほど、十六夜さんはお肉を焼いて食べるタイプなんですね」
伝わってないなこれ。
タ、タイプっていうかさ、そもそも生食用でもない肉を焼かずに食べるタイプなんてないと思うけど……。
「すみませんそこまで頭が回りませんでした。でも私は生で食べる方が好きなのでこのまま食べてもよろしいですか?」
「よろしくねえよ!」
つい声を張り上げてしまう。ていうかツッコんでしまう。
「あっ、ごめんなさい。泊めさせてもらってるのに我を通して意見を無視するなんて図々しいですよね。どうぞ焼いてください」
「いや別にそこを責めてるわけじゃなくて……」
やばい、なんだこの子。訳がわからないぞ。錯乱してるのか? まさか新手のボケじゃないよな。だとしたら体張りすぎだろ。
「その肉は全部君が食べていいよ。いいけどさ、それ生肉だよ? 危ないよ」
「なぜ生だと危険なのでしょうか。もしかして加熱しないと爆発したりするんですか?」
やっぱりちょっとボケてるよね?
「今まで生で食べてきて、危険な目に遭ったという経験はありませんが……」
「今まで、って……まさか君はずっと肉を生で食べてきたの?」
「はい。昔から」
どういうこと? ふざけてるようにも見えないし、本気で言ってるのか?
じゃあ俺が知らないだけで、生まれつき生肉を受け付ける特殊な体質だとか、あるいはそういう文化だとか、宗教だとか、健康法だとか……。そういうのがあるのかもしれない。
純粋な目。嘘や冗談ではなさそうだ。第一ここで彼女が嘘を言う意味も利点もない。
「そっか、ごめん。まだそういう人を見たことなかったから驚いちゃった。そのまま食べていいよ」
「そうですか、なんだかこちらこそすみません。ありがたくいただきます」
そう言ってこの少女は再び生肉を素手でぱくぱくと食べ始めた。
結局、最後まで幸せそうな表情で200グラムの肉を生のまま平らげたのだった。
「ごちそうさま! おいしかったです」笑顔で指に付いた血と油をぺろぺろと舐めながら言う。
「……うん。良かったよ……。俺、シャワー浴びてくるから」
俺にとってはなんとも異様な光景だ……。ちょっと頭を冷やそう。
どうなってるんだろうか。生ハムでもユッケでもないのに、生肉を平気で食べるなんて聞いたことがない。
あ、豚は生でも大丈夫なんだっけ? あれ? 牛だっけ、駄目なの。どっちだったかな。
なんかもう、どうでもいいや、なんて思いながら、細かいことはシャワーで水と一緒に流すことにした。
きっと彼女がそういう体質で、そういう育ち方をしたというだけだろう。俺が驚いただけだ、問題ない。まして咎めることなど何もない。
「お待たせ……って、あれ」
風呂場から出ると、少し前まで生肉を頬張っていた少女はコタツに足を入れてうつらうつらと舟を漕いでいた。やっぱり、こうして見れば普通の女の子じゃないか。食事情なんか些末な問題だ。
そのままベッドに運んで眠らせてあげたかったが、口の周りから血の臭いが漂ってるし、いったん起きて口を濯いでもらってからにしようかな。
***
「さて、寝ようか」
「はい。……今日は色々とありがとうございました」彼女はまたも律儀に深々とお辞儀をした。
「いやいや気にしないで。と、そうだ、今さらだけど名前を聞いてなかったな。君の名前はなんていうの?」
「そういえば私、まだ名乗っていませんでしたね。申し遅れましたが、リュウと言います」
リュウ? 本名だろうか。
「良い名前だね。それは下の名前? 上の名前、名字は」
「名字ですか。わかりません。あるのでしょうか」
へ? わからない?
「……私の母親は、幼い私をとある男の人に預け、その後 姿を消したそうです。父親に至っては存在すら知りません、だから自分に名字があったとしてもわかりません」
それで『親はいたけどどこにいるのかわからない』と言ったのか。
とある男の人、どんな関係の誰なんだろう。なにか複雑な事情を抱えてそうだ。
「……そっか、ごめん」
「いえ、お気になさらず。物事が判別できる頃から、そのとある男の人に『リュウ』と呼ばれていたので、私の名前はリュウだと思います」
呼ばれていた? 今まではその人とずっと一緒にいたってことだろうか。なら、その人は今どこに……?
訊きたいことはいくつかあったが、今はあまり踏み込まないことにした。
「そっか、わかったありがとう。じゃあリュウちゃんって呼べばいいかな」
「はい。それでお願いします。私は十六夜さん、でいいですか?」
俺はリュウちゃん、なんて呼ぶのに、彼女からは名字でさん付けなんてなんだか余所余所しいな。
「桐生でいいよ」
「呼び捨てはちょっと……。年上ですし、図々しい気がして呼べません。桐生さん、と呼ばせてもらいます」
年上だとか生真面目にそんな、別にいいのに。さっきからずっと敬語だし、丁寧な性格なんだろうな。
「リュウちゃんはいくつなの?」
「生まれた年が明確ではないのでわかりませんが、感覚としては16、17歳だと思っています。桐生さんは?」
学校に通っていれば高校生ぐらいか。まあ、顔つきと体格的にも年相応かな。
「俺は今19。もうちょっとしたら20になる」
「はたちですか。おめでとうございます」
「あはは、ありがとう」
ちらりと時計に目を遣ると、もう日付は変わっていた。
「じゃあ今日はもう寝ようか。リュウちゃんはベッドで寝てくれるかな。俺は床でいいから」
「桐生さんはベッドを使わないんですか?」
「そりゃまあ、家に呼んでおいて君を床で寝かせるわけにもいかないしね」
「いえ、そうではなく。鈍いですね。……桐生さん、彼女はいませんよね?」
はぁ!? 急に何を言い出すんだこの子は。何の確認だよ!
リュウちゃんはベッドの上で横座りして、その真隣にスペースを空け、ぽんぽんとシーツを手で叩いてみせた。
「私と一緒に寝ませんか、という意味ですよ」
「えっ……え!? 何を言って……っ!」
なんだそれ、いったいどういう展開だよ!?
「ここまで至れり尽くせりの世話をしてくださったんですし、一緒に寝るぐらいのこと、別に私は怒らないし嫌がりませんよ。桐生さんも……嫌じゃあないんでしょう? 家に上げるぐらいですから」
世話ってほどのことはしてないけど、っていうか本気で言ってるのか!? そりゃもちろん嫌なわけないけど!
「い、いやでもほら最初に変なことはしないって言ったしそんな、一緒に寝るとかその」
「なんで動揺してるんですか? 顔赤いですよ?」
くすくすと悪戯っぽく笑う。さてはからかってるな! くそっ、リュウちゃんってこんなキャラだったのか?
「あ、あんまりからかうと、ほんとにベッドに入り込むからな!」
「はい、どうぞ」
なんだその余裕は……。だって君は今、男の家にひとりなんだよ。そんな無防備でいいのかい。
それとも信頼されてるってこと? いや単純に俺が軟弱そうだから何もしないと踏んでるのか? まあ現に何かするつもりもないけど。
「本当に……いいですよ。さっき言ったことはすべて本心です。どうぞ、気兼ねなく」
「え……ほ、本気で言ってるの」
「本気です。嬉しそうですね」
またも悪戯っぽく、ふふっと笑う。
どういう意図で言ってるんだろうか。少し小馬鹿にされているような気もするけど、本人が構わないと言うなら俺にとっては願ってもなかった幸運だ。
「じゃ、じゃあ……」
「……くす……はい」
なんだかリュウちゃんは楽しそうだった。
俺もベッドに上がり、おそるおそる彼女の隣に体を並べる。明かりを消すと相手の顔がよく見えなくなった。
「…………」
「…………」
沈黙。2人して仰向けで天井を見つめている。
そりゃ気まずくなるよね。だって何のために隣で寝る必要が――
ぎゅっ。
腕に感触。
一瞬何が起きたのかと驚いてしまった。リュウちゃんが俺の腕を抱き締めるように絡めてきたみたいだ。
「私だって、寂しいから誘ったんです」
ぽつりとこぼれる、彼女の声。
これで安心して眠れるというのだろうか。
彼女にとっての俺が安心材料になれるというなら、俺だって嬉しいし、両得ってやつだ。
こんなに密着したらもっと緊張するかと思った。だけどなんだか、俺まで妙な安心感がある。
「今日はありがとうございました。おやすみなさい」
「……うん、こちらこそ。おやすみ」
彼女の体は本当に温かかった。
まるで柔らかい炎が傍にあるかのような感覚。
不思議な心地良さと共に、知らないうちに深い眠りに落ちていった。
もし、生肉を普段から食べていて、気を悪くしたという方がいたらすみません。鳥刺しや馬刺しは自分も大好きです。