10<突然の事件>
AlexAx(アレックスアックス)です。
実に3年半振りの更新を果たしました。
良いペースです。この調子でいけば70年後ぐらいには完結を迎えられそうです。
週末の昼間だというのに駅は閑散としていた。すっかり誰もいないというわけではないが、両手で人を数えきれるぐらいにはまばらだ。改めてこの町は田舎なんだと痛感する。
リュウちゃんと手を繋いだまま電車に揺られること十数分。
駅を出るとすぐにその頭は見えてくる。やはり田舎町にある施設なので規模は知れているが、それでもこのへんじゃ一番の大型図書館だ。
「着いたよ、リュウちゃん」
「わあぁ……大きいですね! さっそく! 中に入りましょう!」
目を輝かせて一直線に入口へと向かう彼女。
絡まっていた指がするりと解け、重なっていた掌の熱が逃げる。もう図書館の方に気が向いちゃったみたいだけど、ちょっと名残惜しかったり。リュウちゃんの手、あったかかったなあ……。
「す……ごいですね! 桐生さん! これら全部、好きに読んでいいんですよね!? すごい……とてもすべては読みきれません!」
中に入るなり落ち着きを失いきょろきょろと辺りを見まわし、まるでどこかのテーマパークにでも来たかのようなはしゃぎっぷりだ。図書館でこんなにうきうきできるのは彼女ぐらいのものだろう。
「えーと、じゃあ俺は向こうの休憩スペースにいるよ。好きなだけ見てきていいからね」
俺の言葉を聞き終わらないうちから本棚の方向へと歩き出してしまう。一緒にゆっくり館内を巡ってもいいが、今の彼女は夢中でそれどころではなさそうだ。
「桐生さん桐生さん」
休憩スペースの机で適当な本を読みながら待っていると、彼女が跳ねるような足取りで戻ってきた。
「どう? 良いのあった?」
「はい、それはもう!」
そう言って両手に抱えていた大量の本を机の上にどさりと置いた。大小厚薄様々な本が山を築く。
「恋愛に推理にファンタジー、絵本も詩集もエッセイも……なんでもあります! こっちは壮大なストーリーの冒険活劇で、こっちは以前見た映画のような愛とSFの物語で……」
彼女は嬉しそうな顔で息を荒げ、誰に頼まれたわけでもないのに持ってきた本を順々に紹介していく。
図書館なのだから色んな本があるのは当然だ。でも俺も本が好きだから興奮する気持ちもわかる。
「それに、見てください、これ」積み重なった本の山の中から数冊を抜き取って言う。
「社さんの所にあった本と同じものです」
子供が喜びそうな絵本やちょっと高尚そうな文学作品など、示された本はジャンルを問わず種々雑多だ。なるほど、これらがリュウちゃんを育てあげた本の一部なのか。本人にとっても感慨深いものがあるだろう。
「それで、桐生さんは何の本を読んでいたんですか?」
「ん、俺は別に何も」
流れるように自然な動きで持っていた本を背中に回す。
「? 今隠しましたよね? えっちな本でも読んでたんですか? 私、そんなの気にしませんよ。こんなことで怒ったり咎めたりしない――」
『大型犬の飼い方』
本の表紙を見せた途端 穏やかな表情から一変、鋭い眼光で睨みつけ、一歩踏み込み間合いを詰める。
「どうしてこんな本を読んでいるんですかっ!」
「怖い! 怒ってるし咎めてる!」
あまりの気迫に思わず後ずさり。
「桐生さん、犬を飼おうとしてるわけじゃないですよね? つまりこれは私のことですか……? ひどいです! 心の奥底では私を犬みたいだと思ってたんですね!」
「ごめんごめん、思ってないよ。リュウちゃんがちょっと子犬みたいで可愛いな、なんて決して思ってない」
「思ってるじゃないですか! これ大型犬ですし!」
そっぽを向き、もう、と言ってむくれる。
「私は桐生さんが受け入れてくれた、自分のドラゴンである部分を誇っているんですよ。それを犬みたいだなんて……せめて『ドラゴンの飼い方』を読んでください」
そんな本があるか。
悪ふざけはさておき、彼女は人間とドラゴン、どちらの自分も忌避することなく是認しているようだ。どんな彼女も受け入れると決めていた俺にとっては、それが聞けて密かに嬉しかったりする。
そして大量の候補の中から吟味と精査をした結果、リュウちゃんは借りていく本を数冊まで絞った。その中に社さんの所で読んだという懐かしき本の数々はほとんど含まれず、かろうじて選ばれたのは1冊だけだった。
もうたくさん読んだので充分です、なんて言っていたけど、本当は恋しくなるから読みたくないのだろう。
彼女が選んだその1冊というのは、何の変哲もない普通の小説だった。これにどんな思い入れがあるのか、もちろん俺は知らない。
「この本は大切な思い出の本なんです。これだけはどうしてももう一度読みたくて。再びこの本に巡り会えた今日という日を、私は忘れません」
薄く涙を浮かべながら、幸せそうな顔。
そんな大げさな、と思ったが、彼女にとってはそうでもないのかもしれない。
外に出ると、長いこと中にいたらしい、陽は傾いて夕方になっていた。
「すみません、桐生さん。帰る前にお手洗いに行ってもいいですか?」
「どうぞどうぞ。荷物は持つよ。場所はわかる?」
「はい、さっき地図案内でちらりと見ました。建物の裏側ですよね」
「うん、じゃあここで待ってるね」
図書館入口でリュウちゃんを待つ。
ちょっと遅いような。気付けばかれこれ十数分、惨憺たる下痢か便秘であればいくらでも待つのだが、そういう風にも見えなかった。何かあったんだろうか。
ここのトイレは図書館入口の正面とは真反対の建物の裏側にあるうえ、本館とは切り離されて別個で設けられているため、地図で示されていたとしてもわかりづらい。
心配になってついトイレの前まで来てしまったが、どうしよう。まさか中を覗くわけにもいかない。外から声を掛けてみるか?
なんて考えていると、女子トイレの中から清掃員と思しきおばさんが現れた。ちょうどいい。
「あの、すみません」
「はい?」
「えっと、今、中に人はいましたか?」
おばさんはちょっぴり眉をひそめて不審がるような目を向ける。居心地が悪いので、ガールフレンドと はぐれてしまって、と付け足す。
「今 中に人はいないわよ。今、というか、ずっと掃除してたけど人ひとり来なかったわよ。こんなとこにあるトイレ、どうせ誰も使わないし」
おばさんは自分の労働に不満を託ちつつ本館へと帰っていった。
誰も来ていない? じゃあ本当に場所がわからなかったのかな。
でも俺は図書館の入口にずっといたし、戻ってきてはいない。そしたら、どこへ?
……ふと、ある可能性が思い浮かんだ。
もし、トイレに来たはいいが、清掃中の看板が立て掛けてあったとしたら?
それでもし、それを見つけて入ってはいけないと判断して、中に入るのを諦めたとしたら?
トイレの裏はちょっとした茂みになっている。 そしてもし、その茂みで用を足そうとか考えていたら?
そう、たとえばこのへんにいたりして。まさかそんなこと――
あった。いた。
「ちょっ……リュウちゃん、こんな所に!」
彼女はトイレの裏の茂みの中で眠っていた。
「はれ……? き……りゅう、さん?」
「何してるのこんな所で」
「こんな所って……え? どこですかここ?」
トイレだよ。トイレの裏の茂みだよ。まさか本当にここでしようと? いくらなんでも野性的すぎる。
でもまあ、ともかく良かった。リュウちゃんが無事で。
――待て。
待ってくれ。
なんだよこれは。
目に飛び込んだのは赤。
彼女の肩から腕にかけて、1本の線を引いたかのように鮮血が滔々と溢れ、滴っていた。
「リ、リュウちゃん、それ……!」
「え? わ、なんですかこれ」
出血がひどい。怪我? 事故? いつ、どうして、いや色々と疑問はあるけどとにかく今は止血を――
「血が鮮紅色です、しかも心臓の拍動に合わせて血が出てるからこれは動脈ですね。そしたらこのへんかな……よっと」
彼女が脇の付け根あたりに親指を差し込むとピタリと血が止まった。
間接圧迫による止血。動脈か静脈かの判断もしたうえで、おそらく止血点の位置まで完璧だ。
「桐生さん、布か何か持っていませんか?」
「あ、ハンカチならあるけど……」
どう見てもハンカチなんかで覆える程度の怪我ではない。
「待ってて、今すぐタオルか何か貰ってくるよ」
俺はただ呆然としていた。
彼女は狼狽の色も見せずに、迅速かつ正確に処置を自ら行った。もちろんそれは何も悪いことじゃない、素晴らしいことではあるんだ。
だけどそれでいいのか。あの手際の良さは本で読んだなんていうレベルのものじゃない。経験があるのだろう。
そんな経験をするに至った過去の状況と、目の当たりにした現在の惨状とが、二重になって俺の視界を滲ませそうになった。
だがそんな俺の感情などどうでもいい。今は処置を優先すべきだ。
すぐに図書館の人から大きめのタオルを貰い、それを腕全体にあてがった。
俺はこのまま近くの病院に行こうと提案したのだが、彼女はこれくらいの怪我なら昔よくしていましたから平気です、と言って苦笑いをした。
***
「……本当に大丈夫なの? やっぱり病院に行った方が」
「心配ないですよ、体は丈夫なので」
肩を貸そうとしたのだが、必要ないからその代わりに、と言うので手を繋ぐことになった。
「それよりも……なぜ私はあんな所にいたんでしょう?」
聞いたところによると、どうやら彼女には茂みの中で眠っていた経緯も怪我をした理由もわからないようなのだ。
本人でさえわからないのだから、まして俺にわかるはずもない。
なぜあんな所にいたのか、そしてなぜ思い出せないのか。ついさっき起きたはずの出来事の一部始終がまったく思い出せないなんて……。
この怪我はただの切り傷や擦り傷ではない。腕全体から血が滴るほどの大きな傷だ。転んだりぶつけたりでできるものとは程遠い。
考えたくないが、悪意を持った犯人がいるとしか思えない。
あの時 近くにいた人といえば、清掃員のおばさんか? まさか。何のために。
だが、そもそも今リュウちゃんを襲うことに理由や利点がある人間がいるとも思えない。
「それはそうと桐生さん、私達は今どこに向かってるんですか?」
「どこって……もちろん駅だよ」
「駅、ですか? どこかへ行くんですか?」
「ん? そりゃ家に決まって……」
なにか彼女の様子がおかしい。
「というかここはどこですか? 見慣れない街です。ここに何をしに来たんでしたっけ」
「え……?」
「あれ!? 桐生さんが持ってるその本、私が社さんの所で読んでいた本と同じものです! どうしてそれを桐生さんが!?」
……な、何を言ってるんだ、リュウちゃんは……っ!?
さっきの出来事だけじゃない、まさか今日一日の記憶がない……?
そんな、なんで……っ! いったい何があったっていうんだ……!
今日という日を忘れないと言って嬉しそうに笑った彼女の顔を、浮かべた涙を思い出す。あの記憶も、どこかへ消えてしまったというのか。
軽く説明をしてみても、彼女には何も思い出せないようだった。繋いだ手にきゅっと力が込められる。
でも……それでも。
それでもいいんだ。
不安と一緒に彼女の手を握り返す。
今日みたいな日は、楽しかった思い出や幸せな記憶は、彼女が無事でさえいればきっとまた作れる。今はただ、早く帰って怪我の手当てでもするべきなんだ。
不安を無理やり抑え込むみたいにして握った手。温かさを求めて、手探りで何度も握り直す。行きに繋いだときに感じられた温かさは、今はない。
不安が隙間になって邪魔をする。そのせいでうまく体温を分け合えない。
しかしその隙間を埋められるだけの材料は見つけられないまま、心地悪さの中で誰にでも言えるような慰めの言葉だけを掛け続けた。