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身体的特徴差から見た男女平等への異議

作者: Dombom

 多くの女性は乳房を性器である、あるいはそれに類するものであると認識している。

 その一方で、男性は乳房は性器に準じはするが、女性ほど強い認識は持っていないと言われている。

 この認識の差は男女の見かけ上の身体的特徴の差に一因があると思われる。

 人は物を見る時、目につく物、特徴的な物に注目するように出来ている。それはつまり、広大な平原から敵を見つけ出すためのものであったのかもしれない。

 視覚に限らず人の感覚は変化を認識するように出来ているのだ。

 では、人が己の体を見た時はどうだろうか?

 男性の場合、胸部と腹部は筋肉によって多少の起伏があるものの、おおむね平坦である。そのため、男性器まで視界を遮る物は無い。男性が己の体を見る時に強く意識するものは自ずと複雑な構造を持つ男性器に絞られる。

 また、男性の場合、小児期には男性器はより顔に近く、認識しやすい。小児期の男児は性器いじりを経て男性としての認識を強めてゆく。

 そして、男性の視点は性器の位置に引き摺られ、人を見る時、下半身へと誘導されるようになる。

 女性ではどうだろうか?女性の場合、胸部に乳房という特徴的な構造がある。そして、男性の場合、男性器がある部位には視覚的に訴えかけるほどの外性器は無い。

 女性の小児期には乳房は無いが、男児のように認識しやすい外性器は無く、人格形成において男児との差が生じるのは必然であろう。

 男性の視点が性器に引き摺られ、下へと引き下げられる傾向があるのに対し、女性は二次性徴に伴う乳房の成長に伴って、視点は上へと引き上げられる。この視点変化は女性が顔に化粧を施すと言う文化の形成の一因となったのかもしれない。

 女性が男性を見る時、その上体を意識することが多いと言うのは、筋力の強い男性を選ぶ嗜好が生存本能として刷り込まれているからだと言われている。

 他方、男性が女性を見る時、下半身を意識しやすいと言うのは、骨盤が大きく、胎児を安定的に出産できる女性を見分けるためだと言われている。男性にとっては不名誉なことだが、痴漢という犯罪が存在することがその傍証とも言えよう。

 発生、発達における視点の変化は、人の生存戦略と組み合わさることによって発達し、進化してきた。その男女の差は認識という根本的な領域に及んでいる。認識の差というものはあまりにも根源的な階層に根差している為、その差を認識することは出来ない。

 認識とは言うなれば個人個人が持つ物差しでありフィルターである。私達は常日頃、無意識に外界から受け取るすべての情報をこのフィルターを通じて認識している。

 この物差しは無意識下に使われるために、また、他者と共有することが不可能であるがために、認識の差とは決して埋まることのない絶対的な違いなのだ。

 だからこそ、女性から見た男性には、女性の理解できない部分があり、また、男性から見た女性にも、納得のいかぬ側面が存在するのだ。

 この成長と性徴によって生み出される差は現代社会において男性と女性の間に横たわる数多くの差の一つに過ぎない。

 男性と女性は成長発達という長い時間軸以外にも、日々の短い時間の中に数多くの生理的な差があるのはご存知の事だろう。

 また、現代社会の実情を理解するには、生理的側面以外に目を当ててみる必要があるだろう。現代社会において、男女の間には、生理的な差だけではなく、文化的、社会的差が数多く横たわっている。そして少なくない数の差が複雑に絡み合い、解消が困難となっていることは自明のことだろう。

 それ故、男女は永遠に交わることのない平行線の上に立っているのかもしれない。たとえ同じものを見ていたとしても、認識が違う限りそこから捉えられる価値は異なるからだ。

 こうなっては男女間では真の平等を実現することは出来ない。そもそも、男女は根本からして違うのだ。平等性を求めること自体が間違いなのだろう。

 ならば、何を求めるべきか?平等に代わる物それは、公平性なのではないだろうか?

 生理的な差とその差に根差した文化、社会的な差がある限り、男女間では根本的に前提が違う。異なる前提の上では、平等という概念は破綻しており、成立しない。

 持っている物が違う時、その差を平等の名のもとに踏みつぶそうと試みるのはある意味暴力と言える。

 ならば、その差異を悪いものと捉えず、生かそうと考えるべきであろう。

 それこそが公平性であり、有史以前から脈々と積み上げられてきた男女の分業、分担にこその答えがあるのかもしれない。もっとも、現代社会はめまぐるしく変化するため、自然に秩序が構築されるのを待つわけにはいかない。

 男女間の理解を深めるには、やはり議論が必要だろう。しかし、その議論とは、平等さを求めた時の様に差を潰そうとするものではなく、その差は差として認めた上で、どうすればより建設的かを模索するものであるべきだと、私は考える。

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