中編 ぬい活令嬢は、ぬい工房と情報網を増やしていく
「――つまり、売れると思うのです」
商人は、にこやかな顔でそう言った。
栗色の髪を後ろへ流し、よく磨かれた靴と、よく回る舌を持つ青年だった。
名を、パブロ・メルカドという。
ルシアは彼の前に並べたぬいたちを見て、嬉しそうに頬を緩めた。
今日は応接間ではなく、すでに半分工房になりつつある離れの一室である。
机の上には、令嬢たちが作った試作品、ルシアの見本、黒犬ぬい、余ったリボン、そしてお茶菓子がきっちり同居していた。
「売れる、というのは?」
「そのままの意味です、お嬢様。いま王都の上流階級では特別な贈り物が流行り始めています。そこへ来て、この愛らしさ、手作り感、そして――」
パブロはぬいを一体持ち上げ、目を細めた。
「好きな相手をかたどる、という物語性。強いですね」
「まあ!」
「食いつくところが、やはりそこなんですね」
壁際で腕を組んだラファエルがぼそりと言う。
「だって重要でしょう?」
「商機より愛を優先しているので、会話の軸がぶれています」
ルシアは気にせず、ふふんと胸を張った。
「でも、そうなの。これはただのぬいぐるみではないのよ。推しぬいなの」
「推し」
パブロがさらりと復唱する。
「面白い言葉ですね」
「すてきでしょう? 好きな相手、憧れの人、大事な人。そういう心が動く相手を推しと呼ぶの」
「なるほど。では、商品ではなく、感情の形でもある」
「そうよ!」
パブロはにっこり笑った。
「売れますね」
「またそこ!」
「商人ですので」
イネスが隣で小さく噴き出す。
彼女はすっかり常連で、今日も自作ぬい用の新しい上着布を選びに来ていた。
「でも確かに、ルシアの作るものって不思議なのよね。ただかわいいだけじゃなくて、ちゃんとその人らしいの」
「ありがとうございます、イネス」
「わたくし、この前あの方に贈り物をしたの」
「まあ!」
ルシアがぐいっと身を乗り出した。
イネスの頬がみるみる赤くなる。
「ええと……その、ぬいそのものではないのだけれど。ルシアに『襟元の色や仕立てにその人らしさが出る』って言われたでしょう? それで、あの方が好きそうな色の栞を贈ってみたら……喜んでくださったの」
「すてき!」
「その時の顔、思い出すだけで、いま少し倒れそう」
ばたん、とイネスが机につっぷす。
ルシアは即座に背中をさすった。
「大丈夫?」
「だめかも」
「でも前進よ!」
「そうなのよ……前進はしたの……」
「良かったわあ」
パブロは感心したように眉を上げた。
「おや。お嬢様、恋愛相談までなさるんですか?」
「ついでよ」
「ついでで他人の恋を前進させるの、どうかと思いますが」
ラファエルの声は今日も淡々としている。
ルシアは小首をかしげた。
「だって、推しぬい作りって恋心の整理にぴったりでしょう?」
「理屈は分かりませんが、結果だけ見ると異様に説得力がありますね」
パブロが真顔で言う。
「商品としても、相談事業としても、強いですね」
「相談事業?」
「そこに乗るんですか、あなた」
そんな調子で、パブロの初訪問はにぎやかに進んだ。
結局その日のうちに、彼は二つの提案を置いて帰った。
一つ。
貴族令嬢向けの受注販売を始めないか。
一つ。
手作りだけでは追いつかなくなった時のために、信頼できる小さな工房を押さえておかないか。
ルシアは話の半分くらいしか分かっていなかったが、最後の一言だけで十分だった。
「つまり、もっとたくさんの人がぬい活できるってこと?」
「はい」
「すばらしいわ!」
「そこだけ即決なんですね」
◇
それから一か月もしないうちに、王都の一部では妙な噂が立ち始めた。
エストレラ家の令嬢の茶会に行くと、恋が少し進むらしい。
かわいい布でぬいぐるみを作るらしい。
贈り物の相談に乗ってくれるらしい。
しかも、ものすごく楽しいらしい。
最初にその噂を持ち込んだのはイネスだったが、広めたのは彼女の友人たちで、そこへ食いついたのは、意外にも恋に悩む令嬢たちだけではなかった。
「ごきげんよう、ルシア様!」
「ごきげんよう。……あら、あなた初めての方ね?」
「ええ。イネス様から伺って」
「まあ、ようこそ。あなたの推しはどなた?」
「えっ、あ、あの、推しではなくて……」
「恋のお相手でもいいのよ」
「そ、それです!」
ルシアの離れは、すっかりおかしな活気に包まれるようになった。
ある日は、好きな相手の髪色に合う糸を探す会。
ある日は、目元の刺繍だけで「ちょっと不機嫌そうだけど優しい」を表現する研究会。
またある日は、贈り物として渡すなら、ぬいそのものが良いか、ぬい風の刺繍ハンカチが良いかで大討論。
「騎士様相手に、いきなりご本人そっくりのぬいは少し強い気がするの」
「では、色だけ取り入れたお守り袋?」
「良いわね! でもその場合、内側に小鳥の刺繍を忍ばせるの」
「きゃあ、素敵!」
「忍ばせる文化が強すぎません?」
ラファエルは、今日も呆れたような顔でその場に立っていた。
けれど以前とは違い、最近では時おり令嬢たちに糸見本を渡したり、落ちた針を無言で拾ったりしている。
それを見たルシアがにこにこする。
「ラファエル、慣れてきたわね」
「環境に適応しているだけです」
「その黒のサテン、そこではなく右の箱よ」
「……それくらいは覚えます」
「ほら! もう立派なペルなのでは?」
「違います」
「否定が弱くなったわ」
「気のせいです」
そんな騒ぎの中で現れたのが、マルティーナ・ロサレスだった。
明るい栗色の髪を肩で切りそろえた、小柄で可愛らしい令嬢である。
ただし、可愛らしさの中身は、完全に職人だった。
「この裾の仕上げ、素敵すぎます!」
初対面でルシアの見本ぬいを見た彼女の第一声がそれだった。
「でも量産には向きません」
「量産」
ルシアが復唱する。
「うん?」
「ここ、見てください。すごく綺麗なんですけど、一体ずつ手縫いでやるには手間がかかりすぎます。型紙を少し変えて、ここを先に折っておけば……」
「まあ……!」
「あと、この髪型。すごくかわいいですけど、後ろの縫い止め位置を統一すると、もっと再現しやすいです」
「まあまあ……!」
「衣装違いを出すなら、共通の胴体に上着だけ替えられる仕組みにすると――」
「マルティーナ、あなた天才だわ!」
「やっぱり!?」
「自覚あるんですね」
ラファエルが言う。
「あります!」
マルティーナは元気よく答えた。
ルシアとマルティーナは、ものの数分で意気投合した。
その日から彼女は、ペルーチェ同盟の技術担当のような顔で居座るようになる。
「このリボン、華奢なほうが可愛いです」
「分かる!」
「でも価格を考えるなら、こちらを見本用、こちらを普及用に」
「普及用……いい響きね」
「何を目指しているんでしょう、この方たちは」
ラファエルはもう、誰に言うでもなく呟くしかない。
◇
そして噂は、さらに妙な方向へと育っていった。
「聞いた? エストレラ家のルシア様、恋愛の達人なんですって」
「ええっ、あの可愛らしい方が?」
「恋の相談をした令嬢たちが、みんな少しずつ上手くいっているらしいの」
「恋愛マスター……?」
そんな呼び名がつき始めた頃には、ルシアの離れの予約はかなり先まで埋まり始めていた。
「違うわ、わたくしはただ一緒に推しを語っているだけよ?」
「その結果、贈り物選びも会話のきっかけも全部当てているのが問題なんです」
イネスが真顔で言う。
「え、だって好きな相手をよく見るのは基本でしょう?」
「その基本ができなくてみんな苦しんでいるのよ!」
「まあ」
「いま初めて知った顔をしないで」
その日の相談相手は、侯爵家の姉妹だった。
「兄の友人に恋をしてしまって……」
「ふむふむ」
「でもその方、実用的な物しか持たないみたいで」
「その場合はぬい本体より、紋章色を入れた小物がいいわね」
「たとえば?」
「しおり、ペン差し、護符袋、あと意外とハンカチ」
「なぜそんなに出るの?」
「愛の観察よ」
ルシアが当然のように答えると、二人は揃って感嘆した。
「さすが恋愛マスター……!」
「違うわ。ぬい活マスターよ」
「そこを訂正するんですね」
けれど、呼び名は勝手に広まっていく。
そして困ったことに、その評判を聞いてやって来たのは令嬢だけではなかった。
「失礼します。こちらで、その……ちいさくて可愛い贈り物の相談ができると」
恐る恐る顔を出したのは、商会の若い書記官だった。
眼鏡の奥の目が泳いでいる。
「もちろんよ!」
「妹が、最近元気がなくて」
「まあ……!」
「え、男性も入っていいんですか?」
「どうしてだめなの?」
「いや、その、こういうのはご令嬢方の集まりかと……」
「かわいいものが好きでも良いじゃない!」
「……!」
その一言で、書記官はなぜか少し救われたような顔をした。
さらに別の日には、ラファエルの知人らしい騎士見習いが、妙に居心地悪そうに現れた。
「お、おれは別に好きとかじゃなくてだな」
「ええ」
「妹に頼まれて」
「ええ」
「その、『熊のぬいがほしい』って」
「はい」
「色は……桃色が……」
「好きなのね?」
「妹が!」
「そういうことにしておくわ」
ルシアはとてもやさしい顔でそう言って、彼の希望を全部聞き出した。
結果として、ペルーチェ同盟には、令嬢、侍女、若い商人、職人の娘、騎士見習いまで、少しずつ身分も立場も違う人が出入りするようになっていった。
そしてそれを誰より先に活用し始めたのが、パブロだった。
「お嬢様、部屋が足りません」
「足りない?」
「はい。あと人手も足りません」
「それは困るわ」
「困るんです」
「では増やしましょう!」
「話が早い」
パブロは満足そうに手帳を閉じた。
「離れの隣の空き部屋を借りましょう。作業台を三つ増やして、簡単な綿詰めと衣装の裁断を分ける。見本制作はお嬢様とマルティーナ様。細かい刺繍は得意な方だけ。一般向けは簡略版を作る」
「一般向け」
「貴族だけではなく、商家向けにもいけます」
「まあ! 身分を問わず、ぬい活仲間が増えるのね!」
「はい」
「最高だわ!」
「あなた、どこまで話しても、最終的にそこへ着地しますね」
ラファエルが呆れたように言う。
でも、ルシアにとっては本当にそこが大事だった。
好きなものを語るのに、家柄も身分も関係ない。
そういう場所が、少しずつ現実になっていくのが嬉しいのだ。
◇
工房化は、思ったよりずっと早く始まった。
最初は離れの隣室だった。
次に、中庭に面した空き部屋。
そして気づけば、エストレラ家の使用人たちまで、妙に手際よく綿をほぐしたり、箱を整えたりし始めている。
「アナ、そのリボンは見本用よ」
「はい、ルシア様。こちらは販売用に分けますね」
「ありがとう」
「こっちの注文札、北通りの分です」
侍女見習いのアナ・モレノが、小走りで札束を運んでくる。
小柄で機敏、そして妙に気が利く。
彼女はいつの間にか、茶会の給仕役から工房の段取り係へと進化していた。
「アナ、字が綺麗ね」
「ありがとうございます。伝票は読みやすいほうが良いので」
「すてき」
「あと、北通りの商会、最近すごく急ぎの注文が多いみたいです」
「人気なのかしら?」
「でしょうか。布も綿も、妙に一か所だけ買い込みが激しいって、商人さんたちが」
「ふぅん」
ルシアは軽く頷いて、新しいぬいの前髪を整えた。
その横で、ラファエルがほんの少しだけ目を細める。
「その話、誰から聞きました」
「えっ? 今朝来た行商の奥さんですけど」
「行商」
「ペルの会員さんなんです」
「増えましたね、本当に」
アナはにこっと笑った。
「だって、皆さんお話しやすいんですもの」
「……」
ラファエルは何か言いかけて、やめた。
ここでは確かに、みんなよくしゃべる。
令嬢たちは恋を語り、商人は最近の流行を話し、使用人たちは屋敷や通りの空気をぼそっと漏らす。
お茶を飲んで、ぬいを見て、刺繍をしていると、どういうわけか人は本音を言いやすくなるらしい。
そしてルシアは、その全部を楽しそうに聞いている。
「この間、東門の警備が変わったの」
「まあ、そうなの?」
「兄が騎士団にいるでしょう? 急に配置換えがあったらしくて」
「へえ」
「あと、王宮の侍女仲間がね、最近は妙に夜の出入りが増えたって」
「夜?」
「春の祭典が近いからではって話だったけど……」
別の席で、令嬢たちの雑談に混じるそんな声が聞こえる。
ルシアは相槌を打ちながらも、手元の熊ぬいに小さな刺繍花を入れていた。
「祭典、楽しみねえ」
「そこに着地するんですね」
ラファエルが言う。
「だって楽しみでしょう?」
「王都中が浮かれる時期です。浮かれた時ほど問題は起きます」
「まあ、ラファエルったら真面目」
「護衛ですので」
「でも『お祭り限定ぬい』が作れるかもしれないわ」
「その発想の軽さ、見習いたくありません」
その時、入口で小さな拍手が鳴った。
「噂以上ですね」
いつの間にか立っていたのは、青みがかった黒髪の痩せた男だった。
質素な服なのに、不思議と所作だけが洗練されている。
目元は穏やかそうに見えて、全然穏やかではない。
ラファエルの空気が、一段だけ変わった。
「……どちら様ですか」
「通りすがりの役人、とでも」
「通りすがりの役人は、護衛の目を抜いて離れの入口まで入りません」
「気づいていたでしょう?」
「もちろん」
「でしょうね」
男は薄く笑い、ルシアへ目を向けた。
「初めまして、ルシア・エストレラ様。ハビエル・ネグロと申します」
「初めまして」
ルシアはごく自然に一礼した。
「ぬい活に興味がおあり?」
「……そういうことにしておきましょう」
「まあ! では、お茶をどうぞ」
「警戒が薄い」
ラファエルが低く言う。
「だって来てくださったもの」
「来てほしい種類の客とは限りません」
「でも、かわいいものを前に悪い人になれるかしら?」
「なれます」
「そう」
ルシアは素直に頷いた。
「では、お茶を飲みながら見極めましょう」
「雑なんですよ、あなたの判断基準は」
ハビエルはそのやり取りを見て、ほんの少し目を細めた。
「興味深い場所ですね、ここは」
「でしょう?」
ルシアはにっこり笑う。
「好きなものを好きと言っていい場所なの」
「それだけで、身分も立場も違う人間がこれだけ集まる?」
「集まるわ」
「しかも皆さん、よくしゃべる」
「楽しいもの」
「……」
ハビエルは一瞬だけ黙った。
「それが一番厄介なんですよ」
ラファエルが小さくため息をつく。
「同感です」
その日から、ハビエルは時々現れるようになった。
名目は市場調査だの祭典準備の聞き取りだの、毎回違う。
けれど、本当のところは、誰の目にも分かっていた。
この妙な集まりを警戒しているのだ。
もっとも、当のルシアだけは別だった。
「ハビエル、黒に銀刺繍は好き?」
「なぜその質問を?」
「似合いそうだから」
「……好き嫌いで答えるべき場面ですか」
「ええ」
「なら、嫌いではありません」
「良かった。今度、あなたっぽいぬいを作るわね」
「遠慮します」
「ラファエル、嫌がっている人に似合いそうな配色があるわ」
「私を巻き込まないでください」
「お二人とも、ずいぶん馴染みましたね」
パブロが楽しそうに笑う。
◇
工房が軌道に乗るにつれ、ペルーチェ同盟には、ますます色々なものが流れ込むようになった。
色糸、布、綿、注文票。
恋愛相談、贈り物相談、服飾相談。
そして、なぜか、ちょっとした噂話や困りごとまで。
「南の倉庫街、最近夜も馬車が多いらしいですよ」
綿を運んできた商人の若者が言う。
「へえ」
「祭典前だからでは?」
パブロが答えながらも、帳面に何かを書き留める。
「でも、運んでるのが布だけじゃなさそうで」
「ふぅん」
別の日には、騎士見習いがこんなことをこぼした。
「北通り、今月だけ警備順が三回変わったんだ」
「そんなに?」
「上の命令らしいけどな」
「祭典って大変ねえ」
ルシアはちくちくと針を動かしながら言う。
「今年は人が多いって聞くし、お祭り限定ぬいを増やしたほうがいいかしら」
さらにまた別の日には、侍女の一人が、何気ない顔でこう言った。
「王宮、最近見慣れない商会の出入りが多いんです」
「珍しいわね」
「ええ。しかも、夜に」
「夜の納品?」
「そうでしょうか……?」
ルシアは首をかしげた。
「夜だと、ぬいの顔が見えにくそう」
「そこじゃないのよ、ルシア様」
イネスが真顔で言う。
その横で、ハビエルはもう隠しもしない疲れた顔をしていた。
ラファエルも似たようなものだ。
「……おい」
「ええ」
二人は離れの外廊下で顔を合わせ、小声で話す。
「集まりすぎでは」
「明らかに集まりすぎです」
「本人に自覚は」
「あると思いますか」
「ないでしょうね」
「でしょうね」
しばし沈黙。
「なぜ、恋愛相談のついでに王宮の夜間出入り情報が入るんです」
「知りません」
「なぜ、ぬいの受注票と一緒に倉庫街の馬車の話が回ってくるんです」
「知りません」
「なぜ、全員こんなに口が軽い」
「ここでは話してもいい気がするらしいです」
「最悪ですね」
「ええ」
二人が揃って深いため息をついたところへ、ルシアがひょこっと顔を出した。
「何をこそこそしているの?」
「していません」
「していません」
「まあ、息ぴったり」
「嬉しくありません」
ハビエルが即答する。
「二人とも、そんなに難しい顔をして。せっかくマルティーナが新作見本を持ってきたのに」
「新作?」
ハビエルが聞き返すと、ルシアの顔がぱっと明るくなった。
「そう! 祭典用の限定ぬい!」
「……」
「王都の春祭りに合わせて、花冠つきにするの。あと、地方ごとの色違い衣装も素敵よね」
「この状況で全力で進めるの、ある意味すごいですね」
「だって楽しそうでしょう?」
「ええ、あなたはそうでしょうね」
ルシアは満面の笑みで頷いた。
「もちろん!」
◇
その夜。
工房の作業がひと段落し、皆が帰った後も、ルシアは机に向かっていた。
祭典限定ぬいの型紙を前に、うーんと悩んでいる。
花冠の位置か、袖口のレース幅か、そんな非常に平和な悩みだ。
そこへ、パブロが帳面を片手にやって来た。
「まだ起きていらしたんですか」
「もちろん。ひらめきは夜に来るものよ」
「商人には朝に来てほしいですね」
「売上のお話?」
「それもありますが」
パブロは帳面を開き、少しだけ表情を引き締めた。
「北通りの大口注文、やはり変です」
「変?」
「布や綿の動きが不自然です。祭典前だから、で片づけるには偏りすぎている」
「へえ」
「それに、南の倉庫街。最近、普段使わない経路の馬車が増えている」
「ふぅん」
「……お嬢様」
「なあに?」
「本当に、心当たりは?」
「ないわ」
ルシアはあっさり答え、型紙を持ち上げた。
「でも、祭典って人も物もたくさん動くから、色々あるのかもしれないわね」
「ええ、そうですね」
「それよりパブロ、この花冠、三つ編みの上に乗せるほうが可愛いと思わない?」
「思いますが、いまそれどころじゃない気もします」
「かわいいは大事よ」
「知っています」
パブロは苦笑した。
知っている。
だからこそ困るのだ。
この令嬢は、本当にぬい活と推し活しか考えていないような顔で、時々、とんでもなく核心に近い場所へ立ってしまう。
その時だった。
外から、ラファエルが足早に入ってくる。
いつもより少しだけ表情が硬い。
「ルシア様」
「あら」
「ハビエルが来ています」
「夜なのに?」
「夜だからです」
少し遅れて入ってきたハビエルは、いつもの皮肉屋めいた余裕を半分ほど落としていた。
「北門近くで、見慣れない馬車の動きがありました」
「まあ」
「祭典準備にしては数が多い。しかも、王宮側の書類と合わない」
「書類と合わないの?」
「ええ」
ハビエルは低い声で言う。
「何かが動いています。まだ断定はできませんが、あまり穏やかな話ではない」
ルシアは、しばらく彼を見つめた。
それから、机の上の型紙と、作りかけの花冠ぬいを見た。
「……なるほど」
ラファエルとハビエルが、わずかに身構える。
ルシアは、ぱっと顔を上げた。
「では、祭典までに、もっと人を集めなくてはね!」
「……はい?」
ハビエルが珍しく素で聞き返した。
「お祭りでしょう? 王都中から人が集まるなら、絶対に楽しいもの。祭典限定ぬいのお披露目会を開きましょう! お茶会もつけて、地方衣装ぬいも並べて、推し語り席も作って――」
「待ってください」
ラファエルが額を押さえる。
「いま、何かが動いているかもしれないという話をしました」
「ええ」
「それでなぜ、人を集めるんです」
「だって、そのほうが楽しいでしょう?」
「楽しいかどうかの話では」
「それに、みんな来てくれたら、新しい仲間も増えるわ」
「増やすんだ……」
パブロが小さく呟く。
「お嬢様、それ、規模としては展示会に近いですよ」
「まあ、素敵」
「素敵で済ませてはいけない気もします」
ハビエルが本気で疲れた声を出した。
けれどルシアは、すでに目を輝かせている。
「イネスに招待状を頼みましょう。マルティーナには見本の仕上げ。アナにはお茶の段取り。パブロは流れを整えて。ラファエルとハビエルは、ええと……」
「護衛と警戒です」
「そう、それ!」
「雑にまとめましたね」
「でも頼りにしてるわ」
ルシアはにっこり笑って、花冠ぬいを持ち上げた。
「だって、せっかくの春祭りですもの。かわいくて楽しくて、みんなが集まれる日にしなくては」
「……」
「それに」
彼女は何でもないことのように続ける。
「人が集まれば、見えるものも増えるでしょう?」
その一言で、部屋の空気が一瞬だけ変わった。
ラファエルが目を細める。
ハビエルが無言になる。
パブロは帳面を閉じたまま、ルシアを見つめた。
当の本人だけが、花冠の角度を気にしていた。
「うーん、やっぱり右に一輪足したほうが可愛いかしら」
「……もしかして、少しは分かって言ってます?」
ハビエルが聞く。
「何が?」
「……いえ。もういいです」
「そう?」
窓の外では、春祭りを控えた王都のざわめきが、夜の空気の奥でかすかに膨らんでいた。
人も、物も、噂も、いつもより多く動く季節。
その中で、ペルーチェ同盟の小さな離れは、今日も変わらず明るい。
かわいいぬいと、お茶の香りと、誰かの「好き」の話。
そのついでに、なぜか少しずつ集まっていく、妙に見過ごせない断片たち。
そしてルシアは、何も変わらない顔で笑った。
「よし、決めたわ。祭典の日は、特別ペル会にしましょう!」
その一言に、ラファエルは静かに目を閉じた。
ハビエルはこめかみを押さえた。
パブロは、半分諦めたように微笑んだ。
――たぶん、ろくでもないことになる。
そう思っているのは、本人以外の全員だった。
※初めての連載になります。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
次回最終話更新予定
2026/04/03 21:00




