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1/3

前編 ぬい活令嬢は、秘密の趣味をかわいく布教する

 王都の春は、手芸市から始まる。


「見てちょうだい、ラファエル。この桃色の刺繍糸、すごくない?」

「道の真ん中で立ち止まらないでください」


「だって、ほら。この艶! このやわらかさ! しかもお値段までかわいいのよ!」

「糸に値段以外のかわいさがあるのは、あなたの世界だけです」


 黒髪の青年、ラファエル・バルデスは、今日も今日とて無愛想だった。

 切れ長の灰色の目、近寄りがたい強面、長身。黙って立っているだけで、布屋の店主が微妙に姿勢を正すくらいには威圧感がある。


 けれど、ルシア・エストレラはまったく気にしない。


「そんなことないわ。糸には個性があるもの」

「人間にだけ許される理屈では?」

「まあ。偏見よ、ラファエル」


 ルシアはふわりと笑い、布地の束を胸に抱え直した。


 明るい琥珀色の瞳が、きらきらと弾む。

 今日はお気に入りのクリーム色のドレスに、薄青のリボン。

 見るからに春めいた令嬢なのに、その腕いっぱいには上質な布、レース、綿、刺繍糸。

 どう見ても、買い物帰りの令嬢というより、材料を仕入れた職人である。


「今日は大収穫ねえ」

「それで。今度は何を作るんですか」

「ふふ、内緒」

「聞いて損しました」


 ラファエルがため息をつく。


 彼はエストレラ家に雇われた護衛だ。

 正確には、護衛兼、外出時の付き添い兼、たまにルシアの暴走を止める役目らしい。

 もっとも、いまのところ一番危険なのは、ルシアが予算を忘れて手芸材料を買い込むことくらいなのだけれど。


「でも、今回は自信作になりそうなの」

「前回も同じことを言っていました」

「前回も自信作だったもの」

「今回は何体目ですか」

「数えるのは野暮よ」

「つまり数えたくないほどですね」


 ルシアはにっこり笑ってごまかした。


 ――彼女には秘密がある。


 貴族令嬢らしく花や刺繍が好き、などという可愛らしい範囲ではない。

 もっと熱く、もっと深く、もっと情熱的な秘密。


 それは、ぬい活(ぬいぐるみ活動)である。


 お気に入りの人物――ルシアの言う「推し」を、二頭身ほどの小さな「ぬい」にして、衣装や髪型や表情まで再現し、眺め、語り、愛で、時には着せ替えまで楽しむ。

 幼い頃、一度見たすてきな人の姿を忘れたくなくて、小さなぬいにしてみたのが始まりだった。

 そうして形にしてそばに置くうちに、ルシアはすっかりその楽しさに夢中になってしまった。


 ルシアにとって、それは人生の潤いであり、尊い趣味であり、心の避難所であり……。

 つまり、最高に楽しい時間だった。


 ただし、世間一般にはあまり理解されていない。

 だからルシアは、自室の一角に小さな工房を作り、ひっそりと秘密のぬい活を楽しんでいた――はずだった。


     ◇


 その日の午後。

 ルシアは自室で、買ってきたばかりの布を机に広げ、うきうきと鼻歌を歌っていた。


「この青、すごく良いわ……。少しくすんでいて、それでいて知的で、でも冷たすぎないの。ああ、まさに理想の上着色……」

「それは誰の話ですか」

「推しの話よ」

「また知らない単語が出てきましたね」


 部屋の隅に立つラファエルは、もはや慣れた顔で壁になっていた。


 護衛としてどうかと思うほど会話に参加しているが、ルシアの部屋で不審者が出る気配はゼロなので仕方がない。


 ルシアは机の引き出しから、大事そうに布包みを取り出した。

 中から現れたのは、小さなぬいぐるみだった。

 つややかな金茶の髪、優しげな顔立ち、刺繍入りの正装。

 手のひらにちょこんと乗るそれは、明らかに誰かを模している。


 ラファエルが無言になる。


「……それは」

「すてきでしょう?」

「誰です」

「去年の春の園遊会で一度だけ見かけた、隣国の使節団副官さま」

「一度だけ?」

「ええ。でも横顔が完璧だったの」

「情報量が少なすぎませんか」

「だからこそ想像がふくらむのよ!」


 ルシアは両手でぬいを持ち上げ、うっとりと見つめた。


「この控えめな刺繍。知的な眉。少しだけ厳しそうなのに、たぶん猫には優しいわ」

「何ひとつ確定情報がありません」

「推し活に必要なのは、情報だけではないの」

「まったく説得力がない……」


 その時だった。


「ルシア様、お茶を――」


 ノックもそこそこに扉が開き、侍女が顔を出した。

 その後ろから、今日は珍しく訪ねてきた令嬢、イネス・カスティージョが、ひょいと室内を覗き込む。


「突然ごめんなさい。相談したいことが――……え?」


 固まった。

 ルシアも固まった。


 手には、ばっちり隣国副官ぬい。


 数秒、静寂。

 ラファエルだけが、ああ終わった、という顔をした。


「……」

「……」


「……なにそれ、かわいい!」


 ぱっとイネスの顔が輝いた。

 ルシアは瞬きをした。


「……え?」

「え? じゃないでしょう!? 何それ何それ、すごくかわいいのだけれど! それ、ぬいぐるみ? えっ、服まで細かい!」


「笑わないの?」

「どうして笑うのよ!」

「子どもっぽいとか、変わってるとか」

「こんなにかわいいのに!?」


 イネスが、ずいっと机に寄る。

 黒に近い焦げ茶の巻き髪が揺れて、その目は完全に獲物を見つけた猫だった。


「ルシア、これ、あなたが作ったの?」

「そうだけれど……」

「天才では?」

「まあ!」

「しかもこの上着、実在の衣装? 再現系?」

「そうなの! 見て、この襟の金糸! 本当はもう少し細くしたかったのだけれど――」

「分かる! でもこのサイズでここまでやるのすごいわ!」


 次の瞬間、ルシアとイネスは完全に通じ合った。

 ラファエルだけが、理解不能の波に取り残されている。


「……何が起きているんですか」

「奇跡よ」

「理解が追いつきません」


 ルシアはそっとぬいを抱きしめた。


 秘密が、秘密のまま終わらなかった。

 それどころか、分かってくれる人がいたのだ。

 その事実だけで、胸がふわっとあたたかくなる。


「イネス、興味があるの?」

「あるに決まってるでしょう! というか、さっきまでの相談、少し忘れたわ!」

「相談?」

「そうだった……思い出してしまったわ……」


 イネスは急にしおしおと肩を落とした。

 華やかな見た目に反して、こういうところは妙に分かりやすい。


 ルシアは小首をかしげる。


「なあに?」

「……好きな方がいるの」

「まあ!」

「その『まあ!』に一切の遠慮がないわね!?」

「恋のお話、大好きよ」

「知ってたら相談に来なかったかもしれない……」


 とはいえ、話し始めたイネスは止まらなかった。


 相手は侯爵家の次男で、優秀で、真面目で、でも少し距離が遠くて、どう接したらいいか分からない。

 茶会では話せても、その先に進めない。

 何を贈れば喜ぶのかも、どんな表情を見せるのかも、自信がない。


 ルシアはうんうんと頷きながら聞き、途中でイネスの前に椅子を引いた。


「それなら、作りましょう!」

「何を?」

「好きな方のぬいを」

「……ぬい?」

「推しのぬいぐるみ、略して『推しぬい』よ!」


 イネスがぽかんとする。

 ラファエルは頭痛をこらえる顔になった。


「なぜそこでそうなるんです」

「大事なことだからよ」

「本当に?」

「もちろん」


 ルシアは早口でまくしたてた。


「好きな人って、近くにいると緊張してしまうでしょう? でも、一度ぬいにしてみると、どこが好きなのか、どういうところに惹かれているのか、すごく分かるの。髪の色、目の形、笑った時の感じ、いつもの服装。形にすることで、自分の気持ちが整理されるのよ」


「気持ちが……整理」

「それに、贈り物のヒントにもなるわ。その人らしさを考えるから」

「なるほど……?」


「あと、単純にかわいい」

「最後が強い」


 イネスは真剣な顔で小さなぬいを見つめた。


「……確かに、好きな人のことを細かく思い出すきっかけにはなりそうね」

「でしょう?」

「でも、わたくし裁縫なんて得意ではないわ」

「大丈夫。最初は顔の刺繍を簡単にしても良いし、服も特徴を少し入れるだけでそれらしくなるもの」

「そんなに簡単に?」

「ええ。大切なのは愛よ」

「技術論の途中で精神論になったわ……」


 それでもイネスの表情は、さっきよりずっと明るかった。


「……やってみたい」

「本当に?」

「ええ」

「うれしい!」


 ルシアが立ち上がる。

 その勢いでレースの束が落ちそうになり、ラファエルが無言で受け止めた。


「ありがとう、ラファエル」

「どういたしまして。で、私はなぜこの場にいるんでしょう」

「証人役かしら」

「何の」


 ルシアは聞いていなかった。


 すでに机の上に布と綿を広げ、イネスのための「初めての推しぬい講座」を始めている。


「まず髪色から決めましょう。好きな方の髪は?」

「暗い栗色」

「目は?」

「琥珀色で……光に透けると綺麗なの」

「はい、素敵。服は?」

「騎士団の制服姿が一番……あっ」

「いいのよ! そういうの大事!」

「今の、すごく恥ずかしいのだけれど!?」

「推し語りは恥ではないわ!」

「強い!」


 ラファエルは、そこで初めて微かに眉を上げた。

 恥ではない。

 その言葉に、何か引っかかったのだろう。

 だが、ルシアは気づかない。

 彼女は目の前の布教に夢中だった。


     ◇


 数日後。

 イネスは、再びエストレラ家を訪れた。

 両手で大事そうに箱を抱えている。


「できたの」

「まあ!」


 箱の中には、少し不格好ながら、きちんと制服を着た小さなぬいがいた。

 髪は暗い栗色、目は琥珀色、表情は驚くほどやさしい。


 ルシアは感動で口元を押さえた。


「すてき……!」

「ほんとうに?」

「愛があるもの!」

「それ、やっぱり判定基準がふわっとしていない?」

「でも本当よ。ほら、この襟のところ、すごく丁寧」

「そこは一番頑張ったの」

「分かるわあ……!」


 二人で盛り上がっていると、部屋の入口に立っていたラファエルが、箱の中をちらりと見た。


「……よくできています」

「え?」

「髪色の糸選びが自然です。制服も特徴が出ている」

「ラファエル、分かるの?」

「多少は」

「まあ!」


 ルシアは目を丸くした。

 イネスも驚いている。


「まさか、あなた……ぬいを見る目があるの?」

「その言い方だと、ぬいにしか使えない才能みたいですね」

「あるの?」


 無言。

 妙な間。


 ルシアはじっと彼を見上げた。

 ラファエルの表情はいつも通り硬い。けれど、耳がほんの少しだけ赤い。


 その瞬間、ルシアはすべてを察した。


「ラファエル」

「何です」

「あなた、かわいいものが好きね?」

「違います」

「即答」

「違います」

「二回言った」

「……小さいものが整って並んでいるのは、嫌いではありません」

「好きなのね!」

「言い換えただけです!」


 ルシアは、ぱあっと顔を輝かせた。


「良いじゃない! かわいいものが好きでも!」

「声が大きい」

「だって素敵なことだもの。何が悪いの?」


 ラファエルは言葉に詰まる。

 その強面からは想像もつかないほど、困った顔だった。


 ルシアはにこにこと机の引き出しを開け、小さな布包みを取り出した。


「はい」

「何ですか」

「あなたにあげるわ!」

「嫌な予感しかしませんが」

「開けてみて」


 渋々受け取ったラファエルが布包みをほどく。


 中から出てきたのは、黒い犬のぬいぐるみだった。

 丸い耳に、きりっとした眉。けれど目元だけ少したれ気味で、怖そうなのに、どこか愛嬌がある。


「……」

「ラファエルっぽいでしょう?」

「どこが?」

「怖そうに見えて、実は面倒見が良いところ」

「そんなつもりは……」

「それに黒でつやつや」

「犬にされている点への抗議はもう間に合いませんか」

「すごく似合ってるわ」


 イネスがふふっと笑った。


「本当に、ちょっと似ているかもしれない」

「イネス様まで……」

「ね? かわいいでしょう?」

「……そう、ですね」


 その返事は、ひどく小さかった。

 でもルシアは聞き逃さなかった。


「ほら!」

「何が『ほら』なんです」

「好きなのね」

「違うと言っているでしょう」

「でも持って帰る?」

「……」

「持って帰るのね」

「返せと言われても困るので」

「ふふ」


 ラファエルは完全に負けた顔で、黒犬ぬいをしまった。

 その仕草が妙に丁寧だったので、ルシアはますますうれしくなる。


 仲間だ。

 また一人、仲間が増えた。


     ◇


 それから数日で、事態は思わぬ方向に転がった。


「ルシア、お願いがあるの」

「なあに?」

「友人を一人、連れてきても良いかしら」

「もちろん!」

「その子も恋に悩んでいて……」

「まあ! 大歓迎よ!」


 イネスが連れてきたのは、赤面した令嬢だった。

 さらにその令嬢が、別の令嬢を呼んだ。


 気づけばルシアの部屋では、小さなお茶会とぬい講座が定期的に開かれるようになっていた。


「この方の前髪は、もう少し右に流したほうが良いと思うの」

「分かります! あと笑うとえくぼが……」

「そこは刺繍で表現できるわ」

「ルシア様、天才では?」

「愛の観察よ」

「名言っぽい!」


 部屋はにぎやかで、机には色とりどりの布と糸。


 令嬢たちは最初こそ恥ずかしがったが、一度「推し」について語り始めると止まらない。


「うちの兄は不器用で、でも小鳥には優しいんですの」

「まあ、刺繍に小鳥の羽根色を入れましょう!」

「それ素敵!」

「わたくしのほうは、笑うと少し片方だけ口元が上がるの」

「最高ね」

「最高って言い方!」


 ルシアは毎回、心の底から楽しかった。

 誰かの好きなものを聞くのは楽しい。

 それを形にするのはもっと楽しい。


 そして、好きなものを好きだと言っていい空気が、部屋の中に広がっていくのが何よりもうれしい。


 そんなある日。

 茶会が終わり、令嬢たちが帰った後のことだった。


 ルシアは満足げに机の上を片づけながら、ふと思いついたように言った。


「名前をつけましょう」

「何のです」


 壁役に徹していたラファエルが問う。


「この集まりの」

「必要ですか?」

「必要よ。だって、ただのお茶会ではないもの」

「ただのお茶会ではないんですか?」

「もちろん。ぬい活の素晴らしさを分かち合う、大切な仲間の会よ!」


 ルシアは胸を張った。


「それなら、かわいくて、響きが良くて、ぬいぐるみっぽい名前がいいわ」

「ぬいぐるみっぽい名前」

「ええ」


 イネスが目を輝かせる。


「何か候補があるの?」

「あるわ!」


 ルシアは得意げにメモを広げた。


「ペルーチェ、というのはどうかしら」

「……かわいい」

「でしょう?」

「響きが上品で、でもやわらかいわ」

「それに略すと『ペル』よ」

「まあ、すてき!」

「会員の印みたいで可愛いでしょう?」


「完全に秘密結社の話し方ですね」


 ラファエルがぼそりと呟く。


「何か言った?」

「いえ、何も」


 ルシアはふふんと笑った。


「では決まりね。今日から私たちは――」


 小さなぬいたちを見回し、仲間たちのきらきらした顔を見回して、宣言する。


「ペルーチェ同盟よ!」


「同盟」


 ラファエルが復唱した。


「同盟ですか」

「ええ! 好きなものを好きと言える人たちの、すてきな同盟!」

「ずいぶん大げさな名乗りになりましたね」

「大げさじゃないわ。大事なことだもの」


 ルシアはそう言って、にっこり笑う。

 その笑顔はあまりに無邪気で、あまりに楽しそうで、ラファエルは言い返せなくなった。


 たしかに、大事なのだろう。

 ここでは誰も好きなものを笑われない。


 令嬢だろうが、強面の護衛だろうが、かわいいものが好きでもいいし、誰かに憧れてもいいし、それを語ってもいい。

 そういう場所は、思っていたよりずっと珍しい。


「……まあ、好きにしてください」

「ありがとう、ラファエル!」

「許可した覚えはありませんが」



 その時、扉の外から侍女が声をかけた。


「ルシア様、お客様です。商人の方が、お話があると」

「商人?」

「ええ。最近、令嬢の間で流行り始めている小さなぬいぐるみについて、ぜひ一度お目にかかりたいと」


 イネスとルシアが顔を見合わせる。


 次の瞬間、ルシアの目がきらっと光った。


「まあ! それって、ぬい活を布教する好機ではなくて?」

「その発想なんですね」

「当然よ。仲間は多いほど楽しいもの!」


 ラファエルは静かに天井を仰いだ。

 どう考えても、嫌な予感しかしない。


 令嬢たちだけでも十分騒がしいのに、今度は商人まで来るらしい。

 けれどルシアは、そんなことをひとかけらも気にしていなかった。


「急がなくちゃ。お茶の用意をして、見本も並べて――あっ、黒犬の子も飾ろうかしら」

「それはやめてください」

「どうして?」

「どうしてもです」

「照れてるの?」

「違います」

「ふふ」


 ルシアは楽しそうに笑って、ぬいたちを抱えた。


 王都のどこかで何が起きているのか。

 誰が何を企んでいるのか。

 そんなことは、まだ知らない。


 けれど、彼女の小さな部屋にはもう、少しずつ人が集まり始めていた。


 好きなものを語る声。

 恋の悩み。

 誰かを思う気持ち。

 そして、何気ない噂話。


 それらがどんな形になるのか、今はまだ、誰も知らない。


 ただ一つ分かるのは、

 ルシア・エストレラは、今日もとても楽しそうだ、ということだけだった。


※初めての連載になります。

少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。


次回更新予定

2026/04/02 21:00

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