2歳の猫
わしは猫と会う運命にあるのかもしれないと思ったのはいつの事だろうか。
ずっと支え寄り添ってくれたばあさんが亡くなったのは3年前。
結婚して60年目だった。
「今日、猫に会ったのよ」
認知症と診断されてからは部屋にいるだけの生活なのに意味のわからないことを言うようになってしまった。
「猫なんかおらん」
伝わるはずのない現実を優しく伝えながら年老いた妻の身体を優しくお湯で濡れたタオルで拭いた。
「ばあさん。わしに伝えたいこともあったはず。迷惑かけたな。悪かった許してくれ」
雨が降る自然現象のように、予報もなく自然と言葉が出てきた。
大きな喧嘩こそしたことはなかったが、雲ひとつない春の昼間に輝く太陽のような温もり溢れる妻の優しさがあったからこそだと思った。
「2歳の猫に会いたいね〜」唐突に妻が言う。
それが最期の言葉だった。
翌朝妻は穏やかな寝顔で、いつも寝ている布団の中で息を引き取っていた。
結婚記念日60年の朝だった。
数多の手続きを終えた。
「ばあさん……こんなわしのために尽くしてくれて。頑張ってくれて。ありがとう。感謝している」
雨に比べたら小さく。
でも想い出を含んだ涙を幾つも流しながら額を撫でた。
すると唐突に思い出したことがあった。
認知症と診断されて2年目の春に、一度入院した。
その時にお医者さんから
「そういえば奥さまが必ず「猫を見た」と言うので、詳しく聞きました。そしたら…」
散歩をしていたら、2歳の猫がいた。
と答えたらしい。
毎度言うので都度聞くと、必ず毎度一語一句違わず答えたらしい。
若い頃にそんな出来事があったかな。と考えた。
しかしこれと言って心当たりがない。
若い頃、定年退職後のデートに出掛けて猫を見た出来事も。
ましてや年齢まで具体的に。
わしはそもそも猫に興味がない。
どちらかといえば犬派だが妻はたしかに猫派。
妻は見ていたが自分が心此処にあらず、わしは見ていなかったとかか?と考えた。
全てのその考えが、いつしか忘れていたことだった。
ずっと悲しんでいる訳にもいかない。
妻がもしかしたら本当に猫を見ていたから伝えたかったことかもしれない。
そう思い遺品整理も兼ねて箪笥や物置で眠っていた想い出たちを叩き起こした。
次から次へと眠い目を擦りながら起きてくる想い出たち。
「こんなものまで…」
いつしか行った映画や博物館のチケットや、誕生日に渡した時に包んでいた包装紙まで。
どれだけ優しいんだ。
「ばあさん…」
優しく笑いながら泣いた。
わしからすればゴミだと思っていた物は妻からすれば想い出だったのか。恥を知った。
下に行けば行くほど、まるで地層のように想い出が。
それを理解した自分の手を一度止め、順番が変わらないように新しい地層が下になるように別の箱へとりあえず置いていった。
地層の途中で、箱の底まで続く大きな岩盤に突き当たる。
なんだろうか
一番手前にある本を一冊手に取るとりあえず最後のページを捲る。
――――
お父さんが、定年退職。
長い間本当にお疲れ様でした。
機嫌が良い時、悪い時。
お父さんなりに隠してるんだろうなって思ってましたが私には分かっていました。
たくさん色んな事があったと思いますが本当にお疲れ様でした。
これからは自宅で好きな様に過ごしてゆっくり休んで下さい。
おかえりなさい。
私も日記は、これを機に定年退職しようかな。
――――
丁寧な文字で書かれている。
すぐに分かった妻の字。
伝わるはずがないとわかっているけれど、
開いたページに、額を当てた。
こちらこそ。ゆっくり休んで下さい。
そう言いながら頭を下げた。
感謝をちゃんと伝えていれば…後悔した。
これをすべて見るのも心が持つ自信が無かったので日記を閉じ想い出たちをまた寝かし付けるように1つずつ同じ位置に同じ順番で戻した。
その2日後。
自宅の玄関を掃除していた。
にゃー
何歳かわからないが間違いなく大人でしっぽの長い身体の細い黒猫が、目の前まで来て鳴く。
「どうした?エサか?」
返事なのかは分からなかったが、仰向けに寝転び左右に身体を揺らし背中を地面に擦り始めた。
なにをあげたらいいのか分からなかったが、とりあえずキャットフードなら食うのか?
と考えていたらどこかへ歩き去ってしまった。
翌日朝。
近くの店に行き猫用品を見た。
小袋のシーチキンのようなエサを見つけた。
これなら最悪食わなくてもそう思うものの、種類がたくさんあり過ぎて悩んだ。
困ったな。これだけあると言うことは猫にも好みがあるのか?と思い後頭部人差し指で掻きながら3種類を適当に選び購入。
自宅に戻った。家の鍵を取り出す。
ガチャン にゃー
鍵を開ける音に、返事をしたのか後ろを見ると昨日の猫がいた。
「ちょっとだけ待っててくれ」待ってくれるかも分からなかったが右手で待つようにお願いをした。
食器棚と相談した結果。二段ある棚。一番上の棚の一番左奥でバレないようにかくれんぼをしていた小さなうすいピンク色の花柄の器を取り出す。
これでいいか。
猫へ何か食わせてやりたいと言う「想い」を両手に持ち、玄関へ。
扉を開けると。
しっぽを前足にかけて黒猫が待っててくれた。
近付いても逃げもせず
コトン
地面と器が接した際に奏でる少し高い音に反応して、器を見つめた。
器と目線の間に割り込み、一袋目を開け器に出す。
「よかったら食ってくれ」
そう言うと猫は一心不乱に食べ始めた。
うまいか?そう聞きながらその場にあぐらをかく。
わしは猫にそこまで興味があるわけでもないが、妻は猫が好きだった。
だからわしは猫に会う運命にあるのかもしれないな。
そう思った。
――――
「危ないですよ。何してるんですか?」
私は一人の男性に声をかけた。
理由は、地面に背中を擦り付け左右に揺れる三毛猫を真似て隣で同じように背中を地面に擦り付ける男性がいたから。
「猫がここに居たので真似してました」
服を着てるだけの変な人。が素直な感想。
怖くなって帰ってきちゃった。
――――
この間、声を掛けた人が喫茶店にいた。
「あの」
「はい。どちら様ですか?」
猫の話をした。「声をかけてきた?」
そうだと伝えると理解したらしく年齢を聞けば2歳下でまだ高校生。
あと半月ほどで卒業らしい。
だからあだ名を付ける。「2歳下の猫」
――――
2歳下の猫が、職場に就職してきた。
挨拶の時に目が合い。
笑ってしまいそうだったので口を抑えて目を逸らして我慢した。
名前も素性も知ったけど仲良くなれるのかな。
でも自信ない。ほんとに変な人だったら。
会社に居づらくなるのも可哀想だから、地面でごろごろしてたあのことは黙っててあげよう。
――――
今日、家の前を掃除していたら三毛猫が来た。
しっぽは短いけれど顔立ちはとてもかわいいお人形のようなかわいい猫。
声を掛けるとその場で寝転ぶ。
仰向けに寝転び背中を地面に擦り始めた。
お父さんと知り合った時を思い出した。
思わず2歳下の猫って呼んじゃった。
なんか愛おしくなった。
――――
何日間も三毛猫が来る。
お父さんは猫はそこまで好きじゃないから飼えないけど。
野良猫かしら?首輪もしてないからせめてエサだけでもとお父さんには内緒で、小さなうすいピンク色の花柄の器を買いエサをあげた。
「お父さんには秘密ね?」ってこっそり伝えるとその子は、にゃーって。
秘密を守ってくれるって。
最後までお読み頂き、本当にありがとうございます。
まだまだ魅力に欠けると思っています。
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