蓬莱の玉の枝
(ここで選ばれなければ、俺は終わりだ)
料理人の吉次は、腕を振るった膳を抱え持ったまま、襖の向こうに呼ばれるときを待っていた。
膳の上には金の蒔絵が描かれた漆塗りの椀が三つ。蒔絵は、高砂の尉と姥を描いたもので、長寿を願う柄である。
しんと薄暗い大広間。裸足に染み込む畳の冷たさが、言いしれぬ不安を煽る。
(大丈夫だ、自信はある)
俺より、客人たちを満足させられる料理を出す奴は、おるまい。
柳水亭の板場で、板長とはそりが合わなかった。吉次のやることを何かにつけ、あれは違う、これはこうしろと、頷かれたためしがない。
板長など柳水亭に入って長いだけで、どうみても俺の方が腕は優れているじゃないか。
吉次は、何故自分を板長にしてくれないのか、柳水亭に不満を持っていた。
そしてその不満を女将にぶつけてしまい、暇を出されたのだ。
吉次は前の日、一通の文を拾っていた。
仕込みのために朝一番に板場に入ったところ、窓の格子に挟まれていたものだ。
誰が出したのか、誰宛てかも書かれていない。
『料理の腕を競い、一等となった者には大金を約束する』とあった。
作れと指示されているのは、椀物。
しんじょ、煮物などのことである。料理人の腕の見せどころともされる。
うさんくさく思ったが、
(これで一等を取れば、柳水亭の皆も俺のことを褒めそやすに違いない。俺こそが板長にふさわしいと)
吉次は、誰にも見せず文を懐に入れた。
記された日時に、記された建物を訪れた。
これしかない、と厳選した食材をしっかりと胸に抱いて。
板場は好きに使えと記されていた。
吉次は初めて来た建物だ。深川に生まれて四十を過ぎたが、こんな大店は知らない。
料亭だろうか。客どころか仲居など奉公人の姿もなく、しんとしている。
廃墟になりたての豪邸、といった趣きだ。古さ、埃っぽさは少しもない。
履き物を脱いで上がったところに虎がいて驚いた。
何千何万本の金糸で虎が縫い取られた、六畳ほどもある波斯絨毯だ。
みえるところの調度は舶来物で揃えられていて、しかし竹林や菖蒲を描いた襖とは不思議と喧嘩していない。
黒光りするほどに磨き上げられた回廊に、吹き抜け天井から吊り下げられた金色唐草と紅い硝子の洋燈が、映り込んでいた。
吉次は、ふと、お膳の椀を見た。
洋燈が椀を照らしている。鬼火のような、紅であった。
「どうぞ、中へ」
ドキリとした。
音もなく、す、と襖が開けられ、信じられないほど美しい女が吉次を呼んだ。遊女のような華やかな美しさではなく、陰の色香薫る美しさだ。
女の横顔に見惚れつつ、吉次は気を引き締め、襖の内へと進んだ。す、と、また音を立てずに、女が襖を閉めた。
女の先導で、細い廊下を進んだ。
左手には障子が連なり、部屋の中は伺えぬ。
右手には洋燈のある吹き抜けとはまた別の吹き抜けがあった。吉次の歩く三階から、下の小さな池へ白糸のような滝が落ちている。
こんな豪邸を貸し切りにできるなんて。
勝者への大金といい、俺を呼んだのはいったいどんなお大尽なのだろうか。
「お伝え申します」
女が足を止めたのは、ひときわ絢爛な襖の前であった。
金泥に牛車と紫雲、天上に向かう高僧の行列が描かれた襖である。
「椀物が参りました」
女の言葉に、吉次は少しだけ、むっとした。
(参ったのは俺だ。椀じゃねえ)
だがまあ、料理の腕試しを催すお大尽なら、待っているのは確かに料理だけなのだろう。
まさか椀物ひとつのための豪邸とは思わない。自分以外の料理人が、焼き物や香の物などを任されているのだろうと、吉次は考えた。
誰が何を出してきても、俺が勝つがな。
膳を握る手に自信をみなぎらせ、吉次は中へ入った。
(こ、これは……!)
季節外れの紅白の桃が、ぼんぼりの仄かな灯りに浮かび咲き誇っている。
花器にいけられた孔雀の羽、金屏風にあるのは深山幽谷。舶来の伽羅のかぐわしい香りが霧のように部屋に立ち込めている。
この部屋が、神仙の住まう桃源郷のようであった。
一段高い上座と、その下にふたりの男が膳を前に座していたが。
その膳が、薄い羽衣を纏っただけの裸の女である。
つくりものめいた白い肌の三人の女には、乳房、へその上や太ももに、膾、魚を炙ったもの、飾り切りなぞが乗っている。
紅の鮮やかな唇までもが、一品の料理であるかのようだ。
(こいつは、まずいぞ)
吉次は、ぶわっと大量の冷や汗を噴き出す。
(これじゃ、かぶるじゃねえか)
先導してきた女が椀を三人のもとへ運ぶ。高砂の蒔絵に、三人は何の興味も示さない。
「これは」
三人の中のひとり、白い桃の花を背にした男が扇子で椀を指し、吉次に訊いた。
食傷気味といった訊き方であった。皆が皆、高砂の器でくるので飽きているのだ。
そう受け取った吉次は、精一杯の自信を声に搾り出す。
俺は大丈夫、中を見てもらえればわかる、と。
胸を張り、吉次は応えた。
「蓬莱の玉の枝と、名付けました」




