蓬莱の玉の枝・4
刹那は本所に向かうとき、隅田川沿いを行く。
冷たい川風が好きなのと、道に迷わないからである。
町中を行くと曲がり角がありすぎて、今どこを歩いてるのか分からなくなるのだ。
蛤町を出てすぐの正覚寺橋を渡り、仙台堀に沿って歩くと突き当たりが大川(隅田川)。右に折れ、小名木川を越える。
御船蔵の白く果てしない蔵の並びを過ぎると、両国の猥雑な匂いがしてくる。
道の巾は広くなり人の行き交いも増える。刹那は少し身構えた。
(ここの店、また変わったのか)
一昨日あった天ぷら屋が水茶屋になっていた。
両国は奔放な町である。
明暦の大火のあと、ここに新しく架けられた橋は、はじめはただ大橋と呼ばれたが、のちに下流に架けた橋を新大橋と呼んだことと、武蔵国と下総国をむすぶということで名が両国橋と変わった。そのたもとのごく狭い範囲が両国だ。
橋の両端には火除け地としてだだっ広い両国広小路があり、見世物小屋や屋台などが密集している。
西側の回向院境内では勧進相撲も行なわれ、昼でも盛り場をしのぐほどの賑わいを見せる場所である。
雑多すぎて町方の目も隅々まで行き届かない両国は、無頼者や怪しい商いをする者らのかっこうの溜まり場でもある。
「さあご覧あれ、これなるは天竺の巨大蝦蟇の油。ちょいと傷に塗りますればたちどころに……」
「まんじゅう安いよォ、イモリの黒焼き入りだよォ」
「珍妙奇天烈、蛸男の火の輪くぐりィ! お代は見ての」
「火傷の危険があることをさせないであげて下さい」
押し売り、押し曲芸を避けて歩くと、今度は女がしなだれかかる。
「あァら兄さんいい男、遊んでいかなァい?」
「こんなに肌が荒れて……お仕事ご苦労さまです」
「お仕事って言わないでよ!」
押し女売りも避けて、刹那はなるべく川に近い方に進んだ、のだが。
前から飄々と歩いてきた男が、どん、とあからさまに肩をぶつけてきた。
「う、っ」
「おっと、ごめんよォ」
刹那の体が半回転するほどよろめく。
懐の財布が、ちらりと角を出した。
ぶつかった男は素早くそれを抜き取ると、脱兎のごとく人波に紛れる。
刹那は軽くなった懐をぽんぽんと探り、男の消えた方を眺めると、ふう、とため息をつく。
「やられたか」
「いや、やられたかじゃねえだろ、あんた」
隣にいた遊び人風の若い男が、呆れた顔で刹那に話しかけた。
見知らぬ人に声をかけられ刹那はびくりとしたが、やくざ者の雰囲気を感じとり、警戒は緩む。
刹那にとって、佐治施療院の雰囲気は家族の雰囲気である。気のいいやくざ者らが彼を甘やかしに甘やかしたせいで、危機感が世間とずれている。
世間さまは患者に凄みもしないし、包丁をヤッパとも呼ばないし、一騎当千で喧嘩が強くもないと、残念ながら佐治施療院で育った彼が知ることはない。
遊び人の男は、スリにあったのに落ち着き払っている刹那に不可思議という目線を向ける。
「なんで追いかけねえのさ?」
「必要ないですから」
簡潔に返すと、刹那は帯に挟んだ細工に手をやる。「あ」と、男もその細工の意味がわかったようだ。
根付に似たそれには、小さな糸車が隠れていた。
細い糸がきゅるきゅると延びていて、その先には先ほどの財布があるのだと分かる。
人混みの中、スリもそう速くは走れない。今はせいぜい四、五間(約8〜10メートル)先というところ。
刹那が延び続ける糸を指に掛け、くん、と引いた。
「熱っちいッ」
人混みの中で悲鳴があがった。
スリの男が着物をはだけて跳ね回る。迷惑顔で周囲は離れて歩くが、たいして関心を寄せてはいない。
「ちくしょう、何だこりゃあっ!」
スリは懐から下をべったりと汚していた。袖を抜いて懐を広げ、ばたばたと扇ぐ。脱ぎたいがしかし、往来で裸になるわけにもいかず。
悔し紛れに、財布をべしゃりと足元に投げつけ、スリはそのまま走り去った。
財布からは何故か、湯気が上がっていた。
「あー、あれがあんたの仕掛けかあ」
隣の男が愉しげに、ひひっと笑う。
「何を仕掛けたんだい?」
「懐炉、のようなものです」
「ようなもの?」
財布には最初から金は入っていなかった。こんなこともあろうかと、人混みを歩くときに刹那が取る面倒回避策である。
石灰の粉を紙袋で包み、その中に水の入った小瓶を入れる。小瓶の栓は糸車の糸と繋がっていて、糸を引くと水が石灰に降りかかる仕組み。
「石灰は水に濡れると熱を出します。じかに触れれば火傷するくらいには熱い湯気が出る」
「へえ」
「石灰の外側は葛粉で包んでいるので、紙が全て破れれば火傷する熱さの葛が懐にべったりと」
「思ったより外道だった!」
「盗っ人にも劣る外道だとは思わないですけど」
外道は言われ慣れている。つい先ほどまで、番付に外道は載らないと話していたばかりだ。
「賄賂まみれの本道より、清貧の外道の方が人としてはマシでしょう」
涼しい顔で刹那が言うと、男は大笑した。
「外道はあんたにとっちゃ褒め言葉か!こいつはいい」
ひとしきり愉しげに笑うと、男は、すっと笑いを収めた。内緒話のように顔をよせてくる。
「料理屋番付って、見たことある?」
「ええ、まあ」
いま向かっているのがその番付の常連店なのだが、そこまで話す必要はないだろうと刹那は無難な返事をする。
「平清、百川、八百善……まあこの辺は聞く名前だよね」
しかしこの男、若いのに料理屋に関心を割くような道楽者なのか。身なりから遊び人と勝手に決めつけたが、裕福な家の者かもしれぬ。
番付に載るような料理屋は、高級料亭がほとんどだ。庶民では椀物ひとつ、茶漬けの一杯すら金を払えるかどうか。刹那とてご隠居との縁がなければ、足を踏み入れることもない店である。
それにしても番付に縁のある日だ、と刹那は話半分で歩を進める。
「――じゃあ、黄泉料理屋番付、ってのは?」
男の声が、不吉な艶を帯びた。
得体のしれぬ響きに、思わず刹那は足を止める。
「……食べると死ぬ料理を出す店、ですか?」
「そいつは儲からねえだろ、逆だよ」
ふたりを中洲に残し、周囲の人混みは我関せずと流れてゆく。
雑多で生気溢れる両国広小路の中で、刹那は自分たちの周りだけ、黄泉へ誘う冷たい霊気が流れているように感じた。
「本所の『龍宮』。これほど外道な料理屋は、ねえと思うぜ」




