深川寺町怨面影・10
蛤町の旅籠、大黒屋の惣右衛門は、二階の部屋に長居する男のことを文に記し、下男に託した。
「これを、千住の佐治施療院に届けておくれ」
「へえ、確かに」
酒を部屋に運ぶたび、男が三養堂の方を睨んでいるのを女将が見ている。通りは東西にまっすぐなので、通りを見張ればどの店に、どの長屋に誰が入ったか知れるのだ。
(ありゃあ、怨みでも持ってる奴の目つきだ)
三養堂は、家主の知らぬところで誰かの標的にされている。
それを佐治施療院の者たちが、ないがしろにしているわけがない。深川のいたるところに惣右衛門のような隠れた世話人がいる。彼らは皆、戸隠一味に恩のある、または惚れ込んだ元やくざ者らであった。
そして弥九郎からの使いによって、江戸焼き討ちの企みと刹那への刺客は、侠客らの知るところとなった。
夜の千住宿、飯盛女たちの腕をすり抜けて、弥九郎の使いの若い衆は意休の企てを施療院へ届けた。
茶碗にたっぷりもらった水を飲み干した若い衆はそこで、耳を疑う会話を聞く。
「意休の方は、あいつらが何とかするってこったろ」
「刹那も、惣右衛門がいるならねえ」
熊みたいな大男と、古女房のような優男が、深川のことをまるで他人事として話している。
そりゃあ医者に「江戸で着け火がおこる」なんて伝えたって、どうしようもないことくらい分かってた。でも頭が信頼してるから、俺も走ってきたのに。
失望の眼差しで気を落とす若い衆を、佐治施療院の主、佐治陣内は労って、告げた。
「ご苦労さん。弥九郎のとこに戻ってやってくれ。あいつの心配ごとは分かってっからよ」
「心配ごとォ?」
「橋の護りと、勝治郎の尻拭いだよ」
煙管をぷかりと吹かしながら、お駄賃でも渡すように出た爺の言葉に、若い衆はぞっとする。
こいつら、医者じゃねえ。
ただの医者に橋の護りの意味と、勝治郎が何者なのか、分かるわけがない。
弥九郎はこの施療院の者らを全面的に信頼している。てっきり医者の師匠としてだと思っていた。
やくざとしての信頼なのなら、こいつらの正体は……
若い衆は、腰かけていた床几から弾かれたように立ち上がり、番犬のように戸口の横に収まる。
生意気な口をきいてしまった。だらだらと冷や汗が止まらない。
「橋は俺が行く」
黙して佇んでいた隻眼の男が、ゆらりと戸口を潜る。「大蔵さん、気をつけて」優男の見送りに片手を上げて。
その出がけに、ぽん、と肩を叩かれ、若い衆は「ご褒美だああああ」と内心で絶叫した。
「鉄、お前だけでも刹那んとこ行ってやれ」
熊みたいな大男が、強面の男に気をきかせた。
「心配で仕方ねえって顔に書いてんぞ」とからかうように言えば、「うるせえよ」とぶっきらぼうな応えが返る。
「てめえこそ留守番してろ、熊。捨松、俺らは勝治郎の残党の始末だ」
「あいよっ」
各々が決まっていたことのように、迷いなく散ってゆく。陣内はひとつも指示を出していないのに。
そして結局、深川へは誰も行かない。
行かねえのかよ。
そう思ったのが顔に出たのか、若い衆に陣内は笑いかけた。
「心配すんな。弥九郎の奴は別に、助けてくれってんじゃあねえだろ?」
「……あ」
言われてみればそうだ。弥九郎は言伝を頼んだだけで、援軍を呼んでこいとは言っていない。
既に医者のものではない人相で、陣内が愉しげに煙管をふかす。
「にしても、あいつら、相手の陣地は分かってんだろうな?」
東の空の唐鋤星が、じんわりと弱い光に溶けてゆく。
秋の朝は身を切るほどに冷える。しかし、冬でも水垢離の修行をこなしてきた源一坊吉家は堪えない。若い筋肉を井戸水で浄めると、新調した白装束に袖を通す。
シワひとつない装束は、吉家をいっそう神々しく飾った。頭には大日如来の冠をあらわす頭襟を着け、錫杖を地に穿つ。
「正しく、東照大権現さまの顕現かのようだ」
数十名の下僕を従えて、感慨深げに、意休は吉家の勇姿に目を細める。
「行くぞ意休。この地より、儂は江戸を変える!」
若者の目は、遠く千代田の、まだ暗い空を見上げた。
ものものしい行列が町を行く。
露払いの者らが先陣を切る。弓組、刀持ちが続き、黒い毛槍が高々と上がる。そのうしろに、各々輿に担がれた吉家と意休。具足持ちと槍持ちがしんがりである。
大名行列気取りだが、きらびやかさは無い。爆ぜる松明の火が照らすのは、命あるものとは思えない、葬列のような陰気な行列であった。
寝ぼけまなこの自身番らは、いにしえに聞く百鬼夜行かと恐れおののき、頭から布団を被って震えていた。
川を越えれば、江戸市中はすぐそこである。
しかし行列は止まらざるを得なかった。
「現れたな、天下を乱す逆賊ども!」
永代橋のたもとに布陣する武芸者らに足留めされたからである。




