深川寺町怨面影・9
女将は証言する。
「あれは鬼畜の所業だよ」と。
届いた恋文に、節をつけて唄わせたんだってさ。
その話が風のように茶屋内をかけ巡り、刹那と助六が対面した三十六畳間の外廊下には人だかりができていた。
襖の隙間から覗き見ると、座布団一枚ほどのあいだを空けてふたりが相対している。
ここは先程まで助六がなじみの芸者や幇間を呼んで、仲間と酒盛りをしていた部屋だ。食いかけの膳も転がった徳利もそのままである。
ふたりは窓際に陣取っていた。
「話がきこえないね」
「そりゃそうだろ」
「鬼畜だけど、綺麗な兄さんだねえ」
「ありゃあ、お頭がいま一番、熱を上げてる医者だ」
「へえ、どこの?」
「寺町裏の蛤町っつったかな」
「ああ、それで、織姫彦星……ぶふっ」
「笑っちゃ悪いよ……ぶふっ」
「言わねえでやってくれ。お頭はあれでもマジメに悩んで書いたんだ」
「マジメに書いてあれかい?」
「俺あんなもんもらったら砂吐くわ」
「あの兄さんも気持ち悪かったろうねえ」
「鬼畜っていうか、まっとうな仕返しだね」
「なるべくしてなった晒し首だな」
「あたしら良いことしたよね」
「てめえら五月蝿え!!」
襖の隙間に座布団が飛んできた。
ひゃあ、と軽い調子の悲鳴を上げ、隙間はぱたりと閉じられる。
ガヤのおかげで集中はできなかったが、助六は刹那の話の大すじを理解した。理解しがたい話ではあったが。
「正気の沙汰じゃねえぜ。御城の門に火を……?」
酒の入った頭が冷め、助六は眉間に深くシワを刻む。
刹那も頷いた。
「八丁堀と、小石川、赤坂、山下の御門……ほかの場所もないとは限りません」
江戸城の外堀門である。守りはどれほど堅いことか。虎の巣穴に飛び込むような着け火の愚かさに絶句する。
「八丁堀なんて捕り方の総本山だぜ。どうやって火ィ着けようってんだ」
塀に油を撒く、などはできるとは思えない。考えられるとしたら火矢だろうか。助六は難しい顔で顎をさする。
「見張る範囲が広くなるな」
「はい、なのでとにかく人数が要ります。顔の広い助六さんでしたら集められるかと」
「集められるけどおー……」
ちら、と上目遣いで刹那を見やる。
「お願いします。信じ難いこととは思いますが」
「いや、刹那ちゃんを信じてねえわけじゃねえんだ。頭下げるなんてしねえでくれ!」
畳に額をつけた刹那に、助六は慌てる。
江戸を燃やさんとする輩との喧嘩。漢を上げる絶好の機会だ。しかも刹那からの、何度も言い寄っては手厳しくつっぱねられていた刹那からの、これほどの頼みである。
身悶えして喜びを表現したい。しかしそれをするのは格好悪いので、心の内にいる助六にやってもらった。
助六は、見返りが欲しかった。
退かず、媚びず、顧みず、任侠に生きる男だって、ご褒美が欲しいときもある。
金ではない。金より価値のある美人が目の前にいる。
その美人が、三養堂にいる馬鹿みたいな強さの用心棒、弥九郎ではなく、武士の梅之助でもなく、自分を頼ってくれた。たまらない。二度とないかもしれないと考えると切ないがそういう機会なのだ。
もう一度、ちら、と見る。
男伊達たるもの、下手には出ない。自分を高く売ってなんぼだ。
「なあ刹那ちゃん。旨い話を持ってきてくれたのは嬉しいが、俺も面子で生きてる男だ。タダで使える気になっちゃあ、いけねえぜ」
「もちろん、承知しております」
やくざ者は総じて図太く計算高い。
自分から厄介ごとに首を突っ込むときは、損得なしで命も賭けるが、他人の頼みで厄介ごとを引き受けるときは、相応の見返りがあって当然だと考える。
やくざ事情に何故か詳しい兄弟子たちにそう教わっている刹那は、懐の財布に手を伸ばす。
「今お渡しできる分の金子は、用意してます」
来た。助六は内心、小躍りした。
「いやなに、俺と一晩、床……」
ふと、刹那の背後の襖がそっと開くのが見えた。
また喧し連中か、と思ったが、どうも違う。静かだ。
静かに、研ぎ澄まされた苦無の切っ先が、こちらを狙っている。
え、なにあれ。
背後から刹那を狙うなら、とっくに苦無は放たれているはず。狙いは、自分だ。
え、なんか仮面してんだけど。殺気すげえんだけど。怖えェんだけど。
「とこ?」
首をかしげた刹那を護るように、苦無が鈍くぎらりと光る。その続きを言ったら殺す。そう苦無は語る。
「とこ、……とん。そう、とことん! 一晩とことん呑み明かそうゼ! ウン、宴会しようゼ!」
「それなら是非。ご助力頂いた皆様にも、御礼方々、酒を振る舞いたいと思います」
「ソウダネ!」
ふわりと安堵の笑みを浮かべ、刹那が頭を下げるうしろで、苦無はそっと引っ込んだ。
助六の背に、今さらぶわりと冷や汗が滲んだ。
櫓下の盛り場から走り通し、何人かの酔っぱらいを跳ね飛ばして、弥九郎は蛤町の木戸を潜る。
嵐の前の静けさか、通りには鈴虫売りと、温かい蕎麦の屋台が出て、客の足を止めていた。
(なんだって、今さら……!)
今は亡き佃の勝治郎は、見世物興行をする寺社の境内で娘や子供を拐かし、人買いに売りさばく商売もしていた。
そうなると寺社に勝治郎の名は伝わっていき、興行に場所を貸さなくなる。
香具師が興行場所を失うのは死活問題である。当然、勝治郎と寺社のあいだで揉める。そんな寺社が頼ったのが、戸隠安陣の一味であった。
喧嘩はするが、戸隠一味は勝治郎らを潰滅しようとはしなかった。ただし人拐い商売は徹底して潰した。
「カタギに手ェ出してんじゃねえよ。俺たちを金で買ってくれる、お得意さんだぜ」
安陣はいつも軽い調子でそう言っていた。
金ヅル、とも聞こえるが、世間さまから疎外された自分らを、もう一度迎え入れてくれているのだと言った。
ありがてぇじゃねえか。
なりたくてなった無宿者ではない。一度、道を外れたけれど、腕っぷししかない自分たちを、今度は必要としてくれるのだ。
世間さまの役に立とうじゃねえか。
安陣の人柄に触れて勝治郎に盃を返し、カタギに戻る者や安陣になびく者らが大勢いた。
残った者らは、一味を離散させた安陣への怨みを募らせ、大喧嘩を仕掛けようとしたところでの、永代橋の事故だった。
それが勝治郎一味と、戸隠安陣こと佐治陣内の因縁である。
「刹那っ!!!!」
三養堂の戸口が壊れる勢いで開かれる。
前の座敷はがらんと無人。胸騒ぎを抑えて、弥九郎は灯りの漏れる奥の台所に向かった。
「あ、弥九郎さんっ」
「……あ?」
切羽詰まった様子で立ち上がったのは、裏長屋の貧乏絵描き。その隣には、知らない男。
目指した姿はない。
「あいつ、どこ行った!?」
「刹那先生、新地に行くって」
「新地ィ!?」
弥九郎は眉をひん曲げる。ほぼすれ違いのようなものだ。何しにそんな盛り場に。
そこの知らない男が関わっていないわけがない。どういうことかと、座ったままの男を睨む。
「てめえが、佃の勝治郎の三下か」
ぎろり、義助も弥九郎を睨み上げた。が、喧嘩している場合ではないと瓜実が体を割り込ませる。
「あの、弥九郎さん、焼き討ちの企みを聞いて戻ってきたんですよね?」
「ああ。それに乗っかって、そいつが刹那を殺しにくるってな」
「え……」
瓜実が絶句する。
この男の思い詰めた様子は、そういうことだったのか。刹那との再会を泣いて喜ぶ現場を見た身としては、この男を庇いたいけれど。
「やめたんだ」
「何をだよ」
義助の呟きに、弥九郎は喧嘩腰で絡む。
「ここの医者がてめえなら、俺ァ迷わず殺してた。あの子のことは殺せねえ」
「一目惚れしたとかならやめとけ。あいつは手厳しいぜ」
「弥九郎さん、落ち着いて。おふたり共そういう感じじゃなかったんですよ」
それでも、弥九郎が足を止めて見知らぬ男の相手をしているのは、刹那がとりあえずは無事だと分かったからだろうな、と瓜実は息をつく。
「って、弥九郎さん、ケガをっ」
「ああ、薬はあとでいいや。手縫いで縛っときゃあ」
「縛って治るわけないでしょっ」
弥九郎は台所に干してある手縫いを引き裂き、足にぐるぐる巻きつける。
瓜実はさすがに薬の置き場所は分からない。間違って梅之助の薬を塗ってしまったら大変だ。弥九郎の雑な処置にも呆れるしかなく、まったくもう、と、への字口を作った。
義助の目は、そんな弥九郎を追っていた。
怪我を手当てする間も惜しんで、刹那の危機に駆け付けてきた男。あの子が家族と呼んだ男。
こんなチンピラと気が合うわけがない。水と油にも思えた。けれど、このチンピラが本気で刹那を心配しているのは見ていて分かる。
刹那は意休の言うように、本当に戸隠安陣の手先として医者をしているのだろうか。
整えられた室内は掃除の手が行き届き、気さくに付き合う長屋の住人もいる。
ここはあの子の家だ。壊してはいけない場所だ。
義助はこれ以上、ここにいるべきでないと思えた。
「それで、何であいつ、新地なんぞに」
柄杓で水を一杯ひっかけ、弥九郎が訊く。
「多分ですけど、助六を訪ねたんじゃないかと。ここにもよく来てた侠客だし」
「すけろく……、助六ぅ!?」
三日にいっぺん届く文を、弥九郎は思い出した。
あの、日なたに置いて温まったナマコのような恋の歌を。
泡を飛ばして瓜実に詰め寄る。
「馬鹿野郎、なんでそれを早く言わねえ!!」
「えっ、着け火をとっ捕まえるなら必要な人かなって」
「見返りに刹那の褌くれとか言ってきたらどうすんだよ!」
「え、まさか、そんな変態」
いたのである。
「一晩床入りさせろとか言ってきたらどうすんだよ!」
「まさか、そんな変態」
いたのである。
義助は青くなった。
刹那だけは巻き込まないつもりが、叶わなかった。むしろ、そんな危険な男のところに走らせてしまったのだ。
家族に許されるわけがない。何より、己が許せない。
(死んで詫びるほか、ない)
義助は小上がりにある附子の壺を脇に抱えた。
手を突っ込み、中身を一握り、口へ放り込む。
「おい、てめえは何やってんだ!」
弥九郎が止めに入るが、義助は構わず白い粉を頬張った。喉にも舌にも貼りつき、溶けてゆくそれを嚥下する。
「……………………」
「…………おい?」
「…………………………………………甘い」
「だろうな!」
「なんで死なねえ!?」
もう一握り、附子を飲み込む。だがそれはひたすら甘いだけで、何の苦しみも義助に与えてはくれない。いら立ち、泣き、叫ぶ。
「俺ァ、あの子に詫びもできねえのか! あの子のおっ母さんに会わす顔もねえ。節郎、節郎すまねえ。俺を死なせてくれえ……」
さすがの弥九郎も、かける言葉に迷った。
それは砂糖だと言ってしまうのは、この男の覚悟に申し訳なさすぎた。というか、何故こいつはこれほどかたくなに毒だと思い込んでいるのだろう。
てめえだな?
視線を瓜実に送ると。
すみません。
という視線が返ってきた。
弥九郎はバツ悪気に頭を掻き、ここを振り上げた拳の落とし所とした。
新地に行った刹那を案じつつ、やるべきことに行動を切り替える。夜明けまでに戦闘態勢を整えることだ。あとを追ってきた無法組の若い衆にことづける。
「本所両国の大小神祇組、白柄組、犬桑組あたりに声をかけろ。てめえらの橋、虫一匹通すなってな」




