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深川寺町怨面影・6

 源一坊吉家は、三河の地侍の家に産まれた。

 跡継ぎにもかかわらず、弟や親への暴言に暴力、街に出ては盗みに傷害、何でもやった。幼くして体も大きく、言うことを聞かせられる者はいなかった。

 きかん坊は、だいたいどこの家でも持て余される。たとえ武家でもだ。威勢よければ良しというわけではない。

 ついには廃嫡され、山寺に預けられる。

 格式ばった武家の暮らしより、吉家には山は合っていたらしく、修行という名の山籠りはこの男の心も体も頑強にしていった。


 ある日、山で白髪頭の爺と出逢う。

 爺は天狗と名乗った。

 人拐いの怪異だ、殺してもよかろう。

 殺生を禁ずる教えを手前勝手な判断で無視し、吉家は天狗に打ちかかる。

 が、簡単に負けた。吉家は殺すつもりが天狗には遊びの範疇にすぎなかった。鼻水たらして吉家は悔し泣きをした。


「力だけはあるようだ。中身が無いがな、餓鬼」

「うるさい!」


 それから数度、吉家は天狗相手に腕試しを挑み、その度に負けた。

 山寺は坊という修行場をいくつも持つ。そのひとつ源一坊にて、あるとき吉家は天狗に、己の来歴を聞かされた。


「それがしは東照大権現さまの御世より、この地に隠れ住む。今世の名は、意休と申す。権現さまのお血筋の者を見守っておるのだ。そなた、吉家という名を何と心得る? 亡き権現さまの『家』の字を頂き、源氏嫡流たる八幡太郎義家と同じ名を持つ。皆それを知っておるゆえ、修行の場を源一坊としたのよ。そなたはまだ未熟であった。ゆえに、それがしは心を鬼にして、そなたを導くことにした。これにて御役御免。貴方さまは紛れもなく、権現さまのお血筋を継ぐ、将軍になるべき男にござる」


 意休は平伏し、吉家は開眼した。

 天から一筋の光が差したようであった。

 吉家は己の境遇を振り返る。思い当たることばかりだ。

 ひと一倍でかい体、力の強さは、選ばれた者であるから。わがまま放題をしても誰一人咎めることをしなかったのは、権現さまの威光に逆らえなかったからだ。


「いや、本当ならば、咎めることこそ我を成長させる。皆には悪いことをしたな。今後は皆の気持ちを推し量ることとしよう」

「なんと、ご立派な。それでこそ上に立つ者」

「ついては天狗、いや意休。そなたにはまだまだ、教えてもらわねばならぬ。御役御免など許さぬ。天下のため万民のために、今後も我に尽くしてくれぬか」

「おお、有り難き御言葉……!」


 意休は涙して、感激に打ち震えた。

 出会って、わずか二年の出来事である。

 ちなみに源一坊、現在十六歳。

 身の丈七尺、アゴは割れ、眉毛は刷毛(はけ)で引いたように太い筋骨隆々の男だが十六歳。

 多感なお年頃であった。

 端で見ていた猿面冠者は呆れていた。


(…………なんダ、この茶番)


 主の遊びは唐突に始まる。

 なので、のちのち大規模なことになるなど、思ってもいなかった。

 たまたまなのである。

 修行場の名が源一坊だったのは、たまたまその坊が空いていたからで。

 吉家という名は、嫡男であり、家を繁栄させる吉兆であれというだけで。

 たまたま三河の生まれだっただけで。おそらく駿河や遠江であっても意休の口車でどうとでもなっただろう。

 思い込みの激しいのも、たまたまであった。

 猿面冠者は、意休の新しい遊び道具になる男を、哀れとは思うが助けはしない。

 自分が選ばれた者だと心底信じるただの暴れん坊は、滑稽のひとことである。真実を突きつけられて目を覚ます瞬間の顔は、ちょっと見てみたいと思う。

 ただ、その瞬間がいつ訪れるかは運次第。

 吉家が出会う誰もが、吉家より弱かったのは猿面冠者の誤算であった。

 おかげで彼は増長に増長を重ね、天守を再建させなかった保科公を怨み、未だに再建しない幕閣を怨み、世直しと称して江戸に火を放つなどと言い出した。

 しかも厄介なことに、吉家は山伏修行で幻惑の術を身につけていた。何がどうなったら身につくのか。筋肉と一緒だろうか。信じれば身につくのだろうか。

 生意気な山伏に喧嘩を売ったチンピラがことごとく幻惑の術の餌食となり、吉家の命令を実行する。

 明日、大木戸が開く前に、彼らはそれぞれの場所に火をかける。

 猿面冠者は、江戸がどうなろうと別段、心は痛まない。だが。


(……深川、は……火が廻ル、だろうカ)


 名前をくれた男と、奴の大事な者たち。

 猿面冠者の心に、ちくりと棘が刺さった。





「ぎすけ、さん」


 義理の義に、人助けの助。

 まだ読み書きのおぼつかない幼児に、そう名前を教えてくれた人。


(義助さんだ……あのときの、義助さんだ!!)


 足元の氷が()れたような、冷たい衝撃だった。

 刹那の脳裏に、泥に沈んだ郷里がよみがえる。

 強い風が吹く川の土手。

 丸太が山と積まれたそこで、手を繋いでくれた人。

 自分が木場の匂いに郷愁を覚えるのは、この人と郷里の木場で遭っていたからなのだ。

 こんなにも大事な人を忘れていたなんて!


「義助さん、待ってください!」


 江戸を出ろと、三養堂を捨てろと、義助は刹那の手を引いた。その手を刹那は握り返す。


「……私を逃がしたあと、義助さんはどこに行くおつもりですか」

「節郎、頼むよ。俺にお前を助けさせてくれ」


 苦笑いのような、泣きそうな、懇願の顔をして、義助は聞き分けの悪い子供に笑いかけた。

 言えない。

 お前を殺そうとしてた、なんて。

 刹那もまた、言えない。

 今さら思い出しました、なんて。


「……千住に、お前の師匠がいるんだろ。そこまで火は回らねえはずだ。一緒に行こう」


 嘘だ。

 刹那は直感していた。


「私は医者です。市中から逃げてくる人がいるなら、怪我人がいるなら治す。それが私の役目です。私はここを動きません」


 自分を千住に逃がしたら、きっと義助は着け火の一味の元に戻る。その先に待つのは極刑のみだ。

 義助を足留めすることが、自分にできる唯一の恩返しに刹那は思えた。


「それに、……ここに戻ってくる奴らがいます。私が勝手にいなくなったら、あいつらが困ります」

「ただの同居人だろう」


 そこまで情があるわけがない。義助は三人の関係を、希薄なものと信じていた。だが。


「俺の家族です」


 刹那の瞳が、そうでないと語る。

 それは義助が、佃の勝治郎に寄せていた心と同じもの。

 無防備なまでの信頼、無償の友情。絶対の味方。

 血の繋がりよりも強い結びつき。

 生きるよすが。

 義助が亡くし、そして最も欲っするものであった。


「義助さん、その着け火の企て、潰しましょう」


 握られた手は、かつての幼子の手ではない。


「俺にできる最善を尽くします」


 人の命を救ってきた医者の手であった。



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