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深川寺町怨面影・5

 盆を持ったまま板戸の陰で、瓜実は息を殺す。


(え、どういう状況?)


 芋をたいらげて井戸端で茶碗を洗い、先に洗い終わった刹那を追って、開け放していた三養堂の裏口に入ろうとした。

 そこで、荒んだ風体の男に抱きつかれている刹那を目にしてしまったのだ。思わず隠れた。

 男に害意はないようだが、ただごとならぬ雰囲気だけは解った。


(医者仲間には見えないな。患者にしてはなれなれしい……。昔の男、的な?)


 当たらずとも遠からずではあった。

 刹那は困惑していた。

 ()()()()()が何故、自分の本名を知っているのだろうか。

 ずいぶんと思い詰めた感じで抱きしめる、その腕の中から、恐る恐る尋ねた。


「あの、申し訳ございませんが……どちらでお会いしましたでしょうか」


 『刹那』の名で呼ばれ始めたのは、千住で梅之助と出会ったからで。それまでのあいだに来た患者が、見習いの小僧の名前を覚えたのだろうか。

 少しだけ傷ついた顔をしたが、男はそれ以上に喜びを伝えてくる。


「俺だよ、野代で会った、義助だ! 覚えてねえか、無理もねえ。あんときお前、五つだっつッてたもんな」

「義助さん、ですか……」


 刹那は頭をめぐらせる。

 野代にいる頃の話は、気が重い。

 先祖を崇める親族に囲まれ、近所の子と遊ぶことも許されず、医者である実家に来ていた患者くらいしか節郎と周囲の接点はなかった。その人らとも関わりらしい関わりはない。

 記憶に残る顔など、母以外にはいない。


(いや、そりゃ覚えてろって方が無理でしょ)


 板戸の陰で瓜実も思う。

 五つの幼児は、昨日会った大人のことすら覚えちゃいないだろうに。

 十七年前、水害に襲われた町。

 舟人足として数日前に港にいた義助が、その大水に飲まれたのではないかと節郎は泣いた。

 母は、義助は江戸に帰って無事でいるかもしれない、と励ましてくれた。


『江戸に行きたい。義助に会いたい』


 けれど、幼い願いは、家中に冷遇される母を見続けることで、前者のみが強く節郎の中に刻まれていった。

 結果、義助との思い出は、その後の、母を女衒に拐われたという人生が真っ逆さまになった衝撃と、母を買った男の金で医者を教わる自己嫌悪、母を救えなかった罪悪感に掻き消されてしまっていた。

 刹那は申し訳なく、顔を曇らせる。


「すみません、お会いしてたかもしれませんが……私も色々ありましたもので……」


 色々、の詳細は、初対面で話す内容ではない。母の尊厳に関わることだ。


「うん、そうだな、そうだよな」


 仕方ねえ、と義助は泣き笑いで、かつての幼児の背をぽんぽん叩く。


(私、か……)


 俺、とは言ってくれない。

 やっぱりこいつは、いいとこの坊っちゃんのままか。義助もまた、消沈を口には出さない。

 哀しい忘却であった。

 けれど義助には刹那が、仏の照らす一筋の光に見えた。

 まともだった頃の自分を確かに見ていた子供が、ここにいる。佃の勝治郎のもとで、人を殺めることも厭わなかった自分を、地獄から吊り上げてくれる。罪が赦される気さえした。

 この穢れなき存在を、今の自分に巻き込むわけにはいかない。

 義助は真剣な顔つきになり、自分とかわらない背丈に成長した青年の両手をしっかと握った。


「節郎、ここから逃げろ。明日、江戸は火の海になる」

「……え?」

(え?)


 刹那も、裏口の瓜実も、聞き間違いかと思った。

 冗談だとしても、笑えない。

 いぶかしげな訊き方になった。


「……本当のことなんですか」

「本当だ」


 義助は子供を諭すように、声を落とす。


「将軍の血筋ってえ男が、蜂起(ほうき)を企ててるんだ。食い詰めた浪人共が続々と集まってる。狙いは八丁堀、小石川御門、赤坂御門、山下御門……江戸の町を四方から焼き尽くそうって腹だ」


 荒唐無稽だが、嘘というには義助の目は真に迫る。

 あまりに必死な形相に、呆気に取られていた刹那だが、「では、何故」と口をはさむ。


「何故、義助さんはそれを、知っていなさるのですか」


 何故とは言いながらも、思い至ることはひとつだ。「まさか」と不安げな声色に、義助は淋しげに笑った。


「俺も、色々あったのさ」


 色々は、互いの口にしたくない理由を隠した。

 義助は蜂起を企てた者の一味なのだと、刹那は察した。

 それを明かしたということは。

 盃を返したということ。


「江戸の奴らに逃げてほしい奴なんかいねえ。けど、お前だけは別だ。お前だけは逃がす義理がある。なんたって俺は、義理と人助けの義助だからな」






 千代田の城、江戸城の天守は、四代将軍の治世、振り袖火事こと明暦の大火で失われ、その後再建されていない。

 大火の際、隅田川の向うに逃げようとした人々は、二本しかない橋に殺到した。避難路がそれで足りるわけがなく、火に追われ川に飛び込み、累々たる死骸が川に積み重なった。

 そのため、天守を再建するより隅田川に橋をかけよと、四代将軍は命じたと言われる。


「表向きはな。だが違う」

「てめえの長話に付き合ってやるほど暇じゃねえんだよ。こら、動くな」


 意休は女郎屋の屋根の上から、弥九郎に昔語りをしていた。

 櫓下の花街は今宵も、永代橋を渡って参じた旦那衆で賑わっている。その往来のど真ん中に、弥九郎らは居た。

 ふんじばられているのは、無法組とは犬猿の仲である白旗組の若衆たち。弥九郎の足の下で身じろぎ、火の見櫓を仰ぎ見ている。目には狂気じみた光があった。


「実際は、補佐であった保科正之公の命であった。そのことが、我が主は大層立腹でな」

「手柄取られて、今さら御落胤が逆恨みか?」

「口を慎め、若造」


 深川七場所のひとつ、櫓下はその名の通り、火の見櫓を囲む盛り場である。

 その櫓に油を撒き、狼藉をはたらこうとしていた者らと、居合わせた無法組が喧嘩になった。弥九郎は、その仲裁に呼ばれて駆けつけたのだ。

 そこでばったり、いや、首謀者であろう意休と相対したわけだ。

 爺は相変わらず人を食ったような笑みを浮かべ、弥九郎を見下ろす。


「天守を何と心得ておるのか。将軍の城は、たかが橋よりはるかに大事であろう。事実、将軍の威光は大火をも跳ね除けた。災いさえも鎮める将軍を、東照大権現さまを崇めたてまつり、天守を再建するのが家臣の、民草の務めであろうに」

「心にもねえこと言ってんじゃねえよ爺」


 屋根の上で陶酔気味に天を仰ぐ意休を、弥九郎はばっさりと切り捨てた。

 短い付き合いではあるが、この爺の言葉の信用ならぬことを弥九郎は肌で感じていた。忠誠、信仰、そんなものとは全くもって無縁の爺だと。


「我が主、ってのも気に入らねえ。てめえが人の下につくタマかよ。おおかた、キンキラの神輿(みこし)担いで喧嘩の華でも咲かせようってとこか?」

「惜しいな」


 す、と下を指差す意休。


「火事の華だ」

(かしら)っ!」


 無法組の若衆の叫びと、


「……ッ!」


 弥九郎の脚に激痛が走るのが同時であった。

 足蹴にされていた男が、仲間の懐の小太刀を歯でくわえ、弥九郎を斬りつけたのだ。

 上の意休に気を取られ、下を警戒していなかった。完全な油断だ。


「神輿を担いで世直しの喧嘩をする所存よ」

「てめえ……っ」


 隙をついて足蹴から抜け出した白旗組の男は、食い詰め浪人のはずが、作りの良い小太刀をくわえていた。そしてあろうことか、仲間を見捨て、遁走する。


「仁吉、五郎蔵、追えっ!」


 弥九郎の指示でふたりが追手となり、あとの者は白旗組の身包みを剥ぐ。皆が皆、不釣り合いなほど立派な刀を差していた。


「弁慶、てめえの仕事かっ」


 弥九郎は、やっと合点が行く。

 意休が橋の弁慶と異名を取るほど刀ばかりを盗んでいたのは、武装蜂起のためだったのだ。

 彼らは操られるように、なおも火の見櫓に迫ろうとする。動く亡者のように。


「なんだこりゃ、幻術か……?」


 弥九郎は背に冷たいものを感じた。

 己の意思のない彼らは恐怖も迷いもなく、命令されたことを遂行するだろう。

 火炙りの重罪となる、着け火を。

 もしこれが、白旗組だけではないとしたら……

 弥九郎の勘を邪魔するように、意休が横槍を入れてくる。


「それよりお前さん、そんなむさくるしい連中に構っていて良いのかい?」

「あ?」

「佃の勝治郎の忘れ形見が、お前さんの大事な、あの別嬪な医者殿に迫っているというのに」

「!!!!」


 燃える江戸の町が、既に意休の目には映っている。

 走り去る弥九郎の背を見るでもなく、爺は嗤う。


「着け火でひっくり返る世など、楽で良いなあ、神輿殿」



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