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深川寺町怨面影・3

 瓜実の提案に、刹那はぴしりと固まる。


「長屋の、皆さんに……」

「ええ、こんな贅沢なおやつもらえたら、おかみさんがたは嬉しいと思いますよ」


 梅之助が出した案だったが弥九郎がもの言いをつけたので、実はほっとしていた刹那なのだが。

 皆に配る、つまり顔を合わせること。

 何が難関かといえば、それが最難関なのだ。



 刹那が裏長屋の住人たちとまともに顔を合わせたのは、蛤町のこの店に越してきた日。大家に連れられて、裏長屋を案内されたときだ。

 井戸端にたむろしていたおかみさんたちに、


「今日から表店に入る、医者の長尾刹那さんです。皆さんよしなにお願いしますよ」


と、にこやかに笑って初老の大家は紹介してくれた。


「あいよっ」

「あらま、いい男だこと!」

「よろしくね、先生」


 おかみさんたちは気の良い返事を返してくれた。

 けれど刹那はといえば、顔は引きつり、考えていた挨拶も全て吹っ飛んで真っ白になってしまい、


「ど、どうも……」


 そう頭を下げるので精一杯だった。

 店に戻り、作業机に突っ伏して「あああああ」と鳴いた。情けなさでいっぱいだった。

 ちゃんと心の準備もしたのに。手のひらに人と書いて飲んだりもしたのに。

 何もできなかった。めちゃくちゃ後悔した。とっつきづらい偏屈な医者だと思われたことだろう。

 他にも大工の家族、あさり売りの夫婦、隠居の老夫婦などの家も回ったのだが、緊張が勝ってしまってろくに喋れていない。長屋の皆にとって自分の印象は最悪に違いないのだ。

 患者として来てくれる分には対応できるが、ご近所付き合いというものを全くしてこなかった。

 そんな奴から、高級調味料を使ったおやつを配られて、はたして喜ばれるだろうか。

 迷惑がられる顔しか浮かんでこない。


「む、無理です……」


 今までにないほど気弱な声で、刹那はしりごみする。


「俺、皆さんに、よく思われてないですから……」

「え、何でですか?」

「だって、あ、挨拶もろくにしたことないし、口下手だし、暗いし……」

「先生が人見知りだって皆知ってますよ。そんなこと言ったら俺なんか、部屋は汚いし店賃は滞納するし、三日くらい籠もって挨拶しないこと、ざらにありますよー」


 言いながらも瓜実は、台所にある飯茶碗や小鉢を勝手に拝借して、さかさかと芋の小山を作っている。今すぐにでも長屋に飛び出す気満々だ。

 その行動力もまた、刹那をみじめにさせる。いったん落ち込むと底まで落ち込むのが刹那の悪い癖である。


「……こういうことがあると、梅之助や弥九郎に頼りっ放しだし……」

「ああ、人当たりのいい人たちですよねえ」


 盛りつけた芋を盆ふたつに並べて、瓜実は刹那に笑いかける。悪戯っぽさを含みながら。


「あのおふたりほどの頼り甲斐はないですけど、俺がご一緒しますよ。きっと面白い話が聞けます。大丈夫、案ずるより産むが易し、ってね」


 はいこれ持って、と瓜実は強引に盆をひとつ刹那に押しつけ、裏口を出る。おずおずと刹那もそれに続いた。


 共同の井戸や小さな稲荷がある広場は、長屋の社交場である。朝は米を研ぎながらぺちゃくちゃ、昼は洗濯桶を持ち寄ってぺちゃくちゃ、いつも誰かしらがだべっている。

 三養堂は台所の中に井戸があるので、刹那はここに来たことはなかった。その便利さもまた、長屋の住人と顔を合わせる機会を奪っていたのだ。

 昼時をすぎた井戸端にいるおかみさんたちに、瓜実は気安く声をかける。


「どうもー、おやつを作ったんですけど、一緒にいただきませんか」

「あらー瓜実さん、お仕事は終わったのかい? こっち来て座んな」

「あんたが作ったの? なんか怖いねえ」


 途端に、懐こい声に瓜実がさらわれた。

 輪に入り損ねた刹那だが、緊張が極限に達している彼はそれどころではなかった。


(あの人のように、あの人みたいにしないと……!)

「あ、あの」


 ずい、と芋入り茶碗の乗った盆を突き出す。


「これも」


 どうぞ皆さんで食べて下さい、と。

 そのひとことを、軽く、何でもないことのように言えたら、どんなに楽か。

 盆の中身を凝視しているが、どこを見ているかなんて自分でも分からない。が、おかみさんたちの視線が自分に注がれているのは気配で分かる。

 間違えた? どうすればよかった?

 瓜実に紹介してもらえれば良かったのに。でもそれは甘えた考えだ。自分で何とかしないと……

 自分で―――


「……っ」


 駄目だ。無理だ。やっぱりこんなの向いてない。

 今ほど、今ほどあのふたりに居てほしいと思ったことはない。

 甘ったれは百も承知。梅之助のやり方を、弥九郎のひとことを、教えてくれ……


「やだちょっと、刹那先生が作ったの!?」


 どれほどの一瞬が過ぎたのか。

 甲高い、興奮した黄色い声が、刹那を正気に戻した。


「……え」


 顔を上げれば、瓜実をわきに退けたおかみさんたちが、爛々とした目で刹那の手元を覗きこんでいる。


「うそ、それなら話は別だよ! 先生の手作り?」

「子供になんかもったいないよ、あたしが全部食べちゃう!」

「俺も手伝ったんだけどおー」

「余計なことしてんじゃないよっ、先生が作ったのどれ?」


 矢継ぎ早に飛んでくる黄色い声に、「混ざってます」と何とか応えた。別に応えなくてもいい情報ではあったが。

 その応えすら聞いているのか、きゃあきゃあ言いながら芋の器はその場の皆の手に納まる。

 刹那がすることは何もなかった。頭でっかちに考えていたことは全て杞憂で、おかみさんという最強生物が、あっけないほど簡単に解決してくれていた。


「あたし、弥九郎ちゃんが持ってきてくれるお灸に助けられててさあ」

「お灸……?」


 井戸端の桶だの床几だのに腰かけて、皆で芋をつまみながらのお喋りだ。

 あれよと輪の中に入れられた刹那は、くっつくように座ったあさり売りの女房に拝まれる。


「ありがたいんだよねえ、あれ。殻剥きは腰が痛いだろって、小さいお灸くれるんだ」


 あ、と刹那は思い当たる。

 細かい粉になってしまったモグサを、油紙に小分けにして仕舞いこんでいる引き出しがある。自分たちで使う用のものだ。ひと山分には足らなくとも、生姜の薄切りに乗せれば充分使える。

 包みの数が減っていても、誰か使ったんだろうと気にしてはいなかったが、弥九郎が長屋に持ってきていたのか。


「ごめんねえ、ちゃんと先生にかかればいいんだけどさ。うちは朝が早いし、好きなときにお灸できるから、弥九郎ちゃんがくれるお灸は本当に助かってるんだよ」

「あの、ひょっとして、弥九郎がたまに、あさりの剥き身をもらってくるのは……」


 よく味噌汁の具になるそれの出どころを刹那が尋ねると、あさり売りのおかみさんは申し訳なさそうな笑みで頷いた。


「ほんのお礼だよ。弥九郎ちゃんがお金はいらないって言ってくれるから、甘えちゃって」

「いえ、そんな。俺も、助かってます」


 これは本心である。売りさばくのが仕事の棒手振りたちは、刹那が声をかけるかもたもたしているあいだに通り過ぎてしまうのだ。特に魚など生ものを商う彼らは足が速い。

 最初からモノでもらえるなら、買いっぱぐれがない。むしろ刹那はありがたかった。


「俺の方こそ、お世話になっていたんですね。美味しいものを、ありがとうございます」


 軽く頭を下げると、おかみさんたちは再び「きゃあー」と興奮状態になる。さんまを取り合う猫の群れを、刹那と瓜実は想像した。


「梅ちゃんも時々、ただで薬くれるよね」

「効かないけどね」

「すみません……」


 それについては謝罪の頭を下げる刹那である。

 思えば、瓜実は『人見知りなことを皆知ってる』と言っていた。とっつきづらい奴と思われても仕方ない態度をとっていたのに。

 おそらくは、お灸とあさり、薬を交換したりしながら、あのふたりが自分のことも話に混ぜてくれていたのだ。


「人見知りだけど、ちゃんと医者はすっから」

「効く薬は三養堂でもらってね」


 そんな声が聞こえてきそうだ。


「……あいつら」


 ぽつりと呟いた刹那の口元に笑みがあったのを、瓜実は眩しく見つめた。





 刹那が深川に越してくる三年前。

 義助は、佃の勝治郎という香具師(やし)の男の世話になっていた。

 富岡八幡の境内などで見世物、興行を仕切っていた勝治郎だが、裏の顔は盗賊の頭であった。

 派手好きな勝治郎は、乱交を見世物にしたり熊と人を戦わせたりと激しい遊興を好んだ。女子供はこれらを嫌ったが、男衆、特に博打好きや無頼者たちは勝治郎の興行に熱狂した。義助もそのひとりであった。

 天涯孤独となっていた義助は、勝治郎に雇ってくれるよう懇願した。

 高利貸しから金を奪い、血が騒ぐような興行の中に身を置く。頭を虚無にして、退廃的な享楽に生きることに喜びを感じていた。

 その勝治郎が目のかたきにしていたのが、戸隠安陣、仮の名を佐治陣内という侠客である。

 千住で医者のまねごとをしているが、盗賊よりも残忍で狡猾な男だ。しかも八州廻の立寄処という表向きの立場まで得て、何度も勝治郎の稼業の邪魔をしてきた。 


「共に、奴を始末せぬか」


 勝治郎にそう話を持ちかけてきたのは、遠州から来たという盗賊、意休であった。

 意休は戸隠安陣との遺恨を語ってきかせ、勝治郎は「渡りに舟」と、安陣一派との対決を決めた。


 文化四年。

 大人数の移動を町方に気取られぬよう、決行の日を富岡八幡の祭礼の日とぶつけた。

 深川寺町の盗っ人宿に集結した勝治郎一派は、盃を交わし、鉢金を締め、懐に長太刀を仕込んで、永代橋に差しかかる。

 祭礼だけあって見物人は江戸中から来る。人混みに潰れながら、義助が橋に足をかけたときだった。

 足元が軋んだ気がした。

 これだけの人出だ、無理もない。橋の上の全員がそう思っていた。

 悲鳴と怒声が聞こえる。押すな、押すなと。

 しかし皆、神輿の渡御を観たいのだ。義助もうしろから押され、もはや後戻りもできない。

 先頭を切っていた仲間や勝治郎らは、橋の中ほどまでも進んだだろうか……

 押すな、と叫んだ誰かの声が、悲鳴に変わった。

 はるか下に落ちてゆく声。

 義助は、背筋が凍った。

 惨劇はこの先で、静かに起きているのだ。

 火事なら、燃える火が見えよう。地震なら、崩れる屋根が見えよう。

 けれど橋は、横倒しにでもならない限り、音がない。

 永代橋は、橋板が崩落していた。

 群衆の重みに耐えかねて、足場が抜けたのだ。

 目に見えない、音も聞こえないため、うしろから押す群衆は事故が起こっていることすら気づかない。


「押すな!!」


 義助は声を限りにうしろに叫んだ。周囲も同じ行動を取っているが、祭りの混雑としか思わない者たちに伝わりはしない。

 野代での水難が脳裏を過ぎる。

 またか。

 俺はまた、こんな目に会うのか。

 勝治郎や仲間の背中はもう、見えない。

 永代橋の崩落は、千四百とも五百ともいわれる死人を出す大惨事となった。




 蛤町の安旅籠の二階で、義助はかつて盗っ人宿だった数軒先の表店を眺める。

 またしても生き残ってしまった義助に、数年ぶりに姿を見せた意休は囁いた。

 「勝治郎の弔い合戦をせぬか」と。

 仲間と最期に盃を交わした場所で、仇敵の愛弟子がのうのうと暮らしている。義助には、墓を踏み荒らされている心地であった。


(うしな)えよ、お前も」


 暗い双眸は、三養堂と書かれた小さな看板に注がれていた。



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