深川寺町怨面影
雨の彼誰時。
浅草寺に程近い貧民長屋に、蓑を纏った、うらぶれた風体の男がふらりとやってきた。
編笠に隠れた面は傷痕もすさまじく、怨念が凝り固まったような濁った目をしていた。
男が踏み入ったのは、店子もいないぼろ家のひとつ。夕闇が迫る中、そこだけ、ぽつりと蝋燭の灯が漏れている。
中で爺が、男を迎えた。
男は蝋燭を挟んで板間に座ると、「見てきた」と低く、呟いた。
「懐かしかろう」
爺が、からかうように訊く。男は編笠の下の顔を歪めた。
「……あそこは元々、盗っ人宿だったろう。いつの間に医者なんぞに」
忌々しげに吐き捨てる。
「戸隠安陣が買い上げて、今は、その愛弟子が住んでおる。これがまあ、柳腰の別嬪でな」
爺が愉快そうに肩を揺らすと、蝋燭が照らす口元の白髭が笑みで震えた。
編笠の男の濁った目が、ぎらりとした。
「狙ってくれと言ってるようなもんだな」
「ふふ」
「なら、望み通りにしてやるよ」
雲のいわしが晴天に群れを作る。
番小屋には焼き芋が並ぶようになり、子供が笑顔でおやつにほお張っている。秋の気配だ。
深川寺町の三養堂に、縄で封をされた小ぶりの壺が続々と運びこまれる。
梅之助が多少抑えた声色で訊いた。
「……骨壺?」
「違ェだろ。幸せになれるとか押し切られたんだ、きっと」
弥九郎もまた小声で返す。
「砂糖だ、バカ」
呆れ顔で、家主の刹那が訂正する。
刹那の指示で信楽焼の砂糖壺は台所の小上がりにごとん、ごとん、と降ろされてゆく。湿気に弱いので、土間には直接置けないためだ。
ずらりと横並びの壺を眺め、刹那は眉を険しくする。
「……骨壺に見えてくるのが嫌だな」
「一度そう思っちゃうとねー」
骨壺なら中身は灰だが、これはずしりと重い。
砂糖は薬の扱いで、薬種問屋で売っている。しかし三養堂で処方はしていない。梅之助が首をかしげた。
「何でこんなに買ったの?」
「買ったわけじゃない。薬礼、というか……」
刹那も困惑気味に応える。
壺を運んできた商家の手代の男と小僧四人が、うやうやしく頭を下げた。
そろいの粒餡の色の前掛けには、八幡宮の門前にある大店の菓子屋の名が、名物のきんつばを思わせる白で染め抜かれている。
「このたび、私ども来福屋の女将の病が、先生のお陰で快復いたしまして。その御礼でございます」
「薬礼なら、みそかでいいだろ?」
毎月みそかの掛け取りは、元通り弥九郎の仕事である。手代はにこにこしている。
「薬礼はのちほど改めて。こちらは、私どもの主の気持ちでございます」
「私は、お気持ちだけで結構ですと申し上げたはずなんですが……」
遠回しに迷惑だと刹那が訴えるも、
「ええ、ですので、気持ちでございます」
「…………」
気持ちを物量でゴリ押しされた。
手代たちが去って、弥九郎がぼやく。
「砂糖もらえば皆が嬉しいと思うなよ……」
ひと昔前に比べたらだいぶ値は下がったが、白砂糖は高級品である。
体の弱い者や病気の者に、ひとなめさせるために処方される。薬効を期待してか、冥途の土産としてかは医者によるところ。
多額の『心付け』をお気持ちだけでと断った刹那に、ならば心付け分の物品を、しかも薬扱いのものですよ断る理由ないでしょ? となったようである。
あまり断っても角が立つと、しぶしぶ刹那も折れたのだ。
三人、困り顔を突き合わせる。
「参ったな。どう処理しようか」
「料理屋は絶対使うだろ。柳水亭の爺さんなら、もらってくれそうじゃねえ?」
「横流しかい? 人づてに来福屋に知れたらまずいと思うよ」
「んじゃ、千住に持ってくか……」
「ダメだ。ただでさえ先生の甘味好きが止まらないのに。このままでは消渇になるぞ」
「え、先生そんなに甘いもの食べるの?」
「最近は、毎食後に大福、おやつに団子、疲れたと言っては花梨糖を噛じると捨松兄さんがぼやいてた」
「あー、そういや二ノ宿のガキ共のおやつを盗み食いするとか、黒熊さんも言ってたわ」
「しかもそれを、あらゆる場所に隠すからな」
「それでせっちゃん、おやつの隠し場所に詳しいのか」
「けどよ、お前だって土産に桜餅持っていくだろ?」
「……今後は別のものにする。何か、おぼろ昆布とか」
「先生泣くよ」
「仕事してくんねえぞ」
陣内の対策はあとに回すとして、今は目の前の砂糖の消費対策である。
「長屋の皆さんに配る?」
「長屋の連中がこんなもんもらったって困るぞ」
弥九郎が異を唱えた。
江戸の庶民の飯の支度は、朝に一日分の白飯を炊き、夕餉はおひつの冷や飯を湯漬けにする。お上が火事を恐れ、火を使うことを制限しているためだ。風呂のある家が少ないのも同じ理由である。
なのでおかずはといえば、棒手振りか煮売屋から、できたものを買うのが普通だ。
高級調味料の砂糖をもらったところで、それを使う料理をすることがない。手に余るのが見えている。
「それに、ガキがなめ回して歯を虫だらけにすんのがオチだな」
「これは附子だぞ、と親に脅してもらったりして」
「中身は甘いと言ってるようなものだろ、それ」
黒砂糖を手に入れた大名が、他の者に食わせまいと、「これは猛毒の附子だ」と嘘をついた。大名の留守中に太郎冠者らが「大事な壺を割ってしまった、死んで償おうとしたのに」と、まんまと砂糖を食われてしまうという大流行した狂言の演目だ。
附子とは、鳥兜を漢方薬として使うときの名である。微量なら薬になる毒は多い。
長屋に配った結果を想像して、三人は意気消沈する。
「虫歯の患者、面倒なんだよね……」
「痛えだの俺を先に診ろだの、うるせぇし暴れるしな……」
「ふんじばって削るか抜くかだからな……」
「…………」
「…………」
「……俺が使うしかないか……」
結局自分に戻ってきた。
医学の本に、砂糖を使う薬膳などが載っていないだろうか、と刹那が頭を巡らせていると。
「梅之助はおるか!」
どんどん、戸口を叩く音と野太い声。「まずいっ」梅之助が珍しく血相を変えた。
「道場主が逃げ回るな! そんなことでは、江戸一番の道場など夢のまた夢!」
自称、梅之助の心の友、奥野桂馬である。
道場主になることも江戸一番の道場を作ることも、梅之助はひとつも引き受けてはいないのに、桂馬の耳には届かないようで、とうとう深川まで追いかけてきたのだ。
「梅之助はいませんよぉ……」
「せめて声色変えるとかしろや」
居留守を装う作戦に出た。
「せっちゃんごめん、砂糖の策は任せたっ」
編笠と刀を引っつかみ、梅之助は裏口から飛び出す。
「ぬう、逃げるかっ」
がらりと戸を開けた桂馬は土間に踏み込むと、梅之助を追ってそのまま三養堂を縦断し、長屋の奥に消えた。
裏長屋の道は追いかける方には分が悪い。知った者でないと、どこが抜け道でどこが袋小路か分かったものではない。
とりあえず今日は逃げおおせるだろう、と刹那は桂馬を見送った。
するとまた、どんどん戸口を叩く音。
「頭ぁ、来てくれ!」
弥九郎の手下である。
「仁吉が白旗組の奴と揉めやがった! 頭が出てくんねぇと収まらねえ!」
砂糖壺を仇のように睨みながら、弥九郎が舌打ちする。
「ちっ、こんな大事なときに!」
「いや、どう考えてもそっちが大事だろう」
やくざ同士の小競り合いは、面子がかかっているのでどちらも引かない。組頭が出ていって仲裁するのが一番なのだ。
「やくざはな、仲間の命が一等だ。むしろ大物が仲裁してくれるのを待ってる。だから喧嘩でなく、出入り、なんて言う。ただ家を出たり入ったりしてただけですよ〜ってな」
そう陣内から教わっている刹那は、弥九郎を止めない。
「行ってやれ。砂糖は何とかする」
「すまねえ、早めに帰るからよ!」
後ろ髪を引かれる顔を残し、弥九郎は手下と出かけていった。
「さて……」
残された刹那は、砂糖壺五つと向かい会う。
日持ちするものだし、すぐに使い切る必要はないのだが、使う案がそもそも浮かばない。
(南蛮菓子は大量の砂糖を使うと聞くが……)
それはまったく未知の世界。
(盆正月のおせちや羊羹……)
南蛮菓子でないからといって、和菓子なら作れるわけではない。年二回しか使わないのも困る。
(薬膳酒はどうだ?)
それなら三養堂で売れる。しかしそうなると、砂糖より多く焼酎を買わねばならない。
(うーん……捨松兄さんなら……)
やはり頼りは千住の知恵袋。
捨松はよく、金柑や青梅と砂糖で甘露煮を作ってくれた。青梅の甘露煮は、施術院の皆も患者らも大好きなおやつだった。
梅の木があるご近所さんたちから、毎年山のように青梅を頂いた。洗いながら竹串の先っぽでヘタを取り、ぷつぷつぷつ、と三つほど皮に穴をあける。煮ているときに破裂しないようにだ。
何度か水を替えながら煮て、仕上げに水と砂糖だけでゆっくり煮詰めた甘露煮は、少しすっぱくて甘くて、夏に冷やして食べると絶品だった。
(そうだ、甘露煮)
あれなら砂糖を大量消費できる。
でも今は、金柑も青梅も季節ではない。と、刹那の脳裏に番小屋での子供たちが浮かぶ。
焼き芋をほお張る子供たちだ。
「芋の甘露煮……は、できるのではないか……?」
焼き芋は焼くのに根気がいるが、小さく切れば火の通りは早い。
それにたっぷり砂糖をかければ、溶けた砂糖が甘露のように絡まって、甘いお菓子になる、はず。
それならできそうだ。
「よし、善は急げ、だ」
刹那は砂糖消費に希望を見出だし、青物屋に向かって走り出した。
作ったものをどうするか、まで頭が回らないうちに。
『深川寺町怨面影』ふかがわてらまちうらみのおもかげ……と読んで頂けると嬉しいです; タイトルにルビふれないんですよねー
このエピソードで第一章完になります。




