夜四つと明け六つの間・6
(こんなとこ、さっさとおさらばだ)
駕籠は三十三間堂町を抜け、永居橋に差しかかる。長っ尻の与兵衛は、明日にも江戸を出ていく算段をつけていた。
堀端の道は高潮で白い泡が舞っている。からだ中が磯臭くなる。表店は野分に備えて大戸を降ろしているから夜道は真っ暗。向かい風で駕籠の進みも悪く、与兵衛はイライラしていた。
(珊瑚が目の前にあるってのに。熊の胆も蔵から出して)
弁慶だか何だか知らないが、足の付かない盗みを重ねる、よほどの腕の盗っ人なのだろう。そんな奴に狙われる前に、仲間と合流しなければ。
瓢箪屋のある寺裏冬木町から井伊掃部頭屋敷を挟んでとなり、冬木町明地には、物乞いに扮した仲間が数人、芒の中にたむろしている。与兵衛の合図で、飛び出してくるのだ。
(うしろの駕籠に、珊瑚がある)
そう思うと、笑いを堪えきれない。
医者の連れの男は、弁慶の裏をかくと言った。
「たくさん駕籠が集まったら、初めに出る駕籠は囮だと思うでしょう。だからその駕籠に、旦那さんがたが乗ったらいいんじゃないですかね」
「では、若竹のご隠居様と、私が一緒に出ますよ。途中まで同じ道ですからな」
与兵衛は、ほくそ笑みを隠し、進み出た。
「そ、そうですな。ふたりだと、心強い」
若竹の隠居は、懇願のまなざしで与兵衛の提案にうなずいた。
(こんなにうまく、引っかかってくれるとは)
永居橋を渡り瓢箪屋へ向かうと見せ、明地で駕籠かきを殺して取って返す。亀久橋を渡れば仙台堀沿いの一本道だ。難なく追い付ける。野分の吹くこの時分、見ている者などいまい。と、思っていた。
「待て、そこの駕籠ぉ!!」
……空耳だろうか。
追いかけてくるなら、すご腕の盗賊のはずである。駕籠を呼び止めるなんてまねを、するわけがない。
「金持ってることは分かってんだよコラァ!!」
馬鹿なのか。すご腕の盗賊、馬鹿なのか。
「……旦那、止めるかい?」
駕籠かきが聞いてきた。
「馬鹿しかいねえのか!?」
「いや、どう考えても盗っ人じゃねえだろアレ。旦那たちの知り合いじゃねえのかい?」
知り合いにこんな馬鹿いねえよ。
与兵衛は仕方なく、永居橋のたもとで駕籠を停めた。うしろの駕籠も近くに停まるが、怖いのか中から出て来ない。好都合だ。珊瑚を抱えて震えてろ。
馬鹿が追いついた。派手な着物の若いチンピラだ。あーだの、えーとだの唸りながら寄ってくる。
「金持ってんだろ、あんた」
「持ってるが、どうする」
「俺に、奪われちゃぁくれねえか?」
初めての悪事みたいな顔をしていた。
「金置いてけば、命だけは見逃してやっからよ」
手を擦り合わせて拝みながら言う台詞ではない。
チンピラは寸鉄帯びていない丸腰に見えた。金を出せと言いながら、まずいものでも食ったように口がへの字に曲がっている。すご腕の盗賊本人ではあるまい。仲間か……にしては間抜けが過ぎる。
「本気で私から金を取りたいのかい?」
商人風のいやらしい笑みで、チンピラに凄んでみせた。
「あんた、この商売は向いてないよ」
与兵衛の隣にいた駕籠かきが、うっ、と唸って、倒れる。脇腹を匕首で一突きだった。突然の客の凶行に、他の駕籠かきが色めき立つ。
「うわっ、旦那、なにを」
「騒ぐんじゃあねえ」
ばたばたと橋の方から現れた男らが五人、駕籠ふたつを取り囲む。今日の稼ぎを待ちきれなかった与兵衛の仲間が、明地から出張ってきたのだ。
「ご隠居さま、こういった次第でして」
もうひとつの駕籠に刀を突き入れて、慇懃に与兵衛が迫る。チンピラは腰がひけたか、人殺しを見て固まっていた。とんだ見かけ倒しの男だ。
「珊瑚を置いてって貰えれば、命だけは見逃してあげないことも……、?」
心にもないことを言っている、その背後で、チンピラが動いた。
奇妙なことに、与兵衛が乗ってきた駕籠の担ぎ棒を握っている。
持ち上げた。駕籠ごと、片手で。
「カタギに手ェ出してんじゃねえよッ!!」
からだを真後ろへ捩じり、担ぎ棒を真横に薙ぎ払う。
轟ッ、と野分の風を斬り、与兵衛の仲間の首が、川に向かって飛んでいった。
「……へ?」
与兵衛は、何がおきたか分からなかった。駕籠とは刀のように振れるものだったか。首とは簡単に千切れるものだったか。
ごとん、と首を失ったからだが道に落ちた音で、ようやく与兵衛は、嵐に手足が生えたような男に戦慄した。
「ちょいと九郎、あたしを巻き込む気かい?」
場にそぐわない呑気な男の声がして、全員の目がそちらを向く。
もうひとつの駕籠からのそりと出てきたのは、珊瑚を持った隠居ではなかった。弥九郎が飛び上がる。
「げ、捨松兄さんっ!」
「てめえっ」
与兵衛も唸った。川蝉を出るとき、確かに隠居が駕籠に乗るのを見たはずなのに。
「ああ、若竹のご隠居様なら、右から乗って左から降りてもらったよ」
与兵衛の考えを読んで、捨松がにやにやとタネ明かしをする。
「こんな大風の夜に、誰も無理して帰りゃしないよ。駕籠で出たのはあんただけ。ほかの旦那衆は料亭にお泊まりさ」
(つまり……!!)
こいつは俺の正体を知っている。与兵衛はまんまと泳がされたことに、歯噛みした。
捨松は宿駕籠をめいっぱい呼び寄せると、与兵衛と意休、両方を撹乱させる策を打った。編笠を被り、着物も変えた。散った駕籠はほとんどが空で、主の泊まりを伝える従者が何人か乗ったくらいだ。旦那衆も金目のものも、川蝉から出てすらいない。
与兵衛ひとりを川蝉から引き離すことが、できたのだ。
捨松は思いきり眉を歪ませて、頭ひとつでかい弟弟子にずずいと詰め寄る。
「で、九郎。あんたはこんなとこで盗っ人の真似ごとかい?」
「兄さんこそ、何でこんなとこにいんだよ!」
「師匠の遊びに付き合ってたら、コソ泥が小金持ちを狙ってるからさ。適当なとこで畳んじまうつもりだったんだけど、あんたが出てきて台無しだよ」
「そりゃあ……申し訳ねえです。……ねえのかな」
「おおかた、掛け取りの金に手ェつけて刹那を怒らせて、店賃を借りに走り回ってるってとこかい?」
「その通りです。申し訳ねえです」
軽々と人の首を飛ばす剛力の男が、世話女房のような口をきく優男に頭が上がらない。与兵衛と仲間らは、目の前の兄弟喧嘩を呆気にとられて見守るしかなかった。
「もっと気合い入れて脅しな! 相手も盗っ人だ、遠慮してんじゃないよ!」
「だって俺、盗っ人初めてで!」
「だったらなおさら気張れこのボンクラ!」
兄弟喧嘩ではない。はじめてのどろぼう指南だ。馬鹿にしてくれる。
仲間がやられ、コケにされたままでは与兵衛の面子が立たぬ。盗っ人らがずらりと刀を抜く。狙うは丸腰の駕籠かきだ。
それと見て捨松は、弥九郎の背を叩く。すべて任せる、と。
「カタギが死んでんだ。せめて生かして返すな」
「わかってらァ」
低く身構え、弥九郎が応える。
金を盗まねばだとか、相手が旦那と思ったら泥棒だったとか、余計なことは頭から消えた。
戸隠一味はカタギを守る。理屈や利益でなく、戸隠安陣が守れというなら守る。
その一義によってのみ、戸隠一味は動くのだ。
カタギを殺した、目の前の男を屠る。弥九郎はそこに全身全霊をかけている。
(五人だぞ、五人、刀を持ってんだぞ)
囲んで逃げ道を塞いでいるのはこちらなのに、与兵衛はこのチンピラを斬れる気がしない。なにか、斬っても死なない魔物を相手にしているような不気味さがあった。
相手が木刀なら、真剣が勝つ。けれどこの男が持つのは、宿駕籠の担ぎ棒。長さ重さは刀の三倍以上だ。
(一斉にかかるしか、ねえ)
仲間の皆がそう思えば良かったが。
「ちいっ」
ひとりが逃げ出した。一斉にかかっても、数人犠牲にして一太刀浴びせられるか否かだ。そこまで命を張る義理など盗っ人にはない。
弥九郎が逃げた男に数歩追いすがると、男がまろび転げた。その脳天に、担ぎ棒が落ちる。植木鉢が割れるような音がした。
「囲めえっ!」
相手は背中を向けている。大きな隙だ。ガラ空きの背にふたりが突進した。
横に薙ぐのは間に合うまい、と思い込んでいたふたりは、弥九郎が後向きに放った担ぎ棒の突きを受けた。打ち壊された門扉のように、刀は砕け、ふたりは重なって顔を砕かれた。
浪人風の男は剣術道場の門下生だった。人を斬りたくて道場を破門された。
「きええっ」
中段の構えから胴斬りを狙う。担ぎ棒を握る右手とは逆手側から斬りかかった。
皆が皆、担ぎ棒の重さを計算に入れすぎていた。担ぎ棒はもちろん、重い。だから振り回せないと勝手に思い込んだ。何故なら自分が振り回せないからだ。
細い鉄の棒で、地獄の鬼の金棒に立ち向かうが如くだった。刀の腹を打たれ、簡単に折れる。失念に気付くことはない。同時に頭も砕けていた。
与兵衛は逃げ時を誤っていた。珊瑚がないとわかったときに逃げるべきだったのだ。
(そうだ、金ならある。あれが、蔵に)
金を出せば見逃すと言ったチンピラの言葉に光明を見出すほどに、彼は動転していた。
「金は、ある。金ならあるぞ。熊の胆だ。熊の胆がある!」
凶器を肩に担ぎ、最後のひとりとなった与兵衛に弥九郎が相対する。先ほどまで手を擦り合わせて金を無心していた男とは思えない、冷酷な顔だった。
「熊の胆?」
「ああそうだ、あれをお前にやる。売れば三十両は下らねえ。俺の質屋に、三養堂ってチンケな医者が持ってきたもんだ。ガキが持ってたものだが、モノはいい。俺は目利きだ、間違いねえ」
ぴくりと頬を引きつらせた弥九郎を、与兵衛は脈ありと見た。見てしまった。舌がするすると良く滑る。
「あーあ」優男の呆れた声。
ひゅう、風の鳴る音が、聴こえた気がした。
どこで鳴ったか。耳のそばだったろうか。
野分の風は、なお強い。ぽーんと川まで、与兵衛の首はよく飛んだ。
夜四つ。閉めようという木戸に、弥九郎は駆け込んだ。こんな時分までほっつき歩いてんじゃねえ、と番太郎が背中に怒鳴る。
小間物屋、油問屋、通りすぎる表店が皆、大戸を下ろしている。その先にぼんやりと一軒、灯りを漏らす腰板障子。
「ただいま」
その灯りに、弥九郎は帰ってきた。家主のもとに。
「……おかえり」
散薬を包む手を止めて、奥から家主が顔を覗かせる。たいして包みは進んでいない。
「遅かったな」
「ちょいと、ゴタゴタしててよ」
「お前がゴタゴタしてないときなんてあるのか」
「まあ、そうだけど」
板間に腰かけ、足を洗う。走り通しで、草履はくたくたにくたびれている。土間の屑入れに放った。明日の朝、焚きつけになる。
「晩飯は」
「あー……食ってねえ。そういや、朝から何にも」
意休の酒も断ったくらいだ。
刹那は「いつものこと」という様子で、渡りの土間に下りた。流しの水を張った桶には、砂を吐かせていた蛤がふたつと、刻んだ葱と豆腐がある。
平べったい帆立の殻に味噌を塗り、並べた豆腐に葱を散らして酒を垂らす。貝焼き、という故郷の漁師飯だ。
まだ火を落としていなかった火鉢から豆炭を拾って銅壷に入れ、網の上に蛤と帆立の皿を乗せた。網のとなりでは、ちろりがじんわりと温まって燗をつけている。
「俺の分?」
「俺もまだ食ってない」
「食ってりゃよかったのに」
醤油を持って構えている刹那の脇に、弥九郎が懐から出した巾着をそっと置く。ちゃり、と音がしたが、刹那は一瞥しただけで何も言わない。
ぱか、ぱか、と蛤が口を開けた。大きな身がぷくぷくしている。たらりと醤油を落とすと、こぼれた煮汁が炭にしたたって、じゅわっと潮の匂いが拡がる。
「あ、俺のはそのままでいいわ」
「醤油いらないのか?」
「なんだっけ、蛤水晶、っての聞いてよ」
「高価そうな名前だな。どこで聞いたんだ」
「どこだっけ」
弥九郎が頭をひねろうとすると、ひときわ強い風が吹いて、ガタガタと表障子が揺れた。
「やべ。戸、降ろさねえと」
「忘れてた……」
悪かった、が言えないチンピラと、無駄足を早く慰労してやりたかった医者が、互いにぎこちなくて何も言い出せない間に、大風への備えをすっかり失念していたのだった。
刹那が醤油を置く前に、弥九郎が腰を上げる。
「焦げるぞ」
「力仕事は俺の役目だろ?」
貝焼きも、くつくつと味噌が溶けてきた。
風に晩酌を邪魔されてはたまらない。大戸が降り、三養堂も嵐が過ぎ去るのを待つのだった。
捨松には、見えていた。
弥九郎を囲んだひとりが逃げをうって転んだのは、足の甲に苦無が突き刺さったからだ。
駕籠かき三人を守るためには、弥九郎が男を追って場を離れるのはまずかった。早々に転んでくれたおかげで、弥九郎は足を留めることになったのだ。
(誰だか知らないけど、手練れだねえ)
姿は見えなかった。素破の得物だが、例の弁慶のものか? それとも……
「友達つくるのが上手いんだよねえ、あの子」
屈託なく褒め、笑い、本気で喧嘩する。刹那などは真似できない、密かに憧れる弥九郎の才能である。
ただし、屈託がなさすぎるのも問題で。
「うまいこと言ってればいいんだけどねえ……」
どこから持ってきた金かを刹那に訊かれ、「質屋からぶん取ってきた」と端的に答えた弥九郎が、数日のあいだ飯抜きの刑を言い渡されたのは、翌日、明け六つのことであった。