ひとざかなとひとくらげ
ナツメさんが死んでしまった一週間後に、母は戻ってきた。
「めいちゃん」とあたしを呼んだその声はひどくあどけなくて、あたしは一瞬で母を嫌いになった。あたしが一歳半のときに、あたしを捨ててどこかへ行った母。つるりとした頬は何の苦労もしていないようにしか見えなくて、それでも母が母であるとひとめでわかった自分自身が嫌だった。
ナツメさんの家の狭い玄関に母ははみ出すように立っていた。十五年ぶりに戻ってきた母は、上半身が裸で、下半身はクラゲのように透明でたくさんの脚を持っていた。皮膚は乾いているように見えるが、長い赤茶色の髪はしっとり濡れていた。
「めいちゃん、やっと見つけた」
そうやって笑う母はどう考えても化け物で。でもあたしは怖いとは思わなかった。あたしの親はあたしを丁寧に育ててくれたナツメさんであり、この謎の下半身を持つ女ではない。
母は「えっとねえっとね」と挨拶もせず玄関に突っ立ったまま、15年前の話をはじめる。
芽衣がいなくなった。
こういう時、普通のきちんとした親であれば「一瞬目を離したすきに」というのだろう。「いつも通りほおっておいている間に」としか言えない私は、それでも娘を探す。大きな声を出したらどうなるんだろうと思いながら。
「芽衣!芽衣どこ?!」なんていつか見たドラマのように叫べばきっと、この海岸沿いで釣りをしているおじさん達が寄ってくるのかもしれない。
「どしたあ。迷子かい」なんて。
どんな子か。何歳か。警察に連絡は。私はどきどきしながら答える。一歳の女の子。グレーのワンピースに白いずぼん。足元はバリバリっていう音がする面ファスナータイプの、ベージュのスニーカー。
おじさんたちは思う。「なんでそんな小さな子から目を離したのか」
芽衣が見つかった後は、多分呼ばれているだろう警察にも思われる。「ガキがガキを生むからこうなるんだ」
うつむくと、薄いピンク色のワンピースが揺れた。二年前に買った、お気に入りのワンピース。どうしてだかわからないたくさんの傷(母は「糸引き」と言っていた)がたくさんついたワンピースはみすぼらしくて、でも自分にこそ似合っているように思えた。芽衣がいなくなって、でも少しほっとしている自分もいる。これでもう、幸せになれるかもしれない。夜中にも起こされないし思い立ってすぐに電車に乗ることもできる。芽衣がいなくなっても、私はきっと悲しくない。でも、もしも芽衣が痛い目にあっていたり、悲しんでいるなら、それは可哀そうと思う。私の母性なんて、そんなものだ。
ぐじぐじと私は、こちらを振り返ることなく釣りをしているおじさんたちの背中を見る。多分、海の方にはいない。そう思いつくと、それはひどく素敵な考えに思えた。もしも海に落ちたとしたらぼちゃんという音がするし、おじさんたちだって気付いて今頃騒ぎになっている。そうだ、もしかしたら家に帰ったのかもしれない。冷蔵庫にひとつだけ残っているゼリーを、芽衣は食べたがっていた。まだ賞味期限がずいぶん先のゼリーを早く食べてしまうのは何かもったいない気がして、私はそれを拒否したのだった。「風邪ひいたときのために取っておこう」と言って。それを思い出しながら、五年前に死んでしまったおばあちゃんのことも一緒に思い出した。「こんなの取っておいたって、死んじゃったらどうにもならないじゃない」と言いながら遺品整理をしていた、叔母のことも。
家に帰っても芽衣はおらず、私は途方に暮れた。私は諦め悪く押入れの中やシンク下の扉の中を探す。芽衣は鍵を持っていないから家に入れない、と気づいたときにはもう夕方だった。私は馬鹿なんだ。それは昔受けさせられたなにかしらのテストでも証明されている。障害というほどではないんですけど、と頭のよさそうな女性が言い、母親は眉間にしわを寄せたまま「はあ」と言った。帰り道に、もっと馬鹿のふりをしたらお金が貰えたのに、と母親に怒られた。理由は分からなかったけど、ごめんなさいと私は言って、その後しばらく馬鹿なふりをしてみた。図書館の机の上で風見鶏ごっこをしたり、小学校の国語の時間に絵の具と家から持ってきたヨーグルトを広げてみたり。でも誰もお金をくれなかった。
もう一度、海の近くに行くことにした。なぜだか分からないけれど表面がぺろぺろ剥げてきてしまうバッグの中に、ゼリーを入れていく。あっという間に暗くなっていた海には、もう釣りをしている人はいなかった。
「芽衣」
小さい声で呼んでみたけれど、芽衣はいない。誰かに電話をしたくなったけれど、携帯電話は三日前から見つからない。せっかく生まれて初めての折り畳み式にしたのに、今はもうなにも使えないまっすぐのものしかないのだ。三日前に実家に行ったときにはあったから、たぶんそこに忘れてきたんだと思う。取りに行こうかなと思ったけれど、連絡なしに家に帰ることを母親は嫌う。こういう時、私は何を先にしたらいいかが分からない。芽衣を探すこと。芽衣を見つけること。携帯電話を取りに行くこと。そういえば家の鍵は閉めたっけ?
ぐずぐずと海岸で小さな声で芽衣と呼び続けていると、ようやく自分が母親らしくなったような気持ちになってきた。大丈夫よ、と笑ってくれた産婦人科の人を思い出す。「母性は自然と育つものよ。何かあったらいつでも頼ってね」と、その人はそう言っていたのだった。そうか頼っていいのかと、私は産婦人科の方へ身体をひねった。芽衣がいなくなっちゃったんです、といえばきっとどうにかしてくれる。産婦人科までは自転車で行った方が早いけれど、駐輪場に置いているそれは後ろのタイヤがパンクしてしまっているので、歩くしかない。
その、時だった。
「メイを探しているのはお前か」
いままでに聞いた中でいちばんと言っていいほど、ずんと低い音でその声は聞こえた。海の方から。いや、海の中から。
私は顔がびたっとまっすぐになる気がした。目はぐいと上に上がり、唇は首の方へ引っ張られる。
「メイの母はお前か、と聞いている」
私はびたっと平べったくなった顔のまま、それでも頷いた。親切な人なんて世の中にはいないんだから気をつけなさい、と私に行ったのは叔母だった。誰も信じちゃだめだし本当のことなんて言っちゃだめ。と。でも私は頷いてしまった。その声は「そうか」と言った。真っ暗な海から、どうして私が頷いてるのが分かったのだろうと思ったけれど、それを言葉にする前にまた声が聞こえた。
「メイを探す気は、あるか」
私は再び、頷く。何でもかんでもハイって言っちゃだめよ。叔母はそうとも私に言った。相手が何言ってるか分からなかったら、分かるまでちゃんと質問するの。分からないのにハイって言ったら、だめなの。でもそれを思い出したのは、私が何度目かに頷いた後だった。
「よろしい」
とその声は言い、私はそのまま海に引きずり込まれた。芽衣のこと。声のこと。自転車のこと。海の中のこと。たくさんのことが頭の中に浮かんできたけれど、それらはすべてかけらのようにバラバラで、私は何もかも分からないまま、次の場所へと行ってしまった。
「なるほど。つまりあなたは娘さんを探しているところで、神様に呼ばれたんですね」
つっかえつっかえ話すこんがらがった私の言葉を太いうどんのようなシンプルさでまとめたのは、緑と青の中間のような色の髪をした人魚だった。
「理解しました」
人魚はあっさりそういうと「それで、どうします?」と聞く。見た目は似てないけれども、区役所にいたワカバさんを思い出させるような喋り方だなあと思った。ーーあなたはまだ未成年ですから、親があなたを保護する義務があるんですよ。ところで赤ちゃんのお父さんは、どこにいるんですか?ーー淡々と、それでもこちらをまっすぐに見てくれたワカバさん。あの日はどうにかして話を続けようと思ったのに、芽衣がミルクをなぜだか吐いてしまって、しかも熱も上がってしまってそこで終わってしまったのだ。ーーめいちゃんが落ち着いたら、必ずまた来てくださいね。こちらからも連絡しますので、その時はちゃんと電話に出てください。ーーそうワカバさんに言われたのに、そのまま忘れてしまっていた。
「…人間さん?」
綺麗な髪の人魚さんに問いかけられて、私ははっと顔を上げる。すぐいろんなことを思い出してしまうのは、私の悪い癖だ。さらに、聞かれたこととはまた違う、「とんちんかん」なことを口にしてしまうのも、私の癖。
「人魚って、いるんですね」
言いながら、とんちんかんという響きはなんて馬鹿らしくて可愛らしいんだろうなんて思う。人魚さんは私のそんな言葉に何かを動かすこともなく「そうですね」と応えた。
「ここは、どこなんですか」
たぶん母親や叔母に話せば、芽衣のことより自分のことを優先させたと言って怒られるような質問をする。人魚がいるのであればそこは海なのであろうが、ピンクのふわんとしたそこは鶏肉を思わせた。水分はなく、ぷるぷるとした手触りのそこは私が小さなころに通っていた体育館ほどの大きさで、家具らしいものはない。ただ、海藻のようなものがたくさん生えていて、小さく「かしゃん」「かしゃん」という音が時折聞こえた。
「ここは、陸と海の中間の部屋です」
人魚さんはそう言う。
「ただし人間が思う海の中ではありません。人間が思う海は人魚が思う、陸と同義です」
意味が分からず、私は人魚さんを見た。人間が思う海と人魚が思う海は違って、人間が思う海は人魚が思う陸で。それはひどく複雑な知恵の輪のように思える。
「分からなくて大丈夫です」
私を見透かしたように人魚さんは言い、それでほっと息を吐く。それで大丈夫なら、それでいいのだ。そしてようやく、私は娘を思い出す。多分この話を叔母にしたら、ひどくひどく叱られるだろう。母親なら子どもを第一に考えなさい。だからあなたはーー。
「あの、芽衣はどこに…あ、あの、芽衣は私の子どもなんです。1歳で、髪はえっと、肩ぐらいで。灰色のワンピースと白いずぼんと、後靴を履いていて。背はえっと…」
芽衣の身長はどのぐらいだっただろう。どうしても数字を覚えるのは、苦手なのだ。だからいつか行った健康診断のときにも困った顔で見られてしまった。芽衣ちゃんは、一日にどのぐらいミルクを飲みますか?それが答えられなくて。それでも人魚さんはじっとこちらを見ていたので、「このぐらい」と手であらわした。ちょうど私がぺたんと座ったときの、胸ぐらいの高さ。
「先ほど話していた、娘さんですね」
問われて私は二度、三度と強く頷く。人魚さんも頷き、そして再び質問を口にした。
「どうしますか?娘さんを、探しますか?探しませんか?」
私は目を何度かばちばちとさせた。探さない、という選択肢があるとは思わなかった。探さなかったら、夜は眠れるのか。部屋と部屋の段差でけつまづいた芽衣がけがをすることも、なくなるのか。そして探すといってどうやって探すのか。そうだ。探し方が分からない。そう思い立って、私ははっとする。難しい探し方だったら、私は探さないのだろうか?
「芽衣は…どこにいますか?」
人魚さんは母性のかけらもないような私を、ただ見ている。そんな顔で見られても、分からないのだ。私は母親失格なのだ。私には分からない。例えば、子どものために命を懸ける父親とか母親だとか。飢え死にしそうな時に自分のぶんの食事を子どもに与えられる人だとか。そういう人には分からないけれど、なれないと思うのだ。実際にそうなったことがないから分からないけれど、でも世の中のお母さんたちはそうなったことがなくても、分かるのだ。産婦人科にいた、命に代えてもこの子を守るわと生まれたばかりの子を抱きしめていた母親を思い出す。私は分からないことだらけだ。どうしてそんなことが言いきれるの?
それから。もうひとつだけ知りたいことがある。
「芽衣は、私が探した方が幸せですか」
一年と何か月間か。私は芽衣と一緒にいた。けれども結局、離乳食はうまく作れなかった。検診でもらった紙に書いてある通りに作ったけれど一口も食べてくれず、どうしようもなくて、私のパンをちぎってあげた。叔母にはひどく叱られたけれど、私にはどうしていいかが分からなかった。検診も予防接種も言われたとおりに言われた場所にいくだけなのになぜか毎回叱られて、行くのが嫌になってしまった。そうだ、いつかの注射の日は「芽衣」という漢字を間違ってそれも受付の人にびっくりされた。
「それは私にはわかりません」
人魚さんにそう言われて、私はうつむく。それはそうだ。人魚さんは芽衣ではない。分からないときはどうしたらいいんだっけ。分からないときは。そうだ、とりあえずやってみよう。そんな歌があった。
「じゃあ、探してみます」
私の言葉に人魚さんは、分かりましたと淡々と答えてそれから質問する。
「では、あなたは『ひとざかな』か『ひとくらげ』のどちらかになる必要があります。どちらになさいますか」
「ひとざかな?ひとくらげ?」
「ひとざかなは、あなたがずっと『にんぎょ』と言っている姿です。要するに、私のような外見です」
ほほうと私は改めてにんぎょさんーーではなく、ひとざかなさんを見る。長い髪とふつうの肩や腕、胸のあたりからはきらきらしたうろこになっている。小さい頃アニメで見た人魚はお尻のあたりから魚のようになっていたけれど、この人魚さんは違うようだ。
「ひとくらげはーーそうですね、彼のような」
そう言って人魚さんは床の一部を、ぼろりと剥いだ。ガラスのようなものが出てきて、そこからその世界は見えた。思わず私は膝をついて、そこをまじまじと見る。
きらきらの鱗の人魚さんたちに交じって、ひとくらげは泳いでいた。人魚さんと違って、ひとくらげはおへそのあたりからが透明なくらげになっている。胸はきちんと人間のようになっていて、だから私はひとくらげのほうがいいなと思った。
「じゃあ、ひとくらげにします」
かしこまりました、と人魚さんはレストランで注文を受けたときの店員さんみたいに静かに言った。では、と言って私はそのまま先ほど剥いだ床の部分をすり抜けるようにして人魚さんの言っていた「人魚の思う海」へと落とされた。
下半身がくらげの母は何度も「えっとね」を挟みながら玄関で一気にしゃべり切った。玄関の上がり框を超えたくらげの脚を頼りなげに揺らしながら。よくもまああたしという本人が目の前にいるのに言えるなと思うことも言いながらだったけれど、昔おばあちゃんが言っていた「あんたの母親はちょっと頭の出来が悪かったから」という言葉を思い出して聞かなかった振りをした。
「私はね、めいちゃんが人魚の世界に行ったんだと思ってね」
国語の時間に、文節の区切り方を習ったときのような喋り方をする女だなと母を見ながら思う。――今日はネ・お母さんとネ・ご飯をネ・作りました。
「それでずっとね、向こうで、えっと、探していてね」
いつか母と再会できる日を想像しなかったわけではない。でも、ぴんと来なかったという方がしっくりくる。ドラマや漫画では生き別れになった親や兄弟を無条件に受け入れて泣いて抱き着くシーンがあるけれど、あたしにはそんな感情は浮かんでこない。愛しさも憤りも何もない。ナツメさんが病気を打ち明けてくれた時やお葬式の時の方がずっとずっと悲しくてそしてナツメさんのことがもっと好きになった。
「めいちゃん、無事でよかった」
にこ、と母は笑顔を見せてそれからようやくきょときょとと周りを見渡し始めた。
「ここは、叔母さんの家だよね」
うん、と応えるとぱあっと目と鼻の穴を広げる。
「うわあ懐かしい!りびんぐのヘリコプター、まだあるかなあ?」
ぐい、と廊下に身を乗り出した母を全身で留めたのは何かしらの本能としか思えなかった。転んだときにとっさに手をついたり、何か驚いたときに叫び声をあげるような。
「来ないで!」
「えっ……」
「もう来ないで!どこでもいいから、どこかへ行って!」
「でも…」
「言ってたでしょ!『芽衣は、私が探した方が幸せかどうか』って」
あたしは、と声を上げる。
「あたしは、幸せじゃない。あたしの今の人生に、あなたはいらない」
悪気がないのは分かる。分かるけれど、その脚も汚い色の髪も、べちゃべちゃとした喋り方も、何もかもが今の自分には不要なものだった。
「あたしの幸せを少しでも考えるなら、二度と来ないで。邪魔しないで」
あたしが繰り返し言うと、母は、しゅんとうなだれた。
「ごめんね、めいちゃん」
言いたいことは山ほどあった。未婚のまま相手も良く分からず子どもを産んだこと。あたしを児童館のトイレに置き去りにして行方をくらませたこと。母があたしの漢字を正しく書けないことは母子手帳の間に汚く挟まっていた何かの問診票で知った。ダサくて汚い洋服。でもそんなことを言ってもどうしようもないんだということを、ナツメさんと一緒に嚙み砕いてすべて飲みほしていた。
「あたしは、あなたのことをどうでもいいと思ってる。くらげだろうとかたつむりだろうと、どうでもいい。だから二度と来ないで。生物学上はあなたはあたしの親かもしれないけれど、それ以上のことは何もない。あたしの親はナツメさんだけだから、あなたはもう過去の生き物だから」
かたつむり、と母は繰り返す。今のあたしの言葉でいちばんどうでもいい言葉を。
「出て行って」
母はしょんぼりとした顔で、くるりと踵を返した。もう一度「ごめんね」と言って家を出ていく。
扉に鍵とチェーンをかけて、あたしはふうと息を吐く。廊下を歩いてリビングに戻り、ふと上を見上げた。天井で優雅に、シーリングファンが回っている。ああ、これをヘリコプターと言ったのかもしれないと思った。
それから、リビング正面にある水槽を見る。そこには、「ひとえび」と「ひとたこ」が楽し気に泳いでいた。愛しい愛しい、あたしのペットが。
薄く笑って、和室へと向かう。仏壇に飾られたナツメさんの遺影は、いつだって優しい。
「ナツメさん」
おりんを鳴らしてから、呼びかける。
「さっき、あの人が来たよ。でも、なんとも思わなかった。やっぱりあたしの親は、ナツメさんだけだよ」
だから、と言いかけて口をつぐむ。結局世界で一番馬鹿なのは、あたしなのかもしれない。ふときらめくものを見つけて、そちらを見る。綺麗に目が揃った冷たい畳の上に、綺麗な鱗が所在投げに転がっていた。