恋と、愛と。
私は狂っていたのだろう。
世界が崩壊した。
比喩ではなく、文字通り、崩壊したのだ。
あまりに突然のことで、その前後の記憶はまったくないけれど、気づけば、両親も、友人も、知人も、見知らぬ人々も、消えていた。残されたのは私ともう一人の男性だけ。正確に、地表の端から端までをくまなく探したわけではないけれど、探しにいける範囲には誰もいなかったので、当時の私たちにとって生存者は互いだけだった。
何故、こんなことになったのか。
これからどうすればいいのか。
真っ当な思考は幸いにも浮かばなかった。手に余る状況に狂う方が健全だった。
だから、私は浮かれた。
もう一人の生き残りが、私の思い人だったから――たった二人、取り残されて、互いに互いしかいなかったのなら、愛されると思ったのだ。
でも、まぁ、そんなことはまったくなかった。
彼はとてもモテる人で、私なんぞが相手にされるわけもなく、一方的な片思いだったが、比較になる相手がいなくなり、ましてや人類滅亡という絶望的な環境下で、男女が二人となれば、人恋しく抱き合ったりするものだと思ったが、まったく、全然、そのようなことにはならなかった。
より良い相手がいるのならそちらがいいから君はダメ、ではなくて、私という人間が彼の恋愛の範疇外なのだ。
それがわかってしまって心は痛んだ。
他に嘆くべきことがあるはずなのに、失恋の痛みだけが私を苦しめたのだ。
とはいえ、女性として認識できなかったとしても、二人だけしかいない以上は、現代のアダムとイブとして、子孫を残して、ふたたび地球を繁栄させようみたいなことになるのでは? ――など諦め悪く思ったりもしたが、そのような壮大な物語も展開されることは勿論なくて、私はそのまま死んだ。
私の方が先に死んだ。
死の間際、彼が手を握ってくれていたことはよく覚えている。
銀杏の木の下だった。動物は死に絶えていたが、植物はまだ存在していた。季節というものはなくなっていて、時間という概念もほとんど意味をなさずにいたから余計に今が何月なのかも曖昧だったが、銀杏の葉は緑だった。私は横になっていて、時折流れてくる風が心地よかった。彼は私の手を握り、もう片方の手で頭を撫でていた。小さな子にするみたいな柔らかな手つきで、私はなんだか泣きたい気持ちになった。死というものを前にして生命の尊厳を尊重してくれたのだろう彼に、私はやはりこの人が好きだなぁと思った。それから、一人残して逝くことを申し訳なく感じた。私がいてもいなくても彼にとっては何も変わらなかったかもしれないが、本当の、正真正銘の一人ぽっちにしてしまうことに罪悪感を覚えた。
という前世の記憶がある。
……いや、うん、わかる。単なる夢、或いは妄想の類じゃないの? と言いたくなる気持ちはわかる。崩壊した世界で最後の二人まで生き残ったのが私の前の人生なの、とか友人が言い出したら心配になる。普通に前世の記憶があると言われるだけでもだいぶアレなのに、更には内容がこれでは、かなり、相当、恐ろしく、心配になる。けれど、これは紛れもなく前世の記憶だ。
しかし、このこと自体は左程問題ではない。
前世の記憶があるくらい、別に今世を生きるに影響を及ぼさない。私は狂っていたので、どう考えても惨憺たるあの状況での感情が、好きな人から相手にされなくて悲しいなので、恐怖や絶望といった生まれ変わっても消えることのない傷はないのだ。
ならば、何が問題か。
私が前世で好きだった彼もまた生まれ変わっていることである。
……いや、うん、わかる。何故、彼の生まれ変わりだとわかるの? と言いたくなる気持ちはわかる。だが、わかるのだ。そして、わかってしまったことに理由はないので何故と聞かれても私も困る。
では、それのどこが問題か。
彼が生まれ変わっていることそのものに問題はない。そっか、彼も無事に生まれ変わったのか。今度は平穏な人生を送れるといいな、で済む。あんな悲惨な環境ではなくて、幸せになればいいな。おそらくそうなるだろうな。なんといっても、公爵家の嫡男で、文武共に秀でていて、周囲からの信頼も厚く、文句のつけようもない美男子。誰もがそんな風に生まれたかった! と憧れる存在である。望めば大抵のことは手に入るはずだ。なんでも手に入るから幸せとは限らないけれど、それでも恵まれていることはいいことだ。今世こそ幸せになるだろう。
私もそれをひっそりと願う。人類最後の一人という業を背負わせてしまった罪悪感は彼の姿を見ると蘇ってくるので、本気で、切実に願う。――そう、そうやって願っているだけでいられたならばよかったのだが、彼と見合いをすることになってしまったのだ。
(失敗したな……)
前世は今世と比較して随分と文明が発達していた。具体的にいうなら、前世なら八歳程度の子どもができていたこと――四則計算や基本的な文章の読み書き――が、今生ではエリート職に就けるというレベルである。おかげで、私は才女となった。かなりのズルであるが、過程を気にする人はいない。私は才女と呼ばれている。
その結果、伯爵家である我が家に、公爵家からの見合い話が舞い込んできたのだ。
家族は大変光栄なことだと二つ返事で受けた。
しかし、私は違った。遥か過去に終わった恋の相手、遠くから幸せを願う相手、その人の婚約者候補になるなんて、喜べるわけがない。
とはいえ、高位の家からの見合い話を断ることもできずに会うことになってしまったのだが……。
「何か食べたいものはありますか?」
にこやかに彼――アルベルト様は言った。
お見合いの当日、指定されたカフェテリアに向かうと、彼の方が先に着いていて、私が給仕に案内されていくとさっと立ち上がって会釈をしてくれた。身分的に言えば彼の方が上であるのに、随分丁寧だなと感心した。
注文も私が来るまで待ってくれていたようで、尋ねられた。
「……えっと、では、アッサムティーをお願いします」
「ケーキはいいですか? ここはザッハトルテが評判ですよ」
「あ、それではお願いします」
給仕がお辞儀をして去っていき、二人だけになると、
「今日は、会ってくださりありがとうございます」
彼が礼を述べた。
家同士が決めた見合いだ。彼だって半ば強引に命じられてここへ来たのに違いないというのに、ましてや繰り返すが彼の方が身分が上なのに、少しも不満を見せることなく、礼儀を尽くしてくれている。
前世でもそうだった。私は女性として見られることはなかったが、人として不愉快になるような真似はされなかった。崩壊した世界では食べる物を確保するのも大変だった。最初のうちは瓦礫となった建物の下から食べられそうな物を拾ってきたりしていた。だが、日数が経過するうちに生肉や野菜などは腐敗して食べられなくなり、缶詰やインスタント食品に頼るようになった。しかし、それとていつまで続けられるかわからないし、何より健康にも悪い。彼は畑を耕しはじめた。腐りきる前に野菜から種子を集めていたらしい。彼はそれを一人でこなした。日中、出掛けてくると言って、私はそれを二人でいるのが嫌なのだろうなと解釈して黙って見送った。その間に彼は畑を耕していたのだ。事実を知ったのは、初めての収穫物を持って帰ってきたとき。みずみずしいトマトだった。
「はい、どうぞ」
と手渡されたそれは、ずっしりと重くて、でも、私は、彼が育てただなんて発想を持てずに、まだこんなに新鮮そうな野菜が存在していたのかと驚いた。インスタント麺ばかりを食べていたので、かぶりついたトマトの酸味と甘みに感動して、ガツガツと食べた。
それから、いったいどこで見つけたのかと尋ねて真実を知り、本当に申し訳なくなった。何の労力も払っていない私が貪るように食べていいものではない。ひとりで食べるべきだ。でも彼はにこにことして、その後も、野菜や果物など育てた作物を食べさせてくれた。もちろん、私だってただ与えられることをよしとしていたわけではない。当たり前だが手伝おうとした。けれど、彼はそれを承知しなかった。君はここ――安全そうなシェルターを見つけてそこで暮らしていた――にいてほしい。動かないでじっとしていてほしい。そうしてくれた方が安心するから。繰り返し繰り返しそう言われて、それがとても切実で切羽詰まっているようにも感じられて従った。私は雛鳥のように彼が運んでくる食べ物を食べて生きていたのだ。
そんな風に、生活の世話をしてもらってはいたが、彼が見返りを求めたことは一度もない。衣食住の面倒を見る代わりに性的な奉仕をさせるというのは遥か昔からあることだとは思うが、そういうのも一切。繰り返すが、彼は私を女性として見ることはなかった。男女として、そのような雰囲気にはならなかった。そうであるのに、そっけなくされたり、自分の食い扶持ぐらい自分で見つけろなんて突き放されるなんてことはなかったのだから、今更だが不可思議な関係だったと思う。
(ペット的なものだったのかしら?)
家族に先立たれ、一人ぽっちになった老人が、ペットを飼い始めると気力を取り戻すみたいな話がある。守ってやらなければならない存在を前に、人は己を奮い立たせるのだ。そういうものとして、私は認識されていたのかもしれない。
いずれにせよ、優しくはしてもらっていたのだ。
生まれ変わってもその優しさは健在らしい。
私はそのことに胸が熱くなった。
そして、この人は今度こそ幸せにならなければならない、と強く思った。
そうこうしているうちに、失礼いたします、と声がして給仕が再び姿を見せて、注文の品を配膳してくれる。
ザッハトルテが有名と聞いていたが、表面のチョコレートがテカテカとしていて、たぶん柔らかいのだろう。私の通っているお店のザッハトルテは堅めのコーティングで仕上げるため光沢はないので新鮮に感じられた。きっと口に入れるとすぐに溶けて甘い舌触りが口いっぱいに広がるのだろう。おいしそう。
「どうぞ」
ケーキを凝視していたせいか、彼は少し笑いながら言った。
私は遠慮なく食べることにした。見合いの席でこのような振る舞いは褒められるべきではないが、この話は断ることになるのだし、こういう無遠慮な様子は、いくら能力があっても公爵家の妻は務まらないと拒絶しやすいとの狙いもあった。私もいろいろ考えている。ただ、食い意地が張っているだけではないのだ。
フォークはすんなりと入った。
やはり表面のチョコレートは柔らかい。
「おいしい」
「そう。それはよかった。チョコレートは作れなかったから」
「作れなかった? とは?」
「カカオは手に入らなかっただろう? だから食べさせてあげられなかった。君がチョコレートを好きなのは知っていたけれど、当時の私には難しかった。それが、ずっと気がかりだったから」
隠す気のない彼は、同時に、隠し立てしても無駄だよ、と言っているようだった。
私はここにきて一つの可能性を失念していたことに気づいた。
私に、前世の記憶があるのなら、彼にもあるかもしれないということ。そして、もしあるとしたら、私の能力が前世の知識に起因していると結び付けるのは左程難しくはない――つまり私にも前世の記憶があると彼が知ることは容易であると。
「いつからですか」
私が尋ねると彼は、ああ、やっぱり、と笑顔を深めた。
「学内で君を見かけたときに、あれ? と思ったんだけれど確信が得られなかった。ようやくスッキリできたよ」
「学内で……」
私と彼は二学年違う。彼の方が上だ。先に死亡した私が先に生まれているべきではないか、と思わなくもないが、彼が上なのである。
家柄、能力、容姿……すべてにおいて抜きんでている彼のことは、入学前から話には聞いていた。ただ、この世界には写真のようなものはなかったので、実物を見るのをひそかに楽しみにしていた。
その日は割とすぐにやってきた。
彼は生徒会長をしていたので、入学式の日、壇上に上がり新入生への祝辞を読むことになっていたのだ。
進行役の紹介で彼が姿を見せると、黄色い悲鳴、ざわめきが起きて、先生方がわざとらしい咳ばらいをして静かにするように促しても、なかなか鎮まらなくて、静寂を待つ前に彼が話し出した。すると、ピタリと話し声が止まった。彼の落ち着いた美声に今度は聞きほれていたのだ。
私はと言えば、一目見た瞬間に彼だと理解したので、懐かしさと同時に身を隠さなければと強く思った。――いや、何も悪いことなどしていないのだから隠れる必要は微塵もないのだが……きっと後ろめたさからだろう。
(新入生代表が変更になってよかった……)
それから、私は安堵した。
首席入学を果たしたていたから、本来ならば私が新入生代表の挨拶を任されるところだった。しかし、同じ年に王族の方がいらっしゃったので、お譲りすることになった。どこの世界にも忖度はあるのだ。両親に晴れ姿を見せられないことだけは残念だったが、伯爵家の娘が変に目立つのは今後の生活を考えればあまりよくないので、かえってよかったかもしれないと思うことにして、自分を慰めた。でも、彼の存在を知れば心底お譲りできてよかったと感じられた。たとえ向こうが私を覚えておらずとも、私が覚えている限り、彼は手痛い失恋の相手であり、罪悪感を覚える相手であり、極力関りを持ちたくなかったから、同じ壇上に上がらずに済んでほっとした。
その後、学年が違うこともあり、私たちが接点を持つことはなかった、はず、だが……まさか認識されていたとは。
「さぁ、これも食べるといいよ」
彼はにこにこと私に自分の皿を差し出してきた。
私はもはや食べる気力を失っていたが、断るのも申し訳ない気がして、皿を前に引き寄せた。すると、彼が食べろ食べろと無言で訴えてくるので、仕方なく食べ始めた。
彼は大変嬉しそうだ。
あ、これ、完全にペット的な餌付けだわ。
前世で感じていたことを、今更ながら確信した。
もそもそ食べている間、会話はなかった。ただ、彼の嬉しそうな、生温かい視線を感じて、顔を上げれば目線が合うのだろうけれど、それができずにテーブルの中央を見るともなしに見ていた。
ようやく食べ終えると、
「他に何か食べる?」
「いえ、これ以上はお腹がいっぱいなので」
「そう? 少食のままなんだね」
ケーキ二つも食べて少食はないと思うけれど、そして、前世でも食料のない中で、私は割とたくさん食べていたように思う。彼が、今みたいに食べろ食べろと渡してくれたので。
「……あのあと、どうなったんですか?」
微妙な沈黙になったので、彼に記憶があると知ってから、真っ先に浮かんだ疑問を口にした。
彼が私にチョコを食べさせられなかったことが心残りなら、彼を人類最後の一人にしたことが私の心残りだ。
並べてみると心残り、後悔の質が随分違いすぎて笑ってしまいそうになった。
「ああ、あのあとすぐ、私も死んだから」
「え」
「元々、そういう契約だったんだよ」
「契約?」
「星の終わりを見る者として高次の存在に選ばれて、終焉を見届ける約束をした」
世界は高次の、私たちが神と呼ぶ存在が作っており、時々整理が行われてる。そして、どういう理屈かわからないが、星の終焉には必ずその星の生命が立ち合う決まりがあるのだとか。そうでないと星が真っ当に終われない。真っ当に終われなかったら、腐乱して、その飛沫がやがて他の星々にも移って、すべてをダメにしてしまう。ーー腐ったオレンジと同じ箱に入れておくと全部腐っていくみたいなことだろうか。
「だから、あのとき、死体はどこにもなかっただろう?」
言われてみれば、世界は明らかに天変地異が起きたようにひっくり返って、ビルは倒壊し、ぐちゃぐちゃになっていたが、死体や死骸を見てはいない。彼と私以外の生命がすっぽり消えていた。世界の終焉がくるので、生命は回収され、新しい星へ生まれ変わらせるために消えていたらしい。
「それが事実なら、何故私は残されていたのでしょう? 私も契約していたとか?」
覚えていないだけで、そうだったのがもしれない。
「いや、君は巻き込まれたんだ」
「巻き込まれた?」
「星の終焉を見届けるといっても、すぐに終焉がくるわけではない。高次の存在と私たちとでは時間の感覚が違いすぎてね。高次の存在には一日と一年は誤差でしかなく、その誤差を調整することは難しい。だから、下手をすれば一年という時間を私はたった一人で過ごさなければならなくなる。人にとってそれは酷だろう? 狂って自害でもされたら失敗する。そこで救済措置として話し相手がつけられる。私の場合は君だった。君は星の終わりを待つことなく死んでしまったんだが……翌日に終焉を迎えられたんだ。おかげで私は寂しくはなかったよ」
自分の死が一年後にくるとわかっていて、そのときを一人で待つ……なるほどそれは辛いし怖い。慰めは必要だ。だが、
「どうして私が選ばれたのでしょう?」
問題はそこである。
もっと彼と身近に接していた人の方がよかったと思われる。たとえば、家族や、友人や、それから恋人――そう、彼には恋人がいた。美しい恋人が。
「私がストレスなくすごせる相手を選んだらしいよ」
ストレスなく?
どういう意味か、いまいちピンとこない。
「君は、あの状況下でも泣き叫んだり、怒り狂ったりしなかったからね」
「あー、まぁ、それは……」
狂っていたからである。
明らかにまともな精神状態ではなかった。ただ、それが悲壮的な方面には傾かなかったので、一緒にいてストレスに思うことがなかったのかもしれない。
「あの頃の私は、とてもつまらない人間だった。喜怒哀楽というものが薄かったのだと思うよ。そういうところが終焉者に選ばれた理由かもしれない。だから一人で一年の時を過ごすくらい平気だと思っていたし、下手に誰かと一緒にいる方が苦痛だとさえ思っていたのに、君と過ごす日々は思いのほか穏やかで心地が良かった。あのような状況で心からリラックスしていたというのも奇妙だが、私は本当にあの最後の時間を満ち足りて過ごせたんだ」
そういう彼の表情は落ち着いていた。
相手にされていないと嘆いていたが、少なくとも疎まれていなかったことが判明して、私は少し嬉しくなった。
同時に、改めて失恋したなぁと思った。
彼は私を少しも好きではなかった。不快にならない相手と、好きな相手はまったく別だ。好きだからこそ不快になるし不愉快になる。感情が波立つ。そういったものを私に感じることはなかった。彼が穏やかに過ごせたのは、私を人として認識していなかったからだろう。終わりが来るとわかった時間の中で、私以外に人はいないと分かった中で、彼の心は正常ではなかったから、ほんの少し勘違いしているだけだ。彼はけして私という人間に心を許していたわけではない。
けれど、わざわざそれを告げる必要はない。いい思い出としてくれているならば、よかったと思うことにした。
その後、私たちは前世の話で盛り上がることもなく、今の生活についての話で盛り上がることもなく、沈黙が大半をしめたので、じゃあ帰りましょう、と家路についた。
「一体どんな手をつかったの!?」
放課後、帰宅しようとしていたら一人の令嬢に呼び止められて、人のいない裏庭につれてこられ、開口一番に言われた。
私はさほど驚きはしなかった。
彼女は有名人――ピナ・ロックェル侯爵令嬢。アルベルト様の幼馴染で婚約者最有力候補者。学内でもお似合いのカップルとして憧れられている。
そうであるのに、アルベルト様は先週末に私とお見合いをした。どういうことかと腹を立てるのはわかる。わかるけれど、私に怒鳴り込まれても困る。こちらもまた上位貴族からの申し出を断ることが出来ずにとりあえず会うことになっただけだ。
というか、そういうのは彼と話し合ったりはしないのだろうか?
(うーん……ん? あれ?)
大きな目を吊り上げて、到底高位貴族とは思えない興奮を見せる姿に、ある人物が重なった。姿かたちは似ても似つかないけれど、この人は……前世でのアルベルト様の恋人だ。
「ミサトさん?」
「……何?」
前世での彼女の名前を咄嗟に呼びかけたが、顔を顰められた。おそらく記憶はない。
私にもアルベルト様にもあったから、てっきり彼女にもあるのかと勘ぐったけれど、私たちは世界の終焉に立ち会った(私は巻き込まれただけのようだが)ので、何かしらの不具合で記憶持ちになっただけで、正常に輪廻転生をしていたら消えてしまうのだろう。
それにしても、前世でも現世でもアルベルト様の傍には彼女がいるのかと、私は感嘆した。
彼と彼女は当時も幼馴染で、小さな頃からずっと一緒に過ごして、恋人となった。幼馴染系の王道物語を地で行くようなカップルだった。いいなぁと憧れる子達も多く、私もその一人だ。彼に恋をしていたけれど、彼女のような完璧なヒロインが傍に居るなら仕方ないと諦めもつくというもの。いやつかなくてずっと恋をしていたのだけれど……理屈と恋心は折り合わないのだからそこは目を瞑ってもらいたい。
そんな、彼女が、今世でも、彼の近くにいることはまさに運命! と感動した。今度こそ二人は末永く結ばれるのだろう。……と悠長に構えている場合ではなかった。私はその邪魔をする者として彼女に認定されているのだ。前世からの大恋愛を邪魔するなんてそんな無粋な真似は流石にしない。私を不審に見ているミサトさん改めピナ様の誤解を早く解かなければ。
「……あのお見合いは不可抗力と言いますか、公爵家からいただいたお話を伯爵家の我が家がお断りできるはずもなく、ひとまずお会いするということになっただけですよ」
「会ったということは、結婚する気がまったくないというわけではないのでしょう!? お見合いってそういうことよ。本当にまったくないというなら、それは相手に失礼だわ」
「え……えっと」
え? 何、この人。面倒くさいな、と正直思った。
けれど、言っていることはあながち間違ってはいない。本当に断るなら、会わずに断わるべきだ。会ってから断るのは、仮に相手が乗り気だったとき難易度が上がるから。もし、彼が私を気に入ったら、それこそ絶対断れなくなるのよと――という主張はそれはそれで正しかった。
だが、である。
「でも、私、別に彼に気に入られませんでしたよ?」
何故、そんな悲しいことを言わなければならないのだろうと思ったが、目の前の人物の誤解を解くことが大事だった。
「あなたが心配するようなことは起きていません。あくまでも、親同士が決めたから仕方なく会っただけで、一回言うことを聞いただけで、その次の約束とかもありませんでしたし」
だから、あなたに呼び出しを受けて迷惑してるんです。全部誤解です、と私は言った。
「約束は、たしかにしなかったね」
すると、ほとんど間を置かずに男の人の声がした。
闖入者に、私は振り返った。
いつからいたのだろう。アルベルト様は腕を組んでしげしげと私を見ていた。
なんで? と私が動揺していた。それはピナ様も同様だったようで、
「アルベルト様、これは……」
あたふたと何かを言い掛けようとしたけれど、
「うん。私は言ったはずだよね。君のことは幼馴染として大切に思っているが結婚相手としては考えられないって。婚約の打診も断っているはずだけれど」
怒っているわけではない。かといって、機嫌がいいわけでもない。淡々と事実を述べている姿に、私は少しぞっとした。アルベルト様の感情というものが全く見えなくて恐ろしかったのだ。
一方で、ピナ様はぐぬぬと悔しそうに唇を噛んだ。
どうやら、今世での彼らの関係は前世とは違うらしく、ピナ様の片思いらしい。
だとして、私はこの場にいていいのか? よくないだろうと思う。
ピナ様にもプライドはある。誤解とは言え、牽制した相手に、こんな場面を見られたくはないはずである。
後は二人で話し合ってくれ、と私は気配をなるべく消して、そろそろと一歩ずつ後ろへと後退したが。
「え、待って。この状況で何処へ行く気?」
彼の無機質なガラスのような目に、急に力が宿った。
私のよく知る、彼だった。
「この状況だからいなくなろうとしたのですが……」
「ええ……」
彼は困惑の声をあげたが、それは私の台詞だと思う。
「どう考えても君は関係者だよね?」
「どう考えても私は無関係ですよね?」
まったく反対の内容を同時に口にして、私は眉を顰めたが、彼も眉を顰めた。
「ちょっと、二人で盛り上がらないでよ」
すると、ピナ様がヒステリックに叫んだ。
まったく盛り上がっていないが、彼の傍に他の女性がいることが気に食わないのだろう。
「君が此処を去るのが一番適切だね。もう行った方がいい。これ以上しつこくするなら、君だけの問題じゃなくなるよ。意味は分かるね」
彼は彼女に向き直るとまたあの無機質な目で告げた。
脅しともとれるような言い回しだが、ピナ様は引こうとしなかった。
「どうしてよ! どうして、そんな……おかしいわ」
「おかしいのは君だと思うよ。どうしてこれだけ言っても聞き入れないのか、意味がわからない」
同意する。
え? これで引かないってメンタル強すぎない?
「君が行かないなら、私たちが移動するよ。さぁ行こう」
アルベルト様は溜息を一つつくと、私の手を引いて歩き始めた。
それはそれで更にピナ様の恨みを買うのでは? と思ったが、だからといってその場に残っても難癖をつけられ続けるだけなので私はついて行くことにした。
裏庭からぐるっと回って中庭へたどり着く。
中庭にもほとんど人がいなくて、噴水の前のベンチに座った。
側には大きな銀杏の木があって、ふいに懐かしい気持ちになった。私が前世で最期を迎えたのが銀杏の木の下だった。大きな手で優しく私の髪を撫でてくれたから、私は死ぬことの恐怖を感じずにいられた。
「……迷惑をかけたね」
「え、ああ、いいえ、これくらいは。お世話になりましたし」
前世のことを思い出していたせいか、思わずそんな返事をしたら、一瞬彼の動きが止まった。
「えっと、あの、前世のことです。そういえばきちんとお礼を言っていませんでしたね。あの状況下で満腹に過ごせたのはアルベルト様のおかげです。ありがとうございました」
真面目にお礼を言ったのに、アルベルト様は声を立てて笑った。
そんな風に笑う姿は前世も含めて初めてみた。何がそれほどツボだったのだろう? と不思議に思っていれば、
「前にも話したけれど、君は巻き込まれただけだし……いや、それにしてもそんなお礼を言われるとは思わなかったよ」
「食事って大事じゃないですか。たぶん、あの状況で、空腹ですごさなければならなかったら、私はあんな風に穏やかには過ごせなかったと思いますし」
本当に穏やかだったかと言われると微妙ではある。好きな人に異性として求められないという事実は私を傷つけ続けていた。それでも、感謝するべきことの方が多かった。もうあの頃の気持ちはなくなっていたから余計に、そう思うのかもしれない。
「そう。まぁ、感謝されるのは悪い気はしないよ。……それはそうとして、さっきの話」
「ピナ様ですか? 何か誤解があるようですが、まあ、そうですね、この巻き込まれはちょっと……なんとかしてもらえると助かります」
「そうじゃなくて。……いや、そっちもどうにかはするけれど、誘わなかったという話の方だよ」
「え? あ、お見合いのときの?」
「そう」
その話を蒸し返すのかと私は呆気にとられた。
だが、すると言うなら聞きたくないとは言えなかったので、ひとまず黙った。
「私はお見合いというものを初めてしたので、あまりよくわかっていなかったんだが、その場で次の約束をするというのがマナーだったのかな?」
「そんなの知りませんよ。私も初めてだったのだから」
「じゃあ、どうして、次がなかったから気に入られなかったなんて話になるの?」
「それは……、でも私なら次につなげようと思ったら約束を取り付けると思うので」
「……では君は私を気に入らなかったってことになるね。何が駄目だったのかな?」
大真面目に問われて、私は答えに困った。
たしかに、理屈で言えば彼の指摘は間違っていない。女性からアプローチをしてはいけないという法律はないわけで、私から次の約束を口にしてもいいのだ。まして、その気があるなら次を誘うものと思っていた私と、そんなことを思っていなかった彼となら、次を誘わなかった意味合いは全く違ってしまうわけで、私の言った「次を誘われなかったから気に入られなかった」という言葉が特大ブーメランとなって戻って来ていた。が、
「それ気になります?」
「気になるよ。私はこのままでは見合いを断られる可能性があるのだろう?」
「それって、あなたはあの見合いを進めるつもりがあるってことですか?」
「驚くこと?」
「驚きますよ。私のことを好きでもないのに」
「……君のことは愛していると思うよ」
質問に質問を重ねるという会話になっていない会話を続けていたら、最後に爆弾を落とされた。
だが、私はそれほど動揺しなかった。断定ではなかったからだ。
「どうしてそう思ったのかお聞きしても?」
「……そうだね。前にも少し話したけれど、私はつまらない人間だった。感情が乏しいのがその要因の一つだと思う。でも君と過ごす日々は楽しかった」
「楽しかったのならよかったですが、それが愛とはいえないのでは?」
だから愛していると「思う」だったのだなと私は納得したが。
「けれど、美味しい物を食べさせてあげたいと思うのは愛だというじゃないか。私は君のためにおいしいものを食べさせてあげたいと思ってばかりいたよ」
それは知っている。
餌付けされていた自覚はある。しかし、あれはペット的なものであったと思う。とはいえ私にもプライドがあるからそのことには言及しないことにして、
「まあ、そういうことはしばしば言われますね。けれど、あの状況下は特殊すぎだし、ちょっと当てはまらない気もしますよ」
「そうだろうか。私はそうだとは思わない。だから、君との見合いを進めたいと思っている」
彼の目は本気だった。
せっかく生まれ変わったというのに、彼は前世の感覚――即ち感情が薄かった頃を色濃く残していたせいで、血迷っているのだと思った。けれど、私はそれ以上の拒否は示さなかった。もう終わった恋だといいながら、嫌いになって終わったわけではなかったので、燻るものがあったからだと思う。
それに、何かが、少し、変わった今世に、期待する気持ちがあったのだろう。
という前世の記憶が私にはある。
いや、わかる。言いたいことはわかる。今までのは全部前置きだったのかよ! と言いたくなる気持ち。長すぎる回想に、もっと手短にと思う気持ちは痛いほどわかる。
だが、聞いてほしい。
あんな風に何かが再びはじまりそう、みたいな雰囲気を醸し出しておいて、アルベルト様はその半年後に熱烈な恋をして私は婚約を破棄したのだ。
そんなことある? と思う。一度は終わったと思っていた恋心を丁寧に踏みにじる行為とか必要ある? そんな残酷なことある? この痛みを正確に正当に伝えるためには、言葉を尽くさなければならないわけで、だから私がこうして語ったのだ。
おまけに、私はその後、すぐに死んでしまった。馬車の事故だった。覚えているのは世界が真っ黒に沈んでいく直前に、「今度こそすべてを忘れて転生できますように」と祈ったことだ。
で、あるのに、ものの見事に私の願いは叶わなかった。
そして、勘のいい人は察しているとは思うが、彼とも再会をした。
「また会えてよかった」
彼は私だとわかるとそう言った。
私は会いたくなかったし、覚えていたくもなかったけれど、何も言わずにいたのは、後ろめたさがあったからだ。
私が馬車の事故で死んだのは、彼の屋敷を訪れた帰り道だった。
その日、婚約破棄をしようと告げた。
彼が恋をしている姿に、私の心は傷ついたけれど、彼には前世での恩があったし、だから私から婚約破棄の話をしに行った。もちろん伯爵家の私から破棄をすることは難しいが、きっかけとして、私の気持ちとして、してもらって構わないと言えば彼は気兼ねなく出来るだろうと思ったから。
「君はいいのかい?」
彼は私の申し出にそう言った。
なんとなく嬉しそうに感じたのは私の心がひねくれていたからか。
「いいですよ。あとはうまいことやってもらえますか」
私は答えた。
そうやって終わりを迎えて、その帰り道で事故死した。
嫌がらせみたいなタイミングになってしまったことが申し訳なかった。あれから彼がどうなったのかが気がかりだった。
「ああ、あのときは驚いた。本当に驚いたよ」
「すみません」
私が謝罪をすると、彼は少しの間を置いて、「いや、謝ることは……それよりも」とわかりやすく話題を変えた。それ以上は話したくないということはわかったので、以降、私たちが過去を話すことはなかった。
三度目の、私の人生は順調に進んでいた。彼と再会したときには結婚して二男を授かっていた。
彼は都会から引っ越してきて私の住む町にパン屋を開いた。人口的にも、土地の値段的にも、よい条件だったそうだ。
私は店の常連になった。
彼が作るパンは、前々世のときのものを参考にしている。前世も今世も似たような文明レベルで、前々世だけが飛びぬけていた。食事のおいしさも別格だった。だから星は終焉を迎えたのだろう。文明が頭打ちになった結末だったのだ。
彼はあの世界のパンを再現しようと四苦八苦していた。
メロンパン、アップルパイ、チョココロネ、ドーナツ……菓子パンが多いのは私のせいでもある。彼にあの世界のパンと聞かれて思いついたのが菓子パン系だったのだ。リクエストを見事にこたえてくれたのは流石としか言いようがない。ただ、今世にメロンも林檎も存在しない。似たような果物はあるが名前が違う。そうであるのに彼は出来上がったものに「メロンパン」や「アップルパイ」と名付けたものだから、他のお客さんからは「どういう意味ですか?」と質問されることもしばしばあった。
「思い付きで付けました」
彼は答えた。
そう答える以外になかったのだろう。
人気店のパンの名前の正確な由来を知っているのは彼と私だけ。なんだかそれがとてもおかしかった。
そんな彼のパンを、私以上に好んでいたのが私の次男だ。十五歳になると彼のパン屋で働きたいと言い出した。
夫と長男は賛成した。うちは農家をしていて、小麦を彼のお店にも卸していたから、次男がパン屋になって小麦粉を買い続けてくれたら安泰だとか本気か冗談かよくわからない応援をした。
実際のところ、家督は長男が継ぐので、次男の将来を心配していた。なりたいものがあるならよい。
彼は喜んで迎え入れてくれて、将来は自分の後を継いでほしいなんて言っていた。
「いやいや、あなたが結婚して子どもができたらどうするのよ。そんな期待を持たすようなこと言わないでよ」
子どもを産める年齢に限りのある女性と違って、男性はそうではない。年の離れた若い女性と結婚すれば子を持つことは可能なのだ。そういうことを見越して私は苦言を呈した。小さな子どもに言うのならまだしも、彼のパン屋で働いている次男には微妙に現実味のある軽口だったから、親心として心配になったのだ。普通に考えて店を継がせてもらえるだなんて簡単にあるわけがないけれど、オーナーから直々に言われたら期待する気持ちがゼロではなくなってしまうから、そういうのは無神経だと思った。
「私は本気なのだけれど」
彼は平然と言った。
「結婚をする気もないから、後を継いでくれるならばありがたいくらいだよ」
「そんなのわからないじゃない。未来のことなんてわからない。そう思っていても人の気持ちは変わるし、どんな出会いがあるかもわからないのだから、迂闊なことは言っちゃいけない」
「……それは、実体験?」
「まぁそうだね」
「ごめん。そうだよね。私が信用されないのは当然だ」
何故、そんなことを言うのかと最初は不思議に思ったが、彼が前世で恋をしたことを思い出しているのだと気付いた。
「別に前世のことを引きずっているとかではないよ。それはない。そうじゃなくて、一般論としての話だよ」
私は慌てて否定した。
彼に好きな人が出来たとき、裏切られたと思わなかったかと言われたら嘘になるが、それと今生で彼にこの先よい出会いがあるかもしれないことはまったく別の話だった。
私は彼に幸せになってほしいと思っている。それは前世で、傷ついたときさえも変わらない気持ちだった。
「それならよいのだけれど。でも、いずれにしても私は結婚はしないよ。心配なら店を譲ると公正証書にしてもいい」
「そんなに簡単な話じゃないよ。あの子の意思だってあるんだから」
彼の気持ちが本物であるのはわかった。だからこそ私はこの話を終わらせた。次男の人生を勝手に決めるわけにもいかないし、なんだか怖くなってしまったからだ。
たが、結局のところ、それから十年後に次男は店を継ぐことになった。
彼は未婚のままで、いくつも店を展開させていて、いよいよ本気で後継者探しをしていた。そして、約束の通りに、全店舗を次男に譲りたいとかとんでもないことを言っていた。その頃には、私の息子だからという理由ではなくて、息子のパンに対する情熱を認めてくれていたのはわかったが、息子は社長業には興味がなかった。その結果、彼が最初にオープンした店をのれん分けという形で引き継ぐことになった。親馬鹿で申し訳ないけれど、堅実で真面目な息子で嬉しいと感じた。
次男に店を譲った頃、彼は他の店舗も人の手に譲り、この町へ帰ってきた。体調がよくなかったのだ。人生の最期を、始まりの場所で過ごすことにしたらしい。
町から少し外れた小高い丘の上にある小さな家を借りて暮らしていた。お金を払えば身の回りの世話をする人を雇うことはできたが、彼はそれを望まなかった。代わりに、次男夫婦が彼の世話を申し出た。だが、彼は断った。そんなつもりで店を譲ったわけではないから心苦しいと言うのが言い分だった。その気持ちもわかるので、折衷案として私が手伝うことにした。
朝と夕方に彼の家に食事を届ける。
「申し訳ないね」
「これくらい大丈夫」
いつも繰り返す会話だ。
申し訳ないというのは私にというより、私の家族――夫にという意味だ。
私の夫は大らかな人だが、鈍い人ではない。私たちの間にある独特の空気を察している。
「あの人とは因縁があるんだよね」
いつだったか私から水を向けたことがあった。
やましいことはなかったが、気にしているのかもしれないと思ったので、話すべきかと迷ってのことだった。すると夫は笑って、
「因縁という言葉で何となく察した。君が僕らを裏切らないこともね。だから気にしなくていい。ちゃんと看取ってあげなさい」
夫の言う通り信頼を裏切る気はないが、彼との因縁をすっぱり斬り捨てることはできなかった。そんな私を見透かしていて笑い飛ばしてくれた。私は夫のこういうところを好ましく思っているし尊敬している。私には出来過ぎた人だった。
そして私は、彼の死期が近いことを言い訳に夫に甘えていた。これまで二度、私は彼より先に死んでしまったから初めて彼を見送る。一度目の時、私がそうであったように、安心して生を終えて欲しかった。
「前世で君が亡くなった後のことだけれど」
その日、家に行くと彼はパンを焼いていた。
気分が良かったからとメロンパンを焼いて私に出してくれた。前世のパンで何が好きだった? と聞かれて真っ先に思いついたものだった。
向かい合ってテーブルに座って、メロンパンを食べていると彼が唐突に言った。
「え、その話するんだ? 言いたくないのかと思っていたよ」
「そうだね。言いたくないわけではないけど、言っていいのか迷ったから」
けれど、もう時間が残り少ないから言うことにした、ということだろう。
私は少し寂しくなったが、それが彼の望みなら聞こうと思って黙った。
「君が死んでしまってから、とても後悔したんだよ」
失ってからそれがどれほど大切だったか気づく。よくある話だ。彼も自分がそんなベタなことになるとは思っていなかったが、私の死を知ってからすべてがどうでもよくなってしまったのだという。あれほど恋焦がれていた人のことも、信じられないほどに何も思わなくなった。平穏な、たしかな、揺らがないものがあるからこそ、よそ見をしてしまっただけだった。
本当によくある話、よく聞く話だった。
「だから、もう一度、こうして君に会えて嬉しかったんだ」
私は何と返せばいいのかわからずに頷いて見せた。
それから再びもそもそとメロンパンを齧った。表面が砂糖の粒で覆われていてざらざらしていて香ばしい。メロンパン、アップルパイ、チョココロネ、ドーナツ……彼が作ってくれたものたちを思い出しながら私は舌の上に転がる甘い味を噛みしめた。
彼が、この人生を通してやりたかったことはなんとなくわかっていた。
わかっていたが、それを全うするかどうかなんてわからないし、もし途中で気が変わったとしてもまた妙な罪悪感を持ったりはしないように素知らぬ顔をし続けてきた。
「私たちは変な縁でしたね」
「そうだね」
「私は最初の人生のとき、あなたのことが好きだったのですよ。恋をしていた。実らなかったけれど」
「それは知らなかったな」
「ええ、困らせるだけだと思って黙っていました」
「そうか……そうだね。私は君に恋はしなかったから」
彼は笑った。
私も笑った。
「もう一つ食べるかい?」
「じゃあ、いただきます」
お腹はいっぱいだったけれど、私は無理をしてメロンパンを食べた。
彼はにっこりと満足そうな顔をした。
食べ終わると、彼は眠ると言うので、私はついて行った。
彼がベッドに入ると、私は掛け布団を掛けて眠りやすいように整えた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
彼の言葉に、私も返事をして、それから、そっと彼の頭を撫でた。
私から彼に触れたのは初めてだった。
昔、もうずっと昔、私の最期に彼がそうしてくれたように、私の中の一番優しい気持ちで彼の頭を撫でた。
予感はあった。たぶん、お互いに。これが最期だろう。もう次はこんな風には生まれてこない。
だから、私は言った。
「あなたが、好きでしたよ」
「うん、私は、愛していた」
似ているようで全然違う。永遠に相容れない、どこまでも平行線な、それが私たちの縁だった。
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