キツネ様の来訪
一晩じゅう続いた雨があがった、すっきりした朝のこと。
わたしがここへ来て初めて、神様の家の戸が叩かれた。
真っ先に反応したのはエンジュだ。読んでいた書物を置き、少しばかり億劫そうに立ち上がる。
遅れて、隣で書写の練習をしていたモミジくんも手を止めた。わたしは一瞬だけ迷って、とりあえず一緒にその場に残る。
「なんじゃ、よばれて来てみれば。元気そうではないか」
「ふん。不服か?」
「まさか!」
艶やかな声が近付いてくる。エンジュにつれられ姿を見せたのは、派手な着物の美女だった。
小顔にしか許されない金髪ショートヘア、グラマラスなアレとかソレに、思わず自分の体を見下ろした。うーん視界良好すぎて泣いちゃう!
そして、こんがりトースト色の耳とボリュームある尻尾。ほああ触りたい……!
「まったく。妾の来る時に雨を降らすでないよ」
「言われてもな」
紅い唇を尖らせるが、着物も体も濡れてはいない。
これまた珍しいエンジュの嘆息。やはり人ではないのだろう彼女は、対照的に愉快そうに、こちらを見て目を細めた。
「ふむ、かわゆいおなごじゃの。妾のもとへ来る気はないかえ?」
「え? ええと……?」
ぐる、と喉を鳴らすエンジュ。その背にはちゃっかりとモミジくんが隠れている。気持ちはわかるよ、ちょっとこわいおねえさんだよね。
「俺の神子だ。シノノメ」
「わかっておる、わかっておる。はあ、真面目な男はつまらん」
ひらひらとやり過ごし、悠然と笑む。
「シノノメじゃ。坊がむかし住んでいた山で、神をやっておる」
「かっ神様! はじめまして?!」
「名は?」
「あああ、アサギと! 言いますっ」
「うむ。『よく来た』の、アサギ」
それから少し背を曲げ、大きな体の後ろに隠れたモミジくんへ、何やら包みを差し出した。
「また背が伸びたかや、ちいこいの? ほぉれ、土産じゃぞー。甘いの好きじゃろう?」
ますます縮こまったモミジくんは、困惑顔で父親を見上げる。果たして彼はといえば、色々と諦めたのか、また嘆息しながら頷いた。
「いただきなさい」
こわごわと小さな両手が伸びる。抱きしめるように受け取り、ぺこんと頭を下げる。
「えと……シノノメしゃま、ありあとー」
「かんわゆいのう!」
かんわゆいのう!!
思わずニマニマしそうになるのを堪えたが、その瞬間、初対面の神様ともちょっと通じあったのは間違いない。カワイイは共通語だ!
家主からは渋る気配を感じたけど、まあ客人は客人である。なんやかんやと長居する気満々のシノノメ様のために、卓から墨や筆を片付け、お茶の用意を。
やり取りを見るに、彼女のほうがちょっぴり立場が上らしい? お土産(開けてみるとおはぎだった)をはぐはぐと食べるモミジくんの横で、わたしは身を固くするしかなかった。
「あしゃぎも食べゆ?」
「んー? うんうん、食べるよー」
「おいしよ?」
まったく喉を通りそうにないが。ドキッ! 神様だらけのお茶会?! である。美と美と美と凡である。既に家だが帰りたい。
「坊が守り紐を使うなど、何事かと思うたわ」
「大事だったとも。もう少し早く来ると思っていたが」
大仰な声に、いくらか調子を取り戻したエンジュが平淡に応じる。尻尾はへたりと畳に貼り付いたままだ。お、ご機嫌ななめか……?
「無論、すぐに様子は見に来たぞ。問題なさそうじゃと報せがあったからの」
「……子狐を寄越したな?」
「ふふ、この里の果実は旨いと評判じゃ」
「山にも食い物はあるだろう。つまみ食いもほどほどにするよう言っておいてくれ」
話の見えないわたしに向けて、シノノメ様はにやりと笑った。
「こやつ、死にかけておったじゃろ?」
どんな表情をすべきかと迷ううちに、ふと思い出した言葉がある。
「あ! あの時に言ってたお知り合いって……!」
「ま、ちいこいのを託してよいと思う程度には、妾も信用されておるわけじゃなぁ」
当人はわずかに眉をひそめたが、否定はしなかった。
「おや。神子に守り紐は渡しておらぬのか?」
「……」
「ふむ、まあよい。……アサギ、といったか。この犬ころはの、善良に見えるが、掟破りの前科持ちじゃ。気をつけよ」
は? 前科?
唐突な言葉にぽかんと間抜け面をさらしていると、「モミジ」とエンジュは席を立つ。
「庭の野草を採りにいこう。手伝ってくれるか」
「おてちゅだい!」
口の周りを手拭いできれいにしてもらい、小さな神様は跳ねるように外へと向かう。
「ちいこいの。あとで妾とも遊ぼうぞ?」
こくんと頷いたモミジくんを伴い、エンジュは出ていってしまう。こちらを振り返ることはなかった。
見送り、ゆったりと口を開いたのはシノノメ様だ。
「子や民を大切に想うのはわかるが、気を張りすぎじゃな。若い若い」
懐から取り出した煙管をふかし始める。似合う、というか、画になる。火はなんと指先から点けていた。
「むかしむかし、妾の山にいつからか、犬ころの群れが住み始めての。坊のことも無論、ちいこい赤ん坊の頃から知っておる」
「子どもの頃のエンジュ……さぞ可愛らしかったでしょうね」
「うむ。あれはむかしからイイ男ではあったが、ついぞ、群れのなかで『つがい』を見つけられぬでなぁ」
「つがい?」
「おや、聞いておらぬのか」
ふたりきりの緊張を、好奇心が上回った。頷く。
「坊は山犬から成った神なわけじゃが……ああ、オオカミ、と言えばよいか?」
「オオカミ?! い、いぬだと思ってました……」
「……あやつ、ほんに何も話さぬのじゃな」
確かにわたしは、エンジュという神様のことを何も知らない。
「我らは獣より成った神。坊は山犬、妾は――」
「狐?」
「さよう」
微笑む。
「山犬は群れに生き、同胞と子をなす。彼らにとって、つがいとは生涯連れ添うもの。身内以外と交わってはならぬ」
「奥さん、ってことでしょうか?」
「そうじゃ。まだ坊が神と成るまえの話よ。あれは別の群れのおなごに心を奪われてしまったんじゃな」
ふう、と煙を吐き出す。
「難儀なことに坊は長の子。やがては群れを率いる立場、誰も庇い立てはできぬ。わかった上で、あれは自ら群れを抜けたのじゃ」
神様の事情はわからないけど、動物の社会のことならなんとなく想像はつく。群れというくらいだから、きっと縄張りなんかもあるだろう。
「妾にしてみれば、そのような古くさい掟こそがくだらぬが。神とて好きに生きる権利くらいあろ? ちいとばかし長生きなだけ」
「その……お訊きしていいか、わからないですけど。モミジくんのお母様は」
「もう居らぬ。元より体が弱かったのであろうな」
そう、か。
「……掟を破ってでも、エンジュは奥さんと一緒になりたかったんですね」
「くく、妬くか?」
妬く? ――とんでもない!
「まさか! 許されざる恋とか……クールに見えて実は世界より愛を選ぶ情熱家な一面、ギャップに興奮はしますけど……!」
「そ、そうかや……」
シノノメ様はちょっと引いていた。あれー?
「んんっ。ま、あれらは愛情深い種族。選択は受け入れられずとも、仲間を見限るような真似はせぬ」
「それって……?」
「妾がなぜ山犬どもの事情に詳しいと思う?」
あ、と声が漏れた。彼女は、エンジュが昔いた、山犬が住む土地の神様だ。
妖艶な狐の女神は指を口に当て、にこりと笑った。
「それこそ妬ける話じゃ。誰も彼もが様子を見てこいとうるさくてのう。あれは未だ、慕われておるよ」