夢オチじゃなかった
住所を言っても、ましてや惑星の名前を言っても、推しキャラ似の彼は首を横に振った。
なるほど……なるほど?
嫌な予感が現実味を増してくる。近所で見たこともない日本家屋、コスプレには思えない耳や尻尾、時代錯誤な和装、現実離れした美しい青年と子ども。
「おねしゃん、」
服の裾を引っ張られ、物思いから浮上する。ふっくらした小さな手が、わたしのジャケットを掴んで。将来を約束された愛らしい顔立ちが、べしょべしょに涙と鼻水の筋を残しながら、へにゃりと笑みを形作った。
「ありあとー」
はあああんかわいいい?!
まあるいほっぺの愛おしさったらない。すっかり参ってしまい、衝動を懸命に堪えて大人スマイルを返す。すると、
ぐううう……
大きな腹の虫が、小さな体から。
みゃっ、とお腹を抱え、頬を染めた男の子の三角耳が垂れ下がる。か、かわっ……!
「そ、そうだ、確か……!」
ビニールの個包装は雨にも負けない。いつも持ち歩いている駄菓子を取り出す。
テッテレー、酢昆布! ……渋い?
ピリピリと破いて差し出すと、男の子は興味深そうに見つめるものの、受け取ろうとはしない。代わりに上から伸びてきた大きな手がつまみあげ、端をほんの少し噛った。
「んっ」
「わ! だ、大丈夫ですか?」
ぶわわっと尻尾の毛が逆立つ。酸っぱかった?!
「……毒じゃ、ないな。ほら」
「んぅ。おいひ?」
ふす、と鼻を鳴らして男の子に渡す。案の定、小さな尻尾もぶわりと膨らんだ。んえー、と渋い顔で舌をひらひらさせつつも、もぐもぐと食べている。やば、かンわいい。
つくづく、推しだ。推しと、その幼少期だ。
こうして拝めるなんて眼福が過ぎる。顔色はよくなったかな? 立ち絵では見られない供給の洪水に溺れそう。
とろりとした蜂蜜色の瞳が、こちらを見つめてぱちぱちと瞬く。
「失礼。どこかで会ったことがあるだろうか?」
ヒィ、よくよく聞いたらお声も素敵!
「あわわすみませんっ、こんなに見てたら穴があいちゃいますねーなんちゃってアハハ!」
「いくら神子とはいえ、すぐにここまで……」
手を、握ったり開いたり。彼は少し首を捻り「いや」と呟くと立ち上がった。背、でっか。したりと床を踏みしめた裸足。かぁっこいいな本当に。
「雨で冷えただろう。何か温かいものでも作る。食べられない食材はあるか?」
「いえ、特に……って、ごはん、ですか?!」
鮮やかな素早さでたすき掛け、銀髪を紐で結わえる。わたしの歓喜の悲鳴をどう捉えたか、背中越しに返答があった。
「俺に食事は必要ない。モミジのために備えているだけだよ」
「モミジ?」
その子の名前? というか、
「て、手伝いますか?!」
黙ってお客さんになっているわけにもいかない!
慌てて立ち上がった瞬間、ぐらりと視界が揺らぐ。
暗転前、バターン!という音が聞こえて、うわあ痛そうと他人事みたいに思った。
***
次に目覚めた時には布団の中で天井を見上げていた。
目覚めた……のに。
体を起こす。さよなら、夢オチの可能性。
さっきとはまた違う和室だ。水仙のような、しゅっとした花が描かれた掛軸がある。温泉旅館みたい。
花には詳しくない。だから、手の甲にある痣も、花びらが五つあるという事実しかわからなかった。
しんと静かで、大雨が嘘みたいな明るさ。さらさらした浴衣も心地いい。……ん? 自分で着替えた記憶はないな?
折よく、襖がそっと開く。
「ぅわっ?!」
まるで気配がなくて飛び上がる羽目になる。
ゼン様似の彼は無表情だったが、頭のてっぺんで灰色の耳がぴくりと緊張した。そりゃ足音のうるさい肉食動物なんかいないか。
そして肉食で思い出した。作ってくれようとした食事……!
「すまない。起こしたな」
彼は抱えていた布の山を置き、布団の横に膝をつく。ハァン、美しい正座。
「調子はどうだ」
「大丈夫です。あのっ! せっかく食事を用意していただいたのに……」
「気にする必要はないよ」
「でも、」
「気がおさまらないと言うなら、あとであの子に無事な姿を見せてやってくれ」
あの小さな子ども。目の前で人が倒れたら当然怖いだろう。トラウマになっていないことを願う。
「……さて。きみの今後について話しておかなければならない」
慌ててわたしも布団の上に正座し、襟を直す。
必死だったけど正直、みこ? とは何だったのか。緋色の袴でも身につけたらいい?
「まずは助けてくれて感謝する。何度詫びても足りないが、きみのことは一生、俺が面倒を見よう」
「ビャッ」
「びゃ?」
イケメンに言われて舞い上がらない人間なんて、この世に存在しないでしょうが!
奇声と共にのけ反ったわたし、見つめてくる表情はクールなまま。物静かなひとだなぁ。
「ごめんなさい……え、えーと。ひとつお訊ねしても?」
「ふむ?」
「神様、なんですか……?」
「そうだ」
「ひええええ……」
「どうかそのままで」
平伏しようとしたら、制される。
「他の神がどうかは知らないが、俺はせめて、神子とは対等でありたい」
「みこ……というのは?」
「俺たちの糧は霊力だ。そして霊力は信仰から得る。民の祈りは力となるが、最も大きいのは、傍に仕える神子からの信心だ」
「なるほど……?」
人々が信じることで神様は長生きできる、的な?
「じゃあ、他の神子さんは?」
これだけ大きな屋敷なら、お抱えの人間はひとりやふたりどころじゃないはず。と思ったら
「いない」
「へ?」
「神子は未婚の女性に限られる。その後も婚姻を結ぶことはゆるされない」
神様は微かに眉を寄せた。
「大事な民に、そんなことを強いるわけにはいかない」
え、待ってくれ。神子がいない? つまり目の前の神様は、リスク管理ができずに自滅した、ということ?
「あ、ああなるのが分かっていて、ですか?!」
「百年や二百年でどうなるものでもないよ」
どう見ても若々しい姿から、とんでもない言葉が飛び出した。ではモミジくんの年齢は……考えるのをやめた。かわいいんだから、それでいいじゃないか、うん。
「も、もし神様がいなくなっちゃったら、あなたを信じていた人たちは」
「あらゆる命に永遠はない。いずれこの里にも別の神が流れ着く。人々は新たな神を祀り、いくつかの慣習が生まれ、いくつかの伝統は廃っていく。それだけのこと」
淡々と。
「それに、あの大樹があれば問題はなかった。あれには数百年分の祈りが蓄積されていたから」
「大樹?」
「あいにくと落雷で燃えてしまったが」
ぱふん、と尻尾が畳を軽く打つ。
「きみの信仰心はかなり強いらしい」
「え?」
「理由はわからないが……無条件に、俺に対して好意的だと感じる」
そりゃ見た目も声も好みドンピシャですからね?!
推し活は信仰、とは言い得て妙。こちらは既に祭壇もつくっているのだ。
ただ、とぽつりと言葉が落ちる。
「モミジには怖い思いをさせてしまった。旧友に預けるつもりだったが……」
しゅん、と耳が垂れる。
目の前で肉親の危機を見るのは、どんなに恐ろしかっただろう。それでも、
「……何もできない後悔より、ずっといいと思います」
自業自得と言ってしまうのは簡単だ。でも、彼を助けたのだってわたしのエゴ。無意識に手の甲をさする。
だから後悔なんてない。たとえ……ここが知らない世界だとしても。
「ありがとう。きみは優しい」
わかりやすい笑顔はないけど、ふさふさ尻尾がゆったりと往復しているのが見えた。ここに来て、初めて自然に笑ってしまう。
「起きてくるなら着替えはここに。あとで家と庭の周りを案内しよう」
言い置き、彼は立ち上がる。が、出ていこうとして静止。
「大事なことを忘れていた」
「大事なこと?」
「エンジュだ」
振り返る。
「仕える神の名ぐらい、知っておいたほうが良いからね」
エンジュ。きれいな響きを口の中で転がしてみる。やっぱり、ゼン様ではなかった。
「エンジュさま?」
「エンジュでいい。きみのことは、アサギと呼んでも?」
ぶんぶんと頷く。拒否権などあるはずもない。あったとしても拒否するわけがない。
「神様の名前って軽率に呼んじゃいけなかったり、しますか?」
「いいや。あだ名のようなものだから、障りはないよ」
蜂蜜色の目を細め、「休んでいても構わないから」と言い残し、彼は丁寧に襖を閉めた。