フラれたわたしと死にかけの神様
とても大きな雷が、御神木を直撃した。
***
人生最悪の日だ。
記録を更新したに違いない。なお今までのいちばんは、祖母の最期に間に合わなかった日。
親を早くに亡くしたひとりっ子のわたしを、ずっとずっと可愛がってくれたおばあちゃん。病院からの呼び出しはあまりに急で、就職を機に出てきた都会からでは、新幹線に飛び乗っても間に合わなかった。
まったく、辛いことがあると、ずるずると嫌なことや悲しかったことばかりを思い出してだめだ。
「うう……っ!」
サプライズなんて、慣れない真似をするんじゃなかった。
悔しさとみじめさでまた視界が滲んでくる。今日は珍しく定時で退勤できたから、浮かれて彼の家を訪ねたのに。結婚すら考えていた相手の家には、知らない若い女が上がり込んでいた。
「なん、なのよ、ほんと……!」
何よりむかついたのは! 愛してやまない『推しキャラ』のグッズ達を、生誕祭に向けてせっかく築き上げたわたしだけの祭壇を、何の遠慮もなくどけられていたことだ。
「くそ、くそ……っ!」
どれだけの時間を、愛を、労働の汗水を費やしてきたと思っているのか。ブランドものらしき派手なバッグが置かれた棚の下には、端正こめて並べたはずの缶バッジやアクリルスタンドが無惨に散らばっていた。わたしの、わたしだけの空間が土足で踏みにじられていた。
……雨まで、降ってきたし!
鞄を手探りする。ええと、傘は……
「――最ッ悪!」
会社に置き去りにしてきたマヌケを呪う。あんなゴミ男のためにそわそわするなんて、二度と、金輪際、死んでもするもんか!
あいにくこの辺りにはコンビニもない。強くなってきた雨足の中、ともかくと大きな木の下に入る。通勤経路にある公園は、虫に刺されることを除けばお気に入りの場所。
「あーあ」
そりゃため息だって漏れるというもの。まったくなんとも、独りぼっちだ。じっとりとした空気の中、葉の間から空を見上げて大きな大きな息を吐く。
わたしを支えてくれるのは、結局のところ二次元だけか。現実なんて糞食らえ。アニメやゲームは裏切らない。
くそう、もう一生ずうっと独身だって構うものか。ここが海なら吼えている。バッキャロー!
雨は一向に止む気配がない。それどころか雷鳴まで聞こえてきた。
あれ? そういえば、雷の時は木の近くにいたらいけないんだっけ……?
これってまずい? と思った瞬間。とてつもない轟音と共に、目の前が真っ白になった。
***
……耳がキィンとする。
雷が近くに落ちた? 生きてる?
しぱしぱと瞬くと、まぶたの裏がまだチカチカ光るみたいだった。湿った空気に混じって、何かが焦げたような臭いがする。
「…………あれ?」
違和感に首を傾げる。お店ひとつないとはいえ、こんなに視界はさっぱりしていたっけ? 薄暗い景色を見渡しても、公衆トイレもベンチもない。
吸い込んだ空気は湿っぽく、踏みしめた地面も土がむき出し。降り仰ぐと、おどろおどろしい巨大な枝の影が広がっている。んんん? こんな感じだったっけ?
ぼんやりとしていると、真っ暗な空から、またしてもバケツをひっくり返したような雨が降ってきた。
「やばい!」
濡れるの覚悟で家までダッシュ!
一歩踏み出した、のだが。おかしいと改めて気づく。
街灯が、ない。
それどころか道路がない。アスファルトがない。何かが変だ。ぞわぞわと背が粟立つ。
夜のような暗闇の中、辛うじて見える足元はどこもかしこもぬかるみだ。ああもうなんなの、お気に入りの靴が!
辺りを見回すと、ぼんやりと灯りがひとつ。藁にもすがる思いで近づくと一軒の平屋……いや、お屋敷らしい。うわー、祖父母の家だってここまで立派な門はなかったなぁ。
他に建物は見あたらない。もはや絶対にわたしの家の近所じゃない、けど。
ためらったが、背に腹はかえられない。寒いし、不快だし。ずぶ濡れの体で玄関口の戸を叩く。
「ご、ごめんくださーい!」
この雨の音の中で聞こえるだろうか? 人は住んでいそうだけど……
「あのー、どなたかいらっしゃいませんかー……あ」
開いた。戸が開いてしまった。
田舎のような防犯意識の低さにちょっと引きつつも、今だけはその無防備さがありがたい。たたきで髪を絞ればだちだちと雫が落ちた。はー、壁と天井って最高。
と、ほっとしたのもつかの間。奥から聞こえてきたのは――尋常じゃない、子どもの泣き声。
未婚でも、二次元に生きるオタクでも、本能というものはあるらしい。
何事かを泣き叫んでいる幼い声に、礼儀も忘れて思わず引き寄せられる。
一部屋だけかすかな灯りの漏れる部屋。襖をそっと開け……
「――ととしゃああんうあああん」
広い部屋の中、誰かが倒れている! もうひとつ小さな影が、それにすがりついて泣いているようだ。
「え、ちょっ、だだだ、大丈夫ですか?!」
「ん……シノノメ? ずいぶんと早い――」
返ってきた声は存外に落ち着いていた。暗くてよく見えないけど、若い。
床にうずくまっていたその人物は顔をあげ、飛び込んできたわたしを見たようだった。
「……は?」
泣く子どもを抱えた腕を引き寄せる。後退りしようとしたのかもしれない。ぐるる、と聞こえた唸り声はまるで獣みたい。
「きみ……この辺のヒトじゃなさそうだが」
「あああの! すみませんお邪魔してごめんなさい! ええと、そのう、あ、あやしいものではッ?!」
いやどこからどう見てもあやしいだろわたしよ! 機転の利かなさに自己嫌悪。
それでも、目の前で苦しむ人を見殺しにできるはずもない。言い訳を連ねながら、いつでも逃げ出せるようにと一定の距離で出方をうかがう。何せ暗くて、ぼんやりとした陰しか視認できないのだ。
「そ、そうだ、救急車! 呼んだほうが!」
すっかり水を吸ったジャケットのポケットからスマホを取り出す。しかし妙なことに電源がつかない。なんだよ、防水性ってうたってたのにー!
「何をしている」
「お医者さんを呼ぼうと!」
「いい」
「え」
「薬では……けほっ、治らない」
声にノイズが混じり、傍らの子どもとおぼしき影はずっと泣いている。
「悪いが、見ての通りの取り込み中でね。雨宿りなら好きにしてくれて構わないが」
「あ、あの一体なに、が……?」
今さらながら恐ろしくなってきた。会話は成立しているが、た、たとえば、お化けだったらどうする? 子どもの声で誘い込む妖怪とか、あり得そう!
「ああ――灯りが要るかな」
差し出した手のひらに青白い火の玉のようなものが浮かぶ。顔が見えたか見えないか、ふうっ、とその人物が強く一息を吹けば、室内に次々に灯りがともった。
広い、ひろーい畳の部屋。果たしてそこに座り込んでいたのは若い男。予想通り、合っていた、けど。
「おおお、推しがリアルにィー?!」
叫んだ。
白銀の見事な長髪、色白で、キリッとしつつも、芸術品のようなたおやかな顔立ち。わたしが愛してやまないゲームのキャラクター、『ゼン・ガードナー様』にそっくり! おおジーザスなんてこった、顔面国宝が目の前に!
でもゼン様は国を守る騎士。袴姿なんて新年イベントですらスチルはなかった。和装イベントか?!
それに何より。
「耳? しっぽ?!」
ゼン様そっくりな彼には、いや、よくよく見ればすがりつく子どもにも、灰色のケモ耳と、もふもふの尻尾が生えていたのだ!