世界の終わりに、くだらない嘘をつく
「徒武先生。お疲れさまです。お先に失礼します!」
慌ただしく玄関で靴を履いて出ていく男ふたりを、ソファーに座ったまま見送る。
「遅くまでありがと。また来週」
ふたりに手をふりながら声をかけると、元気な返事と共に玄関の扉がひらいて、バタンッと閉じた。
生ぬるい風がリビングを通り抜けた。廊下の温度が高いのか……この部屋が寒いのか。そして、正面に座る男に視線を戻す。黒縁メガネの男。上野一浩の日に焼けて骨ばった指が、慎重に一枚ずつ原稿をめくる。白いポロシャツにグレーのチノパンを穿いた上野は、どう見ても二十歳そこそこにしか見えないが、実は同じ大学でポップカルチャー研究会に所属していた俺の先輩だ。
最後のページまでたどり着いた指先が、原稿の端についた付箋を折り返す。白い厚手のケント紙が十六枚。トーンやベタで重量の増したそれが、ダイニングテーブルの上で、トントンッと音を立てた。テーブルの上で整えられた原稿が、黒いプラスチックのケースに吸い込まれる。それを見て、肩に入った力が抜けた。
「今週分の原稿、確かに受けとりました。徒武先生お疲れさまです」
二十六時間。不眠不休でひたすらGペンを握り続けた右手が、疲れを思い出したようにズシンと重くなる。
「悪い、上野さん。こんな時間まで付き合わせて」
そろそろ日付も変わろうかという時刻。ここから駅まで徒歩五分。最終電車にはギリギリ間に合う時間。しかし、これから会社に戻る彼が愛する妻の待つ自宅に帰れるのはいつになるのか。自宅はここから二駅なのに。
いつもなら専用のバイク便で送る原稿をわざわざ取りにきてくれた担当上野に言うと、困ったような、呆れたような顔をされた。
「つい三日前まで入院していたんだ。今日はゆっくり休めよ。赤井くん、徒武先生のこと頼んだよ」
パソコンの電源を落としていた厳つい男が「先生にメシ食わせたらさっさと寝かしつけます」と女房みたいな口調で言う。無精髭を生やしたアシスタントの赤井は、漫画家デビューしてから四年間、俺のアシスタントをしている。
「熊男の添い寝はいらねぇぞ」
と軽口を言っても許される相手だ。
「はは。それじゃ、また来週」
玄関まで上野を見送って、ふらつきながらリビングに戻ると、赤井が電子レンジでコンビニ弁当を温めている。
「赤井! 送ってくか?」
俺のマンションから車で約三十分の距離に住む赤井は、いつも自転車でここに通っていた。車だと遠く感じるが、自転車だと四五分ほどで着くらしい。
「いいッス。次の現場にこのまま行きますから。あ、風呂借りますね。先生はメシ食ったら早く寝てください」
ヨレヨレの赤いTシャツにジーンズ。ヒグマのような大男──赤井は、数名の漫画家とアシスタント契約を結んでいる。こんな成りして実に繊細な美少女漫画を描く男は、再来月から月刊誌で連載をはじめるのだ。
「俺の連載打ち切りになったら……雇ってくれよ」
「なに言ってんですか。縁起でもない。今回の連載はアニメ化の話もあるって聞いてますよ?」
「……だといいけど」
チンッと軽い電子音が鳴った。レンジから温まった和風ハンバーグ弁当を取りだし、それを持ってキッチンカウンターの丸椅子に座る。蓋をあけると肉汁とぽん酢の香りが胃袋を刺激した。
「いただきます」と割り箸を手に二人並んで弁当をガツガツむさぼる。湯気が眼鏡を曇らせるのも構わず、大口をあけてハンバーグと米を交互に口にほおりこんだ。思えば十四時間ぶりの飯だ。ずいぶん腹が減ってたんだと今さら気付く。
「先生、次は早めに原稿上げて焼き肉ですよ」
「おごってくれんの?」
「先生のおごりッス」
「容赦ねぇな」
赤井は来週、アシスタントを辞める。寂しくもあるが、めでたいことだ。温まった卸し大根とポン酢に浸ったキャベツを食べて、ぬるい福神漬けをボリボリかじる。
「それより早くソフトの使い方覚えてください。そしたら上野さんだって原稿とりにわざわざここまで来なくてもすむんですから」
「それな。レイヤーってなんで勝手に増えて消えるんだ?」
「消えてないです。見つからなくなったのをソフトのせいにしないでください」
パソコンソフトを使いこなせない、時代遅れの俺に付き合って、今どきめずらしい手描き原稿のアシスタントをしてくれる赤井に感謝しつつ、最後に残したニンジンに食いついた。
「んじゃ、俺は寝るから。おやすみ」
「はい。風呂洗っときますんで、起きたら入ってくださいよ」
女房みたいなことを言う赤井に返事して暗い寝室に入り、セミダブルのベッドに倒れ込んだ。
久しぶりの……半年ぶりの徹夜。さすがに疲れた。いつもなら締めきりの一日前に原稿を上げる。しかし、先週は脱稿したと同時に酷い腹痛に襲われ救急車で運ばれた。
急性虫垂炎。しかも腹膜炎になりかけてたせいで、四日間入院を余儀なくされた。入院中も原稿をしてたが流石に病院で仕上げするのは難しい。担当の上野は休載をすすめてくれたが、どうしても休載したくなかった。
漫画の世界は厳しい。いや、どこも厳しいが。せっかく手に入れた週刊誌の連載で打ち切りフラグは遠慮したい。しかも今回の連載はアニメ化の話も出てる。一度でも原稿を落とせば、せっかくついた読者が離れるかもしれない。感想を毎回ハガキで送ってくれる読者もいる。人気投票でも並みいる人気作家を抑え三位に入った。波にのっているのに、ここで流れを断ち切るような真似はしたくない。一回くらい休載しても大丈夫。なんて自信、俺にはまったくなかった。
しばらくして、ガタンと風呂の扉が閉まる音。
重い足音。
カチャカチャと軽い金属がぶつかり合う音。
そしてオートロックが閉まる音。
風呂から出た赤井が次の現場に行ったのだろう。人の気配がなくなった途端に、体がベッドにめりこんだ。重力が重い。……明日……ゴミ出しに行かないと……。
◇◇◇
サイレンの音がする。
これは、消防車か?
無数のざわめき。
ドンドンッ、ドンドンッ、としつこい打撃音。
うるさい。
なんなんだ……。
地面が揺れた気がして薄目をあける。遮光カーテンの隙間からもれた光が天井に白い線を描いていた。夢だと思っていたが、実際にサイレンの音がする。壁を叩くような音も。枕元で充電していたスマホを引き寄せ、時間を確認した。午前二時四七分。寝てから二時間しかたってない。
「うっせーな……」
薄い夏用の布団を頭までかぶる。
すると、ゴゴゴゴゴッと低い不気味な音が聞こえてきた。だんだんと大きくなる音に合わせて窓ガラスがガタガタ揺れる。
地震か⁉
次の瞬間、光が。まるでスポットライトのような強烈な光がカーテンの輪郭を白く染めて、右から左に流れるように二回、光が走る。低い音は光が通りすぎるタイミングで小さくなって消えた。
ドンドンッと壁を叩くような音がやむ。呆然と窓の方を見てると、手にしたスマホが震えた。慌てて画面を確認すると「上野ハルカ・着信」の文字。スワイプして電話に出る。
「ハルカ? どうした……」
『トムくん! 今、家にいるんでしょ? あけて! 急いで!』
そして、ガチャガチャと玄関からドアノブを回す音がした。スマホからも同じ音が聞こえる。転げるようにベッドから降りて玄関に移動した。
扉をあけると、俺の大学時代の後輩で、担当・上野の嫁。上野ハルカが立っていた。髪は乱れ、服はあちこち埃まみれの酷い姿。
「ハルカ。どうした? こんな時間に」
「トムくん、車貸して!」
「は? お前、免許持ってないだろ」
「トムくんが運転して!」
相変わらず強引な物言いにムッとする。一体なんなんだ。こんな真夜中に人を起こしていきなり車を出せって。それに、さっきから外が騒がしい。ここはマンションの高層階だ。こんなに音が聞こるなんておかしい。しかも、今は真夜中。どう考えても異常事態だ。
「地震か?」
「なに言ってるの⁉ トムくん、外見てないの? 大変なことになってるのよ!」
マンションの廊下に窓はない。
そうこうしてるうちに、またゴゴゴゴゴッと低い地響きがした。今度はマンション全体が揺れる。
「とりあえず中に入れ」
「そんな時間ない!」
「いいから、入れって!」
ハルカの腕を掴んで強引にひっぱる。面倒なので靴のままリビングを歩かせた。すると、またスポットライトのような光がカーテンの隙間から差し込む。
「なんだこれ」
ガサッと遮光カーテンをひらく。あまりの眩しさに目がひらけない。光と音はさっきと同じですぐに消えたが、残光で目がチカチカした。何度か瞬きしながら窓のロックを解除して裸足のままベランダに出る。
すると──信じられない光景が目に飛び込んできた。
真赤に燃える建物。空が赤と黄色と紫に染まり……大量に立ち昇る煙と、空を斜めに走る無数の光。
星が、街に降ってる。
◇◇◇
俺が住む川沿いのマンションからは、ライトアップされたレインボーブリッジが見える。その向こうは都市のシンボル、東京タワーに高層ビル。駆け出しの漫画家には分不相応な代物だが、稼ぎまくってローンを一括返済してやる。そう思いながら、ここから見える夜景に惚れて、何枚もスケッチした。
今、その景色は一変していた。川の対岸は煙に覆われてよく見えない。赤い光が煌々としているが、夜景の光ではない……あれば、炎だ。水面に反射する炎。もうもうと煙があがる場所に、背の高いビルが建っていたはず。空は地上の光を反射して赤紫に染まり、光の玉が落ちていく。あちこちから聞こえるサイレンの音。人々のざわめき。現実とは思えない光景。まるで、映画のワンシーンを観ているようだ。
「うそ……」
ふり返ると、ハルカは目を大きくひらき、片手を口に当てて唖然と外を見ている。
「……カズくん」
その言葉に、ハッとなって再び外を見た。
上野一浩──ハルカの夫は、俺の原稿を持って会社に戻った。会社はあの川向こう。今は煙で見えないあの場所。
──そんな。
煙で良く見えないが、普段なら霧がかかっていてもうっすら見えた出版社のビルも、その隣のファッションビルも見当たらない。心臓の鼓動が一気にはねあがる。
「か、カズくん……今日、会社に泊まるって……だから、行かなきゃ……むかえに、行かなきゃ」
ハルカの震える声に心臓を突き刺されたような気がした。
──俺の、せいか? 俺が休載してたら上野がこんな時間に会社に行く理由なんてなかった……。いやいや、そうとも限らないだろ。そうじゃない……俺は──、クッソ!
頭の中でだんだん「俺のせいだ」って声が大きくなって、足がガクガク震えだす。
そのとき、またマンションが揺れて、ゴゴゴゴゴッと低い音が聞こえてきた。目をあけてられないほど眩しい光。それでも薄目で光の行方を確認すると、その塊はレインボーブリッジに激突した。川の水が爆発したように水の壁を作り、白い煙が大量に噴き出す。
「……ハルカ、上野さんに電話しろ」
「さっきから、何回もしてる!」
「いいから、もう一回電話しろ!」
俺の怒鳴り声に、ハルカが慌ててポケットからスマホを取りだし画面をタップする。その間に俺も握り締めてたスマホのロック画面を解除してSNSを起動した。短い文章を送信すると、メッセージにはすぐ既読がつく。
「やっぱり出ない。電源が入ってないか電波の届かないところにって!」
「わかった。ちょっと待ってろ。赤井に電話する」
「なんで赤井くん?」
「……上野さんは赤井の家にいるかもしれねぇ」
スマホの呼び出し画面が切り替わり、赤井の顔アイコンが表示された。音声をスピーカーする。
『徒武先生! さっきのメッセ、あわせろって誰に!』
「赤井! お前、今日は上野さんに相談があるっていってたよな?」
『は、はい。あの……』
「今、上野さんの奥さんが家に来た。上野さんはお前の家を出てこっちに向かってる。そうだよな?」
『……は? ああ、はい、はい。そうです! さっき上野さんは俺の家を出て……俺の自転車でそっちに向かいました』
「ほらな、ハルカ。大丈夫だ。上野さんはこっちに向かってる──赤井……あんがとな。お前も気をつけろよ。じゃあ、な」
『徒武先生も……気をつ』
通話が切れた。切ったわけじゃなく、途中で電波がプツンと切れた感じだ。スマホの画面を確認すると、圏外マークがついてる。Wifiも繋がってない。念のためさっき赤井に送ったSNSのメッセージを削除した。
「わたし、家に帰らなきゃ……」
「ああ、送ってく」
「ありがとう、トムくん」
◇◇◇
赤井との通話を切ったあと、会話する気力もなくなり無言で移動した。幸いエレベーターは動いていたが、次々乗ってくるマンション住民のおかげで各階止まり。無理やり入ろうとする住民のせいで、かなりの時間を消費する。
マンションの地下駐車場は、いつもより車が少なかった。
去年買ったレトロなデザインの軽自動車に乗り、素早くエンジンをかける。すこし遅れて、青ざめた顔のハルカが助手席に乗り込んだ。
湾岸道路をしばらく走っていると、渋滞にはまった。ラジオはほとんど電波を拾えない。カーナビのテレビも「電波を受信中」の表示ばかりで映らない。スマホは圏外のまま。歩道は人で溢れかえってる。
車道にはみ出てきた人々を威嚇するように、車のクラクションが鳴り響いた。音に腹を立てた男が、道に積まれたブロックを斜め前に止まる、車のフロントに投げつける。
ガラスの割れた音。
悲鳴。
恐怖と混乱。
運転席の男が飛び出し、それを待っていたかのように人々が車へ群がった。
「くそ、なにやってんだ……早くすすめよ」
すぐそばではじまった暴動と沈黙に耐えれなくなって悪態をつく。すると、ハルカが急にシートベルトを外して車から降りた。
「おい。どこ行くんだ! 危ないぞ」
「歩く! あと一駅ぶんだから歩いた方が早い!」
そう叫んだハルカが、止まってる車の間を縫うよう歩き出した。その姿を見た人々が、次から次へと車道に出る。
バカヤロウ!
運転手が外に出たらその車どうすんだよ! しかも前の車、鍵かけやがって。鍵をあけたままにしとくのが災害時の常識だろう!
舌打ちしながらエンジンを切って車から飛び出す。もちろん鍵はあけたまま。予備キーを車に残して。
「ハルカ! 待てよ。俺も歩く! おい!」
◇◇◇
「家に着いたら、荷物をまとめて避難準備しとこう」
「うん。……トムくんがいてくれて、よかった」
上野……ハルカの住むマンションがあるこの辺りは、さっきの湾岸道路にくらべれば落ち着いていた。
背中に大きなバックパックを背負い、地図とスマホを見ながら何か話している男たち。子供の手を引く母親。泣いてる若い女と、それをなぐさめる老婆。ここは電波があるのかと、スマホを確認するが……やはり圏外表示のままで、Wifiも繋がらない。
「わたしたち……死ぬのかな」
前を歩くハルカがポツンと呟く。
「……んなわけ、ねぇだろ」
すぐに否定はできなかった。空を見ないように足元ばかり見て歩いてる。真夜中で街頭もないのに明るい道。自分の影が伸び縮みする度に、地響きが伝わる。少し離れた場所から絶えず鳴り響くクラクション。遠くのサイレン。悲鳴。焦げ臭い空気。
上を向くのが怖くて、前を歩くハルカの背中しか見れない臆病者。膝がガクガク震えて、何度もつまずいた。
「カズくん……もう家に着いてるかな」
本当に信じてるんだ……、俺と赤井の嘘を。俺が赤井につかせた嘘を。
何度目かの、強烈なスポットライトのような光。後ろからゴゴゴゴゴッと低い音が響き、ズーンッと地面が波打つような衝撃が走った。次いで、今までで一番大きな爆発音。たまらずふり返ると俺の家があった方向が、赤と白の煙に包まれている。
「落ちた、の、か?」
疑問ではなく確認。音がした方向から埃っぽい風が通り抜けた。空はますます明るくなっている。立ち上る煙に赤と紫の光が反射して、見たことない色に染まった。恐ろしくて見ないようにしていた空。藍色だと思ってた夜空は、なぜか赤紫色に染まり、無数の光が風の強い日の雨みたいに見えた。
もう、助からない。
今日を乗り越え明日も生きている自分が想像できない。背の高いマンションで切り取られた空。その小さな空でさえ、俺が知ってる「空」じゃなくなった。これが日本だけの現象なのか、世界規模のものかはわからない。でも、俺達は明日生きていない。それだけは確かだと思った。
不気味な低い音が聞こえてくる。
「……どこに逃げればいいの? あ、あんなの……逃げれないじゃない!」
「しらねぇよ!」
同じ様に空を見上げていたハルカが、まだ明日も生きていられるようなことを言うので苛ついた。あれを見て、なんで分からないんだ。
俺たちはもう、ここで死ぬ。死ぬんだ。
「どうしよう。カズくん大丈夫かな……」
大丈夫じゃない。俺のせいで死んだ。
「大丈夫だ! あいつは……大丈夫だ」
罪悪感から目を背けたい一心でついた嘘。赤井を巻き込んでついた。あいつが死んだのは俺のせいじゃない。そうだろ。こんなの、だれだって予想できなかった。俺のせいじゃない。俺はなにも悪くない。なのに、なんで、俺は嘘をつきつづけてんだよ。
「あ……」
突然、煙の隙間から光が現れ、目の前のマンションに穴をあけた。
凄まじい爆発音。
キーンと大きな耳鳴り。
音が頭蓋骨の内側に反射して暴れまわってるようだ。
目の前に立っているハルカは、耳から血を流しながら、なにかを叫んでる。
その叫びが──聞こえなくて良かった。
だれかと抱き合いたい。ひとりで死にたくない。怖い。死にたくない。
両手を前に出してハルカの身体にすがりついた。
「ごめん、ほんと。ごめん。ハルカ、上野さん、赤井。ごめ」
スポットライトを浴びて視界が白く──。
おわり




