バーでビール1杯飲んだら1万円請求された話
今日も疲れた……。
俺はしがない独身サラリーマン。
仕事はパッとせず、上司にいびられ、口内炎を始めあちこち体にガタがきてる。「病は気から」ってのはガチなんだなぁ、と思う今日この頃だ。
こんな日は飲むしかない。俺は夜の街をさまよい歩いた。
騒がしいところでは飲みたくない気分だったので、俺は繁華街を外れ、穴場めいたところを探した。
すると、ちょうどいい具合に怪しいバーを発見した。
ドアを開ける。
……
「いらっしゃいませ」
落ち着いた雰囲気のマスターが一人、グラスを磨いていた。口髭がいい味を出している。
他に客はいない。俺はカウンター席に座る。
マスターは言った。
「お客様、色々と悩みを抱えているようですね」
「お、分かる?」
俺は感心した。といっても悩みを抱えてない人間なんていないだろうから、誰にでも言ってるだけなのかもしれないが。
「当店ならば、お客様の悩みを解決できるお酒を出せると思います」
「ホントかい」
バーのマスターが悩みを抱える客に、その客に相応しい銘柄の酒を出して悩みを解決……なんてあらすじの物語を見たことがあるが、ああいったことでもやってくれるんだろうか。お酒一つで悩みが解決すりゃ苦労はないよ、と心の中で苦笑する。
「ご注文は?」
「とりあえずビールで」
どんなビールが出てくるのやら。
俺は多少期待しながら待った。
……
やがて、ビールが出てきた。
グラスの中に琥珀色の液体が入り、上部では白い泡が立っている。美味そうではあるが、なんてことはない。普通のビールだ。
と思ったのだが……。
シュワシュワシュワ……。
やたら泡立ってる。
というか、どんどん泡が増えていく。子供の頃、シャンプーの泡で遊んだ時を思い出す。
「マスター? これ泡立ちすぎじゃない?」
こんなこと言ってる間にも泡はますます大きくなり、一部がちぎれ、人のような形となった。
「なんだこりゃ……」
「我は泡魔人。お前の悩みを解決してやろう」
「は?」
わけが分からない。
俺はビールを飲もうとしたはずなのに、いつの間にか古びたランプをこすったみたいな展開になっている。
「うむ、お前は人間関係に悩んでるようだな」
「ええ、まあ。しょっちゅう上司にいびられてます……」
「なるほど、よし分かった。その上司をどうにかしてやろう。話をつけてくる」
話をつけるってどうやってだよ……と聞く暇もなく、泡魔人はバーの外に飛び出していった。
ほどなくして、スマホが鳴った。着信は上司からだ。
ゲ、なんでだよと思いつつ、電話に出ると――
「今まですまなかった。許してくれ。明日からはもう、君をいびったりしない! 約束する! それではまた明日!」
間違いなく上司の声だった。
演技だとも思えない。
泡魔人はどうにかして、本当に話をつけてしまったのだ。俺の悩みが一つ、解決した。
とはいえ、俺はまだビールを一口も飲んでいない。とりあえず、いただこうか。
……
ビールは最初の一口が一番美味い、だなんてよく言われる。
これが正しいのかは正直よく分からない。喉が渇いてる状態であれば、そりゃ一口目が一番美味く感じるのは当然だろう、という気もする。
ところが、今日の一口目はそんなレベルではなかった。
飲んだ瞬間、ピリピリッとした刺激が走ったかと思えば、適度な苦味と甘味が口中に染み渡った。
ゴクリと飲み込む。
すると、どうだ。
滑らかな液体が、俺の食道を流れるように駆け抜けていく。
舌には心地よい風味が残ってる。
俺は思わずこう叫んでしまった。
「うんまいっ!!!」
このままビールのCMに採用されてもいいんじゃないかと思えるほどの会心の叫びだった。
さらにビールを二口、三口と飲む。
俺は体に異変に起こってることに気づいた。
異変といってもマイナスではなく、プラス面のだ。
「あれ……? 口内炎が消えてる……?」
長い間、口の中を蝕んでいた口内炎が跡形もなくなっていた。
舌でいくら確認しても、まるで最初からなかったようになっている。
マスターが言う。
「ビールが麦から作られてるのはご存じですよね」
「そりゃもちろん」
「ビールはだいたい大麦の麦芽から作られるわけですが、その麦芽に含まれる酵素が、あなたの口内炎に作用し、消滅させたわけです」
「へえ~、長い間ずっと治らなかったのに」
異変は他にも起こっていた。
「目が……やけにさっぱりしてるな」
長年のパソコン仕事で疲れ切っていた俺の目が、重しでも取り外したかのように軽やかだ。カウンターの中にある酒瓶のラベルの文字がはっきり読める。視力も回復しているようだ。
「麦芽に含まれる酵素が、あなたの目に作用し、目の損傷を癒やしたのです」
「そんなこともできるんだ……」
他にも、長年俺を悩ませていた肩こりや腰痛も消えている。学生時代、スポーツをやってた頃の体に戻ったかのようだ。
「なんだか全身が若返った気分だよ」
「麦芽に含まれる酵素が……」
「麦芽万能すぎない!?」
他にも確認してみたが、どうやら俺の体の異常はきれいさっぱり治ってしまったようだ。一時的な作用とも思えない。麦芽、恐るべし。
……
上司に逆襲し、最高の味を楽しめ、体の異常まで治った。
――と、ここで俺にある種の邪心が生まれつつあった。
このバーのビールは最高だ。
だったらこれからもずっと、ここのビールを頼って生きていけばいいんじゃないか?
仕事でつまずいても――
恋人が欲しくなっても――
他のどんなトラブルも――
ここでビールを飲めば解決できるはず。魔人とか麦芽とかが何とかしてくれるはず。こりゃいい店を見つけたもんだ……と俺は最後の一口を飲む。
「苦いっ!」
最後の一口は苦かった。
俺の甘えを見透かしたかのような苦味。
お前ここのビールに味をしめてこれからもここに通って、なんでもかんでも解決してもらおうなんて考えてただろ。そんなうまい話あるわけないだろ。人生はそんなに甘くない。
なーんてガツンと説教喰らった気分になった。
俺は芽生えたばかりの弱い心根をすぐさま反省した。
……ったく最後の最後まで、世話焼きなビールだぜ。
俺がマスターをちらりと見ると、マスターは言った。
「ところで、ビールの一種に“エール”があるのをご存じですか」
「ん? ああ、聞いたことあるかも」
「ビールの発酵方法には大きく分けて上面発酵と下面発酵の二つがあるのですが、現在日本で主流となっているのは下面発酵のビールです。先ほどお飲み頂いたのもこちら」
「どう違うの?」
「ざっくり説明しますと、発酵中に液面に浮かぶ酵母を使うものが上面発酵、逆に沈む酵母を使うものが下面発酵となります。エールは上面発酵で作られたビールなんですね」
へえ、と頷く。つまりエールはあまり主流ではないビールということか。誰かに話す機会があったら話してみよう。
「というわけで、私からエールを送らせて頂きます」
何が「というわけ」なのかさっぱり分からないが、マスターは突然、
「フレーッ! フレーッ! お客様ーッ!」
名門応援団ばりの応援を始めた。
他に客はいないとはいえ、こっちが恥ずかしくなってしまう。
しかし、落ち着いた雰囲気のマスターが、なんの照れもなく俺一人のために応援を送ってくれる光景は、なかなか心に染み入るものがあった。
明日からもビールの苦味より辛いことはやってくるだろう。だけど頑張ってみよう。そんな気分になれた。
……
ビール1杯飲んだだけで、俺は心も体も豊かになれた。あとは会計だけだ。
きっとさぞかしお高いのだろう。だが、いくら払っても惜しくない気分だった。
「マスター、おいくら」
「1万円です」
「え、1万円でいいの!?」
「1万円です」
俺は快く万札を手渡し、外に出た。
夜風が気持ちいい。
歩きながら、まだほんの僅か唇に残っていたビールの残滓をペロリと舐めた。
完
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