さめ君とクーピー。
ーーがさがさ……
んー。なんだろう……
ーーさめっ。さめくん……!
だれかをよんでる……?
だれだろう。さめくんは眠い目を擦りながら、見たこともない、藁を敷き詰められた正四角形の柵の箱で目が覚めた。みさきにあってから、寝てばかりいた、さめ君だったけど、視界に張り付いていたモヤのような眠気は、突然吹き飛んだ。目の前の美しい“それ”に完全に目を奪われてしまったんだ。
“それ”。いや、そのハムスターに。白く小さな身体で、さめ君よりもずっと控えめな瞳と、ピンク色の口。さめ君は、ふわふわしっぽの『クーピー』を一目見ただけで、恋に落ちた。小さなきゅいきゅい。という声も可憐で、まるですっと心のどんぐりが、川のせせらぎで洗われたようにぴかぴか。と輝き出したような気が、さめ君にはしたんだ。
まるで2匹を永遠にここに抑留するような檻すら、さめ君には美しく感じるほどだった。クーピーを白く際立たせるその背景は、見たこともない大きな道具や、鮮やかすぎる色の不思議な風車がゆめのなかで生きているような感覚に、さめ君を墜落させる。
ーー目が覚めた?
き、きみはだれなの? さめくんってだれのこと?
ーーわたしはクーピーだよ。みさきちゃんが『さめくんをよろしく』ってここに寝かせていったの!
クーピーなる白ハムスターはそういうけど、やっぱりさめ君の頭の中はこんがらがってしまった。山にいたときですら、彼には名前などなかったし、人はねずみを嫌っているはずだったんだ。でもこの磨き抜かれて輝きを放つような、小さく、白いハムスターのいうことは妙に真実味を帯びて、なんとなくさめ君を納得させてしまう。
ーーぼくはさめ君。この子はクーピー。人間のみさきちゃん。へんなばしょだーーそんなことを、さめ君は思った。
ぼくがさめ君?
ーーうん。そうだよ。 疲れてたんだね?
う、うん。ぼくはなんでここに?
ーーさめ君は、これからわたしのおうちで一緒に暮らすの!
ぼくがきみといっしょに……? こんなへんなばしょで?
ーーきれーなところだよ。ごはんもあるし、おみずもいつでものめるの。それにね、みさきちゃんがあそんでくれたりするんだよー! たのしいよー!
ふーん。よくわからないけど、いいばしょみたい。でもぼくがこんなところにいて、めーわくじゃないのかな?
ーー迷惑なんかじゃないよ? 色々教えてあげるから、きて!
ちちち。きゅきゅ。そんな小さな会話を2匹はして、その水色や、毒毒しいきのこのような艶やかなピンクの家をてくてく。と一周した。どうやらご飯の心配もなく、水もあり、たまに回転する風車で遊んだり、退屈はしなそうだな。とさめ君は思った。思ったけど、ますます、これは天国にきちゃったのでは? とも思った。それほど不思議で見慣れない景色だったんだ。クーピーは毛並みの粗いさめ君を軽蔑するでもなく一緒にいてくれる。さめ君は、白い金属の柵の向こうに見える、本屋と似た部屋の景色が、少し怖くなくなったのだった。
ーーさめ君。わたしは4ヶ月なの。きみは?
よんかげつ?それはなんなの?
ーーもー。なにも知らないんだねさめ君は。4ヶ月っていうのは、生まれてから生きてきた時間のことだよー。
あー。ぼくもわかった。ぼくはたくさん月をみたよ。
もう10回くらいかな? まんまるのおっきいやつ!
ーーみさきちゃんに教えてもらったんだけど、それはたぶん10ヶ月なのかなー?
じゃあ、ぼくのほうがおとなかもね。えへ!
それから、クーピーはきゅ。と短く笑ってさめ君に色々教えてくれた。世話焼きで優しいクーピーがさめ君はとても心地よくて、まるでほっぺにひまわりの種をたくさん詰め込んだような気分になったんだ。たまにぶつかる鮫肌と白い毛がくすぐったい気持ち。死にたいと思っていたのがまるで、はるか『ひゃっかげつ』も前のように感じるほどに。
でも、置き去りにできたと思った、死にたい気持ちというのは、身体にまとわりついて、背中を叩く折れ曲がった尻尾のように離れないのを、さめ君は感じてしまった。回転風車のうえで楽しく走っている時も、ひまわりの種をクーピーと食べて笑っている時も、敷き詰められた藁のベットで彼女ーー夢みがちなクーピーーーを見つめている時でさえ。
小さな、とても小さすぎて捉えきれないほどの動悸。それは、人間にとっては感じようのない感覚なのかもしれなかった。でも本当のことなんだ。誰も理解できない、さめ君だけの相反する、虚像の忌々しさ。
人の時間では、とても短い半日という間。
出会うはずのない2匹はめぐりあう。
窓から見える景色は、梅雨も終わったというのに
結露して、何度目かの満月が小さな感情を揺らす。
そんなじめじめとした、大きく黄色い霧の夜だったんだ。