93 一途な中川
その後、日置は森上家にも出向き、両親に「娘さんを、きっといい選手に育てます」と固く約束をした。
慶三と恵子は、ようやく森上を全面的に日置に任せることを決めた。
それから日置は『よちよち』の送別会にも顔を出し、これまで森上が世話になったことや、練習場を使わせてもらったことなど、誠心誠意、深謝した。
『よちよち』のメンバーは、日置に去られることに淋しさを抱いていたが、「森上さんの活躍を楽しみにしてるで」と、温かく送った。
ちなみにその際、二次会にも参加し、日置はせめてもの「サービス」として、おばさん連中とカラオケでデュエットの披露もした。
そして中島や柳田などは、「もういつ死んでもええわ~~!」と興奮したのだった。
やがて季節は十月に入ったものの、当の森上といえば、まだ調子を取り戻せないでいた―――
―――ここは一年三組の教室。
「森上よ」
森上と阿部と中川は、三人で弁当を食べていた。
「なにぃ」
「おめー、しけた顔すんなって」
「うん・・わかってるんやけどぉ・・」
「考えたって、無理なもんは無理なんだよ」
「わかってるぅ・・」
「私だってさ、やっとフォア打ちが出来るようになった程度だぜ。それに比べりゃ、おめー、ずっと上じゃねぇか」
森上は、以前、日置に習ったことは全部できていた。
けれども、あくまでも「普通」にできる程度であり、とてもじゃないが外で勝てるレベルではなかった。
「団体戦までは、まだ二か月あるんだ。あまり落ち込むなよ」
「私も、中川さんの言う通りやと思う」
阿部がそう言った。
「それでよ。部員を増やすことなんだけどよ、先生さ、も~~う、頭が固いのなんのって」
日置はあの後も、「やる気のない者を指導するつもりはない」と中川の意見を頑なに拒否していた。
「そうなんよなぁ・・」
「そこでだ。私に考えがあんだよ」
「考えて、なに?」
「試合が近づくと、申し込みをしなきゃいけねぇんだろ?」
「うん」
「先生に内緒で申し込むんだよ」
「えっ・・」
「でだ。それまでに部員を一人確保すんだよ」
「確保いうたって・・当てなんかないやん」
「おい、チビ助」
「なによ」
「私を誰だと思ってやがんでぇ」
「誰て・・」
「誠さんは常に命を張って愛お嬢さんを、お護りなすった。命懸けさね」
中川は、なぜかあさっての方向を見ながら、右手の人差し指もその方へ向けた。
「なに言うてんの・・」
「かぁ~っ、察しの悪いやつだな」
中川は机をトンと叩いた。
「え・・」
「部員一人増やすくれぇ、造作もないって言ってんだよ」
「だから、それは誰やの、て訊いてんねん」
「ふふ・・あやつよ・・」
中川はそう言いながら、演劇部の重富を見た。
重富は、数人で弁当を食べていた。
「あやつて・・あの中の誰なん」
「重富よ・・」
「なんで、とみちゃんなん」
「あいつは私に借りがあるんでぇ」
「え?」
「私はあいつに誘われて、演劇部の扉を叩いたんでぇ」
「でもさ・・中川さん、結局、断られてたやん」
「それがどうした」
「いや・・借りっていうんは、せめて何日かでも部に入ったことを言うんちゃう?」
「細けぇことは、この際、いいんだよ」
「え・・」
「私は重富を誘う」
「せやけど・・あの子、演劇部やん」
「だから「お飾り」さね」
「どういうこと?」
「試合の日だけ、来させるんでぇ」
「げぇ~~、それってほんまに「お飾り」やん。先生が、そんなここと認めるわけがないで」
「だから、さっきから言ってるように、申し込みは内緒でするんだよ」
「うわあ~~・・絶対あかんと思う。先生、怒ると思うで」
「それで怒るようなら、監督失格だ」
「なんでよ」
そこで中川は「はぁ~・・」とため息をついた。
「チビ助。おめー、ほんとに察しがわりぃな」
「なによ・・」
「あのさ、例えばだぜ?これが逆だったとしたらどうだよ」
「逆?」
「試合に出ると決まってるのに、当日、出られませ~んとか、なってみろよ」
「そりゃまあ・・」
「それで先生が怒るってんなら、わかるぜ。だけどよ、出る予定のない試合に出るってなった時、びっくりはするだろうけどよ、怒るってのはあり得ねぇよ」
「せやけど・・」
「おめーさ、我が卓球部の目標はインターハイなんだろ?」
「そやで」
「人数が足りねぇからって、すっこんでるつもりかよ」
「そんなことないけど・・」
「おい、森上」
森上は二人の話を黙って聞いていた。
「なにぃ・・」
「おめー、どう思ってんだ」
「どうってぇ・・」
「おめーの考え、聞かせろよ」
「そりゃぁ・・試合には出た方がええと思うぅ」
「だろ?」
「でも先生はぁ・・やる気のある者だけでぇ、出ようと思てるんちゃうかなぁ・・」
「はぁ・・おめーまでそんなこと言うのかよ」
「えぇ・・」
「私は!試合に出ねぇと、なにも始まらねぇって言ってんだよ。なんのために練習してんだって。人数足りなきゃ集めればいいじゃねぇか。単純なことだぜ」
「まあなぁ・・」
「もう私は決めたんだ。狙うはあやつただ一人。重富だ」
中川は、重富に狙いを定めていたが、阿部が言ったように重富は演劇部だ。
そう簡単に首を縦に振るはずがない。
中川は、そのことも理解していたが、日置や阿部や森上の「消極的」な考えには、真っ向から異を唱え続けるつもりだった。
事を運ぶには、理想ばかり言ってられない。
たとえ、日置の「信念」に逆らうことであっても、自分は泥にまみれるつもりでいた。
なぜなら、『愛と誠』の太賀誠や早乙女愛、そして早乙女愛に好意を寄せている岩清水弘は、互いを想うがあまり、常に泥にまみれてきたからである。
太賀誠に心酔している中川にすれば、いわば当然のことだった。
―――それから数日後。
中川は重富に話をすると決めた。
「よーう、重富」
中川はそう言いながら、席に座る重富の肩に手を置いた。
「中川さん、どしたん?」
「ちょっと折り入って、おめーに話があんだけどよ」
そこで中川は、重富を連れて校舎のベランダに出た。
「話て、なに?」
「おめーの力を借りてぇんだ」
「え・・」
「いや、実はよ――」
そこで中川は、事情を詳しく説明した。
すると重富は、次第に迷惑そうな表情に変わっていった。
「なあ、協力してくれねぇか」
「でもなぁ・・日置先生に内緒なんやろ」
「おう」
「それはちょっと・・」
「まだ先の話だぜ」
「でもなぁ・・内緒・・いうんはなあ・・」
「おめー、私を演劇部に誘ったよな」
「ああ・・うん」
「だから今度は、私が誘ってんだ」
「いや・・でもなぁ・・」
「試合の日だけでいいんだよ」
そこで重富は、なにやら考え込んでいる風だった。
中川は、重富をじっと見つめていた。
「それやったら、条件があるわ」
「なんだよ」
「今月、文化祭あるやん」
「おう」
「演劇部で芝居やるんやけど、それに出てくれたら、私も試合に付き合うわ」
「えっ・・でもよ、おめーの先輩たちよ、私のこと嫌がってたじゃねぇか」
「まあ・・あの時はそうやったけど、やっぱり中川さんの美貌に一目置いてはってな」
「ほーう」
「それでさ、演目は『あの男子を振り向かせろ』なんやけど」
「へぇ」
「学園の恋愛ものなんやけど、男子のなり手がいてなくてな。いや、正しくはいてるんやけど、設定がめっちゃハンサムってことになってて」
「へぇ」
「その男子の役を、日置先生に頼んでるところなんやけど、先生「嫌だ」いうて、受けてくれへんねん」
「かぁ~~まさに先生らしいな」
「それで、ヒロイン役が中川さんやったら、ピッタリやと思うねん」
「私が出ると、おめー、試合に付き合ってくれるんだな」
「そこは、やっぱり日置先生にも出てもらうってことで」
「よーし、わかった!私は出る。で、先生も絶対に出す!」
「ええええ~~!ほんま?」
「あたぼうよ!約束は守るぜ!」
「いやあ~~先生が出るいうだけで、俄然、盛り上がるし、そこに中川さんも出てくれたら、まさにテレビか映画のようやわ!」
と、このように、またあらぬ方向に事態が進み始めるのであった。
―――そして放課後。
「と、いうわけさね」
中川は小屋で、阿部と森上に、重富との話の内容を説明したところだった。
「なんか・・おかしなことになってない?」
阿部は、賛成しかねていた。
「先生はさ、ここの教師だぜ?何部であろうが、生徒の要望に協力するのは当たり前でぇ」
「まあ・・そうやろけど」
「いいな。私は先生を説得する。おめーら、事の真相を喋るんじゃねぇぞ」
「考えたらそうかも。別に先生が芝居に出たってなんら不思議なことはないもんな」
「おうよ。チビ助、わかってんじゃねぇか」
「止めたって、中川さんはやるんやろし」
「森上。おめーもだぞ」
「うん、わかったぁ」
ガラガラ・・
そこで日置が扉を開けて、中へ入って来た。
「もう体操やったの?」
日置は靴を履き替えながら、そう言った。
「今からです」
阿部が答えた。
「じゃ、始めて」
そして三人は、間隔を開けて準備体操を始めた。
その後、阿部と森上、日置と中川というペアで、それぞれ分かれて台に着いた。
「フォア打ちをやった後、今日からカットに入るからね」
日置はラケットを手にしてそう言った。
「おーす!」
「阿部さんと森上さんは、基本を一通りやること」
「はい」
「はいぃ」
「それと森上さん」
「はいぃ」
「まだ感覚が戻ってないみたいだけど、焦らなくていいからね」
「はいぃ・・」
「まずは、出来ることをしっかりとやり続けること」
「なんかぁ・・すみませぇん」
「じゃ、始めるよ」
日置は思っていた。
もう森上のことを、以前の森上だと考えるのは止めよう、と。
目の前の森上が、今の森上なんだ、と。
そう、日置は森上のことを「素人」と捉えることにしたのだ。
そして一から教える。
まさに、小島ら八人を指導した時のように。
自分が焦ってしまうと、それは森上にとって負担でしかない。
一日も早く感覚を取り戻させるためには、焦りや負担はマイナスでしかない、と。
ほどなくしてフォア打ちを終えた日置は「じゃ、カットをやるからね」と、部室からボールの入った籠を出した。
「一球ずつボールを送るから、きみはそれをここに返すこと」
日置はコートのフォアコースを指した。
「おーす!」
「じゃ、まずカットの素振りをやって」
「おーす!」
中川はそう言いながら、フォアカットの素振りをした。
「よし。じゃ、出すよ」
「おーす!」
日置はふと、中川の表情がいつもと違うと感じた。
そう、挑んでくる目をしているのだ。
すごいな・・やる気が漲ってる感じだ・・
日置は中川を頼もしく思った。
その実、中川は、日置を説得するために、まずは自分が頑張らねばと思っていた。
泥にまみれるんだ・・
誠さんがそうだったように・・
そして中川は、懸命になって日置の出すボールを返し続けたのであった。




