90 やっと漕ぎつけた
そして恵子は、仕事を終えて田中家へ寄った。
「田中さん」
恵子は玄関のドアをトントンと叩いた。
田中は中から「ちょっと待ってや~」と叫んでいた。
そしてしばらくすると、「ごめん、ごめん」と言いながら、田中が出てきた。
「忙しいのに、ごめんな」
恵子はそう言って詫びた。
「いや、ええねや」
「ほんで、今朝のことなんやけどね」
「うん」
「私・・色々考えたんやけど、田中さんや、よちよちのみなさんに慶太郎をお願いできひんかと・・」
「うん、ええで」
田中は優しく微笑んだ。
「なんか、私ね。田中さんに色々と酷いこと言うて、申し訳なかったと反省してるんよ・・」
「いや、奥さんの気持ちもわかる。そらな、子供が誘拐されたなんてことがあったら、親やったら誰でもそうなる」
「うん・・」
「でもよう決めたな。偉いと思うで」
「そんな・・偉いやなんて・・」
「けいちゃんのことは任しとき。みんな子育て経験者揃いや。なんも心配することあらへんで」
「うん。ほんま、ありがとう」
「恵美ちゃん、喜ぶやろな」
「うん。ほんで、よちよちのみなさんには、明日にでもご挨拶しに行くわ」
「そんなんいつでもええ。あんたかて仕事で大変なんやし、私から言うといたる」
「うん、ありがとう。でも、一度くらいは挨拶に行かんとね」
「わかった」
そして恵子は「ほな」と言って、家に入った。
「おかえりぃ」
森上は夕飯の支度をしていた。
「ただいま」
恵子は、取り込んだままの洗濯物を片付けに行った。
「お母さん~おかえり~」
「ただいま。慶太郎、宿題したんか?」
「したで~」
慶太郎はテレビを観ていた。
「そうか。偉いな」
恵子はそう言いながら、洗濯物を畳んでいた。
「なあ、恵美子」
「なにぃ・・」
森上は背を向けたまま返事をした。
「卓球のことなんやけどね」
「・・・」
「慶太郎は、田中さんや、よちよちの人に見てもらうことにしたんよ」
そこで森上は手にしていた包丁をまな板の上に置き、振り返った。
「だから、あんたは卓球、頑張ったらええよ」
森上は慌てて恵子の元へ走り寄って座った。
「お母さん・・」
森上はそう言って、呆然としていた。
「なによ」
恵子は、少しだけ笑った。
「なんでなん・・」
「なんでって、あんた、卓球続けたいやろ」
「そうやけどぉ・・」
「ほなら、それでええやん」
「慶太郎・・ええのぉ・・」
「うん、ええんよ」
「晩ご飯の支度・・どうするん・・」
「そんな心配、せんでええんよ」
「放課後の練習て・・帰りが遅いねぇん・・」
「わかってる」
「ほんまにぃ・・ほんまにぃ・・ええのぉ・・」
「ええて言うてるやないの」
「ううっ・・ううう・・」
森上は大粒の涙を流した。
「お姉ちゃん~どしたん~」
「あんたは気にせんと、テレビ観とき」
恵子は慶太郎の肩をポンと叩いた。
「お姉ちゃん~なんで泣いてるん~」
「なっ・・なんも・・ないでぇ・・」
森上は涙を拭って、ニッコリと笑った。
「そうなんや~」
慶太郎は安心したのか、またテレビを観ていた。
「お母さぁん・・」
「ん?」
「ありがとぉ・・」
「恵美子、今まで辛い思いさせたね。ごめんな」
恵子はそう言いながら、森上の大きな背中を擦っていた―――
そして翌日。
森上は着替えのTシャツや、短パン、タオル、ラケットをスポーツバックの中へ入れた。
やっと卓球を続けられることが、森上は嬉しくてたまらなかった。
そして日置や阿部や中川の、喜ぶ顔が目に浮かぶようだった。
「行ってきまぁす」
森上は元気一杯に家を出た。
やった・・
やった・・
やったああああ~~!
そして森上は、走って駅に向かった。
やがて学校に到着した森上は、その足で職員室へ向かった。
「日置先生ぇ!」
日置を見つけた森上は、慌てて席まで行った。
「森上さん、どうしたの?」
日置は森上の慌てぶりを見て、また何かあったのではと心配した。
「先生ぇ、私ぃ、卓球続けられることになりましたぁ」
「え・・」
日置は、耳を疑った。
なぜだ、なぜなんだ、と。
「実はぁ――」
そこで森上は、事の経緯を説明した。
「それ、ほんと?ほんとなの?」
「ほんまですぅ」
森上は、なんとも愛くるしい笑顔を見せた。
「森上さん、よかった・・よかった・・」
日置は思わず涙が溢れそうになった。
そして下を向いた。
「ですからぁ・・今日の放課後から参加しますぅ」
「うん・・うん・・」
「先生ぇ・・泣かんといてくださぁい」
「泣いてないよ・・」
それでも日置は下を向いて、肩を震わせていた。
「森上、よかったな」
隣で話を聞いていた、堤がそう言った。
「はいぃ」
「日置くん」
堤が呼んだ。
「はい・・」
日置は下を向いたままだ。
「森上、鍛えたってくれよ」
「はい・・はい・・」
「森上、これ以上、先生を泣かしたらあかん。はよ教室へ行け」
堤は笑って、森上の肩をポンと叩いた。
「わかりましたぁ」
そして森上は職員室を後にした。
「日置くん」
堤は日置の肩に触れた。
「はい・・」
「よかったな」
「はい・・」
「きみは、なんかしらんが苦労続きやけど、それでも必ず乗り越えてきた。今回もそうや。よう我慢したな」
「・・・」
「ほら、泣いてる場合とちゃうで。授業や、授業」
「はい」
日置は顔を上げて、涙を拭った。
「あほやな」
堤は思わず日置の頭を撫でた。
すると日置はとても嬉しそうに、ニッコリと微笑んだ。
―――ここは一年三組。
「よーう、森上」
先に登校していた中川が声をかけた。
「中川さん、おはよぉ」
「ん?おめー、やけに嬉しそうだな」
「中川さぁん、聞いてくれるぅ?」
「おう、どうしたってんでぇ」
「私なぁ、卓球、続けられることになったんよぉ」
「な・・なにいいいいい~~!それ、ほんとかよ!」
「うん~ほんまぁ~」
「あはは!こりゃいいや!しかし、何がどうなったんだ」
「実はなぁ――」
そして森上は、日置に説明したのと同じ内容を繰り返した。
「へぇー!母ちゃん、よく許してくれたな!」
「そうやねぇん」
「おはよ~」
そこへ阿部もやって来た。
「おい、チビ助。大変だぞ!」
「千賀ちゃん、おはよぉ」
「大変て、なによ」
「森上さ、部に復帰するんだってよ!」
「ええええええ~~!」
当然、阿部も驚愕していた。
「ちょ・・なんで、なんでなんっ!」
「それがよ――」
中川は森上が説明する前に、全部話した。
「きゃ~~!恵美ちゃん、よかったな!」
「うん~ありがとぉ。だからぁ、今日から練習に参加するからぁ、よろしくお願いしますぅ」
「あはは!なに言ってやがんでぇ。こりゃ~楽しみだぜっ!」
「ほんまや~、やっと一緒にできるな!」
ここで森上は、ふと不思議に思った。
そう、犬猿の仲である阿部と中川が、普通に会話しているからである。
「あのぉ・・」
「なんだよ」
「あんたらぁ・・仲直りっていうかぁ・・」
「おめーよ、くだらねぇ心配してんじゃねぇよ」
「恵美ちゃん」
「なにぃ」
「仲直りとか・・そういうんやないけど、まあ・・いつまでも言い合っててもしゃあないっていうか・・」
「チビ助、おめーが突っかかってただけじゃねぇか」
「そっ・・そんなことないし」
「それより、これで、あと一人だ」
中川は団体戦のことを言った。
「これからやな・・」
「まず、先生に相談しようぜ」
「それがええな」
話の内容の意図が掴めない森上は、ただ二人を見ているだけだった―――




