88 疫病神
―――そして翌日。
日置は昼前に森上家の前に到着していた。
落ち着け・・
落ち着け・・自分・・
日置は玄関先で深呼吸をした。
「こんにちは」
日置はそう言いながら、ドアをトントンと叩いた。
「はぁーい」
中から恵子の声がした。
そしてドアが開いた。
「あ・・」
恵子は一瞬で表情が曇った。
「どうも、ご無沙汰してます」
「こちらこそ」
恵子は、迷惑そうに挨拶をした。
「で、今日はなんですか」
「またお話をと思いまして」
「なんのお話ですか」
「はい・・森上さんのことで・・」
「またですか・・」
恵子は心底、辟易としていた。
「あらっ、先生やないですか」
そこに隣人の田中が、ドアを開けて外に出てきた。
そう、田中には二人の会話が聴こえていたのだ。
「ああ、田中さん。どうも」
「どないしはったんですか。今日は、よちよち休みですけど」
「ええ・・ちょっと森上さんと話をと思いまして」
「そうなんや」
田中はそう言って、恵子の前に立った。
恵子は、田中も『よちよち』に通い出したことを、けして快く思っていなかった。
「森上さん」
田中が呼んだ。
「なんですの」
「先生、話がある言うてはるけど」
「私は無いんですわ」
「そんなん言わんと、話くらい聞いたらどうですの」
「どうせまた、卓球のことですやん。やっと落ち着いてきたのに、なんで寝た子を起こす様な真似しはるんかと、ちょっと呆れてますねや」
「あの・・お父さんは」
日置が訊いた。
「慶太郎と出かけてます」
恵子は突き放したように言った。
日置は正直、慶三がいれば、まだ話も出来ると思っていたが、恵子だけだと話をする以前の問題だと落胆した。
「なあ、森上さん」
田中が呼んだ。
「なんですの」
「先生な、私ら年寄り相手にコーチして、そらもう、よーうしてくれてはるんよ」
「そんなこと、うちと関係ありません」
「ちゃうって。それは恵美ちゃんのためやん」
「だから!恵美子はもう卓球辞めましたやん!よちよちのコーチは、私が頼んだわけでもないし、先生が勝手にやってはることでしょ!」
「ちょっと、そんな言い方ないんちゃう?」
「あのね、田中さん」
恵子は、自分の気持ちを落ち着かせるように言った。
「なんですの」
「卓球って、うちにとっては疫病神なんですわ」
「え・・」
「もう、恵美子が卓球やり出して、碌なことがないんですわ。私はもう、コリゴリなんです」
田中は、恵子の言いぶりに返す言葉を失っていた。
「森上さん・・」
日置は力のない声で呼んだ。
「なんですか」
「ほんとに・・疫病神なんでしょうか・・」
「え?」
「森上にとって・・卓球は疫病神なんでしょうか・・」
「恵美子だけとちゃいます。森上家にとって疫病神なんです!」
「僕はそう思いません!」
日置は強い口調で言い放った。
「なんですか!いきなり大きな声で」
「森上は、卓球をやったと言っても、まだ何も始まってません。あの子は、これからの選手なんです。今すぐにとは言いません。ですが、森上から卓球を断ち切ることだけは考え直して頂けませんか」
「無理です」
「お母さん!」
「もうええです。帰ってください!」
「お母さんにはわからないかも知れませんが、あの子は将来、日本を背負って立つような選手に育つ可能性を秘めてるんです!疫病神なんかじゃないんです!」
「恵美子が疫病神と言うてませんやん!卓球が疫病神て言うてますんや!」
「だから、森上にとって卓球は疫病神どころか、あの子にとって・・輝かしい将来をもたらすものなんです!」
「先生!いい加減にしてくれませんか!前にも言いましたけどね、先生は、慶太郎がどうなってもええと言うんですか!」
「そんなこと、思ってるはずがありません!」
「森上さん」
田中が呼んだ。
「もう、田中さんも、これ以上、止めてくれませんか」
「あのな」
「なんですの」
「けいちゃんのこと、私が面倒見るいうたら、どうや」
「え・・」
「私は専業主婦や。ずっと家にいてる。息子や娘もとっくに家を出て、旦那と二人や」
「いや、ちょっと待ってよ」
「けいちゃんを、しっかり見るんやったら、別に恵美ちゃんじゃなくてもええやろ」
「いや・・そんなんいきなり言われても、はい、そうですかとは言えんよ」
「なんでやの」
「こんなん言うたら、あれですけど、そりゃね、最初は言うこと聞くと思いますよ。せやけど、慣れたらわがままも言うし、勝手に外へ遊びに行ったりもします。田中さんかて他人の子やと気を使いはるやろし、それはできません」
「私がええと言うてるんや」
「いや・・こっちかて気を使います。それに慶太郎かて、幼いながらに気を使うはずです。そう考えると、私はおちおち働いていられませんわ」
「あんたな・・なんでそんなに自分一人でなんでも背負おうとするんや」
「え・・」
「そんなに私や、よちよちの人らを信用でけんか」
「そんなこと言うてません。ただ・・慶太郎に何かあった時、私は誰に気持ちをぶつけたらええんですか。田中さん、責任とってくれるんですか」
「あんた・・過保護過ぎるわ。ずっとそうやってけいちゃんを縛るつもりか」
「え・・」
「そのせいで、恵美ちゃんまで縛りつけて、恵美ちゃんの将来を奪ってるってこと、わかってないやろ」
「・・・」
「恵美ちゃんは、いつまでけいちゃんの世話をしたらええんや?小学校卒業するまでか?それとも大人になるまでか?」
「なっ・・なに言うてはるんよ。そんなわけないでしょ!」
「いや、今のあんたやったら、一生、恵美ちゃんとけいちゃんを縛りつけかねんで」
「もっ・・もう・・もうええです!それと先生、二度と卓球の話、うちに持ち込まんといてください!」
恵子はそう言って、ドアをバタンッときつく閉めた。
「先生・・」
田中が呼んだ。
「はい・・」
「もうちょっとの辛抱や」
「え・・」
「森上さんかて、アホやない。私にあんだけ言われて、考えんはずがないんや」
「そうでしょうか・・」
「奥さんかて、恵美ちゃんのこと、可愛いはずなんや。将来のことも考えてる。それがけいちゃんの誘拐のことがあってからというもの、あんな風になってしもてな。せやけど、いつまでもそのままやない。だから先生、気を落とさんでもええで」
「はい・・」
「それとな、よちよちのコーチなんやけど、もうええですから」
「え・・」
「実は、みんなで話し合うたんや。先生に辞めてもらお、てな」
「・・・」
「あまりにも気の毒やいうてな。ほんで新しいコーチが決まったと嘘を言う案も出たんやけど・・」
「そうだったんですか・・」
「先生は、ようしてくれはった。それはみんな感謝してる」
「いえ・・そんな・・」
「森上さんを待って、よちよちでコーチしてるんもわかってる。せやけど、私やよちよちの人らで、けいちゃんを見たら、恵美ちゃんはよちよちやなくて、学校でなんぼでも練習できる。それが一番ええと思うで」
「・・・」
「だからな、もう、私らには気を使わんでもええから、先生は学校で恵美ちゃんが戻って来るん待っててな」
「ありがとうございます・・」
日置は深々と頭を下げた。
「ほなら、コーチの件、みんなに報告しとくわな」
「いえ、明日、僕自身がよちよちに出向きます」
「それやん。もう先生は、どこまで真面目で律儀なんや」
「いえ、そうさせてください」
「わかった、わかった。先生がそれで納得するんやったらそうしたらええ」
「はい」
「ほなね」
「田中さん、ありがとうございました」
「先生、頑張れ!」
田中はそう言って家に入って行った。
そして日置は、阿部と中川が待つ学校へと向かったのであった。
―――この日の夜。
「それでさ、また先生が来たんよ」
恵子は慶三に、今日のことを話していた。
森上は机に向かって勉強をしており、慶太郎は既に寝ていた。
「そうなんや」
「もう、しつこいやら、なんやらで」
「せやけど・・先生・・」
慶三はそこで、「そこまで恵美子のこと考えてくれてるんやな」と続けたかったが、恵子を刺激したくなかった慶三は口を閉じた。
「なによ」
「いや・・別に」
「私、卓球なんか疫病神や、言うたんよ」
「え・・」
「そしたら先生、えらい剣幕で、突っかかってきはってな」
「お前・・それ言い過ぎやぞ」
「せやかて、先生、しつこいんやもん」
「・・・」
「いつまで恵美子のこと、追いかけるんよ。迷惑も甚だしいわ」
「・・・」
「いい加減、諦めてほしいわ。やっとうちの中が落ち着いてきたのにさ」
「お母さん・・」
森上は背を向けたまま、恵子を呼んだ。
「なに」
「疫病神て・・言うたん・・」
「そやで」
「あんまりちゃう・・」
「せやかて、あんたが卓球やり始めて、ええことなんか一つもないわ。むしろ悪いことばっかりやないの」
「それ・・卓球が悪いんやなくて・・うちが貧乏なんが悪いだけやん・・」
「ちょっと恵美子!お父さんの前でなに言うんよ!口を慎みなさい!」
「恵子、ええんや」
「せやかて・・」
「ほんまのことや」
そこで暫くの間、沈黙の時間が流れた。
「わしがもっと稼げたら、恵美子に卓球させたれるのにな・・」
「お父さん・・ごめん・・」
森上は背を向けたまま、慶三に詫びた。
「いや、ええんや」
「恵美子」
恵子が呼んだ。
「なに・・」
「学校で先生がなにを言うてきはっても、聞いたらあかんよ」
「・・・」
「もし、なんか言うてきはったら、お母さんは校長先生に直訴するからな」
「おい、お前、それ本気か」
「本気やで」
「お前な・・やっぱりおかしいぞ」
「なにがよ」
「恵美子はもう、卓球は辞めとる。たとえ先生が話したとしても、現状は変わらんこと、先生かてようわかってはる」
「だからなによ」
「せめて、話くらいはええやないか」
「あかん!なにがきっかけで、またどないなるかわからんのよ。話なんて以ての外やわ!」
「もうええって!」
そこで森上は机をバンッと叩き、大声で怒鳴った。
二人は唖然として、森上の背中を見ていた。
「うちにとって卓球は疫病神や!ケンカばっかりして、ほんまに疫病神や!」
そして森上は椅子から立ち上がり、二人の方を向いた。
「私がせぇへんて言うてるんやから、もうせぇへんのや!それでええやろ!」
森上はそう言い残して、家を出て行った。
「恵美子!」
恵子は直ぐに後を追いかけようとしたが、慶三が止めた。
「すぐに帰って来る」
「せやけど!」
「あの子は、アホやない。すぐに帰って来る」
「・・・」
「帰って来たら、二人で謝ろ」
「うん・・そやな・・」
外に出た森上は、ズボンのポケットに手を入れた。
ああ・・三十円しかない・・
そこで森上は公衆電話まで歩き、受話器を取った。
「もしもし、日置ですが」
そう、かけた先は日置の家だった。
「先生ぇ・・」
「森上さん?」
「はいぃ・・」
「どうしたの?なんかあったの?」
日置は今日のことが、当然頭にあった。
「なんでもありませぇん」
「きみ、公衆電話からだよね。外だよね」
「はいぃ・・」
「そこ、家の近くなの?」
「近くですぅ・・」
「お母さんになにか言われたの?」
「先生ぇ・・」
「なに?」
「母を・・許してくださいぃ・・」
「え・・」
「疫病神て・・ほんまに、すみませぇん・・」
「そんなこと気にしてない!」
「それを謝ろうと思てぇ・・」
「そんなのいい!きみは早く家に帰りなさい!」
「はいぃ・・」
「いいかい?五分後、きみの家に電話するからね」
「・・・」
「帰ってるかどうか、確かめるからね」
「・・・」
「どうして黙ってるの!」
「今から、帰りますぅ」
「ほんとだね?ほんとだよね」
プーップーッ
そこで電話は切れた。
森上は、もう一度かけようと思ったが、そのまま受話器を置いた―――




