72 それぞれの想い
―――昨夜のこと。
後藤の家を後にした日置は、直ぐに家に帰り、相沢に電話をかけた。
「もしもしぃ~」
出たのは三才の息子だった。
「ああ・・えっと、お父さんいるかな」
「もしもしぃ~」
「もしもし・・あのね・・」
「ぼくぅ~しゃんしゃい~」
「あはは・・そうなんだね、三才なんだね」
「みちゅお~」
「ん?みちゅ・・」
「みちゅお~」
「そうか、みつおくんなんだね」
「こらこら。光男」
そこで相沢の声が聴こえた。
「もしもし、すみません、相沢ですが」
「あ、もしもし日置です」
「おお~!日置くんか。久しぶりやなあ!」
「はい、ご無沙汰してます」
「今のな、三才の息子やねん」
「光男くんって言うんですね。かわいいですね」
「さっきまで寝とったんやけど、急に起きてきよってな」
「そうなんですね」
「で、どないしたんや」
「ああ――」
日置はまず、森上の相手をしてくれたことの礼を言った。
「え・・もしかして、森上さんて、日置くんの教え子やったんか?」
「そうなんです」
「おおおおおお~~~!それほんまかっ!」
「はい」
「いや、森上さんが蒼樺高校や言うとったから、惜しいなあ~と思てたんや」
「きっと森上が言い間違えたんだと思います」
「そうか~そうか~日置くんとこやったんか。それはなによりや」
「それで、相沢さん」
「なんや」
「慶太郎くんを助けてくださって、本当にありがとうございました」
「ああ~その話かいな」
「僕、今日の今日まで知らなくて。遅くなりましたが、お礼を言わなければと思い、お電話しました」
「っんなもん~ええっちゅうねん」
「相沢さんが助けてくださったおかげで、慶太郎くんも無事でしたし、森上も親御さんも、心から感謝していると思います」
「いや、もうそんなんええねや。それより日置くんが教えてるんやったら、森上さんは大物になるなあ」
「ああ・・はい・・」
「なんや、えらい元気ないがな」
そこで日置は、森上家の事情と、森上が部を辞めたことを丁寧に話した。
相沢は思った。
森上夫婦が会社へ訪れた時、卓球の話になると妻は「帰ろう」と言った。
なるほど、そういうことか、と。
「なあ、日置くん」
「はい」
「きみはこれまでも、苦労続きやったな」
相沢は、小島ら八人のことを言った。
日置もそのことだと理解した。
「ああ・・はい」
「素人を一から育て上げる苦労は、並大抵やなかったはずや」
「はい・・」
「あの子らのために、たまたまおっさんとして試合にも出たがな」
「はい・・」
「小屋もボロボロで、卓球台も、増えたいうたかて、二台やった」
「そうでした・・」
「そのうち小屋も新しなって、四台になったな」
「はい」
「言うたら、そっからがほんまのスタートやったやろ?」
「確かに・・」
「インターハイ出るまでに、わしらにはわからん苦労が、山ほどあったはずや」
「・・・」
「ええか、日置くん」
「はい・・?」
「あの時の苦労に比べたら、今の悩みなんか屁でもないで」
「・・・」
「森上さんが戻って来たら、問題解決や」
「戻って来るでしょうか・・」
「っんなもん、決まっとるがな」
「え・・」
「あの日、わしがあそこを走ってたんは、偶然とは思われへんのや」
相沢は、慶太郎が誘拐された日のことを言った。
「ほんで森上さんは、日置くんの教え子やと知って、やっぱり偶然やなかったんやと確信したで」
「そうなんです、僕も偶然じゃなくて運命的なものを感じたんです」
「そやろ?」
「相沢さんだったからこそ、慶太郎くんは助かったんだと思ってます」
「そういうこっちゃがな」
「え・・」
「え、やあらへんがな。神様は、きみに「やれ」言うてんねや」
「やれ・・」
「察しの悪いやっちゃなあ~。森上を教えろて、言うてんねや」
「・・・」
「だから、必ず森上さんは戻って来る。そう決まっとんねや」
「そ・・そうですよね・・そうですよね!」
日置は相沢の言葉で、光を見た気がした。
「でもな」
「はい」
「焦ったらあかん」
「はい」
「親御さんの思い、これを拗らせたら、難儀やで」
「そうですね・・」
「森上さんは、類稀なる逸材や。少々、練習でけへんかったって、大丈夫や」
「はい」
「わしかて協力するし、いつでも話も聞くで」
「相沢さん・・ほんとうに何とお礼を申し上げればいいのか・・」
「なに言うとんねん。きみに世話になったんは、わしの方やがな」
「相沢さん、ありがとうございました。それから今後もよろしくお願いします」
「こっちこそやで!」
「遅くにすみませんでした。奥様にもよろしくお伝えください」
「こっちこそや。わざわざありがとうな」
「では、失礼します」
そして日置は受話器を置いた。
そうだよ・・
森上は、戻って来る・・
きっと・・きっと・・戻って来る・・
―――そして翌日。
日置と阿部は、小屋で練習をしていた。
この頃になると阿部は、十分とは言えないまでも、基本の殆どをマスターしていた。
阿部は、森上が辞めたことを残念に思っていたが、それなら自分も、という気は全くなかった。
そう、一人でも続ける気でいた。
それは日置を気の毒に思っていたことも、もちろん理由の一つだったが、阿部自身が卓球の魅力に憑りつかれていたからである。
「先生」
阿部が球拾いをしながら呼んだ。
「なに?」
日置も球拾いをしていた。
「私の基本て、まだまだ足りないですか?」
「ああ・・ずいぶん上達はしたんだけど、まだ定着してないからね」
「そうですよね」
阿部は残念そうに苦笑した。
「早く、応用をやりたい?」
「ああ・・まあ、そうですかね」
「基本練習ってね、とても退屈なの」
「はい」
「上達すればするほど退屈で、つい応用をやりたくなるものなの」
「はい」
「フォア打ちなんて、特にそうだよね。延々とラリーを続けて、何が面白いのって話だよね」
「はい」
「慌てなくていい。きみには時間がたっぷりとある」
「はい」
「僕は、この夏休みは、徹底的に基本をやるつもりだよ」
「そうですか・・」
「基本を疎かにすると、必ず後で自分に跳ね返って来る」
「はい」
「いいかい?基本は我慢、忍耐なの。これしかないんだよ」
「はい、わかりました」
「よし。じゃ、今度はバッククロスと、フォアストレートへ、交互にスマッシュね」
このように、スマッシュ以外にも日置は基本練習を徹底して続けた。
日置の言うように、基本練習は慣れれば慣れるほど、とても退屈なのである。
日置も阿部が、そろそろ退屈だと感じる頃であるとわかっていた。
けれども、その退屈さを乗り越えるのは、阿部自身である。
一方で、退屈さに加えて、そうとうな体力を消耗する。
暑さの厳しいこの時期は特にそうだ。
「退屈」「疲れる」の前では集中力が持続しないのは当然のことで、ミスも連発する。
ミスをすると、また退屈感が襲う。
小島ら八人の場合も同じではあったが、彼女らの場合は少なくとも八人いたし、そこに日置も加わっていた。
つまり、タイプの異なるものと交代しながら打つことができた。
これで退屈感も多少は乗り越えられた。
けれども阿部の場合は、相手は日置だけである。
即ち、「変化」のない練習を日々、繰り返さなければならないのである。
やがてこの日の練習を終えた。
「ありがとうございました」
阿部は丁寧に頭を下げた。
「お疲れさま。それでね、阿部さん」
「はい」
「明日から三日間、お盆休みにするね」
「え・・そうなんですか」
「うん。僕も用事があるし、きみも休養をとった方がいいからね」
「そうなんですね、わかりました」
「じゃ、次は十七日ね」
「はい」
そして日置は先に小屋を出て行った。
阿部は、この休みを利用して森上に会いに行こうと決めていた―――
その頃、『よちよち』の小屋では、秋川らが日置のことについて話し合っていた。
「だから、さっきも言うたけど、これ以上、先生にコーチしてもらうんは気の毒やで」
秋川が言った。
「ほなら、誰にコーチしてもらうんよ」
中島が訊いた。
「誰か、あてがあれへんのか」
秋川が後藤に訊いた。
「あて、言うたかてなあ。相沢くんと八代くんは知り合い伝いで来てもろただけやし、そもそもあの二人かて、わしらをコーチするレベルやないしな」
「相沢さんと八代さんなんか、ムリムリ」
柳田もそう言った。
「とにかくコーチの話は後でええとして、先生に辞めてもらうにはどうしたらええかや」
水沢が言った。
「あれちゃいますの。追い出す作戦は?」
武田が言った。
「追い出すて、なんやねん」
秋川が訊いた。
「もう新しいコーチ、見つかりましたから、とか言うて」
「なるほど。それはええ案かもしれん」
「でもさ、森上さんが戻って来たらどないすんのよ」
中島が言った。
「戻って来たら、先生に声をかければええんとちゃうの」
柳田が答えた。
「でもさ、あの先生の気性やで。コーチがいてるん知ってて、来るかいな」
「ああ・・瀬戸さんの件があったしな」
「そんなに急がんでも、ええんちゃうかな」
田中がポツリと呟いた。
「どういうこと?」
中島が訊いた。
「焦って変なコーチに来られても、かなんし、辞めてもらうんは、いつでもできるし、森上さんのことかてあるしな」
「そやな。また考えたらええ。で、明日から盆やし、練習は休みな」
こうしてみな、それぞれのお盆を迎えるのである―――




