71 後藤の思いやり
それから日置は、土日を除いては、毎日『よちよち』へ通い続けた。
それでも森上が顔を見せることは、一度もなかった。
日置は、森上家へ寄ろうとも考えたが、これ以上、恵子を刺激したくなかったので見送っていた―――
「こんばんは」
日置は後藤家を訪れた。
「ありゃま~兄ちゃ・・いや、先生!」
玄関を開けた後藤は、まさか日置が来るとは思いもせず、とても驚いていた。
「後藤さん、足の具合はいかがですか」
「え・・わざわざ、気にして来てくれたんか」
「どうなのかなと、思いまして」
「こんなわしのために、済まんなあ。まあ、上がって」
そして後藤は、日置に中に入るよう促した。
「ああ・・いえ、直ぐに帰りますので」
「そんなん言わんと。わしな、独り暮らしやねん」
「そうだったんですか・・」
「いや・・近くにな、まあその話は後で。さっ、上がってや」
日置はせっかくなので、上がらせてもらうことにした。
そして日置は六畳の和室に通された。
玄関もそうだが、この和室も、年寄りの独り暮らしとは思えないほど、綺麗に整頓されていた。
後藤は台所へ行き、お茶を淹れていた。
「後藤さん、どうぞお構いなく」
「なんもないねん」
後藤はそう言いながら、湯飲みを運んで日置の前に出した。
「すみません」
「いやあ~どんならんわ」
後藤は日置の正面に座りながら、足の負傷のことを言った。
「それで、具合はいかがですか」
「年取ると、あかんなあ。なんやかんや言うても、動作が鈍うてなあ」
「そんな・・」
「でも、歩くんも不自由ないし、もうちょっとしたら練習もでけるで」
「そうですか。でも、あまり無理をされないように」
「あはは、おおきにな」
「綺麗に整頓されてますね」
日置は部屋を見回しながら訊いた。
そして後藤は「足崩してや」といい、日置は「すみません」と胡坐をかいた。
「いや、近くに娘夫婦がいててな、それで掃除しに来てくれんねや」
「奥さんは・・?」
「去年、あの世や」
「そうだったんですか・・」
「それでな、わしが一人になるん心配や言うて、ほんでここに引っ越して来たんや。というか、引っ越しさせられたんや」
「なるほど・・」
「同居する言うて、娘夫婦はわしを住まわせようとしたんやけど、っん~~な、窮屈でしゃあないわ」
そして後藤は「あはは」と笑い飛ばした。
「ほんでわしは、ここで一人っちゅうわけや」
「そうでしたか」
「それにしても先生。あんたコーチなんかもうええで」
「いえ、僕は約束しましたから」
「それや。あんたな、真面目すぎんねん」
「え・・」
「わし、先生の試合は何べんも見てる。あんたほどの実力者が、あんな年寄り相手にやな。もうええって」
「いえ・・そういうわけには」
「あんたはもう十分やってくれた。なかなかできんこっちゃで」
「そんなことないですよ」
「せやかて・・森上さん、もう辞めたんやろ・・」
後藤は日置の心情を思いやり、とても言いにくそうに呟いた。
「はい・・」
「田中さんから聞いたけどな、なんでも森上の奥さん、先生に酷いこと言うたらしいやないか」
「・・・」
「たぶらかすな、て言うたんやろ」
「ああ・・まあ・・」
「酷いもんやで」
「親御さんの気持ちとしたら、もう二度と誘拐なんて、と思われますよ」
「それにしてもやがな。どんだけ先生が森上さんのためにやっとるんか、ちょっとは考えたらええんや」
「その話は、もう終わったことです」
「それにしても、相沢くんがいてへんかったら、慶太郎くんは危ないとこやったで、なあ?」
日置は、意味がわからなかった。
そう、日置は慶太郎を助けたのが相沢だとは知らなかったのだ。
「え・・どういうことですか」
「先生、知らんのか?」
「なにをですか」
「慶太郎くんを助けたトラックの運転手て、相沢くんやで」
「えっ!」
相沢さんが・・
そうだったんだ・・
トラック運転手は・・相沢さんだったんだ・・
「相沢くんが犯人を追いかけて、家まで行ったんや」
「そうだったんですか・・知らなかった・・」
「しかもな、慶太郎くんのこと知っとったから助けられたて言うとったらしいで。相沢くん」
「そ・・そうですか・・」
「わしな、相沢くんと八代くんを、よちよちに呼んだことがあったんや。それで相沢くんは慶太郎くんのこと知っとったんや」
「そうでしたか・・後藤さんが」
相沢さん・・
そうか・・
相沢さんだったんだ・・
よく・・よく助けてくださった・・
日置は、偶然とはいえ相沢が慶太郎を見つけて助けたことに、運命的なものを感じていた。
もし慶太郎が殺されていたら、それこそ卓球どころの話ではない。
神様が相沢と慶太郎を引き合わせてくれたんじゃないのか、と。
そう思うと、日置は心から相沢に感謝をしていた。
そしてこうも思った。
後藤が声をかけて相沢と八代を呼んだ。
その意味では、後藤の声かけが始まりだっんだ、と。
それがなければ、相沢は慶太郎と会うことはなかったのだ、と。
「後藤さん」
そこで日置は座り直し、正座をした。
「なんや・・」
「本当にありがとうございました」
そして深く頭を下げた。
「おいおい、先生、なに言うてんねや」
「後藤さんが相沢さんを呼んでくださったから、慶太郎くんは助かったんです」
「っんなことあるかいな」
「いえ、そうです」
「それは結果や。結果論や」
「いずれにせよ、相沢さんが慶太郎くんを助けて下さいました。僕は・・僕はっ・・」
そこで日置は言葉に詰まって涙を流した。
「先生・・」
「ううっ・・すみません」
日置は手で涙を拭った。
「ほらほら、これで拭き」
後藤はティッシュの箱を差し出した。
「すみません・・」
日置はそう言いながら、ティッシュを手にして拭った。
「先生」
「は・・はい・・」
「あんた、ほんまにええ人やなあ」
「いえ・・」
「こんな先生、見たことないで」
「・・・」
「よっぽど・・森上さんのこと気にかけてるんやなあ・・」
「でも・・僕の気持ちは・・エゴでしかありません・・」
「あほなことを。あんな素質のある子を見たら、誰かて強くしたいと思うで」
「・・・」
「ましてや先生ほどの人や。エゴでも何でもない。しかも生徒のために涙まで流してやな・・」
「・・・」
「先生」
「はい・・」
「諦めたらあかんで」
「え・・」
「森上さんは、きっと戻って来る」
「そ・・そうでしょうか・・」
「そうに決まっとる。だから諦めたらあかんで」
そして後藤はこの後も、日置に「コーチはもうええ」と何度も言ったが、日置は首を縦に振らなかった。
そんな後藤は日置を気の毒に思い、翌日、森上家へ出向いたのである。
―――そして翌日の夜。
後藤は森上家の六畳の間にいた。
後藤を知らない慶三と恵子は戸惑っていたが、「日置先生のことで話がある」と言われ、部屋にあげることを許した。
「それで、後藤さん。先生の話て、なんですか」
慶三が訊いた。
恵子は、とても不満げに二人の会話を黙って聞いていた。
その際、森上は机に向かって勉強していたが、当然、会話は耳に入っていた。
「昨日な、先生が家を訪ねてくれたんやけどね」
「はい」
「そらもう、えらい森上さんのことを気にかけとってな」
「ああ・・はい」
「わしは先生のこと、だいぶ前から知ってるんや」
「そうですか」
「あの人な、ほんまにええ人なんや。ものすごい強いのに、わしみたいな年寄り相手でも驕ることなく、そらもう、その真摯な姿勢と来たら、誰もが感心するほどでな」
「はい・・」
慶三は、後藤の話を全面的に納得しながら聞いていた。
「それは今も全く変わっとらんねや」
「はい・・」
「なあ、森上さん」
「はい」
「娘さんに、また卓球、やらしたったらどうですか」
「ああ・・まあ・・」
そこで慶三は恵子の顔色を見た。
「後藤さん」
恵子が口を開いた。
「恵美子自身が、辞めると決めたんですよ」
「そらそうやろけど・・」
「だからもう、卓球の話は持ち込まんといてくれませんか」
「せやけどな、先生の気持ちも考えたってほしいんや」
「先生は、まだ恵美子のこと諦めてないんですか」
「いや、先生な、自分のエゴや、言うてはった。せやけど――」
「先生、わかってはりますやん。もうそれでええんとちゃいますの」
「奥さんな」
「なんですか」
「言うとくけど、あんなええ先生、いてへんで」
「・・・」
「誰が好きこのんで、わしらみたいな年寄りのコーチする?普通はしませんのや」
「だから、なんなんですか」
「それは全部、娘さんのためや。いつか戻って来ると思て、よちよちに来てはるんや」
「だから、それは何度も言うてますやん。恵美子が辞める、言うたんです」
「森上さん」
後藤は森上を呼んだ。
「なんですかぁ・・」
森上は机に向かったまま返事をした。
「きみ、ほんまに辞めるんか」
「・・・」
「先生な、ずっと待ってはるで」
「・・・」
「先生、きみのために必死やで」
「わ・・私ぃ・・」
「恵美子!」
恵子が怒鳴った。
「いらんこと言いな!」
「おい、恵子」
慶三がたしなめた。
「奥さん」
後藤が呼んだ。
「はい」
「娘さんが辞めたい言うたんは、奥さんのせいとちゃうか」
「私のせいであろうがなかろうが、本人は辞めると決めたんです」
「慶太郎くんかて大事や。それはわかる。せやけど、娘さんかて大事やと思わんのか」
「思てるに決まってるやないですか!」
「それやったら、卓球、続けさせたったらどないや」
「慶太郎は、どうするんですか!」
「だからそれは、わしらで面倒見るがな。これまでもそうして来たんやし」
「だから!絶対に大丈夫という保証が、どこにあるんですか!」
後藤は、これ以上の話は無意味だと思った。
恵子は感情に支配され、話が全くかみ合わないと悟った。
「なあ、奥さん」
「なんですか」
「これだけは言うとくで」
「なにをですか」
「先生に、娘をたぶらかすなと言うたらしいが、それはあんまりやで」
「・・・」
「侮辱にもほどがあるで」
後藤はそう言い残して、森上家を後にした。
後藤は思っていた。
日置の性格なら、きっと言い返しはしなかっただろう、と。
けれども、いくら温厚な日置とはいえ、傷ついたに違いない、と。
後藤は、日置の代わりに恵子にそう言ったのだった。




