68 解けない糸
やがて日置と小島は高島屋の前で会った。
「彩ちゃん、呼び出したりしてごめん」
「なに言うてはるんですか。いいに決まってるやないですか」
「お家の人、心配してなかった?」
「先生」
「ん?」
「うちの両親、どんだけ先生のこと信頼してるかわかってます?」
小島はニッコリと笑った。
その笑顔に日置はとても癒された。
「母なんかね、もう~遅なるんやったら帰って来んでもええで~て、言うてましたよ」
「そうなんだ・・」
「両親は、先生と会ういうだけで、安心しきってます」
「そっか・・ありがたいことだね」
「で、先生、なにがあったんですか」
「うん・・」
そこで日置は小島の手を握って、ぼちぼちと歩き始めた。
「昨日さ・・森上の弟さんのこと、話したよね」
「ああ・・もう、めっちゃびっくりしましたよ」
「それで、きみにはまだ話してなかったんだけど、森上のお母さんが森上に卓球を辞めさせるって言っててね」
「えっ!なんでですか」
「今後、また同じようなことが起きらないとも限らないって」
「森上さんが目を離したってことをですか?」
「うん・・」
「ちょ・・それと卓球とは関係ないですやん」
「そうなんだけど、親にしてみれば、練習中に・・ってことを考えるよね」
「ああ・・まあ・・」
「それでさっき、また話をしようと思って森上の家へ行ったんだけど・・」
ちょっと・・先生・・
全く元気がないやん・・
これはあかん・・
「先生」
「ん?」
「今からマンションへ行きましょう」
「え・・」
「私が美味しいもん作ってあげます。どうせ食べてへんのでしょ」
「ああ・・うん」
「よーし、決まった」
小島は左手でガッツポーズをした。
「あはは、彩ちゃん、面白いね」
先生・・
なんて切ない顔して笑ろてるんや・・
これは・・よっぽどのことがあったんやな・・
そして二人は、日置のマンションへ向かった。
「部屋に着いたら、お家に電話しないとね」
「わかってますって。先生は、なんも心配せんでもええです」
「なんか・・ごめん」
そこで日置は立ち止まった。
「先生・・」
小島は日置が心配でならなかった。
「僕ね・・」
「・・・」
「森上をたぶらかしてると思う・・?」
「は・・」
「たぶらかしてるのかな・・」
「あの・・意味がわからんのですけど・・」
「森上のお母さんに言われたんだ。二度と恵美子をたぶらかさないでくれって」
「は・・はああ?」
「それでね、森上はもう卓球辞めるんだって・・」
「え・・う・・嘘でしょ・・」
小島は愕然とした。
確かに慶太郎が誘拐されたことは、重要な問題だ。
親としたら、二度と見舞われたくない災難だ。
けれども、日置がこれまで森上のためにあらゆる手を尽くして、挙句には年寄りのコーチまで引き受け、出来得る限りをやって来たことに対して「たぶらかす」とはあまりの侮辱じゃないか、と。
そして森上は辞める、と。
これまでの日々は、なんだったんだ、と。
「本人が辞めると言うからには、僕に引き止める権利もないし、引き止める気もないよ」
「先生、それでええんですか」
「だって、仕方がないよ・・」
「そ・・そんなっ・・」
「結局ね、僕だけが先走りしてたんだよ」
「そんなことないですって」
先生・・
めっちゃ辛そうや・・
そらそうやん・・
内匠頭かて・・言うてんもんな・・
そう、小島は浅野から、森上の実力のすごさを聞いていた。
あんなドライブ、女子やったら誰も取られへん、と。
そして日置は『よちよち』へ出向き、練習時間は十分とは言えないまでも、日々、森上の上達ぶりを嬉しそうに話していた。
「先生」
「ん?」
「よちよちのコーチは、どないするんですか」
「続けるよ」
「えっ!」
小島は唖然とした。
森上がいないのに、なんで続けるんだ、と。
それこそ、辞めればいいじゃないか、と。
「あの人たちに約束したからね」
「約束て・・」
「森上のためにコーチを引き受けたけど、でも約束は約束だからね」
「でも、森上さんは、いてないやないですか」
「彩ちゃん」
「はい」
「よちよちの練習場は、よちよちの人たちのためにあるんだよ」
「そうですけど・・」
「そこを無理を言って使わせてもらってた。そして僕はコーチを引き受けた。続けるのは当然のことだよ」
小島は正直、日置ほどの実力者が年寄り相手に、というのは、納得できなかった。
森上の相手をするから、コーチも仕方がないと思っていたのだ。
まさに日置らしい、誠実な人柄の表れでもある、と。
「それに、続けていれば、森上は戻って来るかもしれないし」
「え・・」
「やりたいと思っても、僕がいないと森上の相手なんて、誰も出来ないよ」
「・・・」
「彩ちゃん」
「はい・・」
「心配しなくていいよ」
「え・・」
「話を聞いてもらってずいぶん楽になったよ」
「先生・・」
「さて、どんな料理を作ってくれるのかな」
「え・・ああ・・あああ、なっ、なんでも作ります!」
「そうだなあ・・暑いけど鍋なんてどうかな」
「な・・鍋・・ですか」
「うどんすきってやつ?あれとても美味しいよ」
「合点承知の助です!」
「あはは」
日置は嬉しそうに笑った。
けれども小島は、日置の胸の内を思うと、なんともやりきれない気持ちになっていた―――
そして翌日。
慶三と恵子は、相沢と高橋が勤める『万寿運送』へ出向いた。
応接室に通された二人は、相沢らを座って待っていた。
しばらくするとドアを開けて、相沢と高橋が入って来た。
「ああ・・どうも」
そこで慶三と恵子は立ち上がって、二人に頭を下げた。
「いやいや、そんなんせんでよろしいって」
相沢は、二人に座るよう促した。
「どうも、この度は、息子を助けてくださいまして、なんとお礼を申し上げればよいか・・」
「ほんとに・・ほんとに、ありがとうございました」
二人は座らずにそう言った。
「すぐにお礼をと思てましたが、遅れて申し訳ありません」
「お父さん、お母さん、ええですから、どうぞかけてください」
そこで二人は座り、相沢と高橋も向かい合って座った。
「慶太郎の父です」
「母です」
「相沢と申します」
「高橋と申します」
そこに「失礼します」と言って女性事務員がお茶を運んできた。
「もうすぐ社長も参ります」
女性は湯飲みを置いて、相沢にそう言った。
「うん、わかった」
そして事務員は、部屋を後にした。
「なんか・・お仕事中やったらしいですね」
慶三が訊いた。
「そうなんですわ。偶然、慶太郎くんを見ましてね。まあびっくりしました」
「そうでしたか・・」
「わしね、慶太郎くんのこと知らんかったら、そのまま得意先へ行ってたかもしれません」
「え・・慶太郎をご存じやったんですか」
「はい。森上さん、ああ、高校一年の娘さんいてはるでしょ」
「はい」
「あの子と練習したことがあってね、その時、慶太郎くんもおったんで、それで知ってたんですわ」
「え・・ということは・・相沢さん、卓球されてるんですか・・」
「そうなんですわ」
慶三は思った。
恵子が頑なに拒否する卓球をやっている人に、慶太郎は助けられたのだ、と。
しかも、慶太郎のことを知ってたから助けたのだ、と。
なんという皮肉なんだ、と。
いや、皮肉ではない。
慶太郎が『よちよち』で世話になっていたからこそ、助けられたんだ、と。
「警察の人から聞きましたけど、なんでも犯人に飛びかかったとか・・」
恵子が訊いた。
「そうなんですわ。まあ、犯人は小柄やったし、弱そうでしたし」
「まあ・・そうでしたか・・」
そこに恰幅のいい社長がドアを開けて入って来た。
「社長、森上さんです」
相沢は立ち上がってそう言った。
「まあまあ、わざわざお越しくださって」
社長は相沢の隣に座った。
「岸谷と申します」
「森上と申します。この度は、相沢さんと高橋さんに、息子を助けていただきまして、なんとお礼を申し上げればいいのか・・」
「いやいや、まあ、そんなに恐縮されんでください」
「いえ・・」
「高橋くんは独身ですが、相沢くんは二人、男の子がいましてね」
「そうですか・・」
「相沢くんの気性やったら、そら黙って見過ごせません」
「はい・・」
「いやあ~うちとしてもね、こらもう表彰もんや言うてね、みんなで喜んどるんですよ。で、息子さんはどうですか」
「はい、おかげさまで、元気を取り戻してます」
「そうですか。それはなによりです」
「それでですね、これ・・なんのお礼にもなりませんが・・」
そこで慶三は、茶封筒を背広のポケットから取り出した。
「ほんまに少ないんですが・・お納めください」
「森上さん、わし、こんなん要りませんで」
「僕かて、要りません」
相沢と高橋は、すぐさま拒否した。
「それやと・・こっちの気が収まりませんので・・せめてもの、です・・」
「いやいや、絶対に受け取りません」
「僕も、そうです」
「受け取って頂かんと・・まさか持って帰れません」
恵子が言った。
「こんなん言うたらあれですけどね、なんか仕事を手伝ったとか、引っ越しの手伝いしたとかやったら、遠慮なく受け取ります。せやけど、命を助けて、もらう金なんてないと思てます」
「そんな・・」
「気持ちだけ頂きます。ありがとうございます」
「これなんですわ」
岸谷が言った。
「え・・」
「相沢くん、こういう人間なんですわ」
「社長、僕かてそうですけど」
高橋は不満げに言った。
「あはは、そうそう、高橋くんもそうなんですわ」
「そうですか・・」
「せやから、これは収めてください」
「娘さんは、その後、どうですか」
相沢が訊いた。
「どう・・とは?」
「聞くところによると、なかなか練習できひんらしいですが」
「ああ・・まあ・・」
「あの子は、大物ですよ」
「・・・」
「わしの知り合いが教えたら、絶対に大器になる子ですよ」
相沢は日置のことを言った。
慶三と恵子は、まさか日置のことだとは、夢にも思わなかった。
「あんた・・そろそろ失礼しよか・・」
恵子は、卓球の話を持ち出されたことで、居心地が悪そうにしていた。
「ああ・・そやな」
そして慶三は茶封筒をポケットにしまい、二人は会社の出入り口で、岸谷と相沢と高橋に深々と頭を下げてこの場を後にした。
ちなみに恵子はその後、お金の代わりに中元として、缶ビールの詰め合わせを会社に送っていた―――




